約1年にわたった川崎工場管理システムのSS(スコーピング・スタディ;全体像を描く)が仕上げにかかろうとした1973年10月、第4次中東戦争が勃発した。OPECはそれまで3ドル台だった原油価格を5ドル台に上げ、さらに12月これを12ドルに上げた。一気に約4倍なった原油価格は諸物価を押し上げ、消費者物価指数も大幅アップ、翌年の春闘でベースアップは30%にもなった。
計画の経済性はこれをベースに再計算され、原料・エネルギーコスト4倍、人件費1.3倍は、その点では計画実現の追い風のように見えた。しかし、問題はエネルギー消費の伸びが従来のベースを辿るとは思えない環境になってきた。身近にこのインパクトを感じたのは、和歌山・有田工場建設の中止である。この和歌山の状況も影響して、計画の推進に種々の疑問や抵抗が呈される中で、年央突然この計画のレビューをExxonのチームが行うと言うお達しが伝えられる。東燃グループの設備投資をExxon直々にチェックするなど今まで無かったことだ。今でも、このレビューがどのようにしてアレンジされたのか不明である。川崎計画をこのまま推進することに疑念を感じていた、相当レベルの高い管理職(あるいは役員)が複数絡んでいたことは間違いない。
8月になると3人のアメリカ人が川崎工場にやってきた。ERE(Exxon Research & Engineering)の計装・制御課長;ウォルファング氏、Exxon Chemicalのプロセス制御スペシャリスト;モズラー氏、EMCS(Exxon Mathematics, Computers and Systems)のシニアー・アナリスト;ダニルチック氏である。レビューされる側から見ても見事な布陣といえる。
約2週間、我々の用意したSSレポートの英語版チェック、担当者へのインタビュー、工場幹部との質疑応答などを行い、去る前の日、その時点までの現地調査に基づくとりまとめを担当者向けに話してくれた。最終レポートはアメリカに帰ってから発行されるとのことだった。
要点は、ほぼこちらの予想通りだった。つまり、「実行予算ベースにするにはさらなるスタディが必要だ」ということである。当然である。我々がやったのはFS(フィージビリティ・スタディ;経済的・技術的実現性の確認)ではなくSSなのだから。
彼等がどんな報告をトップにしたか、最終レポートは提出されたのか、誰にそれを提出したのかを私が知ることはなかった。
このことがあってしばらくすると、同じ立場にあったアプリケーション(主として生産管理)担当のリーダーが本社に転勤していった。私は彼の仕事を兼務することになり、やがて和歌山工場との“統一基本仕様書”作りに関わることになる。これが1975年晩春。秋にはこの計画のキーパーソン、開発室長が本社に転勤になってしまう。TSKの技術部長が室長を兼務し私は副室長として、実質的にはこの組織運営全体を任されることになったが、メンバーは石油ショック後の省エネ活動や和歌山計画応援などに抜かれ、ガタガタの状態。計画のスコープを変えて再出発するしかない状態に置かれてしまう。
室長はTSKのシステム技術課長を兼務していたので、そのポストはNZKさんという1年若いTSKプロパーの人が引き継ぐことになった。彼は“一体化”には批判的で、TSK独自の生産管理システムを作りたいという。私もその頃になると一体化実現に困難を感じ始めていた。
幸い東燃川崎工場はコンピュータ化が進んでおり、既存のシステムを利用した生産管理面での省エネ活動のネタがいたるところにあった。一先ず石油精製・石油化学一体管理と大規模投資は凍結して、精製側の活動に注力することになる。事実上オリジナル計画の幕引きである。
(次回;石油化学と和歌山工場を睨んで再出発)
2010年3月14日日曜日
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