2010年3月20日土曜日

決断科学ノート-35(迷走する工場管理システム作り-9;石油化学と和歌山工場を睨んで再出発へ)

 1978年、規模を縮小して、生産管理システムを中心に再出発することになる。ここでは1976年からそれまでの環境変化を記してみたい。
 コンピュータ界では現在につながるダウンサイジングが起こり始めた時期である。ミニコンやオフィスコンピュータが急速に普及し始め、マイコンを用いたシステム開発が話題になっていた。
 TSK(石油化学)は当時主要プラントのプロセス制御用コンピュータやラボラトリー・オートメーションを担うシステムは出来上がっていたものの(全て東芝製)、全体を束ねる管理システムはまだ導入されていなかった。
 川崎の東燃サイドは1970年からの新設プラント建設(実質的に新工場建設に近い)にともない、オンサイト(主要生産設備)、オフサイト(受注出荷、タンク)ともに横河製DDCシステムとIBM1800が導入され、オフサイト・システムで生産実績管理機能も処理されていた。しばしの間、これらシステムを使った省エネルギー管理に重点を置いた活動を続けることとした。
和歌山はLPやスケジューリングシステムの開発・定着化に苦労していたが、一つのネックであるメイン・メモリー容量に関しては“バーチャル・メモリー(仮想記憶)”システムが出現、実メモリーの制約から解放されたかに見えた。しかし、新規技術だけに使いこなすところまでなかなか達していなかった。
 投資回収を早めたいことから、運転実績データ収集機能を生かした、省エネルギー活動強化の声が高まり、スタッフ不足解消と本分野の活動実績を踏まえ、川崎のパワーを一時的に拠出するよう和歌山・本社が懇請してくる。ただでさえ少ないところへ4人を送り出し(ここで彼等は1977年有田市で発生したコレラ騒動に巻き込まれる)、川崎の活動は半年間休眠状態になってしまう。
 本社では、和歌山工場スケジューリングシステム(自動スケジューリングに近い)開発の難渋をみて、簡便なシミュレータとそのモデル開発環境ツール、RSS(Refinery Scheduling System)でスケジューリング担当者の作業を支援し、人と機械で作業を分担するシステムが提言される。これを川崎工場で試用してみると評判がいい。再出発できたらスケジューリング機能はこのアイディアを利用しようと決意する。
 このような環境下で先鞭をつけたのはTSKである。それぞれ独立運用されていた4台のプロコン(全てTOSBAC-7000)を、上位コンピュータを導入して統括し、スケジューリングとプラント運転実績管理を行うものである。採用されたコンピュータはTOSBAC-40C、産業用のミニコンピュータである。コンビナートで直結する、中間在庫の少ないビジネスでは、複雑なスケジューリングもない。スケジューリング・ツールはプラントの収率計算を行う、簡単なカルキュレータタイプだった。投資金額を抑ええるかわりに、処理機能も運転実績データ処理中心としたので、極めて短期間で実用に供せられた。グループ初のミニコン導入でその能力の高さも確かめることもできた。
 この間、和歌山で苦闘していた “生産計画最適化”に対する川崎の取り組みも、決して手を拱いていたわけではない。前開発室長時、石油ショック後本社製造部長から製油部長(のち工場次長)に転任してきたKNIさんの肝いりで、本社のコンピュータを使って、現実の運転結果をLPモデルで事後評価する作業をスタートさせていた。これによれば、生産活動に改善の余地は充分あった(製油管理課員は「株の値段が決まってから、儲かる買い方を言っているようなもの」との批判はあったが)。
 一方で、この作業を通じて、本社に近い川崎の場合「LPを解くためのコンピュータが、工場に独立して必要なのか?」との声が出てきた。費用負担や専門スタッフの必要性を考えれば尤もな意見である。私自身の心の内も同じであった。
(次回;新規構想の立ち上げ)

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