1975年、当初計画は凍結され、人は去っていった。この年管理職資格になった私は副室長のポストを与えられたが、残されたスタッフは、既存システムのメンテナンス要員と石油ショック後の省エネ活動を担当する僅かな技術者に過ぎなかった。その貴重な人材さえ、一時的に和歌山に応援に出さざるを得ず、組織的な活動は行えていない。
救いだったのは、石油ショック後の工場運営を革新すべく送り込まれた製油部長のKNIさんの強い支えである。自らを“エコノミック・エンジニア”と称し(これは工場勤務経験の無さを弱みと見せない自衛策でもあったが、上級管理者として最も必要な視点であることを彼から学んだ)、工場生産管理体系の改革に情熱を燃やし、とりわけコンピュータ利用に期待をかけてくれた。‘75年秋シンガポールで開催された、今まで製造系エンジニアしか参加していなかった、Exxonのトレーニングコース“Logistics Economic Course”へ私を送り込んでくれたのも彼である。また、東燃川崎工場の技術部門に残っていた、オンサイト(主要生産設備)担当のシステムズエンジニアの管理を兼務するポジションを与えてくれ、精製工場全体のIT関連業務を統括するようにしてくれた。
振り返ってみれば、この孤島に一人残されたような期間が、生産管理を最も学んだ時期と言っていい。
和歌山計画応援は、川崎の新工場管理システム開発を、一時完全停止状態に置くことになるが、それが再出発へのチャンスともなった。和歌山工場システム実用化のスピードが上がり、エンジニアやプログラマーの余裕が出てき始め、川崎工場への配置転換可能性が見えてくる。また、経済性についても一定の目処が立ったため、それを参考に川崎工場計画実現化のシナリオが作りやすくなってきた。
1977年後半、和歌山から帰ったメンバーを中心に新規巻き直しの計画作りを始める。経営環境の変化や技術進歩、それに和歌山計画からの教訓を踏まえ、新規計画の方針を次のように整理した。
1)石油精製・石油化学一体化最適化は当面見送る;明らかに“工場革新としては”後退であるが、あまりにも政治的課題が多い(工場長も替わっていた)。
2)プラント運転自動化を非定常状態まで拡大する計画は見送る;ITだけでは限界があり、技術的にも未解決の問題が多い。
3)事務部門の合理化もそれぞれの労務環境、規制緩和、技術進歩を見ながら、別プロジェクトとして進める(例えば電話のダイレクトインなど)。
4)工場管理システムは三つのサブシステム(生産管理、保全用資材管理、計装保全管理)にし、それぞれを個別プロジェクト(経済性を別々にとる)として、並行的に進める。
5)精製工場の最適化計画にはLPを使うことになるが、それは本社の大型機で行う。
6)工場での生産管理機能は、スケジューリング支援とプラント運転実績処理に絞る。従って、経済効果もこの二つの機能に依って算出する。
7)スケジューリングシステムは高度な自動を目指さず、比較的単純なシミュレータを使う対話型にする。
8)工場中枢コンピュータは、オンラインでソフト開発が出来る、スーパーミニコンを第一候補とする。
それぞれの決断にはそれぞれの理由があったが、この整理でプロジェクトは一気に進め易い環境になり、年末決まる翌年(‘78)の年度予算に組み込むことが出来たのである。
(次回;コンピュータの選択)
2010年3月27日土曜日
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