1972年秋から’77年までプロジェクト迷走、それから3年間(’80年まで)見直し構想に基づくCOSMICSプロジェクトの立ち上げと推進。その後約10年このシステムが工場管理の中核として使われ、90年代初め和歌山システムも含めて、IBMの汎用機を基幹サーバーとしPCを端末とするIR(Intelligent Refinery)システムに置き換わった。さらに21世紀初頭、これをExxonダウンストリーム(精製・販売)ビジネス共通の、STRIPESと呼ばれる統合経営管理システムに発展的に移行、今日に至っている。38年の歳月が流れたことになる。
当時の構想は、進歩著しいコンピュータと通信技術(今で言うIT:Information Technologies;情報技術)を駆使して、革新的な工場管理(今で言うBPR;Business Process Reengineering;省力化、省エネルギー、原料の有効利用、在庫圧縮、業務処理のスピードアップなど)を実現しようというものであった。
現在のSTRIPESとそれを取り巻く周辺システム(例えば、プラント運転制御を掌るTCS;Tonen Control SystemやMOS、Laboratory Automation System)があの時の構想を実現した姿になっていることがわかる。しかし、そこまでに至る時間が30年近くあったことを考えると、当時の構想そのものが現実離れしたものだったともいえる。
IT環境を見れば、電卓用のマイクロ・コンピュータは出現しつつあったが、PCはまだ世に出ていない。無論、簡単に持ち運び出来る端末装置(ディスプレイ+キーボード)も無かった。共同研究の過程で、富士通からプラズマディスプレイの紹介があったり、横河電機に液晶を使った指示計を見せてもらったりしたが、いずれも今から見れば試験研究段階の原初的なものであった。
通信環境はもっと遅れており、汎用性のあるLANのようなものを求めたが、今のようなシステムは皆無だった。日本システム工業というヴェンチャー企業が開発した、データハイウェイと称する特殊な通信システムが唯一実用化されていたに過ぎない(それでも当時画期的な技術で、和歌山計画に採用)。
ネットワーク技術の調査段階で知った、米国防総省のALPA(Advanced Research Project Agency)NETが今日のインターネットに発展するとは思いもよらなかった。
ソフトの面での制約はもっと大きく、業務用アプリケーションパッケージは皆無、ワープロや表計算ソフトも無かった(タイプライターの延長線のような英文ワープロはあったが)。マイクロソフトの創設は1975年、オラクルは1977年である。
工場中枢汎用コンピュータに関する共同調査研究の最大の課題は、工場プラントモデル(線形モデル)の処理能力にあった。当時の製油所モデルは2~3000の一次式からなっていた。これに非線形モデル加え、スケジューリングへ落とすために、一ヶ月を三期に分けるとその数は1万を超えることになる。和歌山のヴェンダーセレクションでは何とかIBMだけが要求を満たせたが、他(富士通、東芝)はハードルを超えられなかった。我々の評価でも“解ける”ことを確認するまでで、時間的には満足できるものではなかった。しかし、LP解法に関してはその後著しい進歩があり(CPLEXなど)、またコンピュータの処理能力(速度と記憶容量)も飛躍的に向上して、いまや数十万式のモデルがごく短い時間で解けるところまできている(三菱化学水島事業所)。
つまりあの時は夢に近かった技術(計算機技術、数理技術、通信技術、ソフトウェア・パッケージ)が、その後20年近く経って次第に現実のものになっているのである。それも極めて安価に。
しかしながら問題は“業務革新”である。あの時も社内の空気は完全に“総論賛成・各論抵抗”であった。BPRはSAPに代表されるERP(Enterprise Resource Planning;人・物・金の最適利用)パッケージと伴にやってきた。’90年代多くの会社がERP導入によるBPRに取り組んだ。つぎ込んだ金が100億円を超えるところも決して少なくない。だが、期待した業務処理プロセスの“革新”を起こしたところは少なく、良くて“改善”、ほとんどは既存システムの“置き換え”が実状である。
国の政治・行政から工場経営まで、組織は守りを固め、既得権を手放そうとはしない。これを破れるのはトップのリーダーシップだが、不平不満を恐れる指導者は“合意形成;和”を旨としがちである。そこに“革新”が起こることは無い。
著しい技術進歩と本質的に変わらぬ経営管理体制を見るにつけ、あの30余年前の構想が迷走した挙句、取り敢えず業務“支援”システムとしてこぢんまりまとまってしまったことを複雑な想いで振り返っている。果敢に“革新”に挑戦していればどうなっていたかと。当然技術や経済性の壁にぶち当たって、挫折していたかもしれないが、組織・業務改革に正面から取り組まずに、難所を迂回したことに忸怩たる思いが残る。
(完)
長いシリーズにお付き合いいただき有難うございました。コメントをいただければ幸いです。
2010年4月22日木曜日
2010年4月17日土曜日
決断科学ノート-39(迷走する工場管理システム作り-13;完成したシステム)
1978年後半から、COSMICS-Ⅱ(Computer Oriented Scheduling and Monitoring Information Control System;-ⅠはTSK)と名付けられた工場管理システムが、生産管理の新規開発と既存システムである業務(受注出荷)管理の更新置換を中心に進められた。先行した和歌山計画からの学習効果と選択したHP-3000の使い勝手の良さもあって、プロジェクトは順調に進んでいった。
1979年に入ると早くもその一部は実用テストに入り、スケジューリング用シミュレータが期待通りの効果を発揮して、白物(軽油溜分)収率の向上が認められまでになった。
少し遅れる形で、川崎独自の設備保全用資材管理システム;AIMS(Advanced Inventory Management System)や和歌山・川崎共通の計装保全管理システム;MOS-Ⅰ(Maintenance On-line System-Instruments;この後にⅡ(電機・回転機械)、Ⅲ(装置;塔槽類、配管)と続いていく)が別プロジェクトとして立ち上がり、HP-1000をベースに開発が進められようになる。
非定常(異常、停止、立ち上げ)時のプラント運転自動化推進や事務部門の業務改善は未着手のまま残ったものの、生産管理、保全管理という工場運営の両輪ともいえる機能をほぼカバーする工場管理システムがやっと実現の運びとなった。工場革新を目指した、システム開発室という組織発足から7年の長い道のりであった。
この年(’79年)の5月、まだ開発途上にあったCOSMICS-ⅡをExxonの技術会議(Technical Computing Conference;TCC)で発表するよう本社から指示があった。TCCはExxonグループ(原油探査・生産は除く)における技術分野でのコンピュータ利用に関する技術会議で、毎年この時期ニューヨーク郊外(ニュージャージに在った技術センター;ERE・ECCSのメンバーが参加しやすいよう)のホテルを借り切って3日間行われていた。対象は、プラント設計、プロセス制御、各種数理手法、研究開発支援、タンカー運用など多岐に渡り、参加者(約200名)が全世界から集まってくる大会議である。短期間に専門家が一ヶ所に集うので、情報交換にはもってこいの場である。ここでExxonグループの中でも先陣を切っている工場管理システムの紹介をして、反応を窺うことが使命であった。
参加してみると、工場全体の生産管理に関する発表は当社を含めて3件であった。一つはフォレー製油所(UK)の発表で、発売されて間もないIBM-4300(汎用機と共通する中型機)をプラットフォームとする、生産実績データ・ベース構築とその利用に関するもの、もう一つはアントワープ製油所(ベルギー)のIBM-370(汎用機)を用いたプロセス制御システム(ACS;Advanced Control System)上のプラント運転実績データを利用するものだった。二つとも“実績データ分析システム”で、プランニング(月次計画)やスケジューリング機能との連携は無かった。そんな訳で、プランニングは本社の汎用機を利用するものの、“プランニング~スケジューリング~モニタリング~分析“と一つながりになったシステムはCOSMICSだけであったので、発表後その効用や経済性について随分質問を受けることになった。
この会議の後、ニュージャージのEREやヒューストンのエッソイースタン(東燃の親会社)、シリコーンヴァレーのHP本社に立寄ったが、どこでも熱心なディスカッションが交わされた。不思議なもので、拙い英会話能力でも自信のあるシステムを懐にすると、実力以上に意が通ずることを実感した。
「Japan as Number 1」が出版され、第二次石油ショック(イラン革命)が起こったのはこの年、日本そして石油への追い風が吹いていた時期でもあった。
(次回;最終回;あれから30余年)
1979年に入ると早くもその一部は実用テストに入り、スケジューリング用シミュレータが期待通りの効果を発揮して、白物(軽油溜分)収率の向上が認められまでになった。
少し遅れる形で、川崎独自の設備保全用資材管理システム;AIMS(Advanced Inventory Management System)や和歌山・川崎共通の計装保全管理システム;MOS-Ⅰ(Maintenance On-line System-Instruments;この後にⅡ(電機・回転機械)、Ⅲ(装置;塔槽類、配管)と続いていく)が別プロジェクトとして立ち上がり、HP-1000をベースに開発が進められようになる。
非定常(異常、停止、立ち上げ)時のプラント運転自動化推進や事務部門の業務改善は未着手のまま残ったものの、生産管理、保全管理という工場運営の両輪ともいえる機能をほぼカバーする工場管理システムがやっと実現の運びとなった。工場革新を目指した、システム開発室という組織発足から7年の長い道のりであった。
この年(’79年)の5月、まだ開発途上にあったCOSMICS-ⅡをExxonの技術会議(Technical Computing Conference;TCC)で発表するよう本社から指示があった。TCCはExxonグループ(原油探査・生産は除く)における技術分野でのコンピュータ利用に関する技術会議で、毎年この時期ニューヨーク郊外(ニュージャージに在った技術センター;ERE・ECCSのメンバーが参加しやすいよう)のホテルを借り切って3日間行われていた。対象は、プラント設計、プロセス制御、各種数理手法、研究開発支援、タンカー運用など多岐に渡り、参加者(約200名)が全世界から集まってくる大会議である。短期間に専門家が一ヶ所に集うので、情報交換にはもってこいの場である。ここでExxonグループの中でも先陣を切っている工場管理システムの紹介をして、反応を窺うことが使命であった。
参加してみると、工場全体の生産管理に関する発表は当社を含めて3件であった。一つはフォレー製油所(UK)の発表で、発売されて間もないIBM-4300(汎用機と共通する中型機)をプラットフォームとする、生産実績データ・ベース構築とその利用に関するもの、もう一つはアントワープ製油所(ベルギー)のIBM-370(汎用機)を用いたプロセス制御システム(ACS;Advanced Control System)上のプラント運転実績データを利用するものだった。二つとも“実績データ分析システム”で、プランニング(月次計画)やスケジューリング機能との連携は無かった。そんな訳で、プランニングは本社の汎用機を利用するものの、“プランニング~スケジューリング~モニタリング~分析“と一つながりになったシステムはCOSMICSだけであったので、発表後その効用や経済性について随分質問を受けることになった。
この会議の後、ニュージャージのEREやヒューストンのエッソイースタン(東燃の親会社)、シリコーンヴァレーのHP本社に立寄ったが、どこでも熱心なディスカッションが交わされた。不思議なもので、拙い英会話能力でも自信のあるシステムを懐にすると、実力以上に意が通ずることを実感した。
「Japan as Number 1」が出版され、第二次石油ショック(イラン革命)が起こったのはこの年、日本そして石油への追い風が吹いていた時期でもあった。
(次回;最終回;あれから30余年)
2010年4月9日金曜日
決断科学ノート-38(迷走する工場管理システム作り-12;コンピュータの選択-2)
通常ベンダーセレクション(メーカー選定)は、2~3社を対象に行う。しかし、今回はそれぞれに技術的な特徴(技術体系の変革期)があり、更に今までの実績(共同研究や対象外機種の使用実績など)もあって一気に絞り込むことが難しい。そこで二段階に分けて最終決定に持ち込むことにした。第一段階はこちらの要求仕様にどこまで応えられるかに主眼に置く。無論見積価格は提出してもらうが、重要なのは機能である。これで2~3社に絞り込んで、第二段階で最終決定するという手順である。
第一回目の見積照会は前回取り上げた、ミニコン御三家(DEC、DG、HP)と汎用機で実績のあるIBM、富士通、東芝に行った。6社競札はこちらも初めてだが、応札する方も未体験だったようだ。川崎工場の会議室に全社を集めて行った仕様説明会は、後日の語り草になったほどである。
東芝(TSKには複数のシステムが納入されていたが、東燃には実績なし)と富士通(FACOM-Uは子会社の製品)は、どうも当て馬ととった感があり、提案内容に突っ込みを欠いていた。IBMは何とか期待に応えようと努力しているのは伝わるのだが、悲しいかな、ぴったりの機種が無い。第二段階まで進んだのは御三家である。ただし、IBMに関しては、和歌山に工場管理システムとして採用していることもあり、最終決定まで継続検討を行うよう本社から指示があった(上の方は4300の発表が近いことを耳打ちされていたのかもしれない)。
DEC、DG、HP、いずれも東燃グループに全く実績は無い。技術提携先のエクソンでもPDP-8(DEC)が一部の工場やラボに導入されているものの、それほど普及していなし、その他の会社・機種はエクソンの技術レポートでも見たことが無い。わが国・わが社の利用環境を踏まえた独自評価を進める必要がある。
ミニコンのIBMといわれたDECは世界規模での実績は問題ない。PDP-11と言う機種の評価も高かった。日本でのビジネスは、日本DECと言う法人はあるものの、実際は理経という商社が取り仕切っていた。無論エンジニアもいるのだが、知識・技能はあくまでも標準システムの範囲内で、ユーザー領域まで達していない(これは三社とも大きな違いは無い)。北辰電機のようにPDPベースのシステム販売をする会社もあったが、制御用の色彩が濃い。また、工場設備用には多くの実績があるものの、事務処理も含む工場管理分野には必ずしも優れているわけではなかった。
DGのNOVAは日本ミニコンが熊谷に工場を建設し、そこで組み立てられていた。三社の中で唯一日本に生産拠点がある点は強みだった。しかし、立ち上げたばかりのビジネスは標準製品の箱売りで、システム販売ではない。応札はしたものの、こちらの要求にどう応えていいか戸惑っているところが垣間見えた。
HPも自社ではシステム含みのビジネスはやっていない。ただこの会社は1960年代の前半から横河電機と高周波測定器の合弁会社(横河HP;YHP)をつくっていた(そのための工場が八王子に在った)。応札したのはこのYHPである。また横河電機はここが販売するHP-1000をプラットフォームにしたプラント操業管理システムを、顧客ニーズに合わせてシステム販売していた。しかし、汎用性の高い(事務分野もカバーする)HP-3000はさすがに取り扱ってはいなかった。
今まで紹介してきたように、IBMも含めて米国のコンピュータ・メーカーは標準システム販売が原則である。しかし、IBMと付き合って分かったことは、最終責任は負わないものの、実質的にはシステム統合(他社製品との結合やアプリケーション開発)を、強力に支援してくれることを知っていた。そこで御三家にその点を打診してみた。最も具体的な提案があったのはHPである。HP製品に精通した日本システム技術(のちに横河グループ入りする)を連れてきて、こちらの要求との摺り合わせをしてくれた。
開発を担う当社のエンジニア達は、基幹ソフトのOSやデータベース(DB)、開発言語などの評価を行った。オンラインでアプリケーション開発が出来るOS;MPE、OSの一部を成す、動きの軽いDB;Image、修得し易い開発用言語;SPL。IBMや富士通の汎用機に比べ、明らかに一日の長があった。特に、多数のプログラマがCRTから同時にアプリケーション開発を行える環境は、技術的な面で高い評価を受け、決断の重要な因子となった。
標準システム単体では、最も安いシステムではなかったが、システム統合やアプリケーションソフト開発費を勘案すれば、一番安く仕上げられると確信できた。
最終段階になると、横河電機出身の役員が何人かアプローチしてきた。言わば横河が連帯保証人になった感じである。
「IBMで良いんじゃないのか?(汎用機の価格を安くする手段をいろいろ提示してきていた)」という工場幹部を説得して、HP-3000の採用を決めた。
(次回;完成した工場管理システム)
第一回目の見積照会は前回取り上げた、ミニコン御三家(DEC、DG、HP)と汎用機で実績のあるIBM、富士通、東芝に行った。6社競札はこちらも初めてだが、応札する方も未体験だったようだ。川崎工場の会議室に全社を集めて行った仕様説明会は、後日の語り草になったほどである。
東芝(TSKには複数のシステムが納入されていたが、東燃には実績なし)と富士通(FACOM-Uは子会社の製品)は、どうも当て馬ととった感があり、提案内容に突っ込みを欠いていた。IBMは何とか期待に応えようと努力しているのは伝わるのだが、悲しいかな、ぴったりの機種が無い。第二段階まで進んだのは御三家である。ただし、IBMに関しては、和歌山に工場管理システムとして採用していることもあり、最終決定まで継続検討を行うよう本社から指示があった(上の方は4300の発表が近いことを耳打ちされていたのかもしれない)。
DEC、DG、HP、いずれも東燃グループに全く実績は無い。技術提携先のエクソンでもPDP-8(DEC)が一部の工場やラボに導入されているものの、それほど普及していなし、その他の会社・機種はエクソンの技術レポートでも見たことが無い。わが国・わが社の利用環境を踏まえた独自評価を進める必要がある。
ミニコンのIBMといわれたDECは世界規模での実績は問題ない。PDP-11と言う機種の評価も高かった。日本でのビジネスは、日本DECと言う法人はあるものの、実際は理経という商社が取り仕切っていた。無論エンジニアもいるのだが、知識・技能はあくまでも標準システムの範囲内で、ユーザー領域まで達していない(これは三社とも大きな違いは無い)。北辰電機のようにPDPベースのシステム販売をする会社もあったが、制御用の色彩が濃い。また、工場設備用には多くの実績があるものの、事務処理も含む工場管理分野には必ずしも優れているわけではなかった。
DGのNOVAは日本ミニコンが熊谷に工場を建設し、そこで組み立てられていた。三社の中で唯一日本に生産拠点がある点は強みだった。しかし、立ち上げたばかりのビジネスは標準製品の箱売りで、システム販売ではない。応札はしたものの、こちらの要求にどう応えていいか戸惑っているところが垣間見えた。
HPも自社ではシステム含みのビジネスはやっていない。ただこの会社は1960年代の前半から横河電機と高周波測定器の合弁会社(横河HP;YHP)をつくっていた(そのための工場が八王子に在った)。応札したのはこのYHPである。また横河電機はここが販売するHP-1000をプラットフォームにしたプラント操業管理システムを、顧客ニーズに合わせてシステム販売していた。しかし、汎用性の高い(事務分野もカバーする)HP-3000はさすがに取り扱ってはいなかった。
今まで紹介してきたように、IBMも含めて米国のコンピュータ・メーカーは標準システム販売が原則である。しかし、IBMと付き合って分かったことは、最終責任は負わないものの、実質的にはシステム統合(他社製品との結合やアプリケーション開発)を、強力に支援してくれることを知っていた。そこで御三家にその点を打診してみた。最も具体的な提案があったのはHPである。HP製品に精通した日本システム技術(のちに横河グループ入りする)を連れてきて、こちらの要求との摺り合わせをしてくれた。
開発を担う当社のエンジニア達は、基幹ソフトのOSやデータベース(DB)、開発言語などの評価を行った。オンラインでアプリケーション開発が出来るOS;MPE、OSの一部を成す、動きの軽いDB;Image、修得し易い開発用言語;SPL。IBMや富士通の汎用機に比べ、明らかに一日の長があった。特に、多数のプログラマがCRTから同時にアプリケーション開発を行える環境は、技術的な面で高い評価を受け、決断の重要な因子となった。
標準システム単体では、最も安いシステムではなかったが、システム統合やアプリケーションソフト開発費を勘案すれば、一番安く仕上げられると確信できた。
最終段階になると、横河電機出身の役員が何人かアプローチしてきた。言わば横河が連帯保証人になった感じである。
「IBMで良いんじゃないのか?(汎用機の価格を安くする手段をいろいろ提示してきていた)」という工場幹部を説得して、HP-3000の採用を決めた。
(次回;完成した工場管理システム)
2010年4月5日月曜日
決断科学ノート-37(迷走する工場管理システム作り-11;コンピュータの選択-1)
1972年秋に立ち上がり、第一次石油危機を経て凍結事態になった川崎工場の工場管理システム構想は、和歌山計画も巻き込んで、5年間に渡る迷走を続けたことになる。しかし、この5年間は決して“失われた5年”ではなかった。この間、ITによる工場経営革新(その後の全社的な経営革新)推進の抑えどころ、生産管理の在り方、情報技術の進歩と適用限界、当該プロジェクトの経済・経営効果の把握などを当事者もその周辺も学ぶいい機会となった。
計画のベースとなる経済効果は、製品の収率改善(重質油から少しでも付加価値の高い軽い溜分を回収・増産する;この時一番経済性向上に効いたのは軽油の増産)である。ただし、生産計画の基となる製油所LPによる月次生産計画は工場生産管理機能から外したので、それはスケジューリングと運転実績解析から実現できる分に留まる。和歌山ほど投資するのは難しい。自ずと導入候補のコンピュータは限られてくる。幸いこの時期から半導体技術が急速に進み、小型コンピュータ(いわゆるミニコン)に下位の汎用コンピュータと遜色のない、高性能のものが出始めていた。
システム開発室発足時、二つのグループ(東芝-山武ハネウェルと富士通-横河電機)との共同研究に着手した時は、東芝、富士通ともにそれぞれの旗艦となる汎用機を担いでいたが、プロジェクトの凍結時この関係も解消され、汎用機に縛られることもなくなっていた。
こんな時期、ミニコンの雄、DECは産業用コンピュータとして世界を席巻した、PDP-8の後継機PDP-11を発売していた(32ビットのVAXは日本では未発売)。“スカンク・ワーク”なる語を知らしめた、新興のデータゼネラル(DG)はNOVAシリーズが話題を呼び、高周波分析機器から新規分野に挑戦したHPはHP-1000で大成功、より汎用性の高いHP-3000を送り出したところ。どれも魅力的な製品だった。この中でチョッと特異なポジションに在ったのはDGである。
国産メーカーもこの動きを必死で追っていた。東芝は産業用ミニコンでは先行しており、既にPDP-11を意識したTOSBAC-40シリーズを生産、CモデルがTSKで採用されていたし、富士通もFACOM-Uシリーズを市場に出していた。
しかし、ITではいつの時代も同じだが、特にこの時代のミニコンはアメリカを追いかけるのが精一杯、通産省はこれに危機感を抱き、その技術をいち早くキャッチアップするため、合弁会社(日本ミニコン)設立に動いた。その相手として選ばれたのがDGである。日本側の企業ではオムロンや構造計画研究所が加わり、工場が熊谷に建設され、構造研の創始者服部さん(現社長の父)が社長を務めていた。
問題はIBMである。コンピュータ業界の帝王だけに、新機軸のアーキテクチャー(基本構造)の製品は出し難く、辛うじてオフコン分野でS-30シリーズを出していたものの、その用途は事務分野に限られていた。工場での利用は、あくまでも旗艦、S-370を頭に持ち、その手足となるS-7やS-1しかなかった。スタンド・アロンで動く、ミニコン御三家の製品とは比ぶべくも無い。のちに大ヒットする、中型高性能機S-4300がベールを脱ぐ寸前であるのを我々(日本IBMの社員を含む)は知らない。(つづく)
計画のベースとなる経済効果は、製品の収率改善(重質油から少しでも付加価値の高い軽い溜分を回収・増産する;この時一番経済性向上に効いたのは軽油の増産)である。ただし、生産計画の基となる製油所LPによる月次生産計画は工場生産管理機能から外したので、それはスケジューリングと運転実績解析から実現できる分に留まる。和歌山ほど投資するのは難しい。自ずと導入候補のコンピュータは限られてくる。幸いこの時期から半導体技術が急速に進み、小型コンピュータ(いわゆるミニコン)に下位の汎用コンピュータと遜色のない、高性能のものが出始めていた。
システム開発室発足時、二つのグループ(東芝-山武ハネウェルと富士通-横河電機)との共同研究に着手した時は、東芝、富士通ともにそれぞれの旗艦となる汎用機を担いでいたが、プロジェクトの凍結時この関係も解消され、汎用機に縛られることもなくなっていた。
こんな時期、ミニコンの雄、DECは産業用コンピュータとして世界を席巻した、PDP-8の後継機PDP-11を発売していた(32ビットのVAXは日本では未発売)。“スカンク・ワーク”なる語を知らしめた、新興のデータゼネラル(DG)はNOVAシリーズが話題を呼び、高周波分析機器から新規分野に挑戦したHPはHP-1000で大成功、より汎用性の高いHP-3000を送り出したところ。どれも魅力的な製品だった。この中でチョッと特異なポジションに在ったのはDGである。
国産メーカーもこの動きを必死で追っていた。東芝は産業用ミニコンでは先行しており、既にPDP-11を意識したTOSBAC-40シリーズを生産、CモデルがTSKで採用されていたし、富士通もFACOM-Uシリーズを市場に出していた。
しかし、ITではいつの時代も同じだが、特にこの時代のミニコンはアメリカを追いかけるのが精一杯、通産省はこれに危機感を抱き、その技術をいち早くキャッチアップするため、合弁会社(日本ミニコン)設立に動いた。その相手として選ばれたのがDGである。日本側の企業ではオムロンや構造計画研究所が加わり、工場が熊谷に建設され、構造研の創始者服部さん(現社長の父)が社長を務めていた。
問題はIBMである。コンピュータ業界の帝王だけに、新機軸のアーキテクチャー(基本構造)の製品は出し難く、辛うじてオフコン分野でS-30シリーズを出していたものの、その用途は事務分野に限られていた。工場での利用は、あくまでも旗艦、S-370を頭に持ち、その手足となるS-7やS-1しかなかった。スタンド・アロンで動く、ミニコン御三家の製品とは比ぶべくも無い。のちに大ヒットする、中型高性能機S-4300がベールを脱ぐ寸前であるのを我々(日本IBMの社員を含む)は知らない。(つづく)
2010年4月2日金曜日
今月の本棚-19(2010年3月)
<今月読んだ本(3月)>1)見えざる隣人(吉田忠則);日本経済新聞出版社
2)フリーエージェント社会の到来(ダニエル・ピンク);ダイヤモンド社
3)北米1万マイルの車の旅(笹目二朗);枻(えい)出版社(文庫)
4)緑の英国・アイルランドの車の旅(笹目二朗);枻出版社(文庫)
5)バルト三国をボルボで走る(笹目二朗);枻出版社(文庫)
6)チンクエチェントで駆け巡るイタリア5000km(笹目二朗);枻出版社(文庫)
7)U-307を雷撃せよ(上、下)(ジェフ・エドワーズ);文芸春秋社(文庫)
8)岩崎弥太郎と三菱四代(河合敦);幻冬舎(新書)
<愚評昧説>
1)見えざる隣人
2008年、日本経済新聞夕刊に連載された「台頭する新華僑-揺れる日中のはざまで-」を大幅に加筆・修正して単行本にしたものである。いまや韓国・朝鮮人を抜いて最大の在日外国人となった中国人(2008年末で約65万人)、急速にその勢いを増す本国との間において、彼等の生き方・考え方は如何なるものなのかを、芥川賞作家から犯罪者まで、改革開放政策以前のエリート留学生から直近の出稼ぎ人まで、幅広いインタビューに基づいて掘り下げていく。
世界に名高いニューヨークやサンフランシスコのチャイナタウン、ホンクーバー(香港からの移住者が多い)と称せられるバンクーバーの中国人社会、東南アジアの地場経済をがっちり握っている華僑、研究活動で滞在した英国の田舎町、ランカスター大学における中国人留学生の多さ、諸外国で垣間見た小中国は良くも悪くも、そこに欠かせぬ存在だった。これらに比べると、本邦最大の横浜のチャイナタウンですら、希薄なものに見えてくる。近い国だが最も遠い国と言えるかもしれない。
維新後の近代化プロセスで醸成された中国蔑視観、一方で満洲事変・支那事変(日中戦争)に対する(わが国左翼知識人・メディアによって刷り込まれた)歪んだ原罪意識。日本人の中国(人)に対する思いは、その歴史を体験した世代が去っても複雑なものがある。そしてその特異な感情が現代の中国(人)に反射する。とりわけここに住む人たちに。そしてそれは意外と我々に伝わっていない。そこを埋めようと試みたのが本書の意図と言える。
紹介される、池袋駅北口で起こったチャイナタウン騒動、川口芝園団地における中国人世帯の急増などによるトラブルとその収拾、独立行政法人、物質・材料研究機構における中国人研究者の活躍や企業家の出現などを見ていると、前述の諸外国とは形が異なるものの、わが国にも中国人との共棲を避けて通れない時代が来ていることを知らされる。そして彼等の存在が、新しい時代の日中関係構築の重要な礎と期待できるように思えてくる。
それは、彼等が個人として日本と母国を見つめる複眼を持っていることである。例えば子供の教育である。中国での教育は日本とは比べものにならぬくらい厳しい。もし、初等・中等教育を日本で受けると、中国の競争社会を生き抜けないとさえ感じている。そこで子供だけは帰国させ母国で教育する。しかし、自分の日常生活を振り返ると、日本社会の落着いた環境に心の安らぎを感じると言う。本当はどちらが良いんだろう?と自身に問いかける。このような体験こそ国際社会を自ら理解する原点と言えるだろう。こういう人たちがある程度まとまって居住することは、必ずやわが国が国際社会において正しく理解されることに貢献するに違いない。
本書を通じて、“見えざる隣人”の存在価値が少し見えてきた。
2)フリーエージェント社会の到来
就職難である。経験の無い新卒が特に酷い。フリーターの発生はリーマンショック以降の現象ではなく随分前から起こっている。派遣社員が増えだしたのもバブルの最中90年代からだ。グローバリゼーションの掛け声の中、一層の企業経営の効率化が求められ、その後右肩上がりの経済成長が止まると、“欠員補充”的な採用が目立つようになってきた。この傾向は、成熟社会到来の早かった欧米社会(アメリカの場、経済成長は続いていたもののウェートがサービス業にシフト)ではもっと早くから始まっている。
この本は、2001年に原著が出版されたもので、取材時期はそれ以前、1990年代後半と言うことになる。筆者はゴア副大統領のスピーチライタも務めたことのあるジャーナリストである。蒸し暑い夏のある日、冷房が故障した、ホワイトハウスの会議室でスピーチの準備会議中倒れてしまう。原因は、緊張を強いられ、不規則な労働環境に置かれることから来る過労である。その直後から、自ら時間と仕事をコントロールできる、フリーランスのジャーナリストに転じる。そしてわが身を置くことになった“フリーエージェント”の世界を探り始めのだが、以前労働長官のスタッフでもあった彼がそのコネを利用してもなかなか整理された情報が集められない。雇用統計では“非農業従事者”の中に消えてしまっているのだ。就業者なのか失業者なのかさえ定かではない。しかし身近にはこんな人が確実に増えている。そこで家族(妻と幼い娘)とともに全米を調査して歩く(出版社がスポンサー)。これはそのインタビュー結果のまとめである。
本書の肝は、副題が『「雇われない生き方」は何を変えるか』とあるように、筆者自身獲得した、自由な「雇われない生き方」をポジティヴに捉え、成熟社会では必然であると説くところにある。
嘗てのような組織(に縛られた)雇用に基づくピラミッド型(縦型)社会は歴史的にはそれほど長いものではなく、“退職”が可能になったのはごく最近のことで、それ以前は自営で、時には場所や顧客を変えながら一生働くのが当たり前だった。ある意味そこへの回帰が始まっている。そこではハリウッド型あるいはプロジェクト型のチームが出来上がり、必要な人材が必要な時に集められ、一仕事終われば散っていく。これは組織に依存する縦型社会とは異なる横型社会の到来であり、個人も社会もこれに適合する生き方が求められるとする(例えば、プロジェクトと人材の組合せを図る仲介企業の存在)。
私も、現役時代「社内の仲間との比較よりも、①同業他社同職種で働けるか?→②異業種同職種で働けるか?→③異国(言葉のことははひとまずおいて)同職種で働けるか?」を“同職種”をキーに、自問するよう自らにもスタッフにも言い続けてきた。その点では筆者の主張に考え方は近い。
しかし、現在の人材派遣会社やパートタイマーの暗部をえぐってはいるものの、働く者が自分の意志で仕事を決めることの価値を尊ぶ姿勢で貫かれた論調は、厳しい状況にある現在の労働市場をちょっと楽観的に見ているきらいがある。
最大の問題点は、未経験者をプロの領域に高めるための仕組みである。この点も筆者は各種の教育・訓練方法などに言及しているのだが、実務を通じた知識・技能獲得にはとても及ばない気がする。
フリーエージェント社会がフリーター社会に堕さないことを願って止まない。
3)~6)笹目二朗のドライブ紀行 筆者は日産自動車の技術者から、早い時期に自動車ジャーナリストに転じた人である。年齢は、著書から推定すると既に60代半ばと思われ、有名な徳大寺有恒(「間違いだらけのクルマ選び」で一気に売り出した)同様、この分野の“良き時代”を送った世代と言える。
今は自動車ジャーナリズム冬の時代。若者の自動車離れが言われて久しい。理由の一端は自動車ジャーナリズムそのものにあると言える。あまりにハードウェア製品、技術(運転技術を含む)偏重なのである。クルマに乗ることの“楽しさ”を伝える記事がほとんど無い!1950年代朝日新聞が敢行した、今から思えば貧弱な国産車、トヨペット・クラウンによる“ロンドン→東京5万キロ”のような、若き血を滾らせる書き物にとんとお目にかからない。
そんな悶々とした気分で月刊誌「ENGINE」を眺めている時、筆者がここ何年かにわたって、海外長距離ドライブを行い、それが出版物になっていることを知った。書店には置いていないし、出版社も聞いたことが無いのでインターネットで調べ、まとめて4冊購入した。
4冊は場所(北米、英国とアイルランド、バルト三国・スカンジナビア、イタリア)とクルマ(全てメーカーの手配のレンタカー;クライスラーPTクルーザー、プジョー207、ボルボC30、フィアット・チンクエチェント)の違いだけで、内容はほとんど同じ。専ら走行距離、燃費、燃料価格、道路状況、あとは何を食って(これがかなり貧相;スーパーで買って車中食など多い)何処へ泊まったか。おまけにSEVというマイナスイオン効果で燃費や乗り心地まで改善してしまう道具に凝っていて、それがやたら出てくる(技術者であったのにその理屈が全く不明と言う)。文学的な味わいはまるで無く、ドライブ紀行というよりドライブ日誌と言っていい。足取りを辿る地図もほとんど掲載されておらず、写真がかなりあるのだが文庫本ではそれも楽しめない。人に進められるような本ではない。
しかし、ドライブ好きの私にとってはそれなりに楽しく、好奇心を満たしてくれる小冊子。実現はしないだろうが、“欧州を走ってみたい”気にさせてくれた。
7)U-307を雷撃せよ 久し振りに優れた軍事サスペンスものに行き当たった。それも現代の最新技術とつながる、近未来SFである。荒唐無稽でないところがいい。筆者は米海軍で長年(23年間)駆逐艦に乗り込み対潜作戦に従事してきた技術エキスパート(士官か兵かは不明)である。だからその戦闘シーンには、最新の対潜駆逐艦の心臓部はかくやと思わせる臨場感に満ちている。
20XY年、ドイツでは環境問題がエスカレートし、発電用原子炉の停止が迫ってくる。エネルギー不足はドイツ経済を大混乱に陥れること必定。ドイツ政府は密かにその最新鋭ディーゼル(燃料電池システムで推進するので静粛性が高い)潜水艦を中東のテロ国家に輸出し、石油の大量長期輸入を目論む。第二次世界大戦でのドイツ降伏記念日、5月8日キールを発った潜水艦4隻は先ずジブラルタルに向かう。英米共同作戦が発動され、それを阻止しようと海峡で待ち構えるが、逆に英艦が返り討ちに合う。東地中海から急行する米機動部隊も巧みに交わされてしまう。エジプトは親米国家ではなく、スエズ運河を封鎖しない。残されたのはイラン沖、ペルシャ湾を哨戒する米海軍の旧式巡洋艦一隻と駆逐艦・フリゲート艦三隻計4隻。4対4の戦がホルムズ海峡を挟んで戦われる。一隻でもテロ国家の手に渡れば、米国の威信は著しく傷がつく。「何としても阻止せよ」大統領(最高司令官)直々の命令が発せられる。
最後に残った先任艦長の乗る潜水艦と最新鋭駆逐艦との一騎打ちシーンは、最新兵器による丁々発止にもまして、両艦長の心理描写に優れ、嘗ての名画「眼下の敵」を髣髴させる。
チョッと物足りなかったのは、駆逐艦側の戦闘が克明に描かれるのに比べ、潜水艦側のそれがやや単純なことである。筆者のバックグラウンドから推し量ればやむをえないが、もう少しバランスよく書かれていれば、最後の場面の盛り上がりが違ったであろう。惜しい点である。
しばし、この筆者の作品を追ってみようと思う。
8)岩崎弥太郎と三菱四代 三井・住友は長く続く商家、三菱(岩崎)は下級武士が維新に乗じて作り上げた海運業・重工業。こんなステレオタイプの認識しかなかった若い頃、理系を目指す人間としては三菱を一段と優れたグループと見る反面、何か堅苦しいイメージで近づき難いものと見てきた。それは社会人になってからも大きくは変わっていない。もう一つ子供の頃から何気なく不思議に思っていたことに、何故岩崎ではなく三菱なんだろうという疑問がある。
書店でこの本を目にした時、この岩崎と三菱がひとつのタイトルに込められているところに惹かれ読んでみる気になった。
これを読んで疑問は氷解した。グループの出発点、三菱商会はそれ以前藩の財政を豊かにするため創立された、藩立商社;三つ川商会(川の字がつく三人の役人が差配役)をやがて弥太郎が取り仕切るようになり、そのマークに岩崎家家紋;三階菱と藩主山内家の家紋;三つ柏を融合しものを考案、それに基づいて社名を改めたところから発している。三井・住友とは異なり、家業が発展したのではない。
それにしても、弥太郎の人生は幕末・維新の時代とはいえ波乱万丈である。赤貧の地下(ぢげ)侍の子として生まれ、やがて長崎で藩の商売を行う出先機関で坂本竜馬と交友を深め、藩立の商社を自らのものとして海運業で成功するも、外国海運会社との激しい戦いが待っている。それに勝利すると、今度は大隈重信に入れ込んでいるととられ、薩長政府に徹底的に締め上げられる。この戦いの最中弥太郎は52才の若さで胃癌による壮絶な最期を遂げる。憤死、悶死と言っていい。
しかし、この難時を温厚な弟の弥之介が救い、やがて弥太郎の長男、久弥にバトンタッチし重工業への進出に成功、さらに弥之介の長男小弥太へと引き継がれ終戦の財閥解体に至る。岩崎家は必要な時に必要な人材が事に当たる、幸運に恵まれた一族であることを、この本で知った。
三菱グループの発祥の母体と思われている日本郵船が何故三菱を名乗らないか?薩長政府は、それに対抗する立憲改進党(党首大隈重信)とそれを人材で支える福沢諭吉(慶応義塾から自由民権を唱える人材を輩出していた。未だ早稲田は存在しない)、財力で支援する岩崎弥太郎を潰しにかかる。先ず標的にされたのが三菱商会、政府は渋沢栄一らを担いで共同海運を設立、これを強力にバックアップする。凄惨な戦いの中で弥太郎が死に、共同海運も共倒れの危機に瀕する。ここで弥之介の下両社の合併が行われ日本郵船が発足する。当初は共同海運側がイニシアチヴを握るが、やがてその道の専門家が多い三菱の人材が主導権を握り、完全な三菱合資下の会社になる。その意味で今にその名を留める日本郵船は日本近代政治史の生き証人とも言える。
在野の史家(高校の歴史の先生か?)が書いたものだが、幕末・維新を独特の角度から描いた秀作である。
以上
2)フリーエージェント社会の到来(ダニエル・ピンク);ダイヤモンド社
3)北米1万マイルの車の旅(笹目二朗);枻(えい)出版社(文庫)
4)緑の英国・アイルランドの車の旅(笹目二朗);枻出版社(文庫)
5)バルト三国をボルボで走る(笹目二朗);枻出版社(文庫)
6)チンクエチェントで駆け巡るイタリア5000km(笹目二朗);枻出版社(文庫)
7)U-307を雷撃せよ(上、下)(ジェフ・エドワーズ);文芸春秋社(文庫)
8)岩崎弥太郎と三菱四代(河合敦);幻冬舎(新書)
<愚評昧説>
1)見えざる隣人
2008年、日本経済新聞夕刊に連載された「台頭する新華僑-揺れる日中のはざまで-」を大幅に加筆・修正して単行本にしたものである。いまや韓国・朝鮮人を抜いて最大の在日外国人となった中国人(2008年末で約65万人)、急速にその勢いを増す本国との間において、彼等の生き方・考え方は如何なるものなのかを、芥川賞作家から犯罪者まで、改革開放政策以前のエリート留学生から直近の出稼ぎ人まで、幅広いインタビューに基づいて掘り下げていく。
世界に名高いニューヨークやサンフランシスコのチャイナタウン、ホンクーバー(香港からの移住者が多い)と称せられるバンクーバーの中国人社会、東南アジアの地場経済をがっちり握っている華僑、研究活動で滞在した英国の田舎町、ランカスター大学における中国人留学生の多さ、諸外国で垣間見た小中国は良くも悪くも、そこに欠かせぬ存在だった。これらに比べると、本邦最大の横浜のチャイナタウンですら、希薄なものに見えてくる。近い国だが最も遠い国と言えるかもしれない。
維新後の近代化プロセスで醸成された中国蔑視観、一方で満洲事変・支那事変(日中戦争)に対する(わが国左翼知識人・メディアによって刷り込まれた)歪んだ原罪意識。日本人の中国(人)に対する思いは、その歴史を体験した世代が去っても複雑なものがある。そしてその特異な感情が現代の中国(人)に反射する。とりわけここに住む人たちに。そしてそれは意外と我々に伝わっていない。そこを埋めようと試みたのが本書の意図と言える。
紹介される、池袋駅北口で起こったチャイナタウン騒動、川口芝園団地における中国人世帯の急増などによるトラブルとその収拾、独立行政法人、物質・材料研究機構における中国人研究者の活躍や企業家の出現などを見ていると、前述の諸外国とは形が異なるものの、わが国にも中国人との共棲を避けて通れない時代が来ていることを知らされる。そして彼等の存在が、新しい時代の日中関係構築の重要な礎と期待できるように思えてくる。
それは、彼等が個人として日本と母国を見つめる複眼を持っていることである。例えば子供の教育である。中国での教育は日本とは比べものにならぬくらい厳しい。もし、初等・中等教育を日本で受けると、中国の競争社会を生き抜けないとさえ感じている。そこで子供だけは帰国させ母国で教育する。しかし、自分の日常生活を振り返ると、日本社会の落着いた環境に心の安らぎを感じると言う。本当はどちらが良いんだろう?と自身に問いかける。このような体験こそ国際社会を自ら理解する原点と言えるだろう。こういう人たちがある程度まとまって居住することは、必ずやわが国が国際社会において正しく理解されることに貢献するに違いない。
本書を通じて、“見えざる隣人”の存在価値が少し見えてきた。
2)フリーエージェント社会の到来
就職難である。経験の無い新卒が特に酷い。フリーターの発生はリーマンショック以降の現象ではなく随分前から起こっている。派遣社員が増えだしたのもバブルの最中90年代からだ。グローバリゼーションの掛け声の中、一層の企業経営の効率化が求められ、その後右肩上がりの経済成長が止まると、“欠員補充”的な採用が目立つようになってきた。この傾向は、成熟社会到来の早かった欧米社会(アメリカの場、経済成長は続いていたもののウェートがサービス業にシフト)ではもっと早くから始まっている。
この本は、2001年に原著が出版されたもので、取材時期はそれ以前、1990年代後半と言うことになる。筆者はゴア副大統領のスピーチライタも務めたことのあるジャーナリストである。蒸し暑い夏のある日、冷房が故障した、ホワイトハウスの会議室でスピーチの準備会議中倒れてしまう。原因は、緊張を強いられ、不規則な労働環境に置かれることから来る過労である。その直後から、自ら時間と仕事をコントロールできる、フリーランスのジャーナリストに転じる。そしてわが身を置くことになった“フリーエージェント”の世界を探り始めのだが、以前労働長官のスタッフでもあった彼がそのコネを利用してもなかなか整理された情報が集められない。雇用統計では“非農業従事者”の中に消えてしまっているのだ。就業者なのか失業者なのかさえ定かではない。しかし身近にはこんな人が確実に増えている。そこで家族(妻と幼い娘)とともに全米を調査して歩く(出版社がスポンサー)。これはそのインタビュー結果のまとめである。
本書の肝は、副題が『「雇われない生き方」は何を変えるか』とあるように、筆者自身獲得した、自由な「雇われない生き方」をポジティヴに捉え、成熟社会では必然であると説くところにある。
嘗てのような組織(に縛られた)雇用に基づくピラミッド型(縦型)社会は歴史的にはそれほど長いものではなく、“退職”が可能になったのはごく最近のことで、それ以前は自営で、時には場所や顧客を変えながら一生働くのが当たり前だった。ある意味そこへの回帰が始まっている。そこではハリウッド型あるいはプロジェクト型のチームが出来上がり、必要な人材が必要な時に集められ、一仕事終われば散っていく。これは組織に依存する縦型社会とは異なる横型社会の到来であり、個人も社会もこれに適合する生き方が求められるとする(例えば、プロジェクトと人材の組合せを図る仲介企業の存在)。
私も、現役時代「社内の仲間との比較よりも、①同業他社同職種で働けるか?→②異業種同職種で働けるか?→③異国(言葉のことははひとまずおいて)同職種で働けるか?」を“同職種”をキーに、自問するよう自らにもスタッフにも言い続けてきた。その点では筆者の主張に考え方は近い。
しかし、現在の人材派遣会社やパートタイマーの暗部をえぐってはいるものの、働く者が自分の意志で仕事を決めることの価値を尊ぶ姿勢で貫かれた論調は、厳しい状況にある現在の労働市場をちょっと楽観的に見ているきらいがある。
最大の問題点は、未経験者をプロの領域に高めるための仕組みである。この点も筆者は各種の教育・訓練方法などに言及しているのだが、実務を通じた知識・技能獲得にはとても及ばない気がする。
フリーエージェント社会がフリーター社会に堕さないことを願って止まない。
3)~6)笹目二朗のドライブ紀行 筆者は日産自動車の技術者から、早い時期に自動車ジャーナリストに転じた人である。年齢は、著書から推定すると既に60代半ばと思われ、有名な徳大寺有恒(「間違いだらけのクルマ選び」で一気に売り出した)同様、この分野の“良き時代”を送った世代と言える。
今は自動車ジャーナリズム冬の時代。若者の自動車離れが言われて久しい。理由の一端は自動車ジャーナリズムそのものにあると言える。あまりにハードウェア製品、技術(運転技術を含む)偏重なのである。クルマに乗ることの“楽しさ”を伝える記事がほとんど無い!1950年代朝日新聞が敢行した、今から思えば貧弱な国産車、トヨペット・クラウンによる“ロンドン→東京5万キロ”のような、若き血を滾らせる書き物にとんとお目にかからない。
そんな悶々とした気分で月刊誌「ENGINE」を眺めている時、筆者がここ何年かにわたって、海外長距離ドライブを行い、それが出版物になっていることを知った。書店には置いていないし、出版社も聞いたことが無いのでインターネットで調べ、まとめて4冊購入した。
4冊は場所(北米、英国とアイルランド、バルト三国・スカンジナビア、イタリア)とクルマ(全てメーカーの手配のレンタカー;クライスラーPTクルーザー、プジョー207、ボルボC30、フィアット・チンクエチェント)の違いだけで、内容はほとんど同じ。専ら走行距離、燃費、燃料価格、道路状況、あとは何を食って(これがかなり貧相;スーパーで買って車中食など多い)何処へ泊まったか。おまけにSEVというマイナスイオン効果で燃費や乗り心地まで改善してしまう道具に凝っていて、それがやたら出てくる(技術者であったのにその理屈が全く不明と言う)。文学的な味わいはまるで無く、ドライブ紀行というよりドライブ日誌と言っていい。足取りを辿る地図もほとんど掲載されておらず、写真がかなりあるのだが文庫本ではそれも楽しめない。人に進められるような本ではない。
しかし、ドライブ好きの私にとってはそれなりに楽しく、好奇心を満たしてくれる小冊子。実現はしないだろうが、“欧州を走ってみたい”気にさせてくれた。
7)U-307を雷撃せよ 久し振りに優れた軍事サスペンスものに行き当たった。それも現代の最新技術とつながる、近未来SFである。荒唐無稽でないところがいい。筆者は米海軍で長年(23年間)駆逐艦に乗り込み対潜作戦に従事してきた技術エキスパート(士官か兵かは不明)である。だからその戦闘シーンには、最新の対潜駆逐艦の心臓部はかくやと思わせる臨場感に満ちている。
20XY年、ドイツでは環境問題がエスカレートし、発電用原子炉の停止が迫ってくる。エネルギー不足はドイツ経済を大混乱に陥れること必定。ドイツ政府は密かにその最新鋭ディーゼル(燃料電池システムで推進するので静粛性が高い)潜水艦を中東のテロ国家に輸出し、石油の大量長期輸入を目論む。第二次世界大戦でのドイツ降伏記念日、5月8日キールを発った潜水艦4隻は先ずジブラルタルに向かう。英米共同作戦が発動され、それを阻止しようと海峡で待ち構えるが、逆に英艦が返り討ちに合う。東地中海から急行する米機動部隊も巧みに交わされてしまう。エジプトは親米国家ではなく、スエズ運河を封鎖しない。残されたのはイラン沖、ペルシャ湾を哨戒する米海軍の旧式巡洋艦一隻と駆逐艦・フリゲート艦三隻計4隻。4対4の戦がホルムズ海峡を挟んで戦われる。一隻でもテロ国家の手に渡れば、米国の威信は著しく傷がつく。「何としても阻止せよ」大統領(最高司令官)直々の命令が発せられる。
最後に残った先任艦長の乗る潜水艦と最新鋭駆逐艦との一騎打ちシーンは、最新兵器による丁々発止にもまして、両艦長の心理描写に優れ、嘗ての名画「眼下の敵」を髣髴させる。
チョッと物足りなかったのは、駆逐艦側の戦闘が克明に描かれるのに比べ、潜水艦側のそれがやや単純なことである。筆者のバックグラウンドから推し量ればやむをえないが、もう少しバランスよく書かれていれば、最後の場面の盛り上がりが違ったであろう。惜しい点である。
しばし、この筆者の作品を追ってみようと思う。
8)岩崎弥太郎と三菱四代 三井・住友は長く続く商家、三菱(岩崎)は下級武士が維新に乗じて作り上げた海運業・重工業。こんなステレオタイプの認識しかなかった若い頃、理系を目指す人間としては三菱を一段と優れたグループと見る反面、何か堅苦しいイメージで近づき難いものと見てきた。それは社会人になってからも大きくは変わっていない。もう一つ子供の頃から何気なく不思議に思っていたことに、何故岩崎ではなく三菱なんだろうという疑問がある。
書店でこの本を目にした時、この岩崎と三菱がひとつのタイトルに込められているところに惹かれ読んでみる気になった。
これを読んで疑問は氷解した。グループの出発点、三菱商会はそれ以前藩の財政を豊かにするため創立された、藩立商社;三つ川商会(川の字がつく三人の役人が差配役)をやがて弥太郎が取り仕切るようになり、そのマークに岩崎家家紋;三階菱と藩主山内家の家紋;三つ柏を融合しものを考案、それに基づいて社名を改めたところから発している。三井・住友とは異なり、家業が発展したのではない。
それにしても、弥太郎の人生は幕末・維新の時代とはいえ波乱万丈である。赤貧の地下(ぢげ)侍の子として生まれ、やがて長崎で藩の商売を行う出先機関で坂本竜馬と交友を深め、藩立の商社を自らのものとして海運業で成功するも、外国海運会社との激しい戦いが待っている。それに勝利すると、今度は大隈重信に入れ込んでいるととられ、薩長政府に徹底的に締め上げられる。この戦いの最中弥太郎は52才の若さで胃癌による壮絶な最期を遂げる。憤死、悶死と言っていい。
しかし、この難時を温厚な弟の弥之介が救い、やがて弥太郎の長男、久弥にバトンタッチし重工業への進出に成功、さらに弥之介の長男小弥太へと引き継がれ終戦の財閥解体に至る。岩崎家は必要な時に必要な人材が事に当たる、幸運に恵まれた一族であることを、この本で知った。
三菱グループの発祥の母体と思われている日本郵船が何故三菱を名乗らないか?薩長政府は、それに対抗する立憲改進党(党首大隈重信)とそれを人材で支える福沢諭吉(慶応義塾から自由民権を唱える人材を輩出していた。未だ早稲田は存在しない)、財力で支援する岩崎弥太郎を潰しにかかる。先ず標的にされたのが三菱商会、政府は渋沢栄一らを担いで共同海運を設立、これを強力にバックアップする。凄惨な戦いの中で弥太郎が死に、共同海運も共倒れの危機に瀕する。ここで弥之介の下両社の合併が行われ日本郵船が発足する。当初は共同海運側がイニシアチヴを握るが、やがてその道の専門家が多い三菱の人材が主導権を握り、完全な三菱合資下の会社になる。その意味で今にその名を留める日本郵船は日本近代政治史の生き証人とも言える。
在野の史家(高校の歴史の先生か?)が書いたものだが、幕末・維新を独特の角度から描いた秀作である。
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