そのバーは僅かなソファー席と長いカウンターで出来ており、既に30人くらいの客でいっぱいだった。もちろん全て男。どうやらここはメンバー制らしく 、客の中にはナラヤンさんの知人も居る。外国人は日本人二人だけ(YMT部長と私)。遠来の客のために皆で詰めあい、何とかカウンターに3人分の隙間を作ってくれた。他の客同様飲み物と乾き物(ナッツなど)で、技術会議や先ほど観たインド舞踊を材料に歓談を始めた。やがてソファー席の客が立ち上がると、皆は我々に気を遣い席を勧めてくれた。
席に落着くと、ナラヤンさんからインド初訪問の感想を聞かれた。紙幣を見せながら「一つのお札にこれだけ多種の言語で、その価値を表さなければならないなんて、大変ですね」と言ったところ、「インドの広さを解かっているかな?」「普通の地図では、赤道付近に比べ南北極地へ近づくほど地面は実際よりも広く描かれる。一見小さく見えるインドの広さは、北欧と西欧を加えた広さに匹敵するんだよ」「そのヨーロッパにどれだけの言語と通貨があるか考えてごらん」「決してインドは複雑で特別な国ではないんだよ」 インドに対する認識を根底から覆された一瞬であった。
話題はやがて私の生まれ育ちに転じ、満洲(Manchuria)で生まれ、彼の地で小学校に進み、夏休みにソ連侵攻があり、その後中共軍の統治を経験して、翌年日本へ引揚げたことを語った。話が進むにつれナラヤンさんの表情が次第に変わり、話に強く惹かれている様子がうかがえた。一区切りついたところで「全財産を失ったのか?」と聞いてきた。「一人一個宛て許されたリュックサックに詰められる範囲だった」「帰国直後、短期には親戚の援助もあったが、それからしばらく両親の苦労は大変だった」 彼の顔に「そうだろうな」という気持ちが表れていた。
私の答えを引き取るように彼が話し始めた。「インドのパーティションを知っているね?」 一瞬何のことか解からなかった。“パーティション”で知っているのは、コンピュータ記憶装置の境界域管理かオフィスの間仕切りくらいである。しかし、続けて語る彼の話から、それが1947年のインド独立時における、パキスタンとの“分離”を意味する言葉であることが解かった。
彼の家系は古くから、現在のパキスタン領に住んでいた。宗教はヒンズー教、家は豊かでその地方の名家、恵まれた環境で育った。この分離の年、彼はボンベイ(現ムンバイ)の技術専門学校(カレッジ)へ進み、故郷を離れ一人で下宿生活をしていた。当初はただの国境線制定、住民の生活に急な変化は無いようにみえたが、やがて宗教の違いからくる諍いが各地で起こり、ついにカシミールを巡る戦争にまでエスカレートしてしまう。イスラムの国となったパキスタンではヒンズー教徒への圧迫が一段と厳しくなり(当然インドのイスラムも同様)、ついに彼の両親・弟妹は着の身着のままで父祖の地を追われ、狭い彼の下宿に逃げ込んできた。その時から始まる家族の悲惨な生活、全てを失った無念の思いが、私との会話を契機にほとばしり出てきた。「それまで皆仲良く暮らしていたんだ。それが人工的な分離策によって一気に崩れてしまったんだ」 話し終わった時、彼の大きな目から大粒の涙が溢れ、黒い肌を滴り落ちていった。
民族分断・難民体験は終戦後の引揚げを除けば、日本人に経験の無いことである。一方でアメリカ合衆国(言わば難民が作り上げた国)を始め、世界の国家・民族はこれが当たり前の歴史とも言える。
あれから四半世紀、国際紛争で何か事が起こるたびに、あの一粒の涙が思い起こされる。
(大粒の涙完)
2010年5月17日月曜日
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