2010年7月18日日曜日

遠い国・近い人-9(十字路の男-3;トルコ)

 二日目の観光は前日が中心部だったこともあり、主に周辺部を周ることになっていた。ボスポラス海峡の最峡部(約700m)に在る要塞、ルメリ・ヒサールは、1453年のオスマントルコによるコンスタンチノープル攻略の要となったところで、必見の歴史的な場所。ここからは海峡を跨ぐ釣橋も間近に見えるという。また、途上にあるドルマバフチェ宮殿も欠かせない。何度も外敵侵入を阻んできた町を囲む城塞、ローマ時代の水道なども見所だ。ツアーの最後は市中に戻って、二つのバザール(グラン、エジプト)を訪問する。昼食はルメリ・ヒサール近くのレストランでシーフードが用意されている。
 ブルハンさんは出発前のブリーフィングで、今日の予定を説明してくれてから、「何か希望はありませんか?」と聞いてきた。「時間に余裕があれば、イスタンブール郊外の市民が住んでいる所を見てみたいんだが…」と言うと、一瞬怪訝な表情をしてから「それでは昼食までの時間、海峡を更に北に進み、黒海が見える所まで行きましょう。その辺には漁村もあります。昼食後は要塞近くの第二ボスポラス大橋を渡り、対岸のアナトリア(小アジア)へ出て、歌で世界的に知られた、ウシュクダルの町を通り、夏宮を見て、市中に直結する第一大橋を通って町へ戻ることにします」とこちらの希望を入れてくれた。
 早朝のドルマバフチェ宮殿は清清しい雰囲気の中に在った。19世紀に出来た比較的新しい宮殿だが、この国の近代化に欠かせない場所である。ここでその推進の中心人物であったケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)が生涯を終えた場所なのだ。小学生が団体で見学に来ており、私に「コンニチハ」と語りかけてくれた。親日的な国なのである。
 オスマントルコの歴史から見れば、暮明ともいえる時代に建てられたのだが、豪華絢爛を極めた建物の内外に圧倒される。金銀がふんだんに使われているのも然ることながら、大ホールの絨緞は一枚物、多数の織姫たちが長時間かけて織り上げたもので、現代では製作不能だと言う。昔日の彼の国の栄華を充分実感できる素晴らしい宮殿であった。
 次に訪れたのはルメリ・ヒサール要塞。海峡の向かいのアナドゥル・ヒサール要塞と連携して、海峡を通るジェノバ海軍の艦船を攻撃し、黒海沿岸のローマ植民地との往来を絶ち、コンスタンチノープル陥落に重要な役目を果たした所である。今は、直ぐ近くを長大な釣橋が架かり、その下を大型タンカーや軍艦が行き来している。海峡側に傾斜した、眺望のいい周辺の土地は高級住宅地や別荘地となっている。豪壮な邸宅を見る限りはるかに我々より豊かだ。
 私の意を汲んで車は更に北上する。後方に第二大橋が見える辺りまではレストランなども在ったが、やがて道の舗装が粗くなり、家々の造りも低層でレンガ造りの粗末なものに変わってくる。30分くらい走った所で急に広々した海原に達した。黒海である。零細な漁村で子供たちが舟の上で遊んでいた。嬉しいことに表情は明るい。
 昼食後、第二大橋を渡ってアジア側に入る。こちら側も海峡を望む土地は一等地で、立派な家々がゆったりした敷地に建っている。しかし内陸に進むに従って、急速に道路の両側に未完成とも思えるバラックが増え、埃っぽい感じがしてくる。ブルハンさんはここでイスタンブールの都市問題について語り始めた。「ここに在る建物は全て不法に建てられたものです。住民は国の東に住んでいた零細農民たちで、地方では食べていけないためイスタンブールにやってきたのです。しかし海峡の西側は広い空き地がないため、ここで流れが押し止められているのです」「不法ゆえ水道・電気も無く、不衛生で危険な場所になっています」「これが、イスタンブールが抱える最大の社会問題です」
 このあと第一大橋直下、海峡に面する夏宮とも呼ばれるベイレルベイ宮殿を見学した。ドルマバフチェ宮殿に比べれば至って小規模だが、様式は同じで、庭園が素晴らしかった。大帝国であった往時の豊かさと現代の貧しさが並存する姿は、この国が国際社会で苦悶する様子を象徴しているとも言える。
 ホテルに戻りツアーの精算をした。この人のお陰で短い滞在を目一杯楽しんだとの思いから、幾ばくかのチップをドルで渡そうとしたが、どうしても受け取らなかった(あとでよく考えてみると、個人ガイド費の中に含まれていたのではないかと思う)。「代わりにひとつお願いがあります。北星堂(だったと思うが)と言う出版社から発刊されているローマ字版の英和・和英辞書があります。それを贈っていただければ大変嬉しいのですが…」 帰国してそれを探し、送り届けた。(トルコ完)
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