ジョージ・ステファノポウラス、わが国のPSE(Process Systems Engineering;化学工業へのIT利用)関係者にはよく知られた人である。MITの化学工学科でシステム工学を担当する教授で何度も来日しているし、一時は三菱化学のCTO(Chief Technology Officer)を務めるほど日本との縁が深い。
彼との最初の出会いは1982年夏、京都国際会議場で開かれたこの分野の国際会議、PSE’82でたまたま席が隣だったことで始まる。その時彼はまだMITではなく、アテネに在る国立工科大学に所属していた。これは後で知ることになるのだが、ギリシャの大学を出た後ミネソタ大学に留学、ここで博士号を取得して一旦帰国上記の工科大学に就職、その後MITに移ったようである。休憩時間の会話で、当時東燃の同僚KRHさんが開発したFCC運転最適化システムを話題にしたところ、滔々と自説を開陳され、辟易とさせられた記憶がある。のちにExxonのエンジニアでギリシャ人と話したときも、相手に完全に会話のペースを握られ、ソクラテス、プラトン等を生んだ、雄弁で鳴る古典哲学発祥の地をあらためて印象付けられ、「そう言えばあの時も…」とジョージのことが思い起こされたものである。
次に会ったのは1991年秋、化学工学会経営システム研究会の渡米メンバーの一員としてMITを訪れた時である。わが国はバブルの絶頂期、アメリカ化学工学会(AIChE)の年会で先方のマネジメント部会とジョイント・セッションを持つことになり、その前にいくつかの大学や研究機関を廻る中での訪問であった。ジョージの名刺には、Professorの一段上に“Leaders of Manufacturing”とあり、学内で指導的な役職を担っていることをうかがわせた。この時の団長は当時筑波大学経営大学院教授であった梅田さん、若き日やはりミネソタ大に学んだこともあるので、ジョージの受け入れ準備は万全。日本の製造業に太刀打ちできるよう立ち上げたMOT(技術経営)コースや化学工学界の重鎮たちとの交流、教授食堂での昼食会など丁重で実りある歓待を受けた。
そして三度目が1996年5月ロードス島で開催された第6回ESCAPE(European Symposium on Computer Aided Process Engineering)である。これはヨーロッパで行われるPSEの国際会議で4年毎の開催、同じように4年毎に世界持ち回りで開かれるPSE‘X年、アメリカでPSE分野のテーマを変えて(設計、運転、エンジニアリングなど)2年毎に夏コロラドで行われるFOCAPO(Foundation of Computer Aided Process Operation)と合わせて、PSEの三大国際会議を構成している。
その年の初め、わが国におけるこれら活動の事務局機能を行う、学術振興会143(PSE)委員会の委員長を務めていた京大の橋本伊織先生から連絡があり、ESCAPEで発表をしてほしいとの依頼があった。テーマはその少し前同委員会で紹介した、化学工学会経営システム委員会が行った「わが国プロセスCIM(Computer Integrated Manufacturing)実態調査」についてである。自分が中心になって進めた調査研究だし、既に何度か内外でプレゼンテーションも行っていたので喜んでお受けすることにした。橋本先生が共同発表者として名を連ねていただけたのも心強かった(最終的には参加できなかったが)。
ESCAPEの事務局とのやり取りも全て橋本先生にやっていただいたので、誰が務めているのかも知らなかった。出かける直前得た事務局情報も名前は知らない人だったが、コンタクト先はあのジョージが一時所属していた国立工科大学だった。
ロードス島に移る前に事務局や橋本先生とのやり取りもあり、二日間アテネに滞在した。この間、半日のアテネ観光に参加したところ日本人家族3人(夫婦とその母親)と一緒になった。男性は似たような年頃、どこかで会ったような気がしたので「エスケープ(こちらはESCAPEのつもり)ですか?」と聞いたところ「そんなもんです」との答えが返ってきた。実はやがて判るのだが、この人は当時世間を騒がせていたエイズ問題に関わっていた東大医学部のGNJ教授だった(血液製剤認可は厚生省の課長時代。この時の訪希は公衆衛生関係の学会参加)。顔に見覚えがあったのは、しばしばTVに登場していたからなのだ。とんだ“エスケープ”違いだったのである。
(つづく)
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2010年9月20日月曜日
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