2010年12月5日日曜日

今月の本棚-27(2010年11月)

<今月読んだ本(11月)>1)国家の命運(藪中三十二);新潮社(新書)
2)高射砲(佐山二郎);光人社(文庫)
3)The German Generals Talk(B.H.Liddell Hart);Quill
4)街場のメディア論(内田樹);光文社(新書)
5)数覚とは何か?(スタニスラ・ドゥアンヌ);早川書房
6)乱気流(上、下)(ジャイルズ・フォーディン);新潮社(文庫)

<愚評昧説>
1)国家の命運
 著者は前外務事務次官。阪大3年生のとき力試しで受けた専門官試験に合格、入省後しばらくその職位で活躍、あらためて外交官試験を受け直しキャリア外交官に転じた、少し変わった経歴を持つ人。そのせいか目線がわれわれ一般人と変わらぬ感じがする。一言で言えば「こういう人が国のため頑張っているのなら、我々も強力にバックアップしなければ」と言う気になる。
 “国家の命運”を決める外交交渉に、交渉官として、政治家や他省庁トップと伴に臨み、その内実を前向きに、解かりやすく、自らの考え方を開陳しながら語っていく。
 取り上げられているのは、1980年代末期に始まる日米構想協議から、北朝鮮拉致問題、国際標準(通信関係)、外国人受け入れ、サミットの舞台裏(筆者は小泉首相の個人シェルパ;トップの意向を代行する事前準備要員)、日中ガス田交渉、直近の尖閣諸島問題(この時は既に退職しているが)まで、当に国運を賭けた様々な外交上の重要案件だ。
 例えば、現在の超借金財政が始まったのは、日米構造協議により「今後10年で430兆円の財政出動をする(理論的シナリオは“前川レポート”」と約束させられたことから始まったという話は、軍事的戦争に敗れる以上の国家的損失をもたらすことになってしまったのだ。
 これを読んでいると“わが国の外交が内政問題だ”と言うことがよく分かるし、それ故に“論理的なオフェンス(攻撃)”に弱く(利害関係者の調整が難しく、大胆な問題提起や対案を出せず、小出しにしながら妥協に向かおうとする)、グローバルな経済戦争下でその地位が低下していくことに痛烈な危機感を感じる。
 この人は民主党政権が誕生し、閣議前の事務次官会議廃止が決まったとき異を唱えている(これは本書には無いが)。外交・通商交渉は多くの省庁に利害がまたがることから、その調整に苦労した経験が言わしめたことは想像に難くない。そして案の定、国際関係・安全保障は滅茶苦茶である。有能な官僚を使いこなしてこそ、国政の健全な運営が出来、熾烈な国際間競争に勝ち残れるのではないか。

2)高射砲
 B29による空襲を体験した人たちから「戦闘機が舞い上がるのだがなかなか高空に達することが出来ない」「高射砲を撃つのだがまるで中らなかった」などと言う話を聞かされたり、本でそんな表現を見たりしてきた。迎撃に向かう戦闘機に関しては、性能テスト時の限界高度が10,000m近くあったようだが、与圧も過給器も無いので実用的には5,000m強と言ったところであろう。しかし、高射砲に関しては、英国爆撃軍団のドイツ本土爆撃における被害状況(三軍で最大)などから、防空力としてもっと活躍できたのではないかと疑問を持っていた。
 この本は旧陸軍の火砲(大砲)シリーズの一環として書かれたもので、通常の大砲を大きな仰角で据付け、それを航空機撃墜用に転用した初期のものから、終戦末期試作された2基の15センチ砲までを詳細に報告する日本高射砲発達史である。基本的に火砲としては陸上戦闘用のものと変わらぬが(ドイツの有名な88m砲は高射砲のみならず対戦車砲としても強力な武器だった)、高空を高速で飛行する小さな物体を打ち落とすと言う点で、一段の工夫が要る。
 高射砲による航空機撃墜は、砲弾を命中させるのではなく、その進路に弾片をバラ撒くことで致命傷を与える。このためには弾薬量がカギとなるが、多いと有効半径は広がるが初速が遅くなるので高度に問題が出てくる。沢山の弾丸を連続して発射するのは有効だが、砲の寿命を短くする。最も難しいのは照準である。ここにはレーダーと照準コンピュータが不可欠だったのだ。
 開戦前から問題点を認識していた陸軍は各種の新型砲を試作していたが、結局中国戦線で押収したクルップ砲を模した99式8センチ砲が都市防空の主力であった。この砲の有効射高は10400mでB29の通常爆撃高度(7~8000m)をカバーしているが、終戦までの生産量が500門程度、レーダー照準は未完成のままでは、しょせん蟷螂の斧に過ぎなかった。

3)The German Generals Talk  英国の著名な軍事学者・戦史家である、リデル・ハートが終戦直後、収監されたドイツ国防軍の将官たちに行ったインタビューをまとめたものである。三つのパートに別れ、第一章はヴェルサイユ条約後の国防軍首脳に焦点を当てた新国防軍の変遷、第二章はヒトラーの登場と装甲軍の誕生、第三章は国家の命運を決した有名な戦い、という構成になっている。
 対象者は、ルントシュテット元帥、クライスト元帥、マントイフェル装甲軍大将、トーマ装甲軍大将、ブルーメントリット大将など20名近い軍集団・軍司令官・参謀長クラス。
 西方電撃戦(ダンケルクでの進撃停止など)、英上陸作戦(中止)、独ソ戦(モスクワ戦線、スターリングラード攻防戦、カフカス侵攻作戦など)、北アフリカ戦線、ノルマンジー上陸作戦、バルジ作戦など戦局に決定的な影響があった作戦について聴き取り調査し、ドイツ軍内の作戦決定過程、戦局転換の要因、ヒトラー介入程度・影響、連合国側の司令官や兵士・兵器の評価など多面的な分析を行い、往時のドイツ軍の動きを探っていく。
 ドイツ軍将官たちの作戦評価は「もう少し自由度(一時退却)があったら、あれほどの敗北は無かった(特に独ソ戦)」「戦線があまりにも拡大し、防御が薄くなり、敵につけ込まれた」「補給が(特に弾薬・燃料)が続いていれば・・・(独ソ戦、北アフリカ)」などの発言が随所に見られるが、リデル・ハートは結論として「ドイツ軍人は軍事技術そのものだけでなく、周辺(政治や経済)に関する知識・配慮が欠けていた。しかし、もしそのような兵士だったならば、あの強靭な軍は無かったかもしれない」としている。
 この本の初版発行は1947年。執筆や出版に要する時間を考えると、書き上げたのは1946年と推察される。裁きの前に、自己弁護や責任回避無きにしも非ずだろうが、戦争遂行の内情が今でも生々しく伝わってくる。その後に書かれた戦史やノンフィクションでも、同じような場面を数多く見かけることから、このインタビューが持つ意義は大きい。現在、同種の調査を同じ時期アメリカ軍が行いまとめた「運命の決断」を読んでいるので、それとの対比もいずれ報告したい。

4)街場のメディア論
 著者は元々ユダヤ文化研究者だが、種々の文化・社会評論で目下売れっ子である。ブログへのアクセス数は何と一日1万5千件に達する!その内田先生が書いた“街場”シリーズ最新版(4冊目;本欄でも「街場のアメリカ論」を紹介している)である。無論ベストセラーにもランキングされているのでお読みになった方もいるだろう。
 この街場シリーズは、著者が大学(神戸女学院)で行っている人気講座を書籍化したもので、今回のものは2007年度の講義が基になっている。既に3年を経ているのだが、鋭い先見性で陳腐さを全く感じさせない。
 主題は“マスメディア(新聞・TV・出版・広告)の衰退”であり、これらの業界へ進みたいと思う学生が講義の対象者である。従って導入部は 「どういう心構えで就職すべきか」から入っていく。その答えは「自分に合った仕事など始めから存在しない。仕事を通じて自分の存在が認められる役割・場所を見つけ出すのだ!」としている。その通りである。
 次いで各メディアの問題点を探っていく。衰退の最大の要因として取り上げられる“ネット社会の到来”は無関係ではないが、むしろそれぞれのメディア内部にその病根があるとしている。例えばTV業界の場合、仕掛け(人・物)が大きくなり費用がかかるとともに、小回りが利かなくなってきていることに主因があるとしている。それに比べればラジオのフットワークは比べものにならぬほど軽いので、むしろ社会の変化に強いとみている。
 もっと大きな問題は、ジャーナリストの力が落ち“命がけで仕事をしている”という感じがしないことだと、取材活動などを例に説明していく。確かに紋切り方の質問で、まとめ方もステレオタイプの記事が雑誌でも新聞でも溢れているし、署名記事も少ない。名前が出ればいい加減な仕事(自社・自分の考えを、如何にも世の中一般の声であるかのように変えてしまう)は出来ないはずである。
 責任回避はさらに進み、医療ミスなどの報道に見る、問題の本質を誤らせる「正義」の暴走(この報道による世論形成はむしろ病院・医師の診療・処置回避に向かうことになる)や少数の特殊なクレーマーへの支持など、間違えとわかれば直ちに正すべきところだが、その気配も無く、病はいまや重度の状態に陥っているとしている。その通りである。
 この他今話題の電子出版と著作権問題なども取り上げ、読者が居るのにそれに応えられない出版界の現状を明らかにし、総じてミドルメディア(ブログのような個人メディアとマスメディアの中間的存在)に幽かな将来性を期待している。果たしてどうなるのであろうか?

5)数覚とは何か?  数に関する脳科学・神経科学の本である。動物に数の概念はあるか?赤ん坊どのくらいから数を意識し始めるか?それは脳のどこで認知されるのか?どのように?数に関する感覚が育まれていくか?著者はこんなことを研究している、もともとは数学者で認知科学・神経科学に転じた学者(フランス人)である。
 チンパンジーのみならず鳥さえも数を認知すること、人間は4ヶ月くらいからそれを認知し始める。ただし成人のそれとは違い、1,2,3それ以上は“沢山”という世界であるらしい。
この数の認知度は文字や発音の仕方とも密接に関係している。アラビア数字もローマ数字も漢字も3までは1・2・3、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、一・二・三とそこに物が在る状態そのものを表しているが4以降はそれが変わってくる。ローマ数字ではⅣ(4)は5(Ⅴ)引く1(Ⅰ)である。また発音では東アジアの発音は10進法で発音にきっちり規則性がある(10の次じゅう・いち;十と一、)であるのに対して英語ではイレブンとまるで規則性が無い(フランス語のカウント方式はもっと複雑)。さらに加減算を行う時ローマ数字では非常に表記が難しくなる(事実上出来ない)。こんな話を初歩的な数の認知から始め、優れた数学者の数の捉え方は常人と違うのだろうか?というような話題に踏み込み、天才たちの脳の構造の違いを骨相学の視点から分析した歴史やその誤りを指摘したりしていく。
 脳の中ではどの部分で如何に数が感知され演算処理が行われるのかを、脳に外傷を受けた患者たちの診断や症例からそのメカニズムを推論する。そしてこの“数覚”は右脳・左脳のバランスより成り(つまりかなりアナログ的)、成長過程にある脳は可塑性(柔らかく形を変える;スポンジではない)を持つので、抽象的な公理などを沢山ぶつけるより、始めは数に関するパズルや謎解きのような、好奇心を刺激する数遊びから入るのが良いのではないかと語る。
 残念ながら、硬くなってしまった脳を柔らかくする方法は書かれていないが、分かりやすい記述で、普段関心の薄い分野に興味を湧き起こしてくれたことに感謝したい。翻訳も特殊な分野だが良くこなれていて読みやすい。

6)乱気流  帯に「将兵300万、艦船6千 全軍の運命が予報士に託された」とあったので、「オッ!ノルマンジー上陸作戦だな」と思って購入した。確かにそうなのだが“直木賞と思って買ったら芥川賞だった”というのが率直な感想である。
 しかし、面白くないのかと問われれば「読み物としてはあまり面白くないが、新たな知識を得られたという点では満足だった」と答えたい。
 主人公はケンブリッジで物理を学んだ気象庁の若い予報士、そのバックグランドを長官に見込まれ密命を受ける。いまは地方で隠遁生活を送る、天気予報の画期的な手法を考案した、第一次世界大戦時の良心的兵役拒否者からそのメカニズムを探り出し、Dデイ(上陸作戦結構日)を決定する情報を軍首脳に提供することだった。話しの四分の三は主人公と隠遁者、その年若い妻との交流に関することで、この部分それぞれの心の内を語っていくので軍事サスペンスの緊迫感はほとんどないが、秘密を聞き出すためのアプローチとしては重要な意味を持つ。やがて少しずつ相手の心が開けてくるのだが、正確な内容をつかむ前に、主人公の過失で隠遁者が急死する。万事休す!と思いきや、実はその妻が詳細な内容を知っていたのだ。ギリギリのタイミングでDデイ前後の気象予測が可能になる。
 この隠遁者のモデルは実在の人物である。リチャードソンといい彼が考え出したリチャードソン・ナンバーは近代天気予報の先駆けで、現在の予報システムにもつながっている。ただ膨大な観測データから大気の乱流状態を計算し、気圧の変化を推定するので、レーダーやコンピュータ無しでは実用に大きな制約があった。初めにこの数値を計算した時には6時間の予想に2ヶ月かかったと言われている。この小説の中でも「6万人のコンピュータ(計算者)を大ホールに集め、前後左右の計算者がその計算値を相互に渡して予測する。計算が遅れているところはランプが点灯し、指揮者が督促する」という隠遁者の構想が出てくる。当に現在の並列処理スーパーコンピュータの人力版である。
 この本では、この英国式数値理論型予報に対して、米国は歴史的に蓄積した大量の気象データを解析する統計方式とっており、それらと競い合う場面も出てくる。さらに、米軍は上陸(一部は空挺)軍に二個大隊の気象観測部隊を同行させている(英国はそんな組織は無く、主人公はこの空挺グループに加えてもらう)。また、ドイツ軍の気象観測と予報についても触れており、軍事と数理に関して思わぬ収穫があった。
 1920年代そんなアイデアが発表され、それが現在につながっていることは、OR起源の防空システムの歴史と重なり、私にとってこの本を特別なものにしてくれた。
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