<今月読んだ本(1月分)>1)猛き海狼(上、下)(C.マケイン);新潮社(文庫)
2)ネット・バカ(ニコラス・G・カー);青土社
3)昭和が遠くなって(小林信彦);文藝春秋社(文庫)
4)制限戦争指導論(J・F・Cフラー);原書房
5)流刑の街(チャック・ホーガン);ヴィレッジブックス(文庫)
<愚評昧説>
1)猛き海狼 第二次世界大戦時の若いドイツ海軍士官を主人公とする小説である。戦争小説は国と国、正規軍と正規軍が正面から戦う第二次世界大戦もの、特に欧州・大西洋を舞台にしたものが面白い。しかし戦後65年も過ぎると、さすがにこれを好む読者も作者も少なくなってきているのであろう、新作はほとんど出ない。そんな中で印刷発行日の一日前本書を書店で見つけた。直ぐに購入したのは言うまでもない。
主人公こそフィクションだが、海戦の戦場も登場する艦船や艦長も一部実在のものだ。特に最初の戦闘、ポケット戦艦(ヴェルサイユ条約の制約から、巡洋艦の船体に戦艦に匹敵する攻撃力を搭載)アドミラル・グラフー・シュペー号のラプラタ沖海戦と自沈は史実を忠実になぞっている。
インド洋における、乗り組んだ仮装巡洋艦(商戦改造)の沈没と長期の漂流。やがてUボートの艦長となり、フロリダ沖での通商破壊に従事、霧中誤って客船を沈め命令違反の救助活動を行うシーン。どれをとってもリアルな筆さばきで臨場感がある。
この救助活動で船客を米駆逐艦に移乗させた後、Uボートを自沈させ、主人公を含め乗組員は全員捕虜になる。それ以降どこまで事実からは分からぬが、ミシシッピさらにはニューメキシコのドイツ軍捕虜収容所が登場し、収容所の環境、管理体制やドイツ人捕虜たちの行動(親ナチ派が牛耳っている)が詳しく描かれる。これらの場面は今まで小説や映画でもほとんど紹介されたことがなく、新たな知識を得た。
ドイツ海軍をテーマにしながらアメリカの陸が小説に取り上げられているのは、筆者がアメリカ人で軍や海とは関係のない人(西洋史を専攻、長く金融関係のビジネスに携わっていた)だからである。従来であればドイツ海軍の話はドイツ人が、英米海軍なら英米人が書いていたので、その点でこの本は大変ユニークなものと言える。
ただ、主人公が乗り組む艦船が、戦艦、仮装巡洋艦、潜水艦と全く艦種が違い、現実にはこんな転属(特に水上艦から潜水艦)は考えられないことやそれぞれの舞台に関連性が薄いいため、一冊の本として書くことにどれだけ意味があるのか疑問の残る作品であった(反ナチ・戦争批判と言う点では一貫性はあるのだが、冒険小説なのか戦争に舞台を借りた社会小説なのかがあいまい;こちらは軍事サスペンスを期待した)。ダグラス・リーマンのような英国の冒険小説作家なら3部作にしたのではなかろうか?
2)ネット・バカ
今年まだ一ヶ月しか経っていないが、おそらく「私の選ぶ本年のNo.1」になるのではないかと思っている。この本を知ったのは昨年の9月、直ぐに購入したが同時に購入した同じ作者の前作「クラウド化する世界」(本欄-26で紹介)を先に読んだので、今年になってしまった。
主題はインターネットが及ぼす個人そして社会への影響、それも相当深遠部へのインパクトである。今までもネット社会批判の本は数々読んできたが、その焦点の当て方・深さ・衝撃度においてこれ以上のものはない。
英語の題名は「The Shallows(浅瀬)」であり、邦題の軽薄な印象とはまるで違う(訳者もこのことで一言ことわりを書いているが)。筆者の命題は「インターネットによって人間の思考プロセスが大きく変わり、それが社会の在り方をも変えていく;深く・じっくり考えなくなり、決断だけが早くなる」と言うところからきている。
ソクラテス・プラトン時代の“思考”は雄弁に“語ること”であった。時代が下ってもしばらくは“貴重な書き物”を“多数の前で音読”することが主流であった。しかしグーテンベルクの印刷機発明による安価な書物の普及は“一人で黙読”しながら考える世界を作り、それはごく最近まで続いてきた。今インターネットの普及によって、メディアの世界で起こってきている変化はTV(視聴時間決して減少していない)よりは圧倒的に出版に大きい(印刷物の発行数、読書時間の減少は著しい)。書物をじっくり読むことが無くなれば社会はどうなっていくのだろう?
思考と脳や神経の成長・働きはどうなっているのだろう?1980年代までは「幼少時に急速に発達し、その後経験は蓄積されるものの、思考プロセスそのものはほとんど変わらない(脳に可塑性はない)」と言うものだった。しかし、最近の脳・神経科学はその内部の動きをかなり正確に観察・測定できるようになってきた。これらに依る研究が進み、脳は手段やその使い方によってその環境に適した、新たな思考回路が作り上げられる(脳に可塑性がある)ことが明らかになってきている。
これは本書の事例ではないが、最近わが国のでもプロとアマチュアの棋士(将棋だったか囲碁だったかは失念したが)の脳の動きを比較研究し、その間に差があることを報じていた。
筆者は最新テクノロジー(特にIT)を中心に社会・文化・経済を論じる、いまやこの世界の第一級ジャーナリスト、決してインターネット否定論者ではない。自らもそれを使って日々の仕事をしている中での疑念を、広範な視点から整理し、解明しようと取り組んだのが本書である。脳科学・神経科学の面では本欄-27で紹介した「数覚とは何か?」と共通する話題も多々あり、一般読者だけでなく、その方面の専門家にも価値のあるものだと思う。
ブログ(インターネット)を使って、読後感を紹介することは相乗効果になるのか?それとも逆に相除し合うのか?これは私の問題である。
3)昭和が遠くなって
今までにも本欄で何度か紹介した、週間文春に連載されている小林信彦の「本音を申せば」の最新文庫版である(掲載時期;2006年1月~12月)。軽妙な筆使いの割には辛口なところが好きで文庫版が出ると買っている。
少し時間は経っているのだが、それほど時差を感じない。政界批判など誰が総理になっても同じところも良い(つまりわが国政治の本質を突いているのだ)。また、TVやラジオに関する話題が多く、知らない世界を垣間見るにも適当だ(しかし映画人を含めほとんど知った名前は無いのはさすがに歳を痛感させられるが)。
それでも<イーストウッドが描く「星条旗」の暗部>など多少は知った人物の作品や人となりの紹介に「そうだったのか!」と教えられたり、<まちがいだらけの昭和史>では「全く同感!」と言うような、“おじいさん”に合ったテーマも取り上げられ、息抜きにぴったりであった。
4)制限戦争指導論 原著は1961年英国で出版されたもの。訳本も1970年代に一度出版されたものの復刻版である。
筆者は第一次世界大戦で世界最初の戦車軍団参謀長を努めた人。その経験を基に陸戦における機甲力の将来性に着目、機甲軍の独立兵種化提言(大規模実用演習を含む)を行ってきた経歴を持つ。しかし、彼の主張は海洋大国英国では容れられず、むしろ大陸軍国ドイツ、ロシア、フランスで注目され、特にドイツ装甲軍生みの親グーデリアンに大きな影響を与えて、その先見性を不朽のものにしている。少将まで昇進するものの、1933年(ヒトラー政権誕生の年)に退役しその後は軍事学者の道を歩んできた(1965年没)。
本書は、彼の第一次世界大戦における体験(戦勝国も米国を除けば実質敗戦国)が基になっているものと思われるが、第二次世界大戦後も含め戦争が本来の目的(政治課題解決の一手段;クラウゼヴィッツの論)を外れ民間人を含めた総力戦なって行くことに対する批判・非難をフランス革命から説き起こし体系的まとめ、制限戦争に持っていく考えを示したものである。
ナポレオン戦争までの戦争は宗教戦争を別にすれば、国王や領主の傭兵による経済戦争(領土や領民の取り合い)だった。利害関係者はこれらの所有者だけなので、どこかで折り合いを付けないと勝っても持ち出しになってしまう。自ずと“制限戦争”になっていた。しかし、フランス革命で一般人民が徴兵され戦いに参加するようになると、和平の条件が世論に左右されるようになり殺戮や略奪の度合いが酷くなってきた。それは産業革命で兵器の質や量が変わるとともに激しさを増していく。それでも為政者が統治力をしっかり保持していれば限度があった。その例として普墺戦争や普仏戦争におけるビスマルクの存在を挙げている。これが完全に壊れるのは第一次世界大戦で、最初の休戦条件はウィルソンの14か条(ここではドイツにあれほど過酷な条件を課していなかった)で、ドイツ側もこれならば受け入れられるとして交渉に入るのだが、英仏の国民感情はそれを許さず、指導者たちの態度もそれに応じて厳しく変化していく。時を同じくして起こるロシア革命の根底にはマルクスの“階級闘争”があり、これも当時の世論を動かす。結果としてのヴェルサイユ条約は一方的な戦勝国の要求条件で締結されてしまう。
これは新たな恨みを生み、第二次世界大戦はドイツの失地回復を目指す戦から、やがて他民族制圧・絶滅へと発展、連合国側もこれに対して“無条件降伏”を条件に戦い、市民を巻き込む無差別都市爆撃、さらには原爆投下までエスカレートしていく。
結果はどうだったのか?ヒトラーと言う独裁者を倒す戦いは、もう一人の独裁者スターリンを味方に引き入れ、ソ連の勢力圏を広げただけだった。
チャーチルは乱世の指導者として高い評価を得たが“ナチス憎し”で本来の反共思想を豹変させ、それが大失敗だったことに終戦間際に気がつくが、その時には米ソの力には抗しきれず主導権を握れないまま不本意な結末を迎える。
もっと酷いのはルーズヴェルトで、最後までアンクル・ジョー(スターリン)にオープン・マインドで(当面の要求を聞いてやる;軍事援助など)付き合えば米国の思い通り(対日戦参戦、国際連合構想による平和の回復など)になると信じていた。“無条件降伏”も戦争の真の意義を知らない彼から出た発想である。これが戦争を長引かせ、徹底抗戦しか選択肢がなくなってしまった。
国際政治のリーダーたちが「戦争は政治課題の解決の一手段である(目的ではない)」と言うクラウゼヴィッツの戦争哲学を正しく理解し、あの戦争に当たっていたら、純軍事的戦闘で収拾し、今(戦後の世界;1950年代)の世界はいま少しまともなものになっていたであろう。現下の冷戦、やがて来るであろう共産中国の台頭、共産主義者の戦いの根底には(妥協の無い)階級闘争という考え方がある。まだまだ無制限戦争発起の危機は去っていない。リーダー達よ心してこれに当たれ。
以上が本書のダイジェストである。
伝統的に勢力バランスを旨としてきた英国外交、二度の大戦で勝者となりながら崩壊してしまった大英帝国、戦後に出現した米ソ二大超大国の対峙、どこかにそんな英国人の悲哀・悲憤を感じないわけではないが、米国人のように理想だけに走らない、経験・歴史に立脚した論に共感を覚える。
これを読んでいて感じたことの一つに“民主主義と戦争”と言う視点がある。これは彼だけではなく英国エリートにしばしば見られるのだが、“大衆が戦争をより残酷なものにする”という考え方ある。大衆とメディアと言い換えたほうがいいのかもしれないが、強い政治リーダーの存在を好まぬ風潮が、大衆迎合主義に向かい、かえって戦争の危機を産むような気がしてならない。
原題は「The Conduct of War」だが訳題に“制限”を付けたのは適切である。
5)流刑の街
冷戦終結後、軍事・スパイサスペンスの面白い作品になかなかお目にかかれない。国対国、組織対組織という対称系が壊れたたことが主因である。代わって現れたのが、テロ組織や麻薬取引組織であり、そうでなければ架空の未来戦(例えば米中戦争)である。テロや麻薬は“犯罪”の要素が強く興味の無い(好きでない)警察が主体、未来戦はほとんどSFの世界で今ひとつ臨場感を欠く。と言うような按配で最近フィクションに関してはフラストレーションが溜まっている。
この本を買った動機は、そんな欲求不満状態の中で、主題は麻薬取引犯罪であるにもかかわらず、“イラク戦争帰還兵”が主役であることに惹かれたからだ。
読み始めは「ああやっぱり」感じた。ヴェトナム帰還兵物と同じなのだ。建前では勇士と称えられながら、現実にはまともな仕事もみつからない。不幸な少年時代を逃れるように陸軍に志願、イラクに派遣され(何と自衛隊が派遣されたサマワ)、特殊部隊員に選抜されるほど優れた兵士として活躍した男の挫折感がしばし続く。
ある雨の夜、パートとして働く駐車場で二人組みの強盗に襲われるが、難なく撃退する。数日後一人の女がやってきて名刺を渡し、そこに連絡するようことづける。退役軍人で成る私的麻薬撲滅団からのスカウトなのだ。
彼らの手法は、麻薬取引の現場を急襲して現金だけを奪い、現物は排水口に流してしまう。リーダーは情報収集と作戦策定・指導だけで現場には来ない。しかし、作戦は次々と成功していく。ボストンの麻薬シンジケートは恐慌状態となり、価格は上昇していく。
主人公はやがて「リーダーはどこからどのように情報を得るのか?」と疑問を持つ。それを直接聞き質すがはぐらかされてしまう。
謎の多いリーダー、麻薬捜査官、三つの組織が絡む複雑な麻薬取引、リーダーに囲われる女。あとは読んでのお楽しみ、である。
作者は北米(米国・カナダ)のミステリー賞として有名な「ハメット賞」受賞者、その作品「強盗こそ、われが宿命(さだめ)」は「ザ・タウン」として映画化され、近々公開される(もう公開されている?)。これも読んでみたいと思っている。
(以上)
(写真はクリックすると拡大します)
2011年2月1日火曜日
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