2011年2月6日日曜日

写真紀行-冬の京都を巡る-(5);金閣寺と舞妓

 祇王寺を出るとしばらく東に進み薬師寺と言う、これも由緒のありそうな寺の境内を抜け、タクシーの拾えそうな道に出た。運よく個人タクシーが一台やってきたので、無線でもう一台仲間を呼んでもらい、分乗して金閣寺に向かった。運転手に「金閣寺まで」と言うと「お客さん、今が一番良い時間ですよ」と応じてきた。時刻は3時過ぎ、西日が一段と強くなってきているのだ。車は広沢の池の南側を通り、御室を経て、仁和寺、竜安寺などよく知られた寺々の前を通り、20分ほどで大文字山の懐にある金閣寺(金閣鹿苑寺)に到着した。
 周辺の高い木々に囲まれた参道・寺務所は西日の影で薄暗く感じるほどだ。そこに突然現れたのが池を隔てて日の光に燦然と輝く“金閣”であった。ここもそれほど混雑しておらず、皆写真撮影に余念が無い。しかしあまりの反射光の強さに「これではハレーションを起こして、うまく撮れないのではないか?」と思うほどの明るさだった。後で見てみると、人物を入れた記念撮影はフラッシュを“強制発光”にして撮影したものだけが上手くコントラストの強さを殺していた。車を降りる際運転手さんが「風が無いといいのですがね」と言っていたが、やや微風があり池の面に映るそれはゆがんでしまっている。それでもこれほど美しい金閣を見られたことに大満足だった。
 この夕日に映える金閣を愛でるために作られた、小高い丘にある夕佳亭(せきかてい;茶室)や不動堂などを見学し4時過ぎここをあとにした。
 北の外れにある金閣から市内中心部(四条河原町)へは、次の予定(夕食)まで時間もあるので、路線バスで出た。これも京都に精通したメンバーがいるからである。
 四条川原町で下車、三条近くまで北に上り高瀬川に出て、今度は川沿いに木屋町通りを南へ下る。まあ東京で言えば赤坂という感じだ。昔は風情があったのかも知れぬが、何やら風俗ぽい店が散見される。四条まで出て今度は一筋東の先斗町の路地のような狭い道を北へ戻る。ここはさすがに派手な店は無く、門燈や表札だけの置屋やお茶屋らしきものが軒を接して延々と続く。まだ薄暮なので舞妓さんが歩く時間には早いのか、通行人は我々のような観光客風情が大半である。
 この路地が終わり三条の大通りへ出る手前、MRNさんが「ここもちょっと由緒のある寺なので見て行こう」と案内してくれたのは京都瑞泉寺。57歳にして初めて実子、秀頼を得た秀吉は、跡取りと定めていた甥(姉の子)、秀次を自害させ、一族の妻妾子女30余人を三条河原で殺害してこの付近に曝す。高瀬川を開削した京の豪商角倉了以は秀吉の死後それを弔うためにこの寺を建てたのだという。猫の額ほどの境内に小さな墓石がいくつか並んでおり、夕闇の中に彼らの怨念が漂っている雰囲気がした。
 そこから広い御池通り渡りさらに二条に向かうと今日の会食場所、「がんこ高瀬川二条苑」がある。外壁に大きな石が積まれた角倉別邸の庭を生かした料理屋なのだ。昨日の「坂の上」に比べると大衆的で賑やかだが、我々は坪庭・床の間もある落ち着いた和室が用意されている。料理は昨晩同様京懐石だ。それが半ばまで進んだとき、仲居さんが「舞妓さんが参りました」と言ってくる。やがて印半纏を来た番頭さん(?)に案内され、本日の主役登場である。
 これは本番のお茶屋遊びとは違い、少し早い時間帯に観光用に店が客の求めに応じ提供するサービス(30分間;有料)。先ず番頭さんが挨拶し、これからの次第を説明。手元には携帯用コンポがある。舞妓が丁寧に挨拶する。名前は「ふく里」さん。少し酒席を移動し踊りが舞えるようスペースをつくる。今日はまだ正月の内、演題は失念したが、お目出度い曲に合わせて一舞いしてくれる。その後衣装の説明などがあり、しばらく宴席に侍り皆と話や記念撮影などする。
 ふく里さんは何と東京初台の出身。現在20歳。話の経緯から中学卒業後この世界に入り、京言葉や立居振る舞いからはじまり踊りの稽古まで厳しい修行を積んできたようだ。今の舞妓は大方京都以外の出身者とのこと。彼女の居る置屋は舞妓五人・芸妓二人が所属、人数は多い方らしい。異世界体験の30分はアッという間に過ぎ、丁寧に挨拶をして去って行った。
 おじいさんたちは大満足。残りの時間、お開きまで話はこれだけだった。
(次回;最終回;平等院・伏見)
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