前回の予告で、次回は“Exxonコンピュータ技術会議”としましたが、もう一回“社内状況”編を書くことししました。
東燃グループのプロコン導入会社・事業所には、東燃和歌山工場、同川崎工場、同清水工場、東燃石油化学(TSK;現東燃化学)川崎工場、ニチモウ石油精製(NSK川崎)があった。この内清水工場はタンクローリー専用で、導入も比較的新しかったので次世代への置換え検討対象外だった。
これらの会社・事業所に導入されていた、制御システム・プロコンが各種各様であることは、今までのノートで触れてきた。そしてそれには技術進歩に加えて、各社の経営形態や歴史が大きく影響していた。
TSKの設立は1960年末、川崎地区の関係会社事業所はこの新規ビジネスのために設立されたもので、この地区の中核会社であった。プロパー社員を1962年から採用、経営の独自色を高めていた。そこには「親会社何するものぞ!」と言う気概が満ち溢れ、SPC導入ではグループの先頭を走り、着実に実績を上げていた。経営形態・プロセス構造(製品在庫が極めて少なく、顧客にパイプラインで直接つながる)からくる制約(主に経済上の)があり、集中型DDCには批判的であった。しかし、DCS(分散型DDC)が普及し始めるとそれも解消し、第二ナフサ分解装置にハネウェルのアナログ電子式システムを採用していたこともあり、TDC-2000への関心が高まっていた。
NSKは規模が小さいこともあり、エンジニアの絶対数が少ないので、オンサイトのコンピューターシステムは東燃川崎工場と同じもの(IBM-1800+YODIC-600)を採用、独自システムへの取り組みは共同出資者(日本魚網;外貨に制約のある時代、漁業のための原油輸入枠を持っていた)との関係が深い出荷システムに留まっていた。
和歌山工場は、川崎工場が本格的に増強されるまで(1969年)はグループ内で圧倒的な大きさと多彩なプラント構成を誇り、一時は“和歌山関東軍”と揶揄されるくらい、野心的現場技術者活躍の場であった。その伝統はその後も脈々と続き、ここにも「本社・他社・他工場何するものぞ!」の意気が高かった。また古い設備が多く計測・制御システムは遠隔化や自動化が遅れており、その環境改善に切実な思いが強かった。
川崎工場は最新鋭、装備が整っていたこともあり第一次石油危機への対応ではプロコンに依る素早い効率改善を実現して、その利用に自信を深めていた。またTSKとの交流も日常的であったし、NSKや本社も近く情報交換も頻繁に行われていた。つまり、本社以上にグループの状況把握が出来るところでもあった。
会社・事業所の文化の違いに加え、システム部門の運営をややこしくしていた(必ずしも仲が悪いわけではない)のはそこに属するエンジニアの出自・育成過程からくるプロコン利用に関する考え方である。
システムズ・エンジニアリングを担う人材を大別すると、化学工学出身者、広義の経営科学出身者(管理・経営・数理)、計測・制御技術出身者に分けられる。
化学工学系の人はSPCアプリケーション開発のし易さを望み(極論すればメーカーは問題ではない)、経営科学系は経営情報システムとしての情報処理能力に高い優先度を与え(汎用コンピュータへの傾斜)、計測・制御系の関心はDCS、マン・マシーン・システムや通信系技術などシステム技術そのものに向かう傾向があった(メーカーと機種)。
このような環境の中で、本社(情報システム室数理システム課+技術部制御システム課)は統一システムの導入を目論みつつあったのである。
(次回;Exxonコンピュータ技術会議)
東燃グループのプロコン導入会社・事業所には、東燃和歌山工場、同川崎工場、同清水工場、東燃石油化学(TSK;現東燃化学)川崎工場、ニチモウ石油精製(NSK川崎)があった。この内清水工場はタンクローリー専用で、導入も比較的新しかったので次世代への置換え検討対象外だった。
これらの会社・事業所に導入されていた、制御システム・プロコンが各種各様であることは、今までのノートで触れてきた。そしてそれには技術進歩に加えて、各社の経営形態や歴史が大きく影響していた。
TSKの設立は1960年末、川崎地区の関係会社事業所はこの新規ビジネスのために設立されたもので、この地区の中核会社であった。プロパー社員を1962年から採用、経営の独自色を高めていた。そこには「親会社何するものぞ!」と言う気概が満ち溢れ、SPC導入ではグループの先頭を走り、着実に実績を上げていた。経営形態・プロセス構造(製品在庫が極めて少なく、顧客にパイプラインで直接つながる)からくる制約(主に経済上の)があり、集中型DDCには批判的であった。しかし、DCS(分散型DDC)が普及し始めるとそれも解消し、第二ナフサ分解装置にハネウェルのアナログ電子式システムを採用していたこともあり、TDC-2000への関心が高まっていた。
NSKは規模が小さいこともあり、エンジニアの絶対数が少ないので、オンサイトのコンピューターシステムは東燃川崎工場と同じもの(IBM-1800+YODIC-600)を採用、独自システムへの取り組みは共同出資者(日本魚網;外貨に制約のある時代、漁業のための原油輸入枠を持っていた)との関係が深い出荷システムに留まっていた。
和歌山工場は、川崎工場が本格的に増強されるまで(1969年)はグループ内で圧倒的な大きさと多彩なプラント構成を誇り、一時は“和歌山関東軍”と揶揄されるくらい、野心的現場技術者活躍の場であった。その伝統はその後も脈々と続き、ここにも「本社・他社・他工場何するものぞ!」の意気が高かった。また古い設備が多く計測・制御システムは遠隔化や自動化が遅れており、その環境改善に切実な思いが強かった。
川崎工場は最新鋭、装備が整っていたこともあり第一次石油危機への対応ではプロコンに依る素早い効率改善を実現して、その利用に自信を深めていた。またTSKとの交流も日常的であったし、NSKや本社も近く情報交換も頻繁に行われていた。つまり、本社以上にグループの状況把握が出来るところでもあった。
会社・事業所の文化の違いに加え、システム部門の運営をややこしくしていた(必ずしも仲が悪いわけではない)のはそこに属するエンジニアの出自・育成過程からくるプロコン利用に関する考え方である。
システムズ・エンジニアリングを担う人材を大別すると、化学工学出身者、広義の経営科学出身者(管理・経営・数理)、計測・制御技術出身者に分けられる。
化学工学系の人はSPCアプリケーション開発のし易さを望み(極論すればメーカーは問題ではない)、経営科学系は経営情報システムとしての情報処理能力に高い優先度を与え(汎用コンピュータへの傾斜)、計測・制御系の関心はDCS、マン・マシーン・システムや通信系技術などシステム技術そのものに向かう傾向があった(メーカーと機種)。
このような環境の中で、本社(情報システム室数理システム課+技術部制御システム課)は統一システムの導入を目論みつつあったのである。
(次回;Exxonコンピュータ技術会議)
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