2011年7月3日日曜日

今月の本棚-34(2011年6月分)

<今月読んだ本>
1)秘録 陸軍中野学校(畠山清行);新潮社(文庫)
2)「国連運輸部鉄道課」の不思議な人々(田中宏昌);ウェッジ社
3)遥かなる未踏峰(上、下)(ジェフリー・アーチャー);新潮社(文庫)
4)Patton-A Genius for War-(Carlo D’ Este);Harper Perennial
5)「満州帝国」がよくわかる本(太平洋戦争研究会);PHP出版(文庫)

<愚評昧説>
1)秘録 陸軍中野学校
 “日本人の組織における情報技術利用”をライフワークと思っている私にとって、それ以前の環境として“日本の組織における情報(収集・分析・利用)リテラシー”は大きな関心事である。この本を手にとることになった理由はそこにある。著者については全く知らない名前だが、編者を昭和史専門のノンフィクション作家、保阪正康が努めていることも、読む動機の一つであった。つまりこの本は1971年に単行本として出版されたものをそれから30余年後文庫本として復刻するに際し、原著に編者による検証・解説が加えられたものである。
 中野学校の名が一般人の目に触れることになったのは、1974年ルパング島で救出された小野田少尉が同校出身(二俣分校)であったことからであろう。ゲリラ活動や諜報・謀略戦の幹部養成所であったことから、その存在は一部に知られてはいたものの、職業軍人にも実態はほとんどがわかっていなかったようだ(民間人に扮することが多く、性格上同窓の集まりなども禁じていたし、戦後はいち早く資料類を焼却している)。それだけに早くからこれを追い、週刊誌に連載していた著者はその後(特に小野田少尉後)、中野学校研究の第一人者として認められ、編者のような歴史研究者に貴重な情報を提供することになっていく。
  原著は、旧日本軍における情報戦の重要性認知(一部の幹部)から本校の設立が図られ、やがて戦場(あるいは敵国)に放たれ活躍し、終戦と伴にひっそり消えていく歴史を、数多くの聞き取りや・エピソードを交えながら語っていくのだが、週刊誌に連載するという性格上、どうしても歴史や社会を掘り下げるよりは“読み物”としてのウェートが高く、冗長で(他で聞いた話が多い;日露戦争の明石大佐、ゾルゲ事件、米国によるわが国外交暗号解読など)軽い感じ(戦争講談調)が否めない。私にとっては、各章ごとの保坂氏の短いコメントが、この種の本(歴史読み物)の内容検証に必要なことを教えてくれたことに意義があった(例えば、ある記載部分について「本書の内容に否定的な中野関係者も少なからず存在する」など)。

2)「国連運輸部鉄道課」の不思議な人々
 乗物(鉄道)が話題と期待して取り寄せたら、国際公務員の話であった。しかし、思いがけず、明石さんや緒方さんとは異なる中堅幹部の活躍(悲哀も多々あり)を身近に知る面白さがあった。
 著者は私と同じ年生まれ(1939年)、1963年旧国鉄に車両技術者として入社。若い頃から海外での仕事に憧れ、米国の鉄道近代化計画(オハイオ高速鉄道プロジェクト;住民投票で否決)でクリーブランドに長期滞在、そのとき国連運輸部鉄道課(ESCAP;Economic and Social Commission for Asia and Pacific;国連経済社会理事会の下の地域委員会;の中の一部門)と関わることがありそこへの勤務を打診される。しかし当時は国鉄再建計画の議論が始まった時期、すんなりとは決まらず、外務省を通じて正式依頼があった2年後、1984年7月ESCAPの在るバンコクに赴任、爾来6年間運輸部鉄道課長を務め、その後民営化のJR東海に戻り副社長の地位まで昇進している。この本は、そのESCAP勤務中の6年間を伴に過ごした後輩のエンジニアへの鎮魂(水難で著者帰国後死亡)の書として書かれたものである。従ってやや時代が古いのが難点と言えるが、冷戦時でありGPU(KGBとは別で軍の諜報機関)中佐と噂される同僚(課員)が居て、その独特の行動に触れるシーンなどもあり、古いことがマイナスにはなっていない。
 内容は、技術的なことも多々紹介されるが、それはあくまでも人間関係を語るための背景であり、主題ではない。彼を取り巻く役者は、先ず鉄道課のスタッフ(フランス人、ドイツ人、ロシア人、タイ人、日本人)、レポートラインの運輸部長(海運や道路、通信も所管)の南アジア人(どこの国出身かは最後までわからず)、地域委員会のトップであるESCAP事務局長(バングラディッシュ人)、レポートラインではないが著者の仕事に深く関わる開発計画部スタッフのユダヤ系アメリカ人、女性エコノミストのオーストリア人(余談だがオーストリアは鉄道保守機械では世界のトップに在る)、それに事務局長直轄の企画調整監察室の日本人チーフ(女性)などである。
 国連組織が種々雑多なメンバー;プロパー職員、著者のような各国の政府機関から送り込まれる出向者、専門職やコンサルタントとして勤務している人、プロジェクトごとに採用される期間スタッフ、ローカルの補助職;で構成されその処遇、昇進などもややこしいことが、この鉄道課の仕事を通じて紹介される。そこには他の組織では見られぬ“国連の常識”(例えばチョッとしたことでも文書にして意思疎通を図る;関係者が不在だとえらく時間がかかる)があり、著者を戸惑わせる。またスタッフは国益を離れ“世界のために貢献せよ”と言われているが、実態はその逆で、少しでも個人と自国の利益と面子を立てるような行動が陰に陽に行われている。
 日本人同士の不可解な争いもある。著者が企画し公式に認められた国際会議の資料を監察室室長の女性(15年を超す国連プロパー職員)が「予算が無い!」と印刷を認めない。どうやら後から来た著者がESCAP内で力を発揮してきたことに脅威を感じて邪魔をしているのだ。また、部長の不在時には必ず部長代行が任命されるのだが、後任の著者がそれに任命されると、先任のユダヤ系アメリカ人(これもプロパー)からクレームがついたりする。いずれのケースもプロパー職員にはそこにしか自分の生きる場所が無い、追い詰められた者の必死の足掻きを感じさせ、哀れを催す。
 やがて著者はこのポストで欠かせぬ人材になっていくのだが、帰任の時期がやってくる。それと合わさせるように、予算不足の国連は組織のリストラにかかり、運輸部は他の部と併合、運輸通信観光部と変わり、鉄道課も単独存続できなくなる。いまこのESCAP(鉄道以外も含め)に日本人はほとんど居らず、スタッフは中国・インド・韓国などが増えているようである。内向きを一層強める昨今、これからの日本はどうなっていくのであろうか?こんな思いを残した一冊であった。
追記;国連の職員採用基準は第一に語学、第二が専門知識、第三が人柄、世界銀行はその逆であるらしい。世界銀行の言い分は、入ってから修正・強化できないものの優先が高いのだという。“国連の常識”は世界の常識ではないのだ。

3)遥かなる未踏峰
 1924年6月8日、エヴェレスト(2万9千2フィート)に初登頂最終アタックをかけたマロリーの姿は消えた。遺体が発見されたのは1999年5月1日、2万6千7百60フィートの地点である。登頂したら山頂に置いてくると誓った妻の写真は紙入れに残っていなかった。果たしてマロリーは初登頂に成功したのか?
 マロリーのエヴェレスト登頂の話しを知ったのは遥かな少年時代、ヒラリー/テンジンの初登頂以前である。多分その頃とっていた“少年クラブ”に載っていたのだと思う。そこでの終わり方も初登頂成功をうかがわせるものだった。登山に格別関心の無い私にもマロリーの名前と挑戦は確り記憶に残っていた。爾来約60年、あの記憶を蘇えさせるべく本書を手にとることになった。現代の優れたストリーテラー、ジェフリー・アーチャーの最新作あることも購入の動機として大きい(とは言っても彼の本は今まで読んでいない)。
 ジョージ・リー・マロリーは牧師の長男として誕生、父の仕事柄裕福とはいえない家庭環境ながら、奨学金を得て名門パブリックスクール、ウィンチェスターからケンブリッジ大学に進み歴史を専攻、これも評価の高いパブリックスクールのチャーターハウス校の教師になる。登山家としての才能は早くから有しており、有名な逸話にケンブリッジ受験日遅刻し門が閉じられているので、高い塀を乗り越え何とか面接試験を受けることが出来るシーンや意中の女性(後の妻)の気を引くため、衆人環視の中ヴェネチアの鐘楼に登るも話もある。なかなか茶目っ気のある人物でもあるのだ。
 当時の登山はスポーツと言うより探検の性格が強く、エヴェレストへの登頂は極地探検・征服同様の、大掛かりな国家的プロジェクトとして取り組まれる。従ってメンバーの選定も地理学会と山岳会の権威者たちにより厳しく行われ、単に登山者としての力量だけでなく、出身校や職業、個人生活まで問われることになる。幸いマロリーは英国本国人、ケンブリッジ出身、教師と言う外的条件に加え登山者としての実績も充分あるので問題なく選ばれるのだが、彼のライバルとなるフィンチ(俳優ピーター・フィンチの父親)はオーストラリア人、オックスブリッジは出ておらず女性問題も抱えている。加えて高山での酸素ボンベ利用を公言していることから「アマチュアにあるまじき言動」と選考委員たちのおぼえが悪く、何とか彼を外そうと画策するが、マロリーの強い奨め(「彼を落とすなら私もやめる」)で第一回の遠征隊に加わることになる。結局登攀隊長はマロリーながら、最高位(2万7千8百50フィート)到達者はこのフィンチであった(3人の登攀隊員の一人がへばりマロリーは彼と伴に残る)。
 しかし、第二回遠征隊ではこのフィンチが第一回の実績を地理学会に無断で金儲けに利用していたことからメンバーから外される。このときもマロリーは強行にフィンチを押すが、政治的な力も加わりあきらめざるを得なくなる。この第二回目では最後の登攀隊員は若いオックスフォードの学生になるのだが、もしこの時フィンチが居たらどうなったか?二人で登頂に成功し生還していたのではないか?そんな余韻を残しながら(小説の最後はこの学生と登頂に成功、下山中に遭難する)物語はおわる。
 アルプスを含む登山シーンもふんだんに登場するし、主題はエヴェレスト征服にあるものの、山ばかりではなく、当時の英国社会のあり方(マロリーは教師なので徴兵対象外なのに欧州大戦に志願する;エリートと国家の危機。学会・山岳会などの階級意識)や国際関係(入山に際してチベットへ入国することになるが、その地が中国やロシアを含めて複雑な状況下にある)を知るという思いがけない収穫が多々あった。
蛇足:高空での人体医学について「弟は空軍のパイロットだが2万7千フィーとで人間の体がどうなるか知る者は無い」と言うくだりがあるが、これは実在したサー・トラフォード・リー・マロリー空軍大将で、この決断科学ノートでも何度か登場し、私の尊敬するダウディング大将と戦闘機戦術で激しく対決した人物である。

4)Patton-A Genius for War-
 アメリカ陸軍の軍人で、兵士そして大衆に最も知名度が高く、人気のあった将軍である(アイゼンハワーも大衆に人気があったが、それは連合軍司令官として勝利した後である。マッカーサーはその傲慢な姿勢で多くの人に嫌われた)。アメリカ機甲(戦車)軍育ての親としても有名(戦後の主力戦車はパットン戦車と命名される)で、そのことを調べるために大分前に本書を購入したのだが、900ページを超す大冊で今まで読むのが延び延びになっていた。
 物語は1770年代スコットランドからヴァージニアに入植した祖先の話から始まる。本書の主役、ジョージ・パットン・Jrは初代から数えて5代目に当たるのだから長い話である。しかし、その南軍につながるヴァージニアが在って、のちのパットンJrが理解できる点でこの前史は欠かせない。祖父は南北戦争に南軍の士官として従軍し戦死、そのために祖母は親戚を頼り幼い子供(父やその妹)を連れてカリフォルニアに移り住む。従ってパットンJrはカリフォルニア生まれだが、南部(南軍)の血を色濃く受け継いでいる。つまりある種の南部気質・貴族趣味を身につけている。祖父・父・本人はいずれもVMI(Virginia Military Institute;南軍のウェストポイントと称せられる、軍隊式教育システムを採る私立大学;一般教育も行うが軍人になるものの比率が高い。第二次世界大戦時の陸軍参謀総長マーシャル元帥も同校卒業生)で学んでおり(Jrは途中で退学、ウェストポイントに入学・卒業する)、母も西部開拓史に名を残す成功者の娘、典型的なエリート階級として乗馬や射撃なども日常生活の中にある。それもありストックホルム・オリンピックでは近代五種の選手として、ほとんど準備もせず参加、入賞している。
 士官学校卒業後騎兵科将校となるが結婚相手がボストンの名家出身で裕福なこともあり、薄給の軍人になっても経済的には苦労せず、ポロ競技などに熱中、貧農出身のアイゼンハワー(アイク)とは好対照の生活を送っている(アイクは後輩で歩兵)。この騎兵としての経歴がやがて機甲兵科の黎明期に生かされ、“生みの親・育ての親”と称せられるようになるのだが、その分野の先駆者、グーデリアン(独)、フラー(英)やリデル・ハート(英)ほど強烈な指導力・主張を感じられなかったのは意外であった。つまり当初彼の考え方は独立軍種ではなく歩兵支援の域を出ていないのである。
 読んでいくに従い、その名声が第二次世界大戦に参戦し軍団・軍司令官として兵士と伴に突進する彼の戦闘指導・指揮に由来することが解ってくる。思索家ではなく当に兵士なのである。その点でロンメル(歩兵出身)との対比が最も的を射ていると言っていいだろう。
 実はこの本が面白くなってくるのは、米軍が北アフリカに上陸しチュニジア、シシリー、ノルマンジーと作戦を展開しいく過程での将軍たちの争いにある。
 アイクは、チャーチルの老獪な策で名目上の連合軍司令官に据えられているが、英陸軍首脳は当初米陸軍をほとんど素人集団とみなし英国の指揮の下に置こうとする。米軍側の不満は募り英国側に譲歩を重ねるアイクに批判が高まる。パットンはこのような政治的論争に加わることは好まず、後輩のアイクの下に就いてもあまり不満を言わず、ひたすら戦場と戦果(そして個人の名声)を求めて断を下し行動する。兵士には頼もしいリーダーに見えるが、ブラッドレーのような知将には我慢できない。
 勇将のパットンに弱卒は許せない。シシリーで起こした、砲撃神経症の傷病兵二人を「臆病者!直ぐに退院しろ!」とどなり、手袋で殴るシーンは映画「パットン」でも山場となるが、実人生でもこれが一つの変曲点になる。部下だったブラドレーはその後軍団長、更には軍司令官へと出世するのに彼は身柄をアイクに預けることになる。しかし、マーシャルもアイクも彼を本国送りにはせず、政治家やマスコミから守る。それは大軍の一線指揮官として余人を持って変え難い力を持っているからなのだ(兵士と伴に常に一線に在り督戦する)。後の高い評価につながる機甲兵力利用はノルマンジー以降で、その突進力は目覚しく、バルジ作戦では素早い方向転換で友軍の窮地を救い、反す刀でドイツ南部を席巻、何とチェコスロバキアまで至る。ドイツ軍に最も恐れられ、彼が何処に居るのかが最大関心事の一つであった。
 彼を有名にしたいくつかの資質;強靭な闘争心・力強いリーダーシップ・自己顕示欲などと同じように語られるのが、幾多の舌下事件である。彼の最後は大将に昇進しながら、戦後ババリア地方の軍政長官をしているとき「次の戦いはロシアと行うことになるかもしれない。そのためにはナチスを活用することも考える」と記者会見で語ったことである(ある意味先見性に富んでいる)。アイクもこれを庇うことは出来ず、ついに退役を告げる。
 12月9日、英国を経て帰国する前日、傷心したパットンを元の部下が雉撃ちに誘う。晴天だが厳寒のドイツ、大将旗を翻すキャディラックは突然眼前を左折した米軍トラックと衝突、頸から下が不随となったパットンは時に妻や医者・看護婦に冗談も言いながら、21日還らぬ人となる。遺骸は当時の米軍規定(戦死者の場合;兵士をその地に置いて指揮官だけが帰ることは許さない)により本国送還とはならず、激戦地アルデンヌ近く(ルクセンブルク)の米軍墓地に埋葬された。墓標は一般兵士と同じである。
 著者は元陸軍中佐の戦史家、米軍幹部教育機関で戦史を講じてもいる。著者が前書きで述べている本書執筆の動機は、一般に流布しているパットン像が、1970年ジョージ・C・スコットが演じてアカデミー主演賞を獲った映画「パットン」の印象があまりに強く、それが実像と思われていることに疑問を持ち“Who was George S .Patton?”を探ることにあったと言う。そのために、彼の日記(彼はDyslexia;難読症;知的能力・一般的な理解力に異常は無いが、文字の読み書き学習に著しい困難を伴う;であったため、日記や手紙の判読には膨大な時間を要した)、家族(主に妻)や知人との往復書簡、関係者の伝記、軍の記録など広範な調査を行い、本書を表すことになった。従って全体で977ページの内、参考・引用資料だけで130ページある相当力の入った伝記となっている。

5)「満州帝国」がよくわかる本
 水泳仲間の一人が満洲生まれ・育ちの私にと薦めてくれた本である。著者は太平洋戦争研究会と言う団体で「よくわかる」シリーズを何冊か出しているようである。ただ、この本は一人の著者(1942年生まれ)で書かれている。著者が私より若いことから、実体験は全く無く、書籍等を参考に書かれたものであろう。戦後教育だけでこの世界を理解するのは身辺に冷徹な体験者がいないと偏向する恐れもあるが、概ね客観的に書かれているように思う。
 章立て・内容とも割りと良く出来ているが、やや話に重複が多く(若年者向けだからか)全体的な時間関係を把握し難くしているのが不満だ。
 私にとって価値があったのは、中国側(満洲軍閥以外の)のこの間の動きやその背景、また北伐(南京以南にいた蒋介石の国民党軍が華北の軍閥を征伐する戦い)における欧米諸国の行動とそれに対する日本政府の動きを解説しているところであった。特に英仏は既得権(租界)を守るために日本に劣らず強攻策に出ており、日本に向けて“義和団”事件のように共同作戦を働きかけていたが、幣原外交はこれをはねつけている点である。もし、この考え方が大勢になっていれば、別の満洲問題解決案があったことも考えられる。とはいってもこの外交政策を“弱腰外交”と非難したのは軍ばかりでなく国民の多くであったわけだからやはり歴史通りの道を歩むことになったのだろう。
 章題のつけ方やルビが多くふられていることから、多分読者対象は今の若い人(中学生や高校生を含む)であろう。しかし、日本近代史を理解するためには必須のテーマ(結局、太平洋戦争への道は満洲の存在が出発点であり、今日の東アジアでの日本の立場を在らしめている)だが、現在どれだけの若者が“満洲”に関心を持つだろうか?
(写真はクリックすると拡大します)

0 件のコメント: