道内二泊目の宿泊地に網走を選んだポイントは、オホーツクと距離だった。何度か触れたように、計画上時間的にこの日の行程が一番きつく、観光は富良野周辺だけであとはひたすら走り、暗くなる前にホテルにチェックインし、夕食を海の幸で仕上げられれば良しと思っていた。観光スポットは冬のシーズン流氷が有名だが、夏はこれといった所は無い。気になっていたのは“博物館網走監獄”だが閉館時間が5時なのであきらめていた。
しかし、花人街道は期待外れだったものの、それ以降の道路事情は本州では考えられぬくらい走り易く、予定経路とは異なるルートを走ることになったにもかかわらず、サロマ湖畔を2時過ぎには発てるほど順調だった。Webのソフト、NAVITIMEが予想した9時間はいったい何だったんだろう?直感的に「こんなにかかるはずは無い」と思っていたが、その直感が正しかったのだ。嬉しい誤算である。サロマ湖畔の小さな駐車場で次の目的地を“監獄”にセットした。
238号線が西から網走市内に入る手前で北見方面から来る39号線と交わる。その39号線を北見に向かい南下、しばらく行くと“監獄”への分岐路が現れる。広い駐車場に着いたのはほぼ3時、見学の時間は充分だ。
網走監獄は明治23年(1890年)開設。爾後主として国事(政治)犯を収容し、服役者は北海道開拓(特に道路開削)の先兵を演じてきた。映画「網走番外地」では殺人などの凶悪犯を隔離する場所のイメージが強いが、実態とは異なるようだ。つまりインテリが多かったのだ(肉体労働の経験者は少なく、身体があまり頑強でない)。
この博物館が在る場所は本来の所在地ではなく、オリジナルの(現在の網走刑務所;所在地は238号線と39号線交差点近く)建替え時(1984年)ここへ移設・復元されたものである。したがって建物の主要なものはそのままだが、プロットは丘陵地の斜面にかなりコンパクトに詰められているので、移動距離が短く見学には便利だが、全体としては“監獄”の凄みを感じさせない。
しかし、網走川にかかり娑婆と監獄を分けていた橋(鏡橋)、正門(赤レンガ門;写真左上)、明治29年に作られた木造の五翼放射状平屋舎房(中心点から5棟の房が放射状に配置される;一般服役者;雑居房、独房;写真右上)、規則違反者を閉じ込めるレンガ造りの独居房(窓が無く扉を閉めと完全な暗黒になる;写真左下)、庁舎などは往時の姿をそのまま保存してある。また長期の使役に出る場合の仮設宿泊所や風呂場などが再現構築され、オレンジ色の囚人服を着た等身大のリアルな人形が置かれ、臨場感を醸し出している。
元の監獄の所在地は網走市内の西の外れ、網走湖に近い荒野の中。冬のブリザードが吹き荒れる季節、木造獄舎の寒さは半端ではない。暖房は一棟にストーブ一つ、通路に横長の煙突が走るだけ、徳田球一(元日本共産党書記長)の手記はその耐え難い厳しさを連綿と綴っている。
五翼放射状平屋舎房の中心には看守が詰めるようになっているが、今はガイドのオジサンがいる。ここを脱走して東京まで逃げた囚人の話をしてくれたが、その囚人は常習犯で、以前服役した府中刑務所の旧知の看守の下を訪れ、如何に網走監獄が酷いところかを訴えたのだと言う。本人はその訴えをして自首、監獄の処遇改善が図られたとのことであった。やはり網走は他の刑務所とは違うのだ。
開設前の網走の人口は631人、そこへ1200人の囚人と173人の看守が移ってきたのだから、この街が“番外地”として有名になり、今日に至るのは当然と言える。 予定外で、この地で見るべきものを見ることができた。
(次回予定;小清水原生花園)
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