2011年12月3日土曜日

今月の本棚-39(20011年11月分)


<今月読んだ本>
                              
1)ねじれの国、日本(堀井憲一郎);新潮社(新書)
2)評伝 ジョージ・ケナン(ジョン・ルカーチ);法政大学出版局
3)スティーブ・ジョブズ(上、下)(ウォルター・アイザックソン);講談社
4)パンドラ抹殺文書(マイケル・バ=ゾウハー);早川書房(文庫)
5)オックスフォード古書修行(中島俊郎);NTT出版


 コメントのコンロトロールが不調のため、メールでいただいたコメントを末尾に添付しています。

<愚評昧説>
1)ねじれの国、日本
“ねじれ”と言っても衆参議院や中央政府と地方自治体間のねじれではない。日本と他国との関係においてである。日本そして日本人は自らこうであり、こうありたいと思う姿と、他国に向かって日本とはこういう国だ、と言う点にねじれがあると言う論である。このねじれを、建国記念日制定や天皇家の歴史的存在意義あるいは神道の体系化などの過程を通して、極めて素朴な視点から問い質してゆく、ユニークな日本論・国際関係論である。
建国記念日を決めたのは無論明治政府だが、それまではその概念すら無かった(神武天皇即位と言う神話はあったが、その日にちは特定されていなかった;日本書紀に“辛酉年正月春”と記されているだけ)。それで問題なく日本は長くやってこられた。しかし、明治になり外国に向けて国と言う体裁を整えるためにそれが必要と考え、神話上の即位年の11日を建国の日とし、西洋暦に換算して211日と定めたのである。革命や戦争の勝利によって国体が確立したのではないので、どうしてもこの日にちに馴染めないまま今日に至っている。
天皇を外国人は“王あるいは皇帝”と同等と見ようとするが(訳すとそううなるので)、日本人には違和感がある。そのポイントは政治権力の有無にある。明治憲法下では形式的に最終決定者として天皇の権限が明らかになっているが(この悪しき利用例が統帥権の軍による乱用)、自ら権力を行使しようとしたことは無かった。つまり位階を与える権限は持つものの、政治権力は持ったことが無かったのである。従って新憲法下で国家・国民の“象徴”と明記されるが、有史以来象徴(一つにまとめる・まとまると言う点で重要な役割を果たしてきた;この“まとまり”が周辺国には羨ましくもあり脅威でもあるのだ)であったのだから敢えてそう記す必要もないのに、外国(憲法発布時は戦勝国)を意識して現在の条文が出来上がった。
いずれの例も、もし外国の存在が無ければ(在ったとしても関係が希薄であれば)、日本古来のやり方や表現で自然に存在しえたものが、外国を意識することにより無理矢理作り上げられ、納得できないまま一人歩きし、やがてはこれに自縄自縛になっているのが現在の日本だと言うのが著者の見方である。
四界海に囲まれ外敵の侵入も無く、気候温暖で住み易い環境は「仲間内の総意で何となくことが決するスタイルがとても安心できる」(覇を競わない)社会を作り、あまり政治的人材が育たない環境を醸成し、外交下手もここから来ているとの見立てである(この論はしばしば見られるが、対内外向け言動の“ねじれ”と捉えるところに独自性がある)。この国民感情を人に例えれば「私のことはかまわないで!でも無視もしないでね!」と言うような人間で、あまり周りの人から歓迎される性向ではない。確かになるほどと思わせる論評である。
ではこれからのグローバル競争激化一途の世界、日本はどうあるべきか?この点は“経済ばかりに重きを置く社会に問題あり”とする著者の考えに基づいて展開されるので(ある種の鎖国政策など)、違和感を覚える読者も多いのではなかろうか。
著者はフリーライター(週刊文春などへの寄稿者)で、落語や漫画に造詣が深く、堅い内容を面白おかしく、漫談ように語っていくので気楽に読め、将来について悲観的にならない点が良い。

2)評伝 ジョージ・ケナン
ジョージ・ケナンは、冷戦構造下の「封じ込め」政策の提唱者である米国の職業外交官。その帰結であるソ連の崩壊を見届け、近年の米国外交を論評しながら101歳の天寿を全うし、2005年に亡くなった。本書はその考え方の生み出される背景とそこに至る彼の言動を綴ったものである。原題は「George KennanA Study of Character」、訳者は文中でこの“Character”をしばしば“性格”と訳しているが、これでは誤解を生じやすい(人格形成に触れる部分はあるが)。邦題で“評伝”としているのは適切である。
著者のルカーチは歴史学者で近代ヨーロッパの外交史・戦史に詳しく、作家としても優れ著作を多数出版している(「ヒトラー対チャーチル」「Five Days in London, May 1940;ドイツの西方電撃戦とチャーチルの登場が主題」は既読)。共産化するハンガリーを逃れて米国に移住した人であるから「封じ込め」政策とも無縁ではない。ケナンとルカーチは生前交流があり、その点でも最適な人が書いた作品と言える。
ケナン家の出自はスコットランド系、祖父は弁護士、父親は比較税制の専門家、1904年ミルウォーキーで誕生するが直ぐに母が亡くなる。父は後妻をもらうがこの継母とは折り合いが悪く、孤独を好む自立心の強い子供として育っていく。
米国には今でも“外務省”は無く国務省がその役割を担っている。その国務省に外交局が創設されるのは1924年、プリンストンを1925年に卒業したケナンは職業外交官一期生試験に合格する。遅れて国際社会に参加したわが国でさえ19世紀末には外務省があり、高等文官制度に外交官が含まれていることから、この“一期生”には驚かされた。
父の仕事の関係で少年時代ドイツに滞在しことがあり、ドイツ語に関心が高く、優れていた。最初の任地はジュネーヴであったがやがてハンブルク副領事に転ずる。この時若い外交官の研修制度を利用してベルリン大学でロシア研究(ロシア語習得を含む)に励んだこと(革命以降のソ連と米国との間に正式の国交も無く簡単に入れなかった;実地研修は旧ロシア領だったラトヴィア、エストニアで行っている)が、その後の運命を決めることになる。この研究を通じて、ソ連の本質は共産主義から来るものではなく、“伝統的なロシアの特質(外部世界に対する猜疑心と恐怖感)”から来ていると喝破している。
1933年米ソが国交を結ぶとモスクワ駐在となる。その後4年間滞在するが、折しも1934年からあの大粛清が始まり、彼の分析が正しかったことを裏付けていく(反体制者の流刑・処刑はそれまでの歴史で連綿と続いていた)。この時代自らのロシア体験と米国側のロシア観(ほとんど無知に近い)も含め、ケナンは米ソ関係の先行きが暗いと予想するようになっていく。そんな彼の周辺で第二次世界大戦への足音が高まり、ミュンヘン会談時はプラハ駐在、ポーランド侵攻時はベルリン駐在と、歴史的事件の現場にいつも在った。そして1944年再びモスクワ駐在となり、ハリマン大使の右腕となり影響力を及ぼしていく(ソ連の野心を見透しその危険を訴える)。
やがて終戦、1946年モスクワから米国の対ソ政策転換を促す長文の電報をワシントンに送る。これがチャーチルの「鉄のカーテン」演説、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プランへとつながり、さらに彼のX論文「ソヴィエトの行動の根源」としてまとめられ、「封じ込め」政策に結実していく。
1952年ついに駐ソ大使に任命される。米ソ関係が最悪の時期である。極端に制約されたモスクワ生活のいらいらをロンドン出張時メディアに語り、これがソ連の不興を買い、本国召還の憂き目に会う。公的身分としてはこれが頂点で、その後ケネディ政権下で駐ユーゴスラヴィア大使を務める期間を除き、学究の徒として専ら講演や著作に費やす日々となる。筆を置いたのは100歳の時で、残された膨大な著作(日記を含む)は、後世の伝記作家を大いに悩ますことになるだろうと本書の著者が心配するほどである。
ケナンの外交観には米国伝統の孤立主義(保守主義)の色が濃いように見える。特に軍事行動を海外で行うことに懐疑的である。参戦に逸るルーズヴェルトの考え方に批判的であったし、「封じ込め」政策も軍事的なものでなく政治的な面を重視すべきと主張している。従って米国のNATO参加にも反対であった。一方で自身情報収集・分析には熱心で、その延長線で諜報活動には関心が高かった。CIAの誕生には一役買うことになるが、後のCIAが軍事工作機関に転じて行ったことには失望している。
軍事対決を避ける主張は、マッカーシズムが吹き荒れた時期には共産主義同調者と見られるところもあった。アイゼンハワーですらマッカーシー批判できなかった時代、それに敢然と立ち向かい、その異常性を説いたように、事象の本質に迫る調査・分析力を基に大勢におもねず自説を開陳する、気骨のある気質が超一級の外交官を作り上げたに違いない。この本を読んで現在のアメリカ外交が浅薄に見えて仕方が無い。

3)スティーブ・ジョブズ
(全く関係ないが)105日、二人目の孫が生まれた。この日にスティーブ・ジョブズが死んだ。長く情報技術・サービスに携わった者の一人として、また初期のマックユーザーとして(私有PCの初めの2台;初代はジョブズが製品開発に関わったもの、二代目は彼がアップルを追放された後の製品、ソフトはともかくハードの“美しさ(洗練された無駄の無さ)”は雲泥の差)、彼の死は特別なものだった(ビル・ゲーツを除けば、現存するいかなる政治家・科学者・経済人が死んでも、このときほど頭を駆け巡ることが多いことは無いだろう)。この本(日本語版)の発行日は1024日(世界同時発売)。その死を待っていたような、タイミングにえげつない商魂を強く感じ鼻白んだ。ほとぼりが冷めたころ、評価を見定めてから買うかどうか決めよう。そう思っていたところへ本欄の閲覧者から本書を是非取り上げて欲しいとのメールをいただいた。いずれ買うことになるだろうとの思いもあったので、取り寄せた。
とにかく厚い(上下2巻で900ページ弱)。誕生秘話(ある種の捨て子)からその死まで56年間を数々のエピソードでつないでいく。下巻の帯に“公式伝記”とあるのはジョブズ自身が著者にそれを依頼したことにある。最初は2004年、この時は著者が「まだ早い」とことわっている。二度目は2009年、その死を予測してのことである。著者は元ジャーナリスト、一時期CNNCEOなども務め、後に伝記作家に転じ「ベンジャミン・フランクリン」「アインシュタイン」などの作品がある。ジョブズの依頼もこれら前作の名声が切っ掛けとなっている。
材料は何と言ってもジョブズ自身の語りが多いが、その家族(妻と息子一人、娘二人)、生まれたばかりの彼を養子に出す未婚の母(中西部育ちの典型的なアメリカ人家庭出身、父親はシリアからの留学生、後に二人は正式に結婚し、離婚する)とその後に生まれた妹、認知問題でもめる最初の子供(娘)とその母親(この人も未婚;ジョブズは自身がされたことを繰り返す結果になる)、養父母(学歴は低かったが、堅実で信義に厚い人たち;父親の機械いじりに子供のジョブズが惹かれ、その後の彼の生き方に繋がっていく)の周辺など身近なところから始まり、学生時代・放浪時代(インドでの瞑想修行や共同体での生活;ここでりんご栽培をしたことが社名につながる)の仲間、事業を進める過程で出会う数々の仕事仲間や競争者(当然ビル・ゲーツも出てくる;製品開発者として高い評価をしているが、電子回路も理解できずプログラムも書けないジョブズを一段低く見ていた)から大統領(オバマ大統領に「今のままでは二期目はありませんよ」などと語ったようだ)まで多岐に及び、聴き取りは膨大な量になる。ジョブズは自分に都合の良くない人々にも積極的に会うよう勧め、紹介の労をとたりして協力しているので、取材源の中立性は保たれている。
読後感をまとめると「面白かった。しかし山場(複数期待した)が無かった」と言うところである。特に関心があったのは、自ら作ったアップルを追われ、再び復帰してiMac iPod iPhone iPadと次々にヒット商品を送り出し、時価評価額世界一の会社に再生するジョブズのそれ以前との違いにあった。印象として「結局ジョブズは何も変わらなかった」との思いが残るだけだった(そんなはずはないと思うのだが)。評伝と伝記の違いがあるので単純に対比できないが、ケナンが“その依ってきたる所以”を絞り込んで読者に示してくれたあとだけにやや不満が残った。
考えるに、これは発売のタイミングにあったのではなかろうか?ふんだんにある材料を充分煮詰める段階を踏まず、「今が売り時!」と素のままで出してしまった。そんな気がしてならない。保存したくなるようなものではないので、直ぐに大量の古本がマーケットにあらわれるだろう。それから読んでも遅くない。

4)パンドラ抹殺文書
本欄でも何冊か紹介したサスペンス作家、バー=ゾウハー(ブルガリア生まれのユダヤ人、ナチスに追われイスラエルに移住)の作品である。オリジナルの出版は1980年、まだ冷戦たけなわの時代である。テーマは米(CIA)ソ(KGB)対立。
KGB上層部に潜り込ませたCIAの二重スパイが発覚しそうになる。その鍵は英ロ間で交わされた古い外交文書にある。保存場所はロンドン公立記録保管所。KBGの工作員がその閲覧を求めるが、司書の手違いで若い英人学徒とそのフランス人の恋人の手に渡る。一方CIAもこの文書の回収にかかる。三すくみの古文書争奪合戦が英国、ソ連、米国、フランスを舞台に、殺人事件なども絡めて展開する。結末も見えたと思う終盤、突然のどんでん返し。お見事!と言うしかなかった。バー=ゾウハー面目躍如の一品である。

5)オックスフォード古書修行
最近は日本の大学でもサバティカル(Sabbatical)休暇を取れるところが多くなってきている。これはある一定期間(著者の場合は10年)務めると1年間の研究休暇を取得できる制度で、欧米では早くから行われていた。いわばリフレッシュ休暇なので、研究対象は日常の研究・授業で行っていることからややわき道に入った分野(場合によって飛び地)が望ましいとされている。著者は英米文学の専門家、今回二度目となるこの休暇で選んだテーマは“古書探訪”である。それも古書を調べるのではなく、古書を探し求める行為を研究(?)することにした。古本屋を巡り掘り出し物を漁る、オークションに参加するなどがその主な活動である。場所はオックスフォード。ここのカレッジに所属しながらそれを行うのだ。本好きには堪らぬ世界であることは容易に想像がつく。
本業が英文学であるから、当然その分野で価値のある書籍を探すには古書店巡りは欠かせない。どこの店にはどんな作品があるか?値付けはどのようにおこなわれているか?値決めの駆け引きは?これら全てが研究課題ともいえる。
オークションへの参加は当に戦場に赴く風である。オークション方式、参加資格(基本的に誰でも参加できる)、事前の下見と応札計画、オークショナーとの間合いのとりかたや競合応札者との戦い。こうして見ると学ぶことは多い。
対象となるのは、堅い本ばかりではなく19世紀の婦人雑誌(これを持ち帰って学生と実際に服を仕立ててみたりする。当時の体型が分かる)や古い湖水地帯の写真付ガイドブックだったり(かの地に住んだワーズワースの詩をあしらったもの)、自転車の発達史だったりする(国内の雑誌社からの執筆依頼)。
これらの話を、個々の話題に研究内容、英国文化や日常生活を交えながらエッセイとして読ませ、かつ全体として英国滞在記にまとめ上げている。知的な世界を気楽に味わえた読後感が心地よい。

コラム「読後感の後感」
先月の「CIA秘録」から今月最後の「オックスフォード古書修行」まで、読後感を書きなら、ときどき考え方が集中できなくなることがあった。他の本の内容が突然紛れ込んできてしまうのだ。“ケナン”を書いていると“CIA”が気になったり、また“ねじれの国”の一部が飛び込んできてしまう。CIAの設立にケナンが関わったことや、米ソ対立の構図がオーバーラップし、日本の外交下手が米国のそれと共通因子(孤立主義と鎖国政策)でつながったりする。
“ジョブズ”の伝記と“ケナン”の評伝ではそのまとめ方の違いが気になって仕方が無かった(本来の狙いが違うので当然なのだが)。内容の濃さなど嫌でも比較してしまう。
“パンドラ”は読み始めるときから“CIA”を読んだ後ではどうしても影響は受けると覚悟していたが、その通りだった。“CIA”では、現実には相手組織の上層部へ二重スパイを送り込む悲願は達成できなかったとしているが“パンドラ”ではその人物が重要な役回りを果たす。
その“パンドラ”と“古書修行”も意外なところで関係してくる。事件の発端となる公立記録保管所(Public Record Office)は当に古文書庫である。現在のオックスフォード大学図書館は、一般利用者用(メイン)、学部生用(ラドクリフ)、研究者用(ニュー)の三棟から構成されるが、その巨大な共通書庫は地下にあり、迷路のようになって各棟につながっている。読者が求める本は司書(ライブラリアン)によってこの地下書庫から供されるのである。これを知ったとき、直前に読んだ“パンドラ”で司書が間違いを犯す場面が直ぐに浮かんできた。これで先月からの本は全て赤い糸で繋がったのである。
そこでフッと思ったことは、「順序が違っていたら読後感も違うのではないか?」との疑問である。しかし、これを試すことは出来ない。もう一つは、孤立主義と鎖国政策をキーにして「日・米外交の共通性」と言うような研究が出来るのではないかと言う考えである。学者のユニークな発想はヒョッとしてこんな一見関係の無い書物を数多く読むうちに突然生ずるのではないかとも思ったりした。
今月は新たな読書の楽しみ発見の月となった。やはり“読書の秋”ですね。
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<閲覧者コメント>

ねじれの国日本・・・
此の手の本というか、大多数の日本論は、日本は外的の脅威がなく、のんびり穏やかにやってきた、おだやかDNAの国と決めつけていますが、そういった国が250年の実質的な非武装中立の鎖国をやめて約20年後に中国、約40年後にロシア、約80年後に米英を相手に戦うといった
事実を、これで説明できるでしょうか・・・。
また、1970年代後半からの欧米諸国を相手に回したすさまじい海外マーケット侵攻・・・。
どうも、日本人なる存在をなめているような気が・・・。


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