2012年10月8日月曜日

決断科学ノート-116(メインフレームを替える-10;スパイ事件後日談)



スパイ事件の逮捕理由は“盗品移送共謀罪”と言うもので、手にした資料が盗品だったことでこの罪が着せられるのだが、裁判の過程で日立はこれが盗品であることを知らなかったことが証明され、刑事罰としては罰金刑で済んだ。また民事事件としてIBMが損害賠償を求めていた裁判も、「日立はこの段階では利益を得ていなかった」として翌年10月和解に達している。ただし条件として5年間(1988年まで)IBMはメインフレーム(MF)の該当OS、インターフェースソフト製品の情報を供与するとともに、事前に検査することが出来、類似部分に対価を求められることになった。
IBMの、互換機ビジネス阻止最大の標的が富士通(とその傘下にあるアムダール、販売提携関係にあるシーメンス)だったことは前回述べたが、それを察知した富士通は事件前からIBMと秘密裏に交渉しており、事件後19837月に日立同様の契約が結ばれたことが明らかになる。この微妙な時期、東燃グループの次のMFシステム選択検討が進んでおり、富士通の日本語システムが高い評価を得ていたことから、これは検討メンバーを安堵させるニュースであった。
ここで時間は1986年春に飛ぶ。1983年末次期システムとしてFACOM R-380(Mシリーズの流れを汲む)が導入され、19857月には情報サービス会社、システムプラザ(SPIN)が設立さる。情報システム部(主管役員が副社長から常務になったため、室から部に変わった)のほとんどのメンバーはここに移籍(出向)。社長は技術・購買・情報システムを管掌する本社常務のMKNさんだが、実質的に経営の差配をしていたのは、情報システム部長から取締役に転じていたMTKさんである。役員と営業部(私は営業だった)だけは一階の小さなオフィスに居を構えていた。
そこへ突然富士通のMTG専務が一人でMTKさんを訪ねてこられた。無論二人の間では事前に会う約束は出来ていたようである。情報サービス会社としての日常のお付き合いなら、営業本部かシステム本部の役員と接するのが普通なので、やや意外だった。それも誰もスタッフも連れずにである。二人だけ小会議室に入り1時間位話が続いた(因みに、終戦時二人は海軍兵学校生徒でMTGさんが先輩である)。
数日後MTKさんが「チョッと話したいことがある」と会議室に呼ばれた。そこでの話は「MTGさん来訪の話は、MF互換機のソフト検査中立機関の責任者として、自分を推薦したいと言うことなんだ。新会社をスタートさせたばかりで迷ったが、富士通・IBMの双方が見え、経営に近いところと接触できるので、プラスになると思うので受けようと思うんだが・・・」と言うことであった。更に詳しく聞けば、英語力とIBM・富士通両社のMFに精通していることが条件なのだという。MTKさんのいない新会社に不安は残ったが、一方で本来社長でもおかしくない経験と力量を持つにもかかわらず、一取締役に甘んじていることを慮り、賛意を表明した。
その後確実に外国人(多分IBM)による面接が行われたことは間違いないのだが。結局新しい仕事に就くことはなかった。理由が何だったのかその時点では分らなかったが、これが影響したのではないか?と思われる記事が後(1988年)にメディア(確か日経コンピュータ)に載る。実は例の協定が成立後、IBMは日立と富士通に立ち入り検査を行い、協定違反があるとし違約金の支払いを求める。しかし、富士通はインターフェースは同じ仕様だがOS本体は別物と主張、これが米国の仲裁協会の取り上げるところとなり最終裁定が出るまで長い時間(1988年)がかかっていたのだと言う。MTKさんに話があったのはこの係争のさ中であったわけで、これではソフト検査代理人を富士通が推す人物にはすんなり決まることは難しかったろう。スパイ事件の余波が身近にあった後日談である。

(次回;異なる社内組織文化)

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