<今月読んだ本>
1) 歴史をつかむ技法(山本博文);新潮社(新書)
2) ウォール街の物理学者(ジェイムズ・オーウェン・ウェザーオール);早川書房
3) 甦ったスパイ(チャールズ・カミング);早川書房(文庫)
4) 読書について(小林秀雄);中央公論新社
5) 新大陸主義(ケント・E・カルダー);潮出版社
6) 正義の偽装(佐伯啓思);新潮社(新書)
<愚評昧説>
1)歴史をつかむ技法
日本史を初めて学んだのは中学2年生の時だった。社会科の一部としてである。やっと日本も独立を回復、その授業が許されたのだ。先生も大学出たての人で張り切っていたから面白かった。爾来歴史は最も好きな科目になったし成績も良かった。高校に入ると世界史を選択した(1年生は一般社会が必須で選択科目は2年生から)。東洋史と西洋史はそれぞれ専門の先生から教えられ、当に“世界が解った感”を持った。この当時買った大学受験と関係ない書物は圧倒的に世界史に関するものが多い。これらを通じてやがて“史観”と言うフィルターを知る(高校時代に“マルクス唯物史観”を知った)。歴史を学ぶときには、書かれた時代・社会と著者・編者に注意しろ!特に歴史小説は歴史ではない!と言うことを意識して歴史関連書物を読むようになる。
ただここまでの段階では過去の出来事を“知る”ところまでで、ここで知ったことを“どうこれからに生かしていくか”を体得するまでには至っていない。
“暗記物”と揶揄され敬遠・軽蔑される因はここにある。本書が書かれた目的は、この“暗記物”を脱し、“歴史に学ぶ”をモノにするための歴史の学び方「歴史的思考力」を培うところにある。つまり歴史を学ぶ上で必要な「考え方」「見方」を、日本史全般を通じて理解させるとことにある。
先ず歴史用語を取り上げて、歴史を学ぶ上での注意点を述べる。例えば、「本能寺の変」「応仁の乱」、一般に“乱”は軍事蜂起を伴う天皇(国家)への反抗であるのに対して、“変”はときの政府の転覆工作と解釈される。しかしその後の研究で実態とそぐわないものが出てきているのにそのまま事件名が残ると学ぶ者に予断を与え、正しい歴史解釈が損なわれる可能性が出てくる。“幕府”とは本来何を意味し、いつごろから使われるようになったか、“将軍”などと日常言っていたのか、万世一系の“天皇”はそれぞれの時代どのような敬称が使われたか、
“藩”は江戸時代使われていない、など極めて基本的な用語に正しい歴史認識のカギが潜んでいることを説明する。次いで当時の社会通念(その時代のルール)理解の重要性、複数の資料がある時の判断の仕方などへと歴史学の深奥に分け入っていく。この過程では、歴史学と歴史小説の違い、さらには歴史小説と時代小説の違い(歴史小説は実在の人物を用い比較的史実に忠実に描かれるもの、時代小説は架空の人物の架空の話)など辛気臭い学問の世界からちょっと離れて、吉川英治、池波正太郎、藤沢周平、司馬遼太郎などの作品や作風が援用される。
基礎が一応片付くといよいよ歴史から“学ぶ”フェーズに入る。論点は歴史に“法則”はあるか、歴史は“進歩”しているのか、である。前史(原始)→古代→中世→近世(日本史独特の時代区分)→近代→現代を辿って歴史を学ぶと、一見いかにも人類社会が時代とともに進歩しているように見えるが本当にそうなのだろうか?またこの発展段階説はどの社会(国家・民族・文化圏など)にも共通する法則性・一定の方向性のあるものなのだろうか?と問う。ここでクローズアップされるのは、偶発的な出来事にあとから歴史がストーリーを与えたとする“偶発史観”と進歩史観(マルクス史観)で、著者は極端な偶発論にもマルクス進歩史観にも批判を加えているが、“法則性”の存在には否定的ながら「偶然に見える個々の歴史的な事件にも、それぞれの時代に一貫した動因や要因がある」との立場に立ち、ここに“歴史から学ぶ”ところが有るとする。
つかみ方、学ぶことの概要を整理した後は日本史の流れの中で、具体的な事件(天皇家の血筋争いなど)や諸説(邪馬台国論争など)を取り上げながら歴史の見方・考え方を個別に深堀して、「歴史的思考力」を体得させる、言わば演習を行っていく(この部分では、個々の課題の最新研究状況や通説の見直しなどが披瀝され、“日本史再考”のよい動機づけとなる)。
日本史、世界史、戦史、社会史、文化史、技術史など数々の歴史関連書物を読んできたが、手許に在る“歴史を学ぶための書物”は半世紀前に購入し、大いに影響をうけた、堀米庸三(東大名誉教授;西洋中世史)著「歴史をみる眼」(NHK出版)しか無い。それゆえ久しぶりにその分野の書物に触れ、当に “目から鱗が落ちた”感じである。著者は東大史料編纂所教授だが、TVなどの時代考証に関わったり、「江戸お留守居役日記」で日本エッセイストクラブ賞を受賞するなど、象牙の塔に篭る学者とは一味違う人物のようで、気楽に歴史学の世界に入っていけるところを特に評価する。
2)ウォール街の物理学者
1987年10月のブラックマンデー、2007年中頃からほころび始めたサブプライム問題、そして2008年第三四半期に起こったリーマンショック。いずれの株価大暴落・金融危機でも悪者にされたのは金融工学に基づく先物やローンを証券化した複雑な金融商品、IT利用の取引方法、それを扱う数理系のクオンツと呼ばれるファンド・マネージャーだった。堅実な投資家で有名なウォーレン・バフェットはそれら商品を「金融の大量殺戮兵器」クオンツを「数式をひっさげたオタクたち」と強烈に批判したし、同じように否定的内容で書かれた認知論学者でファンド・マネージャーだったナシーム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」はそれを予見した書として高い評価を受けた(2006年刊;150万部)。しかし、応用数学に関係する仕事に長く携わった者として、数理そのものや数理エンジニアが諸悪の根源のように言われるのは不本意である。そして「そんなはずはない!」との確証も本欄にしばしば登場する「工学部ヒラノ教授」シリーズや同じ著者(今野浩東工大名誉教授)による「すべて僕に任せてください」などを通じて得ていた。米国・ウォール街の実態はどんなものだろう?邦訳の発売広告を見て直ぐに発注したが届いたものは2刷目のものだった。それほど注目されよく売れているのだ。
著者は現役の数理物理学者であるとともにサイエンスライター。本書の企画は2008年秋、あのリーマンショックの直後である。物理と数学の博士課程を終えようとしているところで起こった金融危機、その元凶が物理学者だということにショックを受けて、金融と数理の関係に踏み込んでいく。私が知りたいと思った関心事(数理諸悪の根源説)にピタリと合致する。
結論から述べれば「金融工学や数理・物理学者が悪いわけではない!使い方が悪かったのだ!」と言うことである。ただし、タレブが主張した「経済行為は人の心理・行動面と深くかかわるので数理で扱うには限界がある」と言う人文科学面からの使い方の配慮不足ではなく、「日々進歩している関連数理・物理の理論・技術を適切に反映すべく金融取引モデルのアップデ-トを怠ったからだ」と結ぶ。その具体例として導入部と結言に“ルネサンス・テクノロジーズ社”と言うヘッジファンドが紹介される。有名・巨大投資会社が破たん寸前まで追い詰められたリーマンショックの中で、この会社のファンドは80%のリターンを上げている。創設者はジェームス・シモンズと言う物理学者(弦理論の第一人者)。1988年の創設から現在までそのリターンは年平均40%近い(ウォーレン・バフェットのファンドは1967年~2010年で20%程度のリターンを出しているが、リーマンでは一株当たり純資産10%の損出)。従業員は200人程度、そのほとんどは数理、物理の専門家で、“ウォール街の匂いのする人間(ファイナンス専攻、投資会社やヘッジファンドの経験者)は雇わない”方針を貫いている。
数理・物理がその骨格を成す著書である。先月紹介した「世界を変えた17の方程式」のいくつがここにも登場する。金融工学そのものともいえるブラック・ショールズ方程式は当然としても、対数・正規分布・波動方程式・カオス理論・相対論・量子論・情報理論などがそれらである。加えて確率・統計・ORなどが取り上げられる。物理学では、数理とも重複する核物理学(株価とブラウン運動の相関性)、天文学・地震学(突発する大衝撃;暴落)・熱力学・生物物理学(魚の泳ぎ方→株価の揺らぎ)などが動員される。とは言っても本書を読むために、それぞれの学問分野に精通している必要は全くない。
書き出しは19世紀末のパリ証券取引所から始まる。ルイ・パシェリエと言うバカレロア(高等教育機関進学資格)は取得したものの、兵役につきそのチャンスを失して証券取引所に仕事を見つけ、ここで先物取引の株価予想に独自の理論を作りあげる。しかし、当時のフランス経済学界も数学界もこれを評価することはない。この論文が日の目を見るのは1955年頃、発見者はあのポール・サミュエルソン(MIT教授、第2回ノーベル経済学賞受賞者)、「こいつはいったい、何者なんだ」こうして金融工学が芽を吹く(著者は、パシェリエを“金融工学のニュートン”と位置付けている)。
以下、金融工学に関わる多種多様な理論を、その萌芽から熟成に至るまでの物語を、時間的に追いながら、発見者・発案者の研究活動を中心に紹介することが本書の大部分を占める。それぞれの理論は生み出されたときは相互に関連ない(あるいは気が付かない)のだが、簡単なモデルが後発の理論で補完・補強されやがて広範な取引に適用できる実用モデルとして結実していくプロセスが、大変理解しやすくかつ興味を惹きつけ筆さばきで書かれ、「モデルのアップデートを怠っていた」と言う著者の主張を納得できるものにしている。
そうは言っても、本書は決して“金融工学諸悪の根源論”払拭を目的としたものではない。むしろ金融工学がまだまだ発展段階にあり、一部の数学者や物理学者の世界に留まっている現状を打破したいとの思いで書かれたものである。経済学界や金融行政当局のこの分野への関心を高めることが急務と訴え、「世界経済を動かす立場の人々が、ルネサンス・テクノロジー社に負けているようでは困る。そろそろ本気をだすときだ」と結ぶ。
強いて不満な点を探せば、ブラック・ショールズ方程式の基本ともいえる伊藤清京大教授(故人)の定理(確率積分;伊藤自身が全く経済学に関心がなかったことに原因があるのだろうが)に一言も触れていないことくらいである。
3)甦ったスパイ
犯罪小説(スリラー、スパイ、冒険)は何と言っても英国である。この分野の作家が作る英国推理小説家協会(The Crime Writer’s Association)は毎年優れた作品に賞(CWA賞)を出している。長編最優秀作品に与えられるゴールド・ダガー(金色の短剣が与えられる)賞(ジョン・ル・カレは「寒い国から帰ってきたスパイ」で1963年に受賞)、インターナショナル・ダガー賞(外国人作家対象;ほとんどヨーロッパ人)、ジョン・クリーン・ダガー賞(新人賞)などがあるが、それらの中に007シリーズで有名なイアン・フレミングにちなんだスティール・ダガー賞(スティール製の短剣が与えられる)がある。これは主にスパイ関連小説を対象にしたもので、本書はその2012年度受賞作品である。著者の作品には本欄-55(2013年3月)で紹介した「ケンブリッジ・シックス」(邦訳第一号;著者としては第5作目)があり、その評に「次作が待ち遠しい」と書いた。そして本品がその次作である。
書店でこのタイトルを見たときの第一印象は「何と工夫のない題名(原著もA Foreign
Country)か!」である。しかし読み出すと直ぐに「さすが!」と引き込まれ、2日で読み終えてしまった。「もったいない」が読後感である。
SIS(Secret Intelligence
Service;別名MI6;対外諜報;米国のCIAに相当)の次期長官に決まっている女性副長官(アメリア)が休暇中に失踪する。組織外にこれが漏れたら大変なことになる。アフガニスタンでCIAと行動を共にした際拷問犯罪の濡れ衣を着せられ、失職中の元工作官(ケル)が、アメリアと親しかったことに目を付けられ、隠密捜査に引っ張り出される。「彼女が長官になれば汚名も晴らせるかもしれない」との期待もあり、これに取り組むことになる。“甦った”はこのことからきていることはすぐわかったが、原題の“A Foreign Country”が気にかかる。
失踪したのはパリ。彼女は知人の葬儀参列のため、急な予定変更で休暇を取得、葬儀に出席したのは確かだが、その後忽然と消えてしまう。歳の離れた夫との関係は?長官ポストを狙っていたライヴァルは?英国を狙うテロリストの動きは?イタリア人の若いSISエージェントはITの専門家、彼女の優れた携帯電話・メ-ル解読技術、クレジット・カード利用記録追究から少しずつアメリアの足取りが見えてくる。パリからニースに移り、そこからチュニス向かっている。ここまではすべて単独行動で犯罪の匂いは感じられない。いったい何のための移動なのか?
チュニスでの捜査でやっとケルはアメリアを発見する。外国人向けホテルのプールサイドで若い男と親しげに話している。男と女の関係か?!次期長官のポストを前に「まさか!」
パリの葬儀は、アメリアがまだインターンであった若いころ犯した過ちと深くかかわる夫婦のものだった。シナイ半島を観光旅行中暴漢に襲われ殺された二人には養子がおりその子は葬儀にも同席している。アメリアがチュニスで会っていた若い男がその養子である。つまりアメリアの実の息子だったのだ。この後アメリアは帰国し、長官に叱責はされるものの、仕事に復帰する。しかし、ケルにはどうもこの息子が気になる。息子の後を追いその周辺を嗅ぎまわるケルに危機が迫る。影にいる組織は何か?“A Foreign Country”が次第に姿をあらわしてくる。
冷戦構造崩壊後のスパイ小説は、どうも仕掛けがテロや麻薬・武器取引などチマチマしたテーマになりがちだ。推理小説や冒険小説の舞台としてはそれでもいいのだが、“スパイ戦”となるとやはり国家対国家の対決が、少なくとも下地としては欲しい。前作はそれがロシアだった。今回の“A Foreign Country”もそれに劣らぬ国であり、「そうか、そういう対立軸もあるのか」と大いに楽しんだ。訳者解説に依れば次作はまだ英国でも出ていないという。時間をかけた良い作品を待ちたい。
4.読書について
小学校から高校までついに興がのらずに終わった教科は国語である。読書は子供の時から好きだったので、意味を含めて文字を覚えることの必要性は十分わかっていたが、文章の良し悪しを感じ取ったり、さらには内容そのものの深さなどに思いを至らせることはまるでなかった。これらが少しずつ分かってきたのは社会人になってからである。「何でこんな小難しいくスノブ(高慢)な口調の文書を読まされるんだろう?」高校の現代文でこの人の文章の一部に触れたとき感じた第一印象である。それ以来著者の文芸・文化批評が超一流であることは世評で知ってはいたが、読んでみようと思ったことはなかった。しかし丸谷才一(この人の書評が好きだ)の読書に関する本を読んでいるうちに、「(小林秀雄を避けているのは)食わず嫌いかもしれない。何か読んでみようか」と言う気になっていった。そこで本書となったわけである。
本書は読書・文章・文化に関するエッセイ17編をまとめたものである(ひとつは田中美知太郎との対談)。それぞれの初出を見ると昭和7年から始まり、戦前のものが8編、一番新しいものでも昭和48年だから当に古典と言ってもいい内容である。意外だったのは、旧仮名遣いを改めていることもあるのだろうが、極めて平易な文章で書かれ、読み易かったことである。読後感の第一は「高校時代何故あんな第一印象を持ってしまったんだろう?」である。無論あの時と今では私の年齢に60年の差がある。それは確かなのだが、どうも国語嫌いを自認していた故の先入観が素直に文章を読めなくしてしまっていたのだ。当に食わず嫌いのなせる業である。
タイトルの「読書について」は本書の第1編目のエッセイで、昭和14年(誕生の年!)文藝春秋に掲載されたものである。中身は、著者の旧制高校時代の読書法が、通学途上で読む本、教室で窃かに読む本、家で読む本と区別して同時並行で複数の本を読んでいたという話から始まる。著者はこれを“妙な読書法”と言いつつ、知識欲の旺盛な若者にとって、とても一つが終わってから次を読むなど悠長なことを許さなかったと当時の読書法を肯定する。この辺りは今でも同じような読書法をしている私には決して“妙な”感じがせずに腑に落ちる。それに続けて“濫読の害”非難を批判して「こんなに本が出る世の中で、濫読しないのは低能児であろう。濫読による浅薄な知識の堆積というものは、濫読したいという向こう見ずな欲望に燃えている限り、人に害を与えるような力はない。濫読欲を失って了った人が、濫読の害など云々するのはおかしな事だ」と濫読推奨論を展開する。私には快哉を叫ぶ他はない。
ここら辺までは一般の読書人向けの著者の考え方と言っていいが、それから先はやはり文学を志す人を意識しているようだ。書くことに多大のエネルギーを費やしているが、もっと読むことにも注視しろと。そしてその読み方の肝は“全集(日記、書簡を含む)”を読んで作家の人となりをよく知ることだと具体的に指南する。「人間から出てきて文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものは、其処以外にない」と。
このあと古今東西の読書人の考えを紹介し、当時勢いのあった“浪漫派文学”を徹底批判する(人を知り尽くして、自分の世界を作り上げることをしていない)。ここまでくると「“読書”の世界が違うな」との感が深くなる。高校生の時触れた文章はもしかするとこんな領域の話だったかもしれない。しかし、読書対象に自分の日常とは距離があっても著者の意図は分かる気がする。結び近くに「カントを学んで、カントの思想に心を奪われ、カントという人間を決して思い浮かべぬ学者を無邪気と呼んで何故いけないのか」とあり「物語や字面に引きずられず人を読め!」これが読書について小林秀雄の考え方であることを学ぶことになる。おそらくこの辺りが小林秀雄を世人が高く評価するところなのだろう。
国語(言語)、文章、文学、文化、そしてこの人が作り上げたと言ってもいい批評などについても読書同様、多くの書物・対談・講演などを介して学んだことを消化し、思索して自説を作り上げた人のビッシとした主張で貫かれている。内容は現代でも全く古さを感じさせない。とても小林秀雄全集を読むところまでは至らぬであろうが、こんな簡潔にまとめられた関連著書があったら少し読んでみたいと思っている。
5)新大陸主義
この本のタイトル“新大陸主義(原題もThe New Continentalism;このContinentalismはオックスフォード現代英英辞典にも出てこない)”は聞きなれない言葉だが、簡潔に説明されずにいきなりユーラシア大陸の東側で起こっている地政学変化が語られていく。巻末の監訳者解説でやっと著者の定義づけが紹介されるが、それによれば「領土的に近接する国々の大陸的スケールでの経済的、政治的統合を促進させる諸政策」ということになる。どうやらEUに見るような地域統合の動きを思い描けばいいようである。とは言っても本文を読み進み最後に達してもEUのような姿が見えてくるわけではなく、むしろこの新しい“大陸主義”の実現は前途遼遠との印象しか残らない。著者もむろんこれは想定済みで、意図はこのぼんやりした“大陸主義”に米国が今から関心を向けるよう注意を喚起することが狙いであることが終盤分かってくる(冒頭の“日本語版への序文”ではこの動きを認識していない国として米国と日本があげられる)。
本書の著者ケント・E・カルダーは国際政治経済学を専門とする米国の研究者で、現在はジョンズ・ホプキンス大学国際問題研究大学院E.O.ライシャワー東アジア研究所長。政府機関スタッフや駐日大使館特別補佐官として東アジアの政治経済に深くかかわった経歴を持つ人である。本書はその研究活動をまとめた学術研究報告書と言えるもので、読み物としては些か重くくどい感じがするが、データ・情報(特にエネルギー関連)の裏付けは確りしており、その分野の専門家には大いに参考になるものだろう。
BRICsと言う言葉が語られるようになってから既に20年が経過する。その間この言葉は専ら新興国の経済活動活発化の代名詞として使われてきたが、ブラジルを除けば他の3国は国境を接し、安全保障では複雑な関係にあるのにもかかわらず、相互関係を国際政治面から考察することはほとんど行われていない(中国、ロシアは個別には取り上げられているが)。また、これら3国の西方には炭化水素エネルギーが大量に埋蔵される中東があり、中国・インドのこの地域への依存は年々高まってきている。ロシア・旧ソ連を構成した中央アジア(資源国)・インド・中国・中東を一つの地域ととらえると、そこに新しいシルクロードが出現する。もしこれら地域内の国々の協力関係が理想的に進めば、とてつもない発展・繁栄が期待され世界の歴史を変えていくに違いない。しかし現実には、アフガニスタン紛争、イランの核問題、イスラム教の宗派争い、インド・パキスタン対立、旧ソ連邦復活の動き、中国辺境の民族独立運動など不安定要素も事欠かない。一体全体この地域はどうなっていくのだろうか?これを地政学の視点で変化の時間を辿りながら整理してみよう。これが本書の骨子である。
国境を接する国々の断絶が緩むのは何と言っても①ソ連邦の崩壊、経済活動の活発化は②鄧小平の四つの近代化と③インド経済改革、エネルギーが国際政治の影響因子になるのは、④第一次石油危機、⑤第二次石油危機(イラン革命)、崩壊したソ連がロシアとして力を復活するのは⑥プーチンの登場。著者はこれらをこの地域の変化を誘引した六つの「重要局面」と見做し、“大陸主義”発展の仮説;①大陸主義の初期段階の政治経済関係は、エネルギー分野において発展しやすい、②大陸主義の初期的関係は資源補完性(需給)によって強化される、③大陸主義の初期的関係は、エネルギー効率といった分野で、国内の機能を補完する(代替エネルギーやエネルギー利用技術)ことによって強化される、を各章で検証していく。
つまり“新大陸主義”をこの地域のエネルギー地政学の見地から考察していくことに大半の紙数が割かれる。
具体的には、各国の石油と政治の関係、エネルギー貿易、エネルギー外交・安全保障、エネルギー(主に石油)需給の経過と将来見通し、エネルギー関連投資動向、輸送手段・ルート(パイプライン;これはかなり詳細にかつ何度も取り上げられる、鉄道、道路)、各国のエネルギー利用効率、対価としての武器取引、地域協力機構(例えば、上海協力機構)などが論点として取り上げられる。これらを学術的に論ずるための仮説検証データ・情報がふんだんに援用されので、極めて説得力のある研究報告書に仕上がっている(繰り返しが多いことがチョッと鬱陶しいが)。
さて、それではこのような動きの中で日本はどうすればいいのか?省エネルギーや環境技術面での貢献は期待されているものの、エネルギー大消費国としての役割以外は見えてこない。地平線(しばしば陸平線と言う言葉が使われる。誤訳?)に目を奪われるよりは水平線(シーレーン)にもっと注目すべきなのだろうか?
6)正義の偽装
同じ著者の同種の著書(月刊誌<新潮45>に連載しているものの新書版「反・幸福論」(本欄-44;2012年4月)「日本の宿命」(本欄-55;2013年3月)をすでに本欄で紹介している。内容は連載期間中の政治情勢を材料に、取り上げた課題の根源的発症点をつまびらかにするもので、私は辛口の社会時評ととらえていた。しかし、どうやらこの評価に著者は不本意なようで、今回の“まえがき”で「決して時評ではありません。現象や出来事を解釈するというより、できるだけ現象の根底にあるものをとりだそうとしている」とことわりを入れている。私と同じような評価(読み方)をしていた人が多かったのであろう。確かに本書を読んでみて、決して単なる“岡目八目”ではなく、社会の病根に迫る病理学者のメスさばきであることを理解した。
今回取り上げられたのは、民主主義と民意、憲法、天皇制、国民主権、アベノミックスなど、 いずれも“国(ステイツ)と国民(ネイション)の在り方”を考える上での根本的課題である。このような難しい課題に対して、これらの言葉が生み出された起源を辿り、その変遷を追い、戦後の日本で如何にその内容が変じていったかを明らかにして、それぞれの課題の欠陥をえぐっていく。
例えば、民主主義について言えば、ギリシャでこの政治形態が発しその時点で数々の問題をはらんでいたこと述べ、ルソーの「社会契約論」が民主主義の最大古典と位置付けられ、ここにあった“人民主権論”(直接民主主義)が戦後の日本人の民主主義像を作ったと説く。しかし、もともとルソーが人民主権論に至ったのは、外敵と戦うために個人と共同体(社会)が契約を交わしたことに依るので、そこには「市民は国家のために死ねと言われれば死ななければならない」と明瞭に書かれている。にも拘らずこの義務には触れず専ら“人民主権論”の権利だけが独り歩きして、うつろいやすい“民意”に振り回されているのが現今の国政だと断じる。しかも、戦後日本の民主主義は当然ながら平和主義とセットになっている。これもルソーの民主主義とは全く違う思い込みで、ルソーの考えは民主主義者こそ愛国者であり、市民による武装と自衛は当然の義務とするものだと、民主主義解釈の異質性を教えてくれる。ここに記した著者の民主主義も関する見解だけを見ても、これが単なる“時評”でないことは理解できるだろう。明らかに民主主義、特に戦後の日本民主主義像は歪んでいるのだ。
憲法、天皇制問題に関しても著者のアプローチは民主主義同様、その本質から問題点を解剖していく。現憲法の誕生が極めて異常(占領軍が作ったことではなく、制定の手続き)であの“明治憲法の改定”とされていることを、本書で初めて知った(主権を持たない占領下の国家に憲法を創出する権限はない。憲法制定=主権)。従って著者は「憲法改正論」ではなく「憲法廃止論」を唱えることになる。“廃止論”の字面だけ見ればラディカルの極みとも取れるが、熟慮の上で書かれた論旨を読めば穏やかで説得力のあるものであることがわかる。ある意味読み手の力量を問われる書と言っていい。
“あとがき”で著者は「今日の日本の政治や社会について多少なりとも根源的(ラディカル)に考える助けになればと思っております」と結ぶ。多くの人々に読まれることを、私も切に願うものである。
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