-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-
7.八甲田山(2)
田代平から県道40号線を反時計方向にさらに5km位進むと左からくる道路とぶつかり、そこには土産物屋と食堂を併設した建物があって、前が広場になっている。止まっているのは八戸ナンバーの乗用車一台だけ。食事も買い物も必要なかったが、“遭難碑”確認のため先客の近くにクルマを止めて店に向かうと、中年男女の連れ合いが店から出てきて乗り込む前に、こちらのナンバーを見て「横浜からですか!」と声をかけてきた。語調に関西訛りがあるところから、どうやらレンタカーで観光しているらしい。丁度いい機会なので「この辺に雪中行軍の遭難碑が在ると聞いているのですが、ご存知ですか?」と尋ねると、「ここを200mくらい上がったところですよ。立派な銅像ですからすぐわかります」と店の後方の丘を指し示す。彼等が発った後広場の一角にある案内図(前回写真掲載)で場所と道を確認してそちらに向かった。間もなくゆるい傾斜地を均した中に「雪中行軍遭難の地」と書かれた大きな標識版が現れる。ここら一帯が小説のクライマックスとなる“馬立場”なのだが、長閑な初夏の午後の日差しの中ではとてもその惨状など想像できない。低い灌木の中に作られた遊歩道をさらに登っていくと銅像を中心に整えられた小公園に辿り着く。台座を含めると像の高さは5m位あり、想像していた“遭難碑”とはまるで違って確かに“立派”なものだった。
地形的にはそこから北下方に連隊所在地青森市が在り、それをはるかに見下ろすように像が立っている。後ろは八甲田の峰々、なかなか考えられ配置だが、陽は南にあるので写真を撮るには逆行になってしまうのが惜しい。銅像のモデルは数少ない生存者の一人、後藤房之助伍長、救助されたとき仮死状態だが半分雪に埋もれながら起立していたという。当時の陸軍大臣寺内正毅中将が建立に際し寄せた言葉は漢文なので正しく読むことは不可だが、文字からその壮絶さが伝わってくる。この中に後藤と併せて記されている神成大尉(指揮官)は死亡、同行した山口少佐(大隊長)は、小説では病院でピストル自殺をすることになるが、真相は大規模な凍傷手術のための麻酔によるショック死らしい。当時の遺品などは市内の記念施設にあるようだが方向が違うのでパスすることにする。
次に向かったのは八甲田山ロープウェイ、八甲田山周回路を時計に見立てると遭難の地が12時、ロープウェイは10時頃の位置になるので10分くらいで着いてしまう。大型バスが何台も収容できそうな広々した駐車場に10台に満たない乗用車やバンが止めてある程度、3時発のロープウェイはがら空きで3組(6名)しか乗客はいなかった。1300mある山頂にはいくつか散策コースがあるのだが、大部分はまだ雪が残っているので、本格的な山歩きの装備が必要だし、展望台の飲食コーナーは既に閉店でゆっくり休む場所もない。仕方なく山頂付近で20分ほど下りが来るまで過ごすしかない。
天気が良ければ青森市街からその先の日本海まで見渡せる、弘前方面に目を転ずれば岩木山が美しいと謳っている眺望も、暖か過ぎるのか靄がかかって今一つすっきりしない。3時20分の下りで下へ戻り、4時には弘前に向け国道394号線を西に向けラストランに入った。八甲田を離れると道は緩やかな下になり川沿いに20km近く続く。黒石市に入ると車線も交通量は増え一般の街中と変わらなり、そのまま弘前市内につながっていく。東北道の下を抜け、奥羽本線跨線橋で超えて5時に駅前のベストウェスタンホテルに到着した。本日の走行距離204km。昨日に比べれば1/3にも満たないが、山岳ドライブを堪能した一日だった。
(写真はクリックすると拡大します)
(次回;弘前)
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