1.新会社創設(12)
1984年の秋も深まってくると、情報システム部門の分社化計画(Z計画)も細部に入っていった。前回紹介したように、情報システム部内の一般課員にも構想を説明し、皆揃って新会社に移るための希望条件などを洗い出す作業をすすめ、3重ボード(課長会・部長会・経営会議)のメンバーにも適宜説明し、フィードバック結果を検討作業に反映していった。計画は社内では広く知られるようになってきたし、年末の段階では個々の大きな懸案事項の解決策が見えてきた。新会社のスタートは何とか次年の前半に実現したい、これがZ計画検討推進メンバーの目標であったから、1985年に入ると個々に検討してきたそれぞれの課題に対する対応策を一つの会社設立案としてのまとめる段階に入っていった。オリジナル計画の概要は概ね以下の様なものであった;
・メンバー:本社情報システム部員(TSK本社SE担当部門、TTECシステム部員を含む;約60名)でスタートする。
・グル-プ向け業務;上記メンバーが担当する業務(工場のSE組織はそのまま残す)は全て新会社に移す。
・外部業務を核に業容を伸ばす(収支計画は専らこの部分を深耕した)。
・主な市場は装置工業、特に、石油精製、石油化学、一般化学を中心に据え、プロジェクト全体を一括請負う(当時はシステム・インテグレーション;SIと言う言葉が無かったが現在ならシステム・インテグレータと言うことになる)。
・従業員処遇は、プロパー社員の採用などに伴い業界に合った形態に変えていくが、当面は東燃と同じ扱いとする。
・2000年までに株式を店頭公開できる経営内容を実現する。
・グループ内業務の企画・調整を図るために本社内にそれぞれの専門分野に優れた少人数(一桁)スタッフで構成する部レベルの組織を残す。
・新会社の組織は、技術システム部、ビジネスシステム部、営業部(総務・人事を含む)の3部編成でスタートする。
・オフィスは(本社の在った、大部分の資産とスタッフもある)パレスサイドビル内に置く。
・社名は広くグループ内で公募し、新会社メンバーの投票で順位付けし、3重ボードにかけて決定する。
課長会・部長会で何度も見直し検討を求められたのは、収支・財務計画と人員計画であった。特に、人員数が規模拡大の決定的因子であることから、厳しいチェックを受け「上限はどこにあるか」が大きな論点になっていった。課長会の席で私は独断で「300名」と言う数字をあげ、「ただし、あくまでも概算であり、業界の成長を考えればこの数字を目論見書に記載はしたくない」と答えた。
この答えの背景は、株式店頭公開(売上・利益)基準(公開前の前3年間の経常利益が、1億円、2億円、3億円を超えていることが一つの条件だった。一人一年間2千万円(このハードルは業界標準をかなり上回るが)を売り上げ、利益率を5%とすると、300人が必要となる;つまり売上高60億円、経常利益3億円)とグループ従業員総数(約3000名;これの1割に留める)から思いついたものである。この一人当たり売上高は装置工業にとっては極めて低い印象を与えるとともに、新規事業のための人員増が1割(既存のグループ情報サービス要員を全員新会社に移せば1割以下)と言うのは納得感があったようで、やっと経営会議にかける目論見書の作成が許され、東燃の株主総会(3月末)後、連休前に本件に関する第一回目の経営会議が開催された。
この会議では工場・関係会社の業務をどこまで移すか(副社長のNKHさんは工場の意見にも理解を示し「一気にすべて新会社に移すよりも多段ロケット方式で行こう!」と断を下す)やハードウェアに依存する売上高が問題にされる(社長のMTYさんが在庫を持つことを懸念する発言をされた。我々の考えは顧客がハードも併せて取り扱うことを希望した場合その要求に従うことで、自ら在庫を抱える考えはなかった)程度で、基本的に“GO”のサインが出た。
いよいよ設立に向けて動き出した経営会議翌週、日本経済新聞の朝刊一面トップにこの新会社設立がすっぱ抜かれた!添付資料も入れると30ページ位あった目論見書を入手していなければ絶対に書けない記事である。「情報はどこから漏れたのか?」
(次回;“新会社創設”つづく)
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