5. 1987年の経営トピックス-3;思わぬ出来事ほか
2011年新聞紙上で「林原」の倒産記事を見たときはびっくりした。SPIN設立後からIBMと組んでこの会社にACS(IBMのプロセス制御システム)の売込みを行い、これに成功。1987年順調に稼働させ、テープカットの儀式まで行った会社だからである。地方(岡山)の会社で同族経営だったから、一般にはあまり知られていない会社だが、我々が出入りしていた時には財務体質抜群の、知る人ぞ知る隠れた超優良会社だった。カリスマ経営者林原健氏は学生時代に父親が急逝、水飴会社をバイオ産業の先端企業にすべく着々と手を打っていた。ACSが導入されたのは、主力製品、マルトース(麦芽糖;医薬原料)を生産する第2工場で、前年新設されたものである。
社長の健氏は後に日経新聞の“私の履歴書”に登場し、そこであらましの経歴を知ったが、当時は、遅めに出勤早めに退社、その間ほとんど社長室に一人で篭ることが多く、社員の間でさえ専ら断片的な姿しかつかめていないような存在だった。
テープカットには当社からは社長のMKNさん、実質的に経営を取り仕切っていた取締役のMTKさんが出席、林原からは健社長と実弟で専務、日常の経営を一手にさばいていた、靖氏が列席された。靖さんとは私も頻繁に会っていたが、健社長にお会いしたのはこの時が最初で最後である。第2工場は本社(岡山駅近く)からクルマで20分くらい離れたところにあり、通常はタクシーを利用する。この日も我々3人は駅から直行したが、式が終わって両社長が和やかに歓談した後、健社長が「皆さん私のクルマでご一緒しましょう」と誘ってくださった。立場や人数から考えて私は遠慮したが、「充分乗れますから」の一言で駐車場へお供した。案内されたクルマを見てびっくり、何と特別仕立てのアメリカ製キャンピングカーであった!応接間のような空間でカリスマ経営者と過ごした20分は忘れられぬ想い出である。やり手の実業家というより静かな学究肌の人との印象が強かった。
倒産の原因はインターフェロン・ビジネスへの過剰投資だと報じられた。稼ぎ頭のマルトースは好調だったし、資産は抵当に入っていたものの、充分あったから、多くの企業が再建に名乗り上げ、落札価格は極めて高かったようだ。
この年はSPINが一人前の会社として体裁を整え始めた初年度とも言える。次年度からの男子新卒社員の採用を決めたこと、それとも関係して労働組合に代わる“SPIN懇談会(通称;スピ懇)”を立ち上げたことなどがその代表例として挙げられる。
世はバブルの真っ最中、新卒者は奪い合いでなかなかこちらの要求に合う人材は充分に採れず、結局キリスト教系大学の神学部の男子学生一人の採用を決めるだけにとどまった(女子学生は6,7名内定)。プロパーの社員は、この年入社の女子新卒者、中途入社社員、それに次年度社員を合せると20名に近い数になる。これらの人は東燃グループの出向者と違い、自分たちの労働者としての意思を示す場が無い。別の見方をすれば外部の団体から影響される可能性もある。また、出向者も本籍とは異なる労働環境下にあるのでプロパー社員と共通する課題もある。東燃グループで組合役員を務めてきた古参社員の間から、管理職以外の社員をまとめる組合に代わる組織の提案があり、“スピ懇”が発足したのである。
新人の入社、活発で好調な営業活動、分遣オフィスの確保、経営形態の整備、順調な経営を続け年度末もあと2ヶ月と押し迫っていた10月半ば(東燃グループの会計年度はカレンダー通り;1月~12月)、外廻りからオフィスに戻ると騒然とした雰囲気である。「MTKさんが突然大声を上げ騒ぎ出したので医務室に連絡、救急車で国立医療センター(東燃の指定医療機関)に運ばれた」と言うのである。医務室の見立ては「癲癇のような症状」とのこと。これで私には思い当たることがあった。まだ私が和歌山工場勤務時代、ある人から「MTKさんは癲癇もちなんだよ。ただ後天的なもので、薬を飲んでいれば大丈夫らしい」と聞かされていた。その日の夜医療センターへ見舞いに出かけると、既に平常に戻っていたMTKさんは「実は子供の頃高い所から落ちて、癲癇の症状が出るようになった。薬を服用していれば全く問題が無いのだがこのところ体調も良いのでつい薬を飲むのを怠っていたんだ」と打ち明けられた。1週間程度の入院で完全にいつもと変わらぬ勤務にもどったので、このことがMTKさんおよびSPINのその後に大きな影響が及ぶことなど考えてもいなかった。
(次回;1988年への動き;第Ⅰ部総括)
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