2015年3月31日火曜日

今月の本棚-7920153月分)

<今月読んだ本>
1) 祖国の選択(城戸久枝):新潮社
2) 数字は武器になる(野口悠紀雄):新潮社
3) 英国二重スパイシステム(ベン・マッキンタイアー):中央公論新社
4) インドでバスに乗って考えた(ボブ・ミグラニ):KADOKAWA
5) 誰が知を独占するのか(福井建策):集英社(新書)
6) 東京タクシー運転手(矢貫隆):文藝春秋社(新書)

<愚評昧説>
1)祖国の選択
今年は戦後70周年の節目、安倍首相がどんなメッセージを語るべきか、甲論乙駁喧しい。あの年前後の記憶を残す日本人は私より12歳下くらいまでだろう。早生まれなので満6歳、小学校(国民学校)に入学して4か月後、満州でのことである。戦後生まれの首相にどこまで当時の真実に迫ることができるのか、幼いながら体験し脳裏に焼き付いている記憶と比較し、彼の歴史認識を私なりに検証するのを心待ちしている。
学校教育を含む公的な歴史と個人の断片的な体験(まして幼年時代)に大きな違いがあることは承知しているが、多くの関連書物(小説を含む)で補ってきた自身の満州史観と最近の安倍首相をはじめとする一部政治家・識者のあの戦争に関する言動の間に違和感を覚えることが多い。“大東亜共栄圏”につながる満州国の国是“五族協和(漢人・満人・朝鮮人・モンゴル人・日本人)”は決して現実のものではなかったし、もしそれが実現していなくても、他の民族も納得できるような施政が行われていたら、彼の地における悲惨な戦後は無かったに違いない。
本書は4歳の時満州で終戦を迎え、子供だけでも早くと、他人に託された引揚の途上戦乱に巻き込まれ、中国人養父母に育てられ1970年単独帰国した残留孤児の娘が書いた、6人の大陸残留者(孤児ばかりでなく成人を含む)の戦後史である。そこに取り上げられるのは、本書に先立つ処女作、父をテーマにした「あの戦争から遠く離れて」(2007年刊、大宅壮一ノンフィクション賞授賞)がきっかけで出来た縁者たちである。
プロローグからつながる第1話は私と同じ歳の男性、1939年ハルビン周辺の開拓団で生まれ198546歳の時家族を連れて帰国した人。本書とは直接関係ないが、山崎豊子「大地の子」の主人公、陸一新も同じ年に生まれたことになっている。つまりこの歳辺りが身元不明残留孤児の中心軸にあるようだ。陸一新はエリート技術者に育っていくが、この人は中国人の間で7回も売買され、奴隷の様な生活から抜け出すのに精いっぱいの在満人生を送る。
2話は1944年に王爺廟(おうやびょう;内モンゴル)に入植した東京武蔵小山の開拓団(都会の真ん中から開拓団が編成されたことを本書で初めて知った)の一員だった1929年生れの女性の話。89日のソ連侵攻による逃避行下で家族(父、長兄(出征中)の嫁、三兄)すべてを失い、八路軍(現人民解放軍)に救われ、その保護下で紡績工・保母などを務めながら、1953年に帰国を果たす。この話では「八路軍に救われた」と言う表現に私も納得する。ソ連軍、蒋介石軍に比べ格段に規律が良かったし、弱者に対して優しかった印象が強いからだ。
3話は志願して渡満した従軍看護婦の戦後。“産婆”の資格・経験が帰国を大幅に遅らせ1953年帰国。医療関係者、技術者はどんな政治体制下でも重用され、何とか生き延びることが出来る。これが幼くして学んだ生存ための知恵、私がエンジニアになった動機はそこにある。
4話は、日系満軍関係者の家族、3人の子供を連れて北満勃利(ぼつり)からハルビン、新京(現長春)、奉天(現瀋陽)を経て19469月葫蘆島(ころとう)から日本に引き揚げた母子の話である。この話は、時間や場所があの当時の私の記憶と重なることが多く、特に印象付けられた。先ず、1936年生れ(3才上)の長男が入学する新京特別市立桜木小学校が同じだったことである(軍関係者ゆえに転勤が多く、その時期新京在住だった)。多くの満州物を読んできたが、この校名が出たことは今まで一度もなかった。それに引揚の時期と行程がほとんど同じなのである。ただ乗った船が興安丸、上陸地は佐世保となっており、こちらはリバティ船で博多だったからそこだけは違っていた。わずかな高粱以外まともな食事が摂れなかったこと、船中で出る死者の水葬シーンなど、忘れたくても忘れられない。関東軍と満鉄の家族はさっさと逃げたと言われるがが、満軍は差別されていたのだ。
5話は中国戦線で戦った兵士の話。これは彼の地を転戦したよくある苦労譚で、チョッと“祖国の選択”にはそぐわぬ内容であった。
最後は、残留孤児だった父との中国再訪、これに依って深まった養父母親戚関係者との交流、一人になった養母を中国に残しての帰国にまつわる後日談(何故老いた養母を連れ帰らなかったのか)を交えながら、身近な “祖国の選択”が語られる。
ここでの祖国とは無論日本と中国である。そして選択は、自らの意思ではなかった戦争終結前後ばかりではなく(むしろこの時選択肢は無に等しかった)、帰国支援が始まった時、そして帰国後を含めて彼らの選択が如何に行われ、いかなる結果をもたらしたか、また本人以外の家族にその選択がそれぞれの人生に与えた影響はどんなものだったか、をケース毎に掘り下げていく。残留孤児、単身者、日本人だけの家族、九死に一生を得た兵士、それぞれ帰国願望はかなえられたものの(そういう人しか取り上げられていない)、帰国後の生活は予期以上に厳しいものだった。つまりこの人々にとって、あの戦争は終わっていないのだ。
この種の本(戦争被害者としての日本人)が、いまどきどの程度関心を惹くのか不明だが(あまり売れそうもないが)、体験的に内容は真実に近いと確信できるので、戦後生まれの人があの戦争の一端(主に満州)を知るためには薦められる一冊である。

2)数字は武器になる
「組織における意思決定にもっと数理を!」を標榜する当工房として本書は見逃せなかった。日ごろ真っ当な方法で数理活用を説く著者が(私は専らダイヤモンドオンラインの連載を閲覧している)、珍しく軽いタッチで書いた数字・数理エッセイだからである。数理が専門家に任され、今一つ決断を行う者から敬遠されるのは、何とも辛気臭い理屈が伴うからだと現役時代常日頃感じ、今もそう思っている。そしてその解決法は、一般の人が「チョッと読んでみようか」と手にしたくなるような書物による啓発が一番なのである。
この人はそういう点で、ときどき面白い本や物を出す。その筆頭は超ベストセラーとなった「超」整理法、次いで「超」旅行法、「超」整理手帳などが代表作として挙げられるだろう。いずれも専門分野(経済、金融)には関係ない、日常的な事柄の作業改善に独特のアイディアを生かしたものである。そしてその“軽いタッチ”の中に物事の本質を突くメッセージが込められていることが多い。
本書は著者が週刊新潮に連載してきた「世界は数字でできている!」を一冊にまとめたもので、週刊誌掲載と言う性格上、誰にでも興味深く理解し易いように配慮されており、気軽に読める内容である。それでいながら、取り上げられるテーマは、戦争における数字・数学、世界経済の動向、国家財政や産業政策の行方、官僚用語と数字のまやかし、電子情報交換における暗号キーの仕組みのような堅い話題から、暗算方法や距離や時間に関する勘所の押さえ方、果ては天文学上の数字を体感する方法などチョッとした知的会話を楽しむに適したテーマまで、決して軽視できないあるいは直ぐに役に立つ情報に満ちており、日々の生活における数字・数学の重要性認識を新たにしてくれる。
面白い事例を挙げると、1947年制定の地方自治法に地方債発行に関して“当分の間”大臣または知事の許可を受けること、との一条がありこれが2006年まで続いたそうである。つまり“当分の間”は60年だった訳で“人間の一生”に近いと嘆いてみせる。農林水産省の統計に「鶏卵の自給率は11%」とある。信じ難い数字である。理由は飼料にあるのだ!輸入飼料で育った雌鶏が生む卵は国産ではないのだ!実際の自給率は95%なのである。法人税の問題(収めているのは3割、本当に税率は高いのか?)、輸出立国?(輸出は大略GDP500兆円)の1割強、日本経済は圧倒的に内需に依存)などなど、一話読んでは目から鱗がぼろぼろ落ちていく。
著者のバックグラウンドは大方の方はご存知と思うが、東大の応用物理学科修士課程在学中上級公務員試験“行政職”に合格、大蔵省(現財務省)に入省、イェール大学で博士号を取得、一橋大学教授・東大先端技術研究センター教授を務めている。
このような経歴を踏まえ「日本人は理系数学だけは強くて、それに方向付けを与える文系数学に弱い」と断じ、日本経済の再興には「文系の数学を駆使できる人材育成こそカギだ」と説く。これが本書の肝である。一見軽い調子のタイトル・内容ながら、狙いは高きに在るのだ。

蛇足;アベノミックス(特に、異次元金融緩和政策)に対する痛烈な批判者。

3)英国二重スパイシステム
「英国人が真剣に(執念深く、情熱を傾けて)やることは“戦争と道楽”だけ」とは彼の国民性を揶揄する際しばしば援用される言葉だが、ここでの“戦争”は正面からぶつかり合う戦いよりも“知恵の戦い(外交・情報・諜報戦)”ではなかろうか。これが戦史や軍事システム(兵器)中心にこの国を見てきた私の英国観である。良く言えば賢く、悪く言えば狡猾な性格が最も生かされる戦場はこの種の戦である。もう一方の“道楽”では、競走馬や猟犬あるいは草花(例えばバラ)の品種改良に手間ひま惜しまずじっくり取り組む姿勢もなかなか他の国民に真似のできないところである。そしてこの執念深く“じっくり”事に当たることこそスパイ戦に欠かせぬ資質と言える。つまり英国人とはスパイ最適人種なのである。
本欄で同じ作者によるノンフィクション「ナチが愛した二重スパイ」「ナチを欺いた死体」を既に紹介している。前者はダイナマイト金庫強盗がジャージ島(フランス沿岸に在る英領の島)に高飛びするが、そこに独軍が進駐してきて逮捕、犯罪者の弱みを付け込まれスパイに仕立てられ英国に潜入、やがて二重スパイに転じる戦争初期の話である。後者は連合軍のシシリー島上陸作戦(1943年)を隠すために行われた、巧妙なトリック、行き倒れの死体を使って英軍高級将校に仕立て、それに偽文書を持たせてスペイン海岸に漂着させ、ドイツ軍の関心をギリシャとサルディニア島に向けさせた欺瞞作戦である。そして3作目の本書では、史上最大の作戦、ノルマンディー上陸作戦の偽装工作がテーマとなる。
今回登場するスパイ6名は、いずれもドイツ側(アブヴェーア;独国防軍情報部;別名カナリス機関;ナチス・ゲシュタポとは反目)にリクルートされ寝返って英国側についた者たちである。その内の一人はドイツ国籍ではあるがスパイ組織には属しておらず、ナチス政権内で大きな影響力を持ち、二重スパイたちの活動を陰で支え、情報の信用付けを行う。この男を除けば、他の5名は相互の存在を知らない。知っているのは英国スパイ組織MI-6(対外諜報・工作)・MI-5(国内防諜)の一部の人間だけである。また、彼らに英国人は居らず、セルビア、ポーランド、スペイン、ペルー(女)、フランス(女)国籍で、戦時下の英国に入国しやすい背景を持つ(旧同盟国、中立国)。リクルート・転向の背景は、愛国心、カネ、事業、冒険心など様々。中には当初相手にされない“スパイ願望者”も居る。
スパイたちの役割は、大戦初期には個々の対独作戦における偽情報の発信や各地のレジスタンス支援などだが、やがて北アフリカ上陸作戦、シシリー島上陸作戦など連合国の大作戦の一翼を担い、1943年になると大陸反攻の偽装工作に組み込まれていく。無論作戦の細部をスパイたちに正しく教えるわけにはいかないし、二重スパイの信用を維持するためには敵方に役立つ情報も必要になる。これらのシナリオ作りや提供方法は専らMI-6の奥深くで練られ、場合によってチャーチル首相や連合軍総司令官アイゼンハワーの許可さえ必要なこともある。またこちらの思惑通りドイツ側が動いているかどうかのフィードバックもとらなければならない。その役割はもう一つの隠密組織、フレッチリーパークの暗号解読部隊に委ねられる。種々の弱みを持つスパイたちの心変わりも密かに監視しなければならない。これはMI-5 の仕事である。どこにほころびがあっても作戦は失敗する。
194466日、Dディ。連合軍はノルマンディー上陸に成功する。それから数週間経ってもヒトラーはまだこれが陽動作戦で、本格的な上陸地点はドーヴァー海峡の最峡部、パ・ド・カレー地区にあると信じている。見事な欺瞞工作であった。ドイツが真相を知るのは戦後のことである(鉄十字章を授与されたスパイまで居る!)。
著者はタイムズ紙の副主筆まで務めたジャーナリスト。機密解除された資料も駆使して、個々のスパイの前歴からその戦後までを綿密に調べ、それに両国のスパイ組織内の動き、更には政略・戦略の決断者の反応も追って、本書を一級の読み物にしている。スパイ物ファンとして「事実は小説より奇なり」がピッタリの内容を存分に楽しんだ。

蛇足;大島駐独大使(ヒトラーの信用が極めて高かった)や駐在武官(西方軍総司令官ヨードル大将と懇意)の日本への報告が、欺瞞工作裏取りに重要な役目を果たしている。

4)インドでバスに乗って考えた
新聞の短評に「アメリカ人ビジネスマンがインドへ出かけ、バスに乗って気付いたことは…」とあって、ここのところ面白いものに行き当たらない旅行記と思いAmazonに発注した。届いた本書の扉に書かれた一文を読んで「一体全体これは何だ?!」となった。「この本を、行き詰まりを感じている人、不確かな将来について考えすぎているすべての人に捧げます」とあるのだ。つまり旅行記などでは全くなく、“癒し本”の一種であった。こういう勘違いはままあるのだが、意外と知らない分野に思わぬ新知識を得られこともある。しかし、本書にそれはなかった。というよりももともとロハス(Lifestyle Of Healthy And Sustainability)系や田園回帰称賛本を信用していないからである。書いている人間が都会にも拠点を置いて、せっせと稼ぎに精を出しているケースが多いのだ。本書もその例に洩れず、インド系アメリカ人がときどき郷里に戻った時のエピソードで成り立っている(現在はこの種の著作やセミナーを生業にしているようだ)。
本書の内容を要約すれば「世の中は混沌としている(不確かで、予測不能で、複雑で、変化が速い)。だから考え過ぎたり、達成困難な計画を立てたり、過剰な分析することを止め、混沌を受入れ、自分でコントロールできる範囲で行動しよう。さすれば道は開け、飛躍に通じる可能性が高い」と言うことをインドでの体験を通じて事例紹介していくものである。米国式経営の典型であるガチガチの定量的管理・成果主義の下では、一時の癒し効果があるのかもしれないが、それを貫けば降格か馘首の可能性の方が高くなるのではなかろうか?また国外脱出もならず日々の生活に汲々としているインドの人たちは“混沌”を喜々として受け入れているのだろうか?真に癒しが必要な人、問題に直面している人に役立つ本とは思えない。飛ばし読みした読後感はそんなところである。

蛇足;我が国におけるインド物には“混沌”が枕詞のようについてくる。本書の原題もEmbrace The Chaos(混沌を取り込め)と“混沌”がキーワードになっている。インド=混沌は英国人辺りが言い出した連想であることがうかがえる。日本の著者は何をもってインド=混沌としたのだろう。問い質してみたいところである。

5)誰が「知」を独占するのか
最近は大きな書店がある繁華街まで出かけることがめっきり減り、現役時代のように書店に立ち寄り店内をひと巡りする楽しみがなくなった。その代りAmazonからは、こちらの関心テーマを取り上げた書籍紹介が頻繁に送られてくる。グーグルを利用して旅行計画の宿泊先候補を調べると、しばらくの間検索項目画面や友人のブログ閲覧時などにそれに関連したツアーやホテル情報などが沢山表れる。フェースブックに投稿すると、頼みもしないのに1年間の総集編を体裁よく作ってくれる。いずれも私のある種の「知(他人にとってはゴミに等しいが)」を勝手に蓄積・分析し、それを利用しているのだ。
まあ、この程度の情報であれば「誰のものか?」と目くじら立てる必要もない。しかし、何か調べ事をしている時(ほとんどグーグル検索)、いくつかの表示項目を閲覧すると、出典の明らかでない同じような内容が表示されることがある。大体は著名人・専門家のブログ、売れ筋の辞典やWikipediaに依拠しているのだが、それが記されていないのだ。ここら辺になると知的財産権や著作権法のグレーゾーンとなってくるだろう。
そして本書が問題にするのが、グーグル、Amazon、マイクロソフトなど米国大手ITサービス企業が、大学・図書館・公文書館・美術館などから収集し蓄積、公開している、膨大な書籍・各種文書(公文書、学術文書など)・画像・動画映像・音声情報(本書では総称して“アーカイブ”)である。これらの中には著作権を始め権利関係がはっきりしているものもあるが、大部分は失権していたり権利者の不明なもの(孤児著作権)が多く、その扱いは一様ではない。また、このビッグデータを利用して新たな作品を作った時(例えば小説を書く)、あるいは教育現場や調査研究に供された場合、権利問題はさらに複雑になる。どこの機関がどのように断を下したらいいのかが曖昧で未整備なのだ。加えて英語主体のアーカイブがその他の言語地域・国の独自文化を歪めて、結果的に存在感を弱めていくのではないか(一極支配と序列化;例えば、グーグルブックにおける日本語図書の少なさ)、と先行強者追認の現状に警鐘を鳴らす。
ディジタルワールドが爆発的に役割を拡大しつつある現在、アーカイブは“知のインフラ”であり、EUが取り組み始めているように(特に、対グーグル)、我が国も早急に手を打たなければならない(ある程度国会図書館を中心に進められてきているが年間のディジタル化予算はたった2千万円、これは外環道建設の86センチ分;“コンクリートから情報へ”)と訴える。
著者は知財専門の法律家(米国弁護士資格も持つ)、国(文科省)の当該分野審議会委員なども務めており、多少その面からのバイアス無きにしもあらずだが(予算取りのPR)、我が国のこの分野における現状・課題を知るにはまずまずの入門書と言える(索引があるのがいい。広く話題をカバーしている点も評価するが、それらの相互関連整理が不十分)。

6)東京タクシー運転手
社会問題(例えば原発事故や格差)を扱ったノンフィクションにはかなり注意を要する。著者、出版元の意図に政治的な偏りが刷り込まれているからだ。だから左寄りの朝日新聞出版社、岩波書店、右寄りの扶桑社、PHP研究所などが出すこのジャンルの出版物はほとんど買わないし、極端な糾弾型ノンフィクションライターの一部も避けている。それらに比べ、新潮社、文春社は新聞・TV批判が強く、ややセンセーショナルなトーンは否めないものの(学術物では岩波と比べると軽薄な感じが強い)、知りたい事実に妙な色付けが無いのが良い。
本書を書店で見たとき、まず浮かんだことは「ブラック業界告発本か?」であった。しかし、次に著者名を見て「アッ 彼なら面白いかもしれない」ということになった。
この人を知ったのは、NAVIという今は休刊(実質廃刊)になっている自動車文化誌を購読していた10年位前のことである。そこに何回か交通問題(主に自動車・道路)に関し短期連載を書いており、その一つに学生時代京都でアルバイトのタクシー運転手をしていた時の話があった。内容が単純な体験話や体制(行政、企業経営)批判ではなく、経営・健康・事故など複眼的な捉え方だった記憶が残っていたのだ。
著者は交通・医療を専門領域とするノンフィクション作家である。本書執筆の切掛けは、規制緩和とリーマンショック後に顕在してきた過剰タクシー問題の内実を種々の面から詳らかにするとことにあった。その目的で200810月から20135月まで、断続的に二つのタクシー会社(R交通5カ月、H交通2年半)に運転手として勤務し、その体験をもとに書かれたのが本書である。R交通では取材であることを経営者だけには伝えているが、H交通は潜伏調査である。
前記の記憶同様、今回も観察・分析の仕方が多面的である。多様な乗客(追われる男、長距離で喜ばせた挙句「料金振込、明日で良いですか?」)、曜日・時間帯・場所による実車具合、道に関する知識と選択、タクシー専用車の特徴(個人タクシーは別だが、タイヤを含め高速道路を飛ばすようにはできていない)、客を拾うための流し方(これがえげつなくなって事故増加につながっている)、事故とその対応、タクシーセンター・会社・運転手の関係、東京タクシーセンターによる講習と無意味な地理試験(必須)、たびたび取り上げられる“日車営収(関東陸運局がサンプル抽出した29社の営業収入)”、最近の運転手気質・マナー(タバコのポイ捨て、トランク積み下ろし忌避など)、そして経営変化(リース制への移行;タクシー会社が一定料金でクルマを貸し出す;大阪・京都の安いタクシーはすでに採用)と規制強化復活(減車)。
“運転手”のみならず、本書を読めば我が国タクシー業界の全容がほぼ理解できる。また、乗客として学ぶことも多い。ここで分かったことは、東京では簡単にやれるものではないし(著者は大手4社;大・日本・帝・国、準大手に受からなかった)、やる気も起こらない厳しい世界である。
それでも世界最大の旅行口コミサイト『トリップアドバイザー』の旅行者による評価は世界37都市の中で「タクシーのサービス」は東京が世界一。著者はこれに「事故多発、サービス精神欠如;安全・安心が全然見えてこない」と同意しない。ここでは行政や経営だけでなく運転手も含めて「問題あり」としている。ここら辺りが糾弾型作家との違いと言っていい。


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