4.1989年経営トピックス-1;役員体制
役員初年度1988年、営業利益こそオフィス統合・移転、計算センターの新設(清水)など先行投資が大幅に増え、前年を下回ったものの、売上は計画通り伸び、業界平均伸び率を上回ることが出来た。順調な経営結果を考慮すれば、東燃グループの役員人事は前年大掛かりにやっているので(SPINも社長を含め全員新任)今年は何もないはずだった。確かに最大の功労者であるMTKさんが常任監査役を退任したことは、たった4人しか役員の居ない会社にしては大きな変化だが、本来常任監査役が無かったことから考えても、3人で問題なく経営は進められるつもりであった。しかし2月下旬社長のSMZさんが予想もしなかったことをMYIさんと私に告げた。本社社長室長のOMRさんが来期から常務として加わると言うのである。
OMRさんは1955年の入社、前年大幅に役員・本社部課長が若返り、部長は1964年年以降入社が中心になっていたから、際立って古参部長ではあった。しかし、経理畑バックで一時期情報システム室の機械計算課に籍を置いたとはいえ、それほどコンピュータの専門家として存在感のある人ではなかったから率直に言って意外な感が強かった。また130人程度の会社に4人の常勤取締役は重過ぎる。加えて、前経営陣でMKN社長がMTKさんの常務昇格を懇願したにも関わらず実現できなかったポストである。しかし資本の論理には抗すべくもない。SMZさんにお願いして直接管掌部門を持たないことにしてもらった。つまり二人(MYIさんと私)の取締役を大所高所から見ていく役割に徹してもらうことだった。救いは、OMRさんが気持ちよくこの注文を請け、会社を去るまで6年間、我々の期待通りの動きをしてくれたことである。
この人事を少し深く考えてみると、社長室創設の背景と経理人脈の扱いが垣間見えてくる。社長室は1988年まで役員・役員会サービスのための秘書室として長く存在してきたが、NKHさんが副社長になってから(1984年)次第に新事業企画的な機能を取り込むようになってきていた。OMRさんがこの組織の長になったのはその秘書室時代、新規事業関係とNKHさんの官房長的役割は課長のYMOさん中心に回っており、彼の昇格は時間の問題と見られていた。一方で従来の秘書室長(株式の50%は外資だから、定例の取締役会には外国人が出席するので、皆英語の練達者)の退任後のポストはグループ内に適職が無く、前任者のKKBさんは女子大へ転職していった。しかしOMRさんは前記のようにコンピュータと多少の関わりがあったことから、自らの出身母体である経理人脈には人一倍気を遣うNKHさんがSPINでの活用を思いついたようである。
結果的に見ればOMRさんの常務就任が経営上問題になることはなかったが、個人的には将来を考える上で、かなり影響する出来事であった。一言でいえば後継者育成に関して、あまり早くから絞り込むようなことをしない方が良いとの思いである。SPIN設立検討中「受け皿会社になりたくない」と部課長で語り合ったが、実際には多くの日本企業のグループ人事同様、ある程度の天下りは避け難いことであることがはっきりしてきたので、後進に期待を持たせ過ぎると、失望させる恐れがあるからである。密かに後継者を考えておき、もし問われればそれを候補者の一人として推薦するが、少なくとも東燃が100%の株式を持っている限り、こちらからは口にしない。これが役員人事に関する私の基本方針となっていくのである。しかし、これが社長としての後半にいろいろ問題を生じることになる。これについては恐らくSPIN経営第3部(社長時代)に書くことになるだろう。
(次回;1989年経営トピックス;協力会社)
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