2015年4月8日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-19


41989年経営トピックス-2;協力会社
これは1988年半ばに始まった話だが、SPINの経営上は重要な出来事であり、この案件が本格化するのは1989年になってからなので、ここでそのいきさつを書いておきたい。
ソフト開発を主務とする情報サービス業の売上は、動員できる人員数に大きく依存する。また利益はその稼働率の関数と言っても良い。しかし、仕事はこちらが望むようなタイミングで受注できるわけではない。つまりタイムリーに人を集散できる柔軟性が事業のカギを握る。それを実現するビジネスモデルの典型はゼネコンと呼ばれる建設会社の経営形態である。つまり多様な雇用階層化と機能協業化を、適宜組み合わせていかなければならない。既にシステムゼネコン(その後システムインテグレータ;SIと称す)としての体制を確立していたIBMや富士通に代表されるコンピュータメーカ、電電公社民営化から生まれたNTTデータ通信あるいは金融機関で早くから外部システムの一括受注を手掛けていた野村総研などは、多くの協力会社を抱え、人件費を固定費化しない効率的な仕組みを作り上げていた。小なりといえども、順調な成長を続け、さらに飛躍するためには、我が社もそれなりの体制を整えなければならない。こんな時(1988年中頃)、野村證券が本社社長室に持ち込んできたのが、株式会社システムブレイン(以下SBCと略す)と言う店頭公開を目指す同業会社の増資案件だった。
SBC1970年代に日商岩井の情報システム部門にいた人達(主に岩井産業系)が独立して出来た会社で、社長は京都大学で宇宙物理を学んだHSMさんが努める、教育・学校分野に強みを持つほか、LPG販売などにも有力顧客がある、財務内容も良好な会社だった。話は株式公開に向けて安定株主を募る増資をしたいとのことだった。同業者としては先輩格、HSMさんは情報サービス産業協会の役員なども経験しているので、業界での顔も広く、資本提携はSPINにとってソフト開発要員の融通を超えてさまざまな経営上のメリットが期待できると判断した。
オフィス統合・移転や人員強化で投資はしてきたものの、4年間の経営で4億円を超える内部留保があり、次の投資先として体制強化につながる良い話である。上手くゆけばSBC株公開後売却益も期待できることなどから、SMZ社長は出来るだけ多く購入することを希望したが、HSM社長は一社に過度に傾斜することを好まず、既存の大株主や持ち株会への配分も考え、結局SPINのシェアーは増資後20%弱と言うことになった。
SBCは新規に集めた資本金をHSM社長の出身地富山県滑川市の黒部側の丘陵地に電算機センターと研修センターを建設、我が社の清水電算機センター(TSS)とは比べ物にならない、免振構造の立派な建物に他社の電算機も預かり運用するビジネスを立ち上げた。極めて健全な経営施策である。
本業の協力関係も順調に進んだ。東京では一括や派遣でいくつものプロジェクトで協業したし、SBC大阪支店は関西方面のジョブに人を出してくれた。とは言ってもプロセス工業特化の当社が教育関係ジョブを行うことはなく、大会社バックはやはり信用力が違い、大きな仕事を取れるのはこちらの方、中小企業として苦労してきたSBCに発注するケースが多かった。
資本、業務提携の次に行ったことは役員の派遣である。システム関係はこちらより歴史もあるので、先方の要請もあり経理・財務関係の担当役員を東燃グループから送り込む。この関係はSMZ社長時代を通じて双方にプラスし、自力では限界のある経営に新たな視点を与えてくれた。(しかし、バブル崩壊後、SBCが公開に備えて取得していた不動産価値に大きな減耗を生じ、経営破たんすることになる。これについては第Ⅲ部で再度取り上げる予定である)

(次回;1989年経営トピックス;事務システムジョブ)


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