2015年3月23日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-17


3MTKさんのこと
1988年の役員が創設時(1985年)と一新されたことは先に触れた。創設時役員の内、社長のMKNさんは顧問、実質的に経営を切り盛りしていたMTKさんは常任監査役、主に事務部門(特に経理)を担当していたKKTさんは出身母体の東燃石油化学(TCC)に戻った。
いずれの役員にとっても、3年間順調に業容を伸ばしていただけに、不本意な処遇であったことは想像に難くない。他の役員はともかく、情報システム部長としてSPIN誕生に当たり、経営の中枢を担っていたMTKさんには、殊更辛いものだったに違いない。最終的な扱いが決まる前に本社の社長NKHさんから、「それで良いかと?」と問われたとき「『まだ定年前なのでしばらく置かせてください』と答えたよ。だからよろしく」と告げられた時の気持ちは、「MKNさんのあとはMTKさん」と創設来考えた私にとって、事前に知っていたとはいえ、やりきれないものであった。この様な受け取り方は、私だけでなく社内外にあり、学会や業界からも惜しむ声が聞かれた。
飯田橋オフィスに全体がまとまる(12月)までは退任役員室が社内(竹橋)には確保できず、品川オフィスにそれを設けたので、新入社員時代からの長い付き合いだったMTKさんとも顔を合わせる機会は、月一回の役員会位、島流しにしたような後ろめたさを感じていた。
それもあり、本来監査役が事業の一部を担当することは認められていないのだが、小さな会社で経験豊富な人材の乏しい我が社にとって、閑職に留めておくのはいかにももったいない。本人と東燃本社やSMZ社長にも相談し、技術システムの調査活動を手伝っていただくことになった。4月にはシンガポールで開かれた、KBC(元Exxonのエンジニアが創設した英国ベースの石油精製・石油化学コンサルタント会社)のセミナーに参加してもらい、得意な英語も生かして、関係強化に努めていただいたりもした。
そんなある日、秋も深まった時期だったと思うが、横河電機のSE事業本部長をしていたTMTさんから私に電話がかかってきた。TMTさんは私より1年早く(1961年入社)社会人になったが歳は同じ、会社は違っても20代半ばからDDCDirect Digital Control;コンピュータによるプラントの直接制御)の実用化で苦楽を伴にした戦友。メーカー、ユーザーの関係を離れていつでも率直な話が出来る仲である。「MTKさん今ハッピーなんですか?もしご本人にその気があれば横河でお受けしたい」思いもよらぬ提案をズバッとしてきた。早速品川オフィスにMTKさんを訪ねその話を伝えた。数日後「前向きに考えたいので、その旨返事をして欲しい」との回答を得たので直ぐにTMTさんに連絡、あとはご本人と直接話し合ってもらうことにした。話は順調に進み、年末には翌年(1989年)3月末の株主総会を機に退社することが決まった。
3月になると東燃グループ全体を始めいくつもの送別の宴が催された。それらが皆終わり、4月に入り横河におけるMTKさんの仕事が具体的にスタートした一夜、飯田橋新オフィスに近い神楽坂の由緒ある料亭にMTKをお招きし謝恩の念を込めた二人だけの送別会を持った。費用は5ケタだったが無論私費である。
「期待以上の処遇(地位;理事、報酬)なんだよ。ありがとう」と言っていただいた。このことが1998年に大きな意味を持ってくることは、MTKさんも私も知る由はなかった。

(次回;1989年経営トピックス)


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