2015年3月18日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-16


2. 1988年経営トピックス-81988年総括。
役員一新に始まった1988年度はSPINにとって、その後を含めて激変の1年であった。社名の変更、増資、新オフィスへの移転と子会社(東燃システムサービス;TSS)としての清水電算機センター開設、海外ソフトの取り扱いなどがそれらである。
常勤役員の3名については既に紹介したが、非常勤取締役にはそれまで当社の技術システム部長であったTKWさんが本社システム計画部長に転じ、その任に当たることになった。TCS開発のキーパーソンであり、第1号システムが和歌山工場で稼働すると、1983年からは私と一緒にTTEC(東燃テクノロジー)でその外販ビジネスを立ち上げ、その成功がSPIN設立の切っ掛けとなった。当に苦楽を共にした戦友がグループ全体のIT施策の司令塔のポストに就いたことは、SPINのその後に大きく寄与することになる。後任の技術システム部長は和歌山TCSプロジェクトの現地リーダーであったMEDさんが来てくれたことも心強い人事であった。
常勤役員3名の内私を除く2名は事務系だったことは、経営に関する目を広義の技術一本槍で走ってきたこれまでの2年を見直す点で、経営の安定と発展に大いに寄与した。特に総務部の体制が強化され、経理と人事の2課が設立され、人事は労務と採用にそれぞれ専任者が当てられた。また経理は日常的な一般会計・出納事務の他、プロジェクト毎の予算・収支分析が行えるようになり、きめ細かなプロジェクト管理が可能になった。
事業を伸ばすべき外部向け営業活動に目を転ずれば、この年以前の事務系ビジネスはグル-プ内が多忙で、川鉄鋼板やIBMの社内向けシステム構築に着手してはいたものの必ずしも“プロセス工業特化”の特色を最大限に生かす仕事ではなかった。しかし、年の後半から富士通の下で電気化学工業(株)の購買・販売会計・経理システムの引き合いを受け、やっと本来の狙いに合った大型プロジェクトに取り組む機会が与えられて、その真価を試す時がやってきた。電気化学(以下電化と略す)はセメント、無機化学、石油化学など広く化学・窯業関連事業を営む、歴史のある総合化学企業で、事業所も新潟県の青海を中心に、北関東、京葉、九州など全国に広がっている。厳しい審査の後、広義の化学会社経営知識に精通していることを評価され、プロジェクトに参画することが出来たことは、川鉄鋼板ジョブと併せて、事務系SE達の大きな自信につながっていく。
これはこの年のことではないが、電化プロジェクトが進んで行く過程で、小学校・高校の同級生、MRB君が主力の青海工場次長になったり、更には後年中学校から大学(学部は違う)まで一緒だった同級生、HRM君が社長に就任したり、一方ならずお世話になることになる。
役員任命に当たり、東燃社長のNKHさんから「これからの君の評価は損益計算書次第」と言われた。初年度のそれは、売上高25億円(前年度21億円)、経常5千万円(前年度32千万円)。売り上げは20%近く伸ばしたものの、経常は激減である。前言からすれば、次年度は厳しい評価を受けても当然であるが、幸いそれは無かった。大きな理由は、一応利益は出し、業界の平均的な(売上の)伸びを上回ることが出来たからではなかったかと推察する。伸びる業界では、それから脱落しないことが生き残り条件の必須事項だからである。また伸ばすためには先行投資も不可欠で、新オフィス、人員増、製品開発(海外からの導入を含む)でかなりの投資も行った結果であることが理解されたようだ。

(次回;1989年経営トピックス)


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