<今月読んだ本>
1) 「ドイツ帝国」が世界を破滅させる(エマニュエル・トッド):文藝春秋社(新書)
2) 永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」(早坂隆):文藝春秋社(新書)
3) ドイツ国防軍とカナリス提督(広田厚司):光人社(文庫)
4) 人口減少時代の鉄道論(市川宏雄):洋泉社
5) 旅の流儀(玉村豊男):中央公論新社(新書)
6) オートメーション・バカ(ニコラス・G・カー);青土社
<愚評昧説>
1)「ドイツ帝国」が世界を破滅させる
嘗ての同盟国であり、同じ敗戦国ながら戦後驚異の経済復興を成したという点で、ドイツに共感を持つ人が先輩あるいは私の同世代人には多い。特にエンジニアの多くは大学時代第2外国語としてドイツ語を選ぶのが一般的で、医学を含め理系人間には歴史的にもこの国に対して一目置くところがある。科学技術におけるドイツ礼賛現象の典型は、日本もトップクラスの自動車生産国でありながら、本来その主流である“セダン”市場において、ドイツ車に完全に制せられていることに見ることができる。全般的に見れば日本人の対独感は「見習うことの多い国」というところではなかろうか。
しかし私にとっては、過去の本欄のドイツ関係書籍紹介でも何度か触れたように、“愛憎半ばする”ところがある。科学技術では“愛”だが政治・経済では“憎”ではないが「この国は日本にとって要注意国家である」と。
最初の切っ掛けは日本史(中学)で日清戦争後の三国干渉を知ってからである。これには仏露も加わっていたが、根源は独皇帝による“黄禍論(急伸張する日本脅威論)”にあったと学んだからである。そして太平洋戦争につながる中国を主戦場とした一連の事変・戦争である。ここでは三国同盟が発足するまで、ドイツは徹底的に中国(国民党軍)を支援していたのである。ヴェルサイユ条約後のドイツ国防軍再建の祖、フォン・ゼークトがその任に当たったことと大量の武器援助がその証左として例示できる。そしてこの背景にあるのが巨大マーケットへの地歩固めであり、その最大のライヴァルである日本叩きだったのだ。それから70年余、数々の歴史上の人種差別にはほっかむりしてメルケルの進めていることはこの時代の繰り返しである(日本と合せてロシアを抑え込む)。本書の副題-日本人への警告-を見て「オッ! 同じような考えの外国人が居るんだ」と思って手にしたのが読む動機であった。
しかし副題の“日本人”は羊頭狗肉。日本および日本人に触れた部分はごくわずかで(のちに一部紹介)、全体としては「ドイツ脅威論」である。冷戦崩壊とEUの進展は欧州にある種の「ドイツ帝国」をもたらす結果になったが、国によって異なる社会・経済事情、財政規律・金融政策あるいは外交政策、それらを縛る単一通貨制や欧州議会によって各国統治システムが混乱する。しかしEU・ユーロの最大受益者かつ経済的な勝者ドイツがこれを守るために(一部切り捨てはあるが)さらに強硬な施策をとるようになる。そしてこれが米露との対立を生じ世界規模(無論日本を含む)で拡大する。手短にいえばこのような内容である(本書出版の時点では直近のギリシャ問題は起こっていないが、読後の経緯をみると予測がピタリと当たっている!)。
先ず本書の性格・著者について概観する。
本書はタイトルの様な内容を一冊の本として書き下ろしたものではない。複数のインタビュアーが、異なるテーマを別々の時間と場所で著者と交わした対談を編集したものである。そういう意味では文藝春秋社新書編集部の作品と言ってもいい。ただ「ドイツ帝国」の概念は著者の定義であるし、それが「世界を破滅させる可能性がある」との論旨は著者の考え方として一貫している。
著者はフランス人の歴史学者・人類学者であり、しばしば日本のメディアにも登場し、独特な未来観を開陳している。それらを通じて「(米英型)自由主義に基づくグローバリズムに批判的な人」「単一通貨ユーロの将来性に懐疑的な人」との認識をしていたが「EUそのものには肯定的な人」であり、母国フランスとともにEUの中核を担う「ドイツを危険視する人」とは思ってもいなかった。本書はこの様な認識からは意表をつかれた評論集である。その根底には長らく欧州大陸の盟主を競ってきた仏独の歴史が影響していることは十分考えられる(つまりフランスバイアスのかかったドイツ観)。
では著者が定義する「ドイツ帝国」とは?これは現在のドイツ連邦共和国ではなく、EUおよびその周辺でドイツの影響下に置かれ、それに従う国々を含む。完全にドイツ圏に組み込まれているのはオーストリア・チェコ・ベルギー・ルクセンブルク・オランダ・スイス・スロベニア・クロアチア、自主的従属国はフランス、事実上の被支配国はアイルランド・デンマーク・スペイン・ポルトガル・イタリア・スロバキア・フィンランド・ルーマニア・ギリシャなど、併合途上はウクライナ・グルジア・旧ユーゴスラヴィアの一部、反ロゆえにドイツに従うのはスウェーデン・バルト3国・ポーランド。これらに対し英国とハンガリーは離脱途上にある。出来上がるのはドイツを中核とする“中欧帝国”である。
ドイツ覇権拡大の切っ掛けは先ず経済から始まる。東欧の取り込みは著しくドイツ経済に有利に働いた。特に大きいのがこれらの国々の人材が南欧に比べ教育程度・勤労意欲が著しく高かったことである。質の良い製品を安い労働コストで作り、EU内でマーケット支配を確立する。加えて通貨統一がドイツに利した。この経済力優位が次に政治力に向かう。単独行動するドイツが利用するのが西欧に存在する「ロシア脅威論」である。ウクライナ問題は当にこの典型、この問題は決してロシアから仕掛けたものではなく、ドイツが起こした混乱である。ここへ米国まで引き込みロシアとの対決構造を世界規模にする。しかし、いまでこそ米国はドイツに同調しているが、本質的に米英の自由主義思想とドイツの考え方(統制・規律の下のデモクラシー)は合わなくなり、米国と「ドイツ帝国」の衝突が始まる。つまり、「ドイツ帝国」は米露と対立することになる。行き着く先(ドイツ帝国が勝利した場合)は「ヨーロッパ民主主義の破壊」「ユーロ全体主義」「戦争なき独裁」
ヨーロッパの序列化は既に始まっている。このままドイツの独走を許してはならない。フランスは何をすべきか?ユーロを打ち砕くことができる唯一の国はフランスなのだがサルコジもオランドも官僚もその力はない。ドイツの力に種々弱点のあることを述べるものの、フランスの力については悲観論に終始する。
さて日本に関する話題である。
ロシアと日本の結びつきは論理的に自然である。冷戦終了で双方に安全保障上の懸案事項はない。ロシアには資源、日本には技術と資本がある。ウクライナ問題に本来関わりの無い日本が西側陣営として組み込まれ、対露関係がぎくしゃくしているのはドイツ覇権主義のとばっちりである。もっとロシアとの外交に踏み込むべきだ。(著者は、ロシアの復興がドイツ覇権主義を抑え込む力となる、と考えている)
しばしば日独は比較される。確かに歴史的に直系家族中心構造(権威主義につながる)からその社会を同一視するところがあるが、実態は日本では権威はより分散的で、常に垂直的であるとは限らず、より慇懃である。また日本の文化が他人を傷つけないようにする、遠慮するという願望に取り憑かれているのに対して、ドイツ文化はむき出しの率直さを価値づける、と見て日本社会により好ましい評価を与える。
地域の安全保障問題を考える場合、ドイツと比せられるのは日本ではなく中国である(中欧帝国と中華帝国)とし、その覇権主義に警告を発する。ただ中国の実力について「中国はおそらく経済成長の瓦解と大きな危機の寸前にいる」とし、編集後記で中央公論に記載された「西洋の企業から見れば、目にしたこともないような利潤をもたらしてくれる国」(だから)「中国を肯定的に言うことには利益がある」という発言が紹介されている。ここら辺りは西欧人の本音に近いのではなかろうか?嘗てヒトラーが蒋介石を支援し、メルケルが何度も中国を訪問し、時に中国におもねるような発言をするのは、当に著者が指摘した中国観から来ているに違いない。
先にも述べたように一冊の本として書かれたものではないが、“「ドイツ脅威論」の虚実”という点では説得力のある内容に仕上がっている。ではそれに対して今後欧州各国は、米国は、日本は、如何に対独関係を進めるべきかが明示されない点にやや物足りなさが残る(正面から危機意識をもって対処しているのはロシアだけ、との見方はかなり具体的に示される)。しかし、現代世界をドイツ中心にとらえ、分析することは日本では見かけないだけに新鮮さに満ち、現代国際社会理解の一助としてお薦めの一冊である。
2)永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」
近代の戦史・戦記(第一次、第二次世界大戦)は好みの読書分野である。ただ関心の中心は兵器システム(航空機・戦車・潜水艦・空母)にあるので、日本軍の場合は海軍に関わるものに著しく偏っている。唯一陸軍に対する関心事は出生地満州に関係するもので、ここでは戦闘や兵器よりも専ら政治絡みの世界を扱ったものが主体になっている。つまり戦史というより現代史・昭和史の類に分類されるものである。そして多くの本から記憶に残る登場人物を思い起こすとき、ほとんどが関東軍上層部や参謀本部に勤務した者の名前しか浮かんでこない。つまり軍令系統の人ばかりなのである。
軍の組織を大別すると、作戦を練り命令を発する参謀本部から実戦部隊につながるラインが軍令系統、これに対して内閣の下で軍の予算・人事・政策立案を担当するのが軍政系統と二分される。国家戦略策定や大規模な戦闘行為においては両者の緊密な連携が前提になるが、前者に比べ後者は一般国民に分かるような華々しい活動を欠くので、その実態はなかなか理解しにくい。また旧日本軍では統帥権が天皇にあることから、軍令側が軍政側を抑え込むことがしばしば起こり、軍令優位の印象が強いことも軍政側を見えにくいものにしてきた。本書の主人公永田鉄山はその軍政の専門家である。
永田鉄山の名前は昭和史の中に「斬殺事件」の被害者として留められ、私もこの事件とともに記憶することになる。それが単なる殺人事件ではなく、翌年(昭和11年)に起こった2・26事件と深く関係するからであり、この2・26事件が軍による国家支配への道、延いては太平洋戦争へとつながることになったと歴史家・ジャーナリスト・作家の多くが分析しているからである。
これらを通じた私の永田鉄山理解は極めて表層的なもので、陸軍の2派閥(皇道派、統制派)において永田は統制派に属し、人事面から、天皇親政による国家改革を唱える皇道派の勢力を陸軍から排除しようとしていると信じた相沢中佐がことにおよび、それを神聖化した若手皇軍派将校とその同調者が2・26事件を起こした、という程度のものである。つまり派閥争いの果てに殺られた一方の雄という認識であった。
しかし本評伝を読んで、あの時代(昭和10年8月)この人を失ったことは日本にとって大きな損失だったという気になってきた。先ず派閥に関することでは、下剋上さえ辞さずの一部若手および彼らが信奉する荒木・真崎両大将の言動に批判的であったことは確かだが、統制派のリーダー(東条英機など)の一人とみるには無理がある。何故ならば、永田の信ずるところは軍内のあらゆる派閥を解消したいという点にあり、2派閥問題に先立つ時代長州閥の力を削ぐことに傾注し、それをほぼ実現しているからである。
また満州事変(昭和6年)以降独断専行する現地軍を抑えるための政策遂行や予算面からの制約を課し、(天皇・内閣の)不拡大方針に沿う軍政推進に努力している。このような軍の諸事独善拡大風潮に対する抑制は、第一次大戦時に欧州駐在(ドイツ、スウェーデンなど)で“総力戦”の実態を身近に体験し学んだことが大きく影響しているようだ。そこには日本の国力に合った戦略・体制づくりを常に考えながら軍行政を行うことを心がけていた有能な軍事官僚の姿が浮かび上がってくる。この様な信念に基づく合理的で怜悧な懸案事項処理は地方幼年学校(東条英機の1年先輩)・中央幼年学校・士官学校・陸大(陸士同期では最速)といずれも首席・次席(陸大のみ2番)で通した優れた資質と実戦部隊で目立った活躍がなかったことと重なって(ほとんど教育総監部と陸軍省勤務)、陸大出の少なかった皇道派将校団怨嗟の素地を作り、一途な相沢中佐が凶行におよんだという見方も、組織で働いたことのある者には納得できる推論である(軍法会議における相沢の動機追及はあいまいで狂人説まで出るが、昭和11年5月に銃殺刑が確定する)。永田排除に成功した皇道派は2.26事件で一気に凋落、派閥抗争は統制派の勝利で終焉するが、そこには冷徹で合理的な組織運営に長けた永田はもういない。その後に起こる盧溝橋事件(日中戦争への引き金;昭和12年7月)やノモンハン事変(昭和14年5月)で軍部独走を許し、やがて太平洋戦争につながっていく経緯を振り返れば「永田斬殺事件は昭和史の分水嶺」との仮説が真実味をおびてくる。
本書は「もし永田が斬殺されなかったら」を仮想追求する内容ではないが、生い立ち(諏訪出身;医家に生まれるが父が早世、陸軍中尉だった次兄を頼り家族と上京、費用の掛からない軍学校に進む)から死(享年51歳;少将、死後中将に進級)に至る生涯を丹念に追い、永田の人生観・職業観・世界観・処世観を資料・証言からクローズアップして、仮説(“もし”のその後)の実現性を読者に推察させる書き方になっている。そのため、著者の主人公に対する思い入れを極力避ける淡々とした表現と展開になり、いささか盛り上がりを欠く。しかし、軍政という地味な仕事に適職を得た主人公の歴史的役割を落ち着いて理解し咀嚼するにはこれで良いのだと思ったりもする。端的に言えば、面白い本ではないが“軍政面からの軍の統制”を強く印象付けられる作品であった。
3)ドイツ国防軍とカナリス提督
第二次世界大戦欧州戦域における諜報活動は大戦略から小さな作戦まで汗牛充棟の感があるほど出版されている(本欄でも数冊紹介した)。ただ日本で紹介されるものはほとんど英人作家による英語原著を翻訳したもので、英国(連合国)側の視点に立つものばかりである。ドイツ側が記されていてもそれは脇役に過ぎない。これにはいくつか理由がある。先ず、あの大戦における諜報活動は連合国側では英国が抜きんでていたこと。米国はOSS(のちのCIA)を組織するが、この手本は英国対外諜報部MI-6である。勝った側には資料や関係者も多数残っている。そして何と言っても英国人はスパイ物(小説もノンフィクションも)が大好き、一流の書き手も多い。他方ドイツ側の著作が少ないのは、資料が処分・散逸していること、関係者は戦時中のこのような分野での活動を明らかにしたがらないこと、ドイツ語の優れた翻訳者が少ないこと、などに依るのだろう。私には“ドイツ国防軍情報部(アブヴェア)”あるいは“カナリス提督”をタイトルにした日本語書籍を、本書を知るまで目にしたことはなかった。購入動機はそこにある。「ドイツ側からその諜報活動を確り学べるのではないか」と期待して。
そして、期待は見事に裏切られた!内容は、“反ヒトラー活動とカナリス”に終始し、ドイツ諜報組織解説を除けば、軍事作戦における対英米・対ソ諜報活動はほとんど記されていない(情報分析の曖昧さをヒトラーに叱責される場面は何度かあるが)。
アブヴェア(国防軍情報部;部長はカナリス)は国防軍最高司令部(総司令官ヒトラー)直轄の諜報組織でナチスとは切れている。一方のナチス組織には親衛隊(SS;最高司令官はヒムラー)の下に保安部(SD;のちにゲシュタポや刑事警察も取り込み中央保安本部、RSHAとなる)があってここが諜報活動の元締めとなる。ヒトラー暗殺計画を巡るアブヴェアとRSHAの争いを、カナリスと同志とみられた人物の動向を軸に、ナチスドイツ崩壊とカナリス処刑(ドイツ降伏1ヶ月前)までを辿るのが本書の骨格をなしている。反ヒトラーとその暗殺計画、国防軍と親衛隊の争いは、確りした内容のものが何冊も既に刊行されているので、この本を読むまでもなかった。対英米諜報活動に触れた章もあるが、断片的な出来事のつまみ食いでまとまりがなく、反ヒトラーとの関連も希薄で、いかにも洋書の何冊かから抽出したトピックスをつなぎ合わせた感を免れない(引用文献リストなし;AmazonでWilhelm Canarisと入力し関連書物をあたるとネタ本らしきものが数冊見つかった)。多少使いものになる情報はアブヴェアの組織図とカナリスの経歴くらいである。
蛇足:欧州大戦を日本人が扱う場合、第一情報は既に欧米で刊行された書物になる。それも先に述べたようにドイツ語やフランス語、ロシア語の資料に直接当たれる力を持つ人はごく少数(ドイツ語からの直訳では故松谷健二訳は優れている)なので英訳されたものから引用する。つまり孫引き・曾孫引きになるので、著者・出版元と用語・内容確認作業なども出来ず、充分著者の伝えたいところが伝わらぬ恐れがある。この点で故児島襄の「ヒトラーの戦い」(書下ろし週刊現代連載、文春文庫全10巻)は現地取材までした作品、調査は綿密で戦史としての価値があり、読み物としては臨場感抜群で楽しめる。所詮光人社あたりのセミプロ戦記物書きとは格が違う。
4)人口減少時代の鉄道論
先月和歌山電鉄貴志川線貴志駅のたま駅長が没した。JR和歌山駅と紀ノ川南岸の町貴志間を結ぶ僅か14kmのローカル鉄道を廃線の危機から救った功労者である。1962年から7年余和歌山(有田)で暮らした鉄道ファンとして、あの線が生き残っていることは奇跡としか言いようがない。2代目猫駅長で末永く存続してもらいたいものである。
この在和時代、和歌山県北部(紀北)・中部(中紀)には幹線として国鉄紀勢本線があり、これに私鉄の貴志川線、南海本線、南海和歌山軌道線(和歌山市および海南市)、野上電鉄(海南市)、有田鉄道(有田郡)、紀州鉄道(御坊市)などが紀勢線と結んでいた。当時の社員はこれらローカル鉄道を利用する人も少なくなかったが、現在営業しているのはJR紀勢線と貴志川線のみである。
本書は全国JR、大都市の私鉄、特定地方の私鉄や公営鉄道(第3セクター運営を含む)の現状と将来を人口減少の視点から分析し、過去の経験も踏まえ、今後の利用客維持・増加対策や見通し、鉄道事業の経営改善あるいは新線計画を論ずるものである。
内容を要約すると;
・首都圏の一部路線(JR、私鉄)と東海道新幹線は生き残れるものの、京阪神を含め大都市とその周辺でも経営は厳しい状況に置かれることになる。また、東海道新幹線以外の新幹線も問題含みである(出版時点で北陸新幹線は開通していない)。地方中核都市の地下鉄も経営の先行きは明るくない。
・これを各社の経営指標を用いておおまかな分析を行う。ここではかつて五島慶太が「都市は西へ延びる」と喝破したように、大都会の西部・南西部と中心部を結ぶ鉄道に比較的余裕があり(首都圏の場合;西武、JR中央線、京王、小田急、東急など。これらの線を南北に結ぶJR横浜線も“棚ぼた効果”が見られる)、他方東部、北部へ向かう線(JR常磐線、東武、関西では近鉄など)は停滞傾向にあることが浮き彫りされる。
・大都市比較では首都圏の一人勝ち。名古屋は全般的に鉄道への依存度が低く、京阪神は一部のドル箱路線を除き凋落傾向にある。
・高度成長時代の典型的な増客対策は新線敷設を含む沿線開発(住宅地、学園都市、産業誘致、イヴェント施設)だが人口減少時代、同じビジネスモデルは通用しない。また、鉄道が長く追求してきたスピードと大量輸送という考え方も経営改善につながらない。
・一方でJRを含む鉄道各社は駅周辺に未利用・再利用可能な膨大な土地を所有しているところが多いのだが、その資産が有効に活用されていない。その資産(負の資産を含む)を狙って新株主(外資を含む)が現れ、経営に大ナタをふるう(資産売却や赤字路線廃線で利益を上げ投資回収を図る)可能性がある(西武鉄道の例)。
・改善策としては、鉄道輸送によるものは限られており(観光:たま駅長・外国人観光客の取り込み・豪華観光列車、新線建設:都内西部や湾岸地区と羽田空港を結ぶ線や相鉄線の東横線・JR線への乗り入れ、サービス内容:確実に座れる;追加料金)、資産活用を図る(カネ;京成のディズニーランド出資(路線はないが、経営危機を救った)、土地・場所;駅周辺・エキナカ)諸策を提言する。地方では道の駅を参考に駅周辺の土地活用を抜本的に見直す;医療施設なども誘致してコミュニティセンター的な機能を持たせる。
・鉄道は他産業に比べ“信用力”がある。これを利用して新規事業に取り組む。ここに例示されるのは、倒産した紀州鉄道の名義を買って紀州とは全く関係の無い場所(軽井沢など)で不動産業に転換し成功している例。
以上、人口減と鉄道との関係はそれほど目新しい内容ではないが、それぞれの地域で日常的に鉄道を利用している者にとってそれなりに興味を惹く話題は多い。しかし、愕然としたのは最終章近くでリニア-新幹線を賛美していることである。私もエンジニアとして、技術的には大いに関心はあるが、これからの日本にとってこれが必要とも経済的に成り立つとも、愉快な乗り物とも思えない。まして人口減を主題とする本書でこれに期待する考え方が出てくるとは想像もしなかった。万が一経営的に成功したとしても、今でも過度な東京一極集中を決定付ける以外の何も無く、ここに我が国鉄道の将来像を期待するには無理がある。
このリニア-期待説に疑問を持ち、和歌山の例を、人口論の観点から考察してみた。先ず県人口推移(5年毎;千人)は、1960年;1,002、1965年;1,026、1970年1,042、ピークは1985年の1,087、直近のデータは2010年の1,002と減少し、数字の上では1960年と同じレベルにある。人口だけ見ればローカル鉄道が存続してもおかしくない(JR紀勢線の運行頻度は当時と大差ない。むしろ新大阪への直通や関空への接続性など利便性は向上している)。そこで人口統計をもう少し仔細に調べてみると、65歳以上の人口が占める割合(%)がクローズアップされてくる。1960年;7.3%、1965年;8.0%、1970年;9.2%、1985年;13.2%、2010年;20.7%と急速に老齢化が進んでおり(0~14歳の減少データもあるが省略)、社会活動の中核を担う層が激減しているのだ。これにこの50余年の交通システムの変化が大きく影響して、働き盛りの自動車利用シフト(当時の工場従業員通勤はほとんど鉄道だったが、今は圧倒的に自家用車)が、ローカル線消滅を生起させていることが分かった。
つまり人口数だけでなく年齢分布(少子高齢化)、更には国・地方自治体の施策(インフラ財政投資、地方振興策、税制など)、企業の経営変化(工場の集約化、海外移転、各種合理化・省力化など;和歌山工場を例にとると1962年千人以上居た正社員従業員は現在1/3程度までに減っている(協力会社員も大幅減)。一方で装置の数や精製能力は約3倍)を分析に加えないと鉄道の将来像とそれへの対応策見えてこないということである。
ここから本書を評すれば「所詮首都圏を中心に大都会しか見ていない」机上論と見做すことができる。裏カバーの著者紹介に東京都の政策審議委員なども務める「東京研究の第1人者」とあり納得した。それにしても学者としては見方が浅く狭い!まあ、雑談のネタとしては面白い話もあるが(例;駅名まで変えたスカイツリーは東武鉄道の経営改善に結びつくほどにはなっていない)。
5)旅の流儀
1990年代初めころよくこの人の書いた旅行や料理に関するエッセイを楽しんだ。都会のいい家庭で育った雰囲気をうかがわせる、自然体で嫌みのない筆致が好きだった。学生時代(東大仏文、1980年前後)にフランスに留学、パリ大学に所属しながら勉強・研究よりも通訳・翻訳などのアルバイトに精を出しことがきっかけで、帰国後旅行会社勤務で添乗員などをしてきた人である。しかし、サラリーマンを辞めて信州で百姓を始めてから、著作を目にすることがなくなった。久し振りに書店で本書を見て、「あれからの人生はどうだったのか?」という好奇心もあり即購入した。
読んでみて分かったことだが(題名からも推し量れるが)、田舎での隠遁生活でその後を過ごしてきたわけではなく、“旅”との関わりは続いていたのだ。ただやりたい仕事・(田園生活を乱さない)やれる仕事に絞り込んでいるようである。例えばTV旅行番組制作のコンサルタントや同行解説者のような仕事である。そして本書も「旅行読売」に寄稿してきた“旅の空”と名付けられた旅に関する数々のエッセイに書下ろしを加えて作り上げたものであった。本業は当初移住した軽井沢の野菜栽培から八ヶ岳山麓に移り、ワイン造り中心の農業に切り替えそこでレストランも経営するようになっていた。若き日フランスで惹かれた世界を実現したわけである。「(今年70歳)いい人生だな~」
39話は、時間軸で見れば、若い時の思い出話からレストランで客を迎えるようになった現在まで、場所も外国ばかりでなく国内も取り上げられる。旅行の種類はグループもあれば個人旅行もある。話題は、旅行道具の話から、パッキングの仕方、乗り物(クルーズから自転車まで)の話、旅先での過ごし方と日常生活の関係、同行者の言動、ヒッチハイクの要領、旅先で読む本、各種のトラブル体験、そして当然食べ物・料理まできわめて多彩だ。いずれの内容も、我々の旅と大差なく、共感を覚えることばかり。
著者が一緒に旅を楽しめる人の要件;
・時間を正確に守る人(自分は少し早目に行って見えないところで調整するタイプ)
・食べ物の好き嫌いが無い人
・好奇心が旺盛な人
・旅で体調を崩さない人
食べ物の好き嫌いには若干問題があるが、私も連れて行ってもらえそうな気がする。
著者の旅の楽しみ方;
旅は非日常であるとはいえ、非日常ばかりでは疲れてしまう。自分が毎日やっているのと同じことを、よその町では、外国では、人はどんなふうにやっているのだろう。そう思って見ると、・・・・、かえってはっきりと異同が目に見えて、わかることが多いものだ。(例えば洗濯屋をのぞいて、どんなハンガーを使っているのかみせてもらう)
その点では私は本屋に入るのが楽しみだ。
読後感は「(自らの旅が)ヴェテランのそれと大きく違いのあるものではなかったな~」という安堵感である(もっとも、英仏語を自在に操れるのは大違いなのだが・・・)。
6)オートメーション・バカ
何とも軽薄な日本語タイトルである。オートメーション(自動化)に頼り過ぎると本来の人間が持つ能力が低下するよ、と。英語の原題は「ガラスの檻」、中に囚われているのは人間、外の世界は見えているが何も手を出せない。いずれも自動化と人間の関係を突き詰めた内容を、上手く表した題目であるが好みではない。本欄で既に同じ著者による二つの作品「グーグル化する世界」「ネット・バカ」を紹介している。このうち「ネット・バカ」はベストセラーにノミネートされていたから“柳の下の二匹目の泥鰌”を狙ってつけられたのであろう。
クルマ好きの私にとってカーナビなど唾棄すべきものだった。ドライブに際しては各種地図で何度も事前ルートチェックを行い、それを表にして頭に入れ、現場で道路標識やランドマークを瞬時に確認して目的地に達する。これこそドライの楽しみ、運転技術の極みと信じていた。しかし、8年前スポーツカーを入手した際、これからは遠隔・未知の土地を走ることが多くなるからと、補助手段のつもりでカーナビを装備した。爾来欠かせぬ道具となり、どちらが主人でどちらが奴隷だか分からぬ状態である。明らかに判断レベルからハンドルさばきが変わってきている。これは本書で語られる、イヌイット族が天性の方向感覚をGPSによって失っていく例と同じだ。アルツハイマー病につながる恐れもあるのとのこと!だからといってカーナビを外すことは出来ない。
本書によれば、大型航空機の自動離陸・着陸実験は1940年代後半に成功していたという。そして今や技術的には完全に実現可能である。一方最近の航空事故は自動・手動切り替えと深く関わるものが相対的に増えている。医師は誤診を恐れコンピュータ支援システムに頼るようになってきている。患者と対話するよりスクリーンを見つめている時間の方が長いくらいである。検体は自動分析、診断書は作成コピペが主流、処方も画一的になる。これは医療の本質を歪めることにつながっていく恐れがある。いずれもプロフェッショナルの認知・思考プロセスまで影響している可能性が高い。
この現象は科学技術の範囲にとどまらない。建築デザイン(シンプルな手書きデッサンを省略して、いきなり3次元CAD(自動設計システム)で見栄えの良い外観図や構造図を書き上げる;手書きの段階こそアイディアがわいてくるのにそこを端折ることになる)や文学作品創作まで広がってきている。これらの例のように高度オートメーションの先には人間自身と社会の大変革が生起されることが予想される。別の見方として“人間とは何か”を改めて問い直すことになる。
本書は日本語タイトルから予想される反オートメーションを論ずる内容ではない。批判すら穏やかである(自動化積極推進者の声も随所で取り入れている)。それは著者自身ある面ではオートメーションを評価しているからであり、執筆動機が“知”に焦点を当てて、人間とオートメーションシステムの最適共存条件を見つけ出すことにあるからである。
この目的を詰める手順として、具体的な最新機械化・自動化技術とその適用事例を解説するとともに、それが人間および社会に与える影響・変化を、自動化思想の歴史的変遷(国富論や機械打ち壊し運動から説き起こし、マルクスの考え方、ノーバート・ウイーナーの“人間機械論”、さらにはその後の論評まで)、人間工学、認知科学、脳科学、心理学、数理科学あるいは経済学(特に失業との関係)、社会学や倫理学の観点から考察を加えていく。ここには各々の分野の最新研究を含む大量の参考資料が動員され(参考文献・注リスト;30頁)、著者の熱意のある執筆姿勢を伝えるとともに、本書の内容に深みを与えている。
著者の到達する結論は「ガラスを通さない、直に触れられる世界」ということになるが、もう少し具体的にいえば「完全な自動化ではなく、人間に何かを要求するオートメーション」ということになる。さらに解釈を進めれば「ある種の不安定領域(技術進歩によりこの領域は変化する。ただ縮小するわけではない。何故ならば社会も人間も変化していくからである)があり、それに近づくと人間の助けを求めるシステム」といえる。
オートメーション(自動制御)は私の専門職としての原点である。数々の自動化システム・省力化システム実用化に携わってきて、この結論は充分にうなずける。また、本書は自動化に関する名著であることを保証する。
蛇足:新国立競技場で話題になったロンドンのザハ・ハディド建築設計事務所は(スケッチなしの)コンピュータによる3D設計先進ユーザーとして本書に登場する。
(写真はクリックすると拡大します)
1 件のコメント:
Great work. Truly speaking I never seen a blog like that. Absolutely superb work. Good luck. Thanks for such an informative post.
日独英 通訳/翻訳サービス
コメントを投稿