2015年12月31日木曜日

今月の本棚-88(2015年12月分)


<今月読んだ本>
1) 多数決を疑う(坂井豊貴):岩波書店(新書)
2) キム・フィルビー(ベン・マッキンタイアー):中央公論新社
3) 中国人の頭の中(青樹明子):新潮社(新書)
4) バッテリーウォーズ(スティーブ・レヴィン):日経BP
5) 老兵記(加藤正善):文芸社(文庫)

<愚評昧説>
1)多数決を疑う
国政選挙で1票を投じ、その結果議員や与野党が決まる。ここまでは(1票の格差は一先ず置いて)民主的で公平に思える。しかし、彼らが決める法案や予算案に違和感を持つことが多くなってきている。一言でいえば「あまりに老人に有利な世の中になってきている」ように感じるのだ。高齢化が進む日本なら当然とも言えるが、これでは将来はない!問題の根源は誰にでも1票が与えられるからだ。随分前から勝手に主張しているのは「(個人としても国民としても背負う重荷が異なるのだから)20代前半以下と7089歳までは1票、20代後半は2票、30代~40代半ばは3票、40代後半から69歳までは2票、90歳以上は選挙権無し」で国も大多数の国民も先に希望を持って生きられるのではないか、と言うことである。そんな観点から本書のタイトルに惹かれた。
読んでみて、直接自説を肯定するものではないが、1票がすべてを制するような投票に批判的な考え方が根底にあることに私の問題意識との共通性を覚えた。タイトルから推察するように選挙との関係が深いものの、もっと広い範囲の社会的選択(当然政治を含む)を扱うもので、いわば数理社会学とでも言える性格の内容、数理と長く関わってきたにもかかわらず、初めて知る研究領域であった。
話しは2000年の米国大統領選挙から始まる。あの時の選挙では民主党のアル・ゴアと共和党のブッシュ・ジュニアが対決するが、ここにラルフ・ネーダーが立候補したことで、決定は数日遅れるほどもつれる。ラルフ・ネーダーに流れた表の大半はゴア政策支持者だったと分析されており、ゴアの主張の一部(環境問題)を極端に強調した泡沫候補のネーダーがその後の世界を決した結果になる。もし彼が立候補しなければ、あるいは“2者決選投票方式”や“点数付与選択システム”があったらゴアが当選して、イラク戦争は起こらず今に続く中東の混乱はなかったのではないか?こうして単純な多数決方式に疑問を投げかける。
選択肢の多様化はさらに進んで、複数の候補者が複数の政策で他者と争い各候補者の他者に対する勝敗数で当選者が決まる方式(リーグ戦のような)やさらにこれを点数付与方式で決めるケース、その結果がじゃんけんのように三(あるいはそれ以上)すくみになることを避けるルール(非サイクル論)、棄権の意義・扱い、課題に依る投票資格の影響などが紹介される。
このように選択方式を体系的に整理されその長短を示されると、単純な多数決方式投票に依る社会的選択を“最も公平で民主的”だと教えられ理解してきたことを再考させられる。著者が投げかける、その極めつけは憲法改正である。現憲法下では“衆参両院で3分の2以上と国民投票による多数決”となっているが、これを“両院で過半数”に改める案を主張する意見が出始めていることを問題視する。「小選挙区制の下で選ばれた者は、選挙区で2分の1以下の得票数であることもある。これらは(ゴア対ブッシュのように)多数を代表していない。非サイクル論に基づく64%が適正」と言うのだ(現状の3分の2を支持;著者は改憲議論に賛成反対は何も述べていない。あくまでも社会選択論の一環として肯定)。私は改憲賛成であるが「なるほど」と納得した次第である。
著者は慶大経済学部教授。この数理に基づく社会選択論は革命前後のフランスで起こったもので(現在も研究の中心はフランス)、その歴史をかなり詳しく学べたことも大いなる収穫であった(点数付与方式を提唱する数学者コンドルセは革命後の国民公会の副議長だったが、過激派のロベスピエールと対立、処刑される)。数理そのものは加減乗除程度だから誰にも容易に理解できるので「多数決と民主主義」に“何か”を感じている人にはお薦めである。

2)キム・フィルビー
20075月から10月まで英国ランカスター大学でOROperations Research;応用数学の一分野;軍事作戦を数理的に扱う)の歴史を研究した。最も時間を費やしたのはその祖と言われるP.M.ブラケットのこの分野における活動であった。 1897年生れ、海軍兵学校で学び第一次世界大戦に従軍、その後ケンブリッジ大学に進み、第2次世界大戦時はマンチェスター大学物理学教室主任、戦後ノーベル物理学賞を授賞、王立アカデミー会長も務め、最後は男爵に任じられる超一流の科学者である。
そのブラケットについて、研究指導教官であった経営学部カービー教授が彼について語ってくれた背景説明は今でも記憶に残る。「彼は戦後一時期共産主義者と疑われ、チャーチルに原子力行政に関わることを禁じられ、米国への入国もそれを理由に拒否された。しかしそれは大いなる誤解である。確かに労働党と深い関係は有ったし、(フェビアン協会会員として)大学生時代左翼活動に注力したことは事実だが、こんな行動は192030年代英国の大学ではごく一般的な風潮だったんだ」とこっそり秘密を漏らすような口調で語ってくれた。
本書の主人公キム・フィルビーの生年は1912年、1929年にケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学するする。当にカービー教授が言う若者が共産主義を礼賛した時代である。彼もブラケット同様学内の社会主義活動団体に加わり、やがて共産主義に共鳴、のちに“ケンブリッジ・ファイブ”と称される5人の仲間と秘密党員としてソ連NKVD(のちのKGB)工作員にリクルートされる。
学業を終えて先ずついた職業はジャーナリスト、タイムズの特派員としてスペイン内戦(ただしソ連が支援した共和国軍側ではなくフランコの国民戦線側)、次いで英国欧州遠征軍に同行して第二次大戦に従軍する。しかし、彼が狙っていたのは(NKVBが望んでいたのは)英国対外諜報部(MI-6)の部員になることであった。つまりソ連側の二重スパイである。そこに至る紆余曲折は本書に委ねるが、まんまとそれに成功、戦後しばらくまでその正体が暴かれることがなかったばかりか、MI-6駐米代表から、MI-6長官をうかがうポストまで昇進していく。この間第二次世界大戦中の重要な軍事・外交情報、さらには冷戦に関する米国情報までもがソ連に流され隠密作戦は失敗、東側に構築したスパイ網は砕かれ、西側エージェントが消えていく。
抜群の人当たりの良さ、話の旨さ、巧みな(本性とも言える)感情抑制。彼と近づきになったものはたちまち魅せられてしまう。生まれながらのスパイ資質と言ってもいい。身近な誰もが二重スパイなどとは全く疑わない。唯一FBIのフーバー長官を除いては(MI-6から情報が流れているらしい、と言う程度)。
これが露見するのは1950年代初めケンブリッジ・ファイブのドナルド・マクレインとガイ・バージェス(両者とも外交官)が相次いでソ連に亡命し彼らと懇意にしていたキムが第三の男として浮かび上がり、徹底的にMI-5 (国内治安情報部)に調べられ、状況証拠しかなかったものの、高度の政治的判断(米国も関係する)でMI-6を追われる(形は辞任)。二重スパイと決定付けることは出来なかったものの公務にはつけず、ジャーナリストに戻ってベイルートで活動中、KGBの英亡命者からの情報でキムの嫌疑が深まり、親しい友人(ケンブリッジの後輩だがMI-6では先輩)であったMI-6の上級管理職ニコラス・エリオットが現地調査に赴き、差しで尋問を行う。しかし、二重スパイの確証を得ながら身柄拘束をためらっている間にモスクワへ亡命されてしまう(1962年)。のちにレーニン勲章を授与されるほど価値あるスパイであったのだ。1988年モスクワで没。
本書の著者は、タイムズのコラムニスト、副主筆からノンフィクション作家に転じたベン・マッキンタイアー。本欄でも既に第2次世界大戦3部作、「英国二重スパイ・システム」「ナチを欺いた死体」「ナチが愛した二重スパイ」を紹介しており、いずれも綿密な調査に基づく内容と記述は、その時代や社会がよく理解できるばかりではなく、臨場感に溢れすぐそばで出来事を体験しているような心地で読み進めることが出来た。今回もそれは変わらないが、首相、外相を含む実在の有名人が多数登場(グレアム・グリーン、イアン・フレミングなどのMI-6時代も出てくる)、これらの人々の事件発覚に至る言動も活写されて、世界の節目となる歴史の一コマに同席しているような高揚感がさらに加わる。長い解説を当代一級のスパイ小説作家ジョン・ル・カレ(一時MI-6に所属)が書いているのも、著者の力量の高さの証明であろう。
キム・フィルビーに関する著書は自伝を含め多数出版されているが、いずれもスパイ活動と軍事・外交の関わりを主題にしている。それらに対し、本書は関係者の人間的な面に重点を置いて記されている点が他書と異なる点と言える。例えば主人公はキム・フィルビーその人だがキムを最後に追い詰めることになる同僚(MI-6部員)のニコラス・エリオットあるいは親しかった米国OSS(のちのCIA)捜査員のジェームス・アングルトンとの交友を通じてキムを描いていくところや、属した階級(上流)や同窓(ケンブリッジ)の絆の強さ、さらには別れた妻たち(3名;最初の妻はオーストリア共産党員)の視点からキムの人となりを探るところに単なるスパイ物とは一味違った、ある種の心理劇・社会劇(英国社会における閉じた仲間と部外者の違いが、キムが疑われなかった大きな要因である)を見るような読後感を得た。

3)中国人の頭の中
尖閣諸島も南沙諸島も南京事件世界遺産登録も「けしからん!」と思うのだが、そんな個人的な感情には関わりなく、世界における中国の存在感が増している。少しは現代の中国を知っておく必要がある。しかし、汗牛充棟の反中・嫌中本は読みたくない。あんなもので溜飲を下げて何になるのだろう。そんな折、目についたのが本書である。
タイトルが何となくマイルドであること、著者経歴を見て、長いこと彼の地に滞在し、中国語も堪能なようであること、官や大組織から遠くに居て、庶民目線で中国を見つめてきていること、から「これなら針小棒大な大メディアと違って自然体の中国・中国人に触れられそうだ」と思ったからだ。
中国との関わり20年・滞中通算7年の著者は、プロローグで「もともと中国における日本のイメージはよいとはいえない。しかしここ数年、前にも増して、悪化しているような気がする」と言い「よいことも悪いことも含めて、真実の日本を伝えるにはどうしたらいいのか」と自問し、自らが深く関わった中国メディアを介して伝えてきた“日本”を事例紹介する。
例えば“抗日”に関する部分(決してこれが本書の中心テーマではない)。我々日本人もメディアの煽情的な記事に触発されて「けしからん!」と感情を一時高ぶらせるものの、中国の総てを否定するわけではなく、好ましく尊敬するところも多々あるように、彼らの本音も“反日”一色に染め上げられているわけではなく、“安心安全”社会に対する憧憬はこちらの想像以上であることも身近な体験談で知らせてくれる。特に、一度でも訪日経験のある人の評価は極めて高く、観光も含めてあるがままの日本を知ってもらうことが、対日感情改善のために重要なことをよく理解できる。
ただ、一党独裁正当化のためにその時々の社会・政治情勢次第で“反日”を利用した施策が採られていることは確かであり、人々が不満のはけ口をこれに向けることがあることは日本で広く報道されていることと大差無い。面白いのは、“抗日”を煽り過ぎて返ってその効力が減じてしまい、当局がブレーキをかけるような事態が生じる話である。どれもこれも似たような内容の安物・粗製乱造のTVドラマ、ステレオタイプの日本人悪役(軍人)、あまりに荒唐無稽なスーパーマン英雄の活躍など、中国人ですら「まさか!?またか!」と言うようなものが出回っているらしい。別の見方をすれば、中国人もこれらがプロパガンダであることに気付いている訳である。それでも一定のファンが居る“抗日”物は、TV局が500以上ある中国で、カネの生る木であることは確かだから、対応策は今後の大きな課題ではある。
著者の中国での活動が日本語ラジオ放送中心であったことから、ラジオ・TV・新聞・映画(高倉健や山口百恵の人気の話などなかなか面白い)など広義のメディアに関する自らの体験に基づく話題が多い。しかし、それ以外にも現地での通訳や日本語教育への関わりから、日系企業における中国人従業員の言動なども取り上げ、組織中心の日本人と歴史的に“国家より家族”重視の中国人の労働観などにも触れ、両者の共存する職場の在り方などに提言もしており、単なる体験記を超えた内容は、日中関係改善の草の根活動のひとつとして評価できるものである。個人的にも、メディアの報道に振り回されぬ心構えがチョッと強化されたように感じている。

4)バッテリーウォーズ
今年も昨年に引き続き日本人がノーベル物理学賞を授賞した。嬉しいことである。今年は宇宙物理学(ニュートリノ)、昨年は物性物理学(青色LDE)、我々一般人が身近に感じることのできる世界はこの物性物理学、トランジスター、トンネル(江崎)ダイオード、集積回路(IC)、液晶、光ファイバーなどもこの範疇に属し、いずれも発明者は物理学賞を受賞している。そして最近下馬評に上がってきているのがリチュウム(イオン二次)電池の発明者たちである。その一人にリチュウム電池実用化の父と呼ばれている旭化成の吉野彰博士がいる。
本書を知ったのは本欄の閲覧者である友人の一人がフェースブックで「面白そう」と紹介した時である。半導体、液晶などいずれも日本が実用化(授賞者はそれぞれ米国人、フランス人)に先鞭をつけながら、韓国・台湾さらには中国に急追、キャッチアップされ市場を制せられてしまった。電池についても確実に同じ道を辿りつつあるが、今度こそ我が国企業も同じ轍を踏まぬよう、吉野の成果も踏まえ何らかの策を講じ、これらの国々との市場獲得戦争に立ち向かっているのではないかと期待したからである。しかしここに記された戦場は製造販売分野ではなく、研究開発領域、当にノーベル賞対象域の話であった。それも専ら米国研究機関の競争である。
高性能二次(充電放電を繰り返せる)電池には世界のエネルギー事情を大変革する潜在力がある。例えば、現在内燃機関で走る自動車の大半が電気自動車になったら、石油への依存度は著しく低下、排気ガスによる環境汚染も激減する(発電のための一次エネルギーの問題はあるが)。また自然エネルギー利用の発電システムに組み込んだら、不安定な発電量を蓄積し安定供給できる(前者の課題解決の一策)。問題は“高性能”にある。蓄電量が多く、頻繁な充放電に長時間性能を落とさず耐えられること、無論高電圧・高電流に対して安全であることは必須条件である。現時点で最も公称電圧が高いのはリチウムイオン電池(3.6V)、自動車動力源としてはまだまだ内燃機関に取って代わるには問題が多く、市販車として世界的にある程度認知されているのは、GMのボルト、テスラ―のスポーツカーそれに日産のリーフくらいである。しかもその航続距離は長いものでも200km程度(ボルトは電池走行だけでは80km)。これではごく限られた利用範囲に留まる。そこで期待されるのがNMC(ニッケル・マンガン・コバルト)2.0と名付けられた次世代リチュウムイオン電池である。
本書の内容は、先ず高性能電池への期待から始まり、リチウムイオンの移動に着目した初期の電池開発(196070年代;金属リチウムを使うため発火事故多発)から説き起こし、1980年代オックスフォード大学のグッドイナフ教授(米国人;のちにテキサス大学に移る)が分子構造レベルの理論解析からコバルト酸リチウム利用に行きつくまでを詳述し、基礎研究解説にかなりの紙数を割く。この段階で吉野が一度だけ取り上げられ「グッドイナフの考案したコバルト酸リチウムを正極に使い(グッドイナフは負極に使ったため実用段階に進めなかった)、負極に炭素(厳密にはノーベル化学賞授賞白川博士の発明したポリアセチレン)を組み合わせることに成功した」と紹介され実用化推進への貢献を記している。しかしあとの展開を見ていくと、本書で著者が(そして米国の研究者が)強調したいことは「アジア勢(日中韓ひとまとめで)はモノ作りには優れているが、オリジナルは米国のものだ」と言うトーンが強く(NTTの某研究者がテキサス大学に派遣され、共同研究の成果を先に特許申請をした例なども「盗んだ」と書かれている)、他の研究者に比して存在感が薄い。
後半は米国内の戦いである。中心になるのは国立アルゴンヌ研究所、シカゴ近郊に在る、かつて原爆開発に重要な役割を果たした研究機関である。ここの電池部(有力な研究者の一人は京都の日本電池に在籍したことのあるモロッコ人)がエネルギー省から提示されたNMC2.0開発コンペに応募し、これも原爆開発と深く関わったロスアラモス国立研究所やオークリッジ国立研究所との激しい競争を勝ち抜き、契約にこぎつけるまでの話である。決め手の一つは“5-5-5”と名付けたプロジェクト名、“現時点で最先端電池の5分の1のコスト、エネルギー密度は5倍、5年間のプログラム期間で実現する”ことを表すのだ。
ここに至る過程では、議会による政治介入(電気自動車開発はオバマ政権の目玉ゆえ共和党が反対)、研究員間の功名争い、アイディア盗用やデータねつ造、製造企業(日本を含む)を手玉に取る凄腕の研究管理者(研究者ではないが本書の中心人物)、研究機関・大企業・大学・ベンチャー企業間の虚々実々の駆け引きや合従連衡、当に戦略から戦闘まで“ウォーズ”のタイトルがぴったりの状況が生々しく描かれる。よくできたスパイ小説も斯くや、と思わせる筆致はなかなかのものだ。
残念なのは、日本が関わるのは“カネの生る木”としての電機メーカー、自動車会社ばかりで、研究開発活動に関する交流は全く出てこない。むしろ全般にその面での日本批判(研究成果を商品化するのに優れているだけ)が目につき、韓国に好意的な記述と対照的である。そこに先端科学技術研究開発に対する米国の見方が本書に反映されている感を強くした。実際「中国は地政学的な野心と倫理観から適当なパートナーとはなりえない。日本は単独で物事を進め、成果を共有しない。これに比べれば韓国は従順で組みやすい相手だ(実際アルゴンヌ周辺では韓国人は“名誉市民”的は評価を得ている)」とのくだりもある。これを裏読みすれば「科学技術では、日本こそ最強のライバル」ともとれるから、それはそれで誇っていいことかもしれない。
著者はエネルギー、テクノロジー、地政学を専門とする研究者兼ジャーナリスト。“日本”を意識しすぎると引っかかるところがあるものの、先端高性能電池に関する、米国の政策・研究概要・研究者・関連組織の今を知るには一級の案内書であることは間違いない。
アルゴンヌが契約を勝ちとったのは2012年、NMC2.0はいまだ研究開発途上、日本勢がこれに先行し、吉野博士がノーベル賞を獲得できることを期待したい。

5)老兵記
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」GHQ総司令官で朝鮮戦争における国連軍総司令官でもあったマッカーサー元帥が1951年トルーマン大統領に解任され、米議会における退任挨拶で語った言葉と言われる(実際は古くから米英で歌われてきた軍歌の一節らしい)。同じころ洋画(英国映画)「老兵は死なず」が上映されたが、これは主役がマッカーサーではなく英軍の将軍だった。ただいずれにしても“老兵”は高位の軍人であることに変わりはない。と言うのも軍人は位の高い者ほど定年が高齢になるからである。平積みされた本書を見たとき「ウン?」と思った。帯に元陸軍大尉とあるからだ。旧日本軍であれば20歳代後半から30歳代前半である。つまり“壮兵”なのだ。「壮兵が書いた“老兵記”とは何だろう?」これが読む動機である。
一般の書店で平積みになるにはチョッと奇妙な出版物であった。もとは1980年(著者73歳)に私家本として配布されたものを2年後さらに増補していずれかの出版社から出されたことがあとがきから分かる。また著者は1987年に他界している。にも拘らず今回求めた文庫本は本年7月の出版、その出版社文芸社の設立は1996年だから、出版までの経緯(版権の動きや出版の動機)に謎が残る。こんなことを書くのは、読んでみて内容はそれなりに興味深いものだったが、どうも構成といい文章といい杜撰・稚拙な感じが最後まで付きまとったからである。これは文芸社が専ら本を出したい人(素人)向けの自費出版ビジネスを生業にしているからだろう。あまり売れない本で儲けるには力のある編集者の手間ひまをつぎ込む余裕がないのかもしれない。本体は私家本のまま。タイトルと帯は本来編集者が最終決定するのだが、冒頭の様な経緯を知らない編者が、老人が自ら付けたのだから良しとしたに違いない。とにかく完成度が低い。
内容が興味深いと書いた。それは以下のような点である。先ず、小樽高商(現小樽商科大学)を卒業した一般人であること、文系の専門分野を修めたにもかかわらず自動車廠の車両(主に装軌車両;戦車や重砲牽引車)修理班の指揮官であること、インパール(37歳)の前にはノモンハン(32歳)にも赴いていること、戦場での戦車回収・修理の実態が分かったこと、前線に居ながら戦闘を行う兵科ではない兵隊とその組織行動を具体的に知ることが出来たこと(砲歩兵に対抗するには訓練不足、兵器不足;やや後方に居るためか生存率は高い)、他の著書で既に記されていることだが日本軍の装軌車両の低性能をあらためて確認できたこと、インパール作戦における英印軍の迫撃砲攻撃が極めて効果的だったこと(日本軍歩兵の基本戦技、匍匐あるいは低姿勢で前進する歩兵の上から殺傷物が降ってくるので被害が大きかった)、などがそれらである。
杜撰・稚拙の例としては、個人としての経歴がほとんどわからないこと(巻末に記された略歴は出生・高商卒業・結婚とノモンハン・インパール作戦年次のみ。幹部候補生経由のようだが技術系?士官にどのような過程を経て転ずるのか皆目分からない。ノモンハンとインパールの間に南支に転戦しているようだが、これもはっきりしない)、組織の位置付けもよくわからないこと(自動車廠は軍(師団の上部組織)に所属するようだが、方面軍(軍の上部組織)に属するような記述も現れる。また廠本部と出先の役割・権限も不明確)、時間に関する記述が錯綜して作戦行動や階級の上下関係が混乱すること、などが挙げられる。
またインパールでの自隊の体験が大部分の紙数を占めるのだが、戦略・作戦内容、上級指揮官(師団長など)の言動、あるいは兵器と訓練の後進性など、陸軍全体の問題点を著者の観点から批判するところもある。しかし、構成やバランス、前後関係が適切でなく、取って付けたような感じがする。
インパール作戦の悲惨さについては数多く出版されているので、その面からの新しさもないので、他の人に薦めるような本では全くないが、私としては自動車廠の存在そのもの知ったこと(読後調べて、軍補給廠の下部組織で多数の野戦自動車廠がビルマ(現ミャンマー)以外の各地に在ったことを知る;廠長は大佐クラス)、その中でも装軌車両修理班などというユニークな組織とその実戦活動を垣間見ただけでも、得るところが多かった(ドイツ装甲軍の同種の組織が優れたものであることは回顧録や作戦史を通じて知っていたが)。

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以上

さて本年の<今月の本棚>も最終版となった。恒例によって今年度紹介した68冊(75巻)の中から独断と偏見で、ベストスリーを選んで終わることにしたい。

1. オートメーションバカ(7月);自動化進展と人間・社会への影響
2. 高木貞治とその時代(1月);近代日本数学発展史
3. キム・フィルビー(12月);今月の2

いずれもノンフィクションで小説は無い。その理由は、もともとフィクションを読む数が少ないことにもよるが、すっかり惹き込まれてしまった船戸与一の「満州国演義」が、全9巻の内3巻しか出ていないので外したこともある。おそらく来年はこれが入るだろう。

本年も本欄をご愛顧いただき深く感謝いたします。来年順調に続けることが出来ると12月分は第100回目となります。それに向かって、ボケ防止のため懲りずに拙い読書エッセイを続ける所存ですが、よろしくお願いいたします

2016年が皆様にとって良い年であるよう願っております。



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