<今月読んだ本>
1) スーパーカー誕生(沢村慎太朗):文藝春秋社(文庫)
2) 宿澤広朗-運を支配した男-(加藤仁):講談社(α文庫)
3) 花森安治伝(津野海太郎):新潮社(文庫)
4)遠ざかる祖国(上、下)(逢坂剛);講談社(文庫)
<愚評昧説>
1)スーパーカー誕生
ジャーナリズムの根幹は建設的な批判にある。しかし趣味の一つ自動車に関しては、いまやそれは不在である。
NAVI(二玄社)、ENGINE(新潮社)の2誌は20年来愛読した自動車文化月刊誌だったが、NAVIは数年前に休刊(実質的には廃刊)となりENGINEは継続出版されているものの、本年から購読をやめた。両誌とも外車中心のチョッと洒落たところに惹かれたのだが、新しいのはクルマだけ、内容のマンネリと広告もどきの記事(これが年々酷くなってきている)に辟易し見切ることにしたのだ。一言でいえば外車礼賛の“提灯”記事ばかり。「少しはきちんと批判もしろよ!」が限界に達した。
現在につながる我が国自動車ジャーナリズムを確立したのは“CARグラフィック”(1962年発刊)を立ち上げた小林彰太郎である。自動車評論に文化的・歴史的あるいは競技的視点を加え、その一方で工学的な設計・製造とは異なる技術面にも目を向け、ロードインプレッション(乗り心地)など運転との関わりを丁寧に記し、折からのマイカーブームと併せて、クルマを身近なものにしてくれた。爾来我が国自動車評論は一人の例外を除き、小林の亜流を脱し切れていない。唯一の例外は国産乗用車を対象にした“間違いだらけのクルマ選び”を大ヒットさせた徳大寺有恒(本名;杉江博愛)である。彼の魅力は社会面(経済性や交通政策を含む)から、“(提言やエールを送りつつ)辛口”で一刀両断するところにあった。それゆえにペンネームを使わざるを得なかったのだ。そんな自動車ジャーナリズムに幻滅を感じていたところ偶然Webで著者を知り、読んでみることにした。
数多知るモータージャーナリストの一人である本書の著者名をこの本に触れるまで知らなかった。調べてみて分かったことは、“辛口”評論(特に外国車)がその主因らしいことである。ズバズバ本音で書かれては雑誌社も記者も外車メーカーやディーラーから取材や試乗の機会を与えてもらえない。それを恐れて登用しないのである。それだけ骨のある、稀有なモータージャーナリストなのだろう。
スーパーカーと言えば1970年代ブームを起こした、ランボルギーニやフェラーリがまず浮かぶ。本書でもこの2社の製品にかなりの紙数が割かれるが、著者の定義するスーパーカーには、超高級高性能車に限らず、以下のような特徴を持つものをよく知られたものに加えている。
限りなくレーシングカーに近いが路上を走れるクルマ、走ることが目的で荷物スペース、居住性への配慮などミニマム(あるいはナシ)、高出力エンジン(結果として高速度)、流体力学を考慮した特異なスタイル。そしてカギになるのはエンジンの搭載位置がミッドシップ(前後車軸の間;通常のクルマは車軸の前か後)であること。F1に見るように、重心が中央部に来るこの位置が最も走行安定性が良いのである。これは自分で2台のミッドシップ(トヨタ・MR-S、ポルシェ・ボクスター)に乗った経験から納得するところである。しかし、このミッドシップ搭載構造は設計・製造・保守さらに生産コストを考えるとなかなか難しいところがあり、その開発は一筋縄ではいかない。
本書はこのミッドシップ高性能車を歴史的に追い、その開発・生産の苦難の道を、関係者への現地インタビューや文献調査で裏付けを取りながら進めていく(この部分はがかなり本書を際立たせる)。ミッドシップ車前史(1920年代からの)を除いても50台近いクルマが取り上げられ、そこにはイタリア車に代表される欧州車ばかりではなく、アメリカ車(フォード・GT40、GM・コルベット)や日本車(ホンダ・NSX)も同じ濃さで解説され、それぞれの開発秘話が明らかになる。とは言っても最も多いのはイタリア車で、そこには馬車作りの時代から続くカロッツェリア(個別仕立ての車体開発・製造業者)の存在が大きな役割を果たしていることが分かる。つまり、歴史と文化がスーパーカー出現とその成功の背景にあるのだ。
さて“辛口”である。いくら高値で売れるとはいえ、経済性が欠かせないし、時間の制約もある。実用車のエンジン、シャーシーや部品を流用しようとすると随所に無理が生ずる。この実態を暴くところにその面白さがある。要するに危ないクルマ、見掛け倒し(カッコばかり)のクルマ、ライバル対抗策だけのクルマ、中途半端な出来のクルマが人知れず世に出ているのである。既に過去のものだから許されても、もし最新実用車をこの調子で書かれると確実にメーカーは困るような内輪話がいっぱい。読後「もう少し身近な車を取り上げて、この調子で書いてくれたら」と思ったが、詮無い期待なのだろうか。
本書は技術的な掘り下げが深い(特に、設計・開発・試作段階)。従ってかなり用語解説に紙数を割いている。よほどのクルマ好きでなければ薦められないが、私にとっては学ぶことの多かった本である。
因みに、一部には著者を「自動車評論における小林秀雄」と評する向きもあるようだ。
2)宿澤広朗
小学校、中学校の校庭はコンクリート製の狭いものだった。高校は土のグランドだったが四角形ではなく、直線で長い距離を取っても100mは無かった。どの学校でも当時一番人気のあった野球すらできなかった。だからサッカーやラグビーなど知る由もなく、大学に入ってからも興味も持てず、サッカーは手を使ってはいけないこと、ラグビーは前方にパスしてはいけないルールであることくらいしか知らなかった。それでもサッカーは就職後ときどき和歌山工場内の草試合などに駆り出され、オフサイドという妙な決まりを知るくらいにはなっていた。しかし、ラグビーに接する機会は全くなかった。
ラグビーを始めて観たのは川崎工場に転じてしばらくした1972年頃だったと記憶する。この時出向した東燃石油化学川崎工場にはラグビー部があり直属課長は高校と大学時代選手だった人、部下の一人も東工大で活躍したラガーマンだった。そんな縁から石油関係企業で戦われるオイルメンの試合に何度か誘われ内に「これはとても自分にはできないスポーツだが、奥が深そうだ(戦法もルール運用も)」と興味を持つようになった。そんな思いを口にしたことが、ラグビーの一流選手が集まる取引先の横河電機に伝わり、やがて早慶戦、早明戦、さらにはケンブリッジ大訪日戦などの入場券が廻ってくることになり、レベルの高い試合を観ることで、ますますこの競技への興味が沸いてきた。
早大のスタンドオフ(司令塔)として活躍していた宿澤の名前を知り、プレーを観たのはこの頃だが、ポジションと身体つき(162cm!)もあり選手としての印象はそれほど強く残っていない。むしろ驚いたのは、彼が住友銀行(現三井住友銀行)に就職したと知った時である。「何故ラグビーで有名な企業に入らなかったんだろう?」との率直な疑問である。次に驚かされるのはそれから四半世紀経た頃彼が住友銀行の役員に就任したことである。一流のラガーマンが一流銀行の取締役になることは稀有のことなのであろう、当時の新聞報道でそれが報じられた時にはちょっとしたニュースだった。そして最後の驚きは現役専務執行役員としての突然死である(本書に依れば筆頭頭取候補だったらしい)。職場の仲間との山歩きの途中、心筋梗塞で亡くなったのである。本書はこの宿澤の小伝である。
昨秋のラグビーワールドカップで日本代表は大活躍、優勝候補の南アフリカを圧倒し、国内におけるラグビー人気は一気に高まった。しかし、ワールドカップの一勝目はこの南ア戦ではなく1991年のジンバブエ戦である。この時の全日本監督を務めたのが宿澤であることはラグビーファンとなっていた私の記憶に確り残っていた。そんな折目にしたのが本書、ためらうことなく求めた。
先ずラガーマンとして世に出た人だけに、本書の紙数はかなりそこに割かれるが、それに劣らずビジネスマンとしての活動も広範に取り上げられ、ロンドンにおける為替ディーラーから国内営業における松下電器グループ救済策まで、表裏の無い人柄で事に当たる、如何にもスポーツマンらしい姿が活写され、当に勝負が終わった後には何も残さない“ノーサイド”の気分に浸れる(私がラグビーに惹かれるのはこの瞬間である。サッカーや野球と違い“勝ってもはしゃぎまわる者がいない”)、清々しさの残る一冊だった。一つだけ気になるのは、読書については「瞬発的判断(彼はこれをラグビーにも、為替・債券売買にも、そして経営判断にも最重要視)の妨げになり、不要と思っていたふしさえある」と著者が記している点である。「あれこれ読めば、あれこれ迷う」のは確かだが・・・。
蛇足:1998年、東燃システムプラザの株式が横河電機に譲渡された。当時の横河の社長は美川さん(「経営陣はそのままでいい」と断を下された)、この人は慶大ラグビー部OBで全日本の代表にも選ばれている。営業部門の部長(財務課長時代横河の財務体質を大幅に改善、のち中国法人副社長;日本人トップ)にはこれも全日本のフルバックを務めた早大OBの植山さんが居たし、人事部門の部長(のち執行役員)は明大OBの笹田さんだった。皆さんと親しく付き合う機会があり一流選手は一流のビジネスマンでもあることを身近に知った。本書を読みながらこれらの人々との往時を偲んだのは言うまでもない(美川さんは宿澤同様現役のまま亡くなった)。
3)花森安治伝
結婚した年(1970年;昭和45年)の冬、ボーナスで大きな買い物をした。英アラディン社製のブルーフレーム石油ストーブである。国産品の倍くらいの価格だったが、高い評価が記憶にあったのでそれに決めたわけである。基本設計は1930年代だと言われるが、現在でも売られているほどの優れものなのだ。この商品を我が国に広く知らしめたのは生活雑誌“暮しの手帖”で確か1960年代のことだったと思う。この雑誌を手にしたことすらないのだが、新聞・雑誌でしばしば特定商品がトピックスとして報じられたので“ブルーフレーム”を知っていたわけである。
花森安治とはこの“暮しの手帖”の名物編集長、創刊(1948年)から66歳(1978年)の死(心筋梗塞)まで30年間その地位に居た人物である。生年は私の父と同じ1911年(明治43年)、そんな男が女装で人前を出歩くので、しばしば週刊誌などに写真姿が掲載され、話題に事欠かない‘60~70年代を代表する有名人だった。本書はその評伝(単なる伝記ではなく、著者の花森評が色濃い)である。
旧制の神戸3中から松江高校を経て東大文学部(美学)へ進んだ花森は卒業を待たずに松江の旧家の娘と結婚する。それもあって生活のために東大に本拠を置く“帝国大学新聞”に就職(?)、文筆を生業とするようになる。実は文章以上に優れていたのは、挿絵などを描く力や紙面デザインなどの美的センスで、少し環境が変わっていれば画家になってもおかしくなかったほどの才能を持っていた。それもあって帝大新聞では記事も書けば、カットも自作、更に編集もこなす獅子奮迅の活躍をする。反面授業にはほとんど出席する時間がなく、自分から提案した「社会学的美学の立場から見た衣粧(衣装だけではなく化粧を含む意)」を何とかまとめ上げ卒業する。しかし、大恐慌の影響が残る“大学は出たけれど”の時代、取り敢えず得た仕事は伊藤胡蝶園(のちのパピリオ化粧品)の広告担当。ここではそこそこ存在感のある仕事ぶりを発揮していくのだが、やがて戦時色が高まり化粧品事業そのものが先細りになっていく。次についた仕事が大政翼賛会の宣伝広告部門である。ここであの有名な標語“ぜいたくは敵だ!”を創出したといわれる。
本書において、著者が“暮しの手帖”と同じような重みを持って深耕するのはこの時代の花森である。つまり戦争推進における彼の役割と言動である。もし自ら進んで好戦思想のお先棒担ぎをしていたのならば、戦後の暮しの手帖の基盤となる、生活者優先の主張と矛盾する点を追及していく。結論から言えば、決して大政翼賛積極推進者ではなく、生活のためやむなくと言うことになるが、ここは“同業(著者も編集者)相哀れむ”の感無きにしも非ずである。
“暮しの手帖”発足は二人姉妹が始めた“衣裳研究所”が起源で、もともと衣装・化粧に関心が高かった花森がこれに協力する形で始まる。それが衣服や化粧から次第に生活用品におよび“暮しの手帖研究所”を創設して商品テストを行うことで、雑誌としての独自性を確立していく。初期の新入社員は専らこの商品テストのための要員であったほど、ここに力を入れている。商品はすべて自前で調達、同じものを複数揃えて行うなど、中立性・客観性維持に努め雑誌の評価を高めて、最盛期には月百万部を超えるまでに成長させる。
編集長としては徹底したワンマン、記者の書いたもののチェックも極めて厳しい。取材にはテープレコーダーを持参させ、再生して内容を確かめる。よくある誘導インタビューなどはこれで暴露されてしまう。「これは消費者の意見ではなく、君の意見ではないか!」と言うように。今の新聞記者や放送記者に爪の垢でも飲ませたいくらいである。
本書著者は以前本欄で紹介した「百歳からの読書術」の著者。作家としては伝記を得意としているようで、参考文献や時代考証もその面からしっかりしている。大政翼賛会に関する部分では、政治・軍事面からは多くの報告があるが文化面での活動が本書ほど確り書かれたものを知らない。知られざる戦中戦後史あるいは昭和文化史としての価値もある、ユニークな評伝であった。
蛇足:1966年2月大田区鵜の木の新築間もない花森邸の応接間から出火、全焼した。この家には5台の石油ストーブがあったが、その一台アラディン社のブルーフレームだけが見つかっていない。
4)遠ざかる祖国
既に2冊(第1話、第3話)を本欄で紹介した“イベリアシリーズ”の第2話に相当するものである。第1話の“イベリアの雷鳴”から第3話の“燃える蜃気楼”に飛んだのは、Web上で読んだ既読者の評価が極めて低かったからである。しかし、第1話を貸した友人が、バンコク滞在中第2話(上巻)を日本書籍の古本屋で見つけ、帰国後下巻も入手して、読後それらを回してくれたことで読むことになった。
“イベリアシリーズ”の舞台と主題は第2次世界大戦中のスペインにおける諜報戦である。主人公は日系ペルー人宝石商に変じた日本陸軍将校。正規の軍組織とはまったくかけ離れた存在として、欧州情勢を調査分析して、国内の直属上官にのみ報告する密偵である。これに英国秘密情報部(MI-6)やドイツ国防軍情報部(アプヴェア)、それにスペイン反体制組織が絡むスパイサスペンス仕立てになっている。第2話は日本の参戦、特に真珠湾攻撃までの過程をMI-6が追うところにテーマが設定される(特に英国が日本を参戦に仕向ける工作)。
シリーズ物の難点は以前の話が分かっていないと、読んでいる内容が理解できぬ局面に遭遇することである。そこを補うためにはどうしても繰り返し説明が多くなる。既に知っている者には「くどい」筆致になるのだ。加えて本話は新聞連載されたので、それが一段と酷くなる。Webに投稿されている多くの書評と同様の冗長さを私も痛感させられた。それ以上に不満だったのは、これは本格的なスパイサスペンス小説ではなく、通俗恋愛小説の趣が強いことである。MI-6の女性捜査官と日系宝石商のそれである。英国の一流スパイ・戦争サスペンス作家、ジョン・ル・カレやレン・デイトンだったら決してこんな甘っちょろい、中途半端なものを書くことは無いだろう。読みながらこんな感じがしばしば去来した。緊迫感が持続しないのだ。唯一の収穫は、ここでこの二人の肉体関係が出来上がったことを知ったことである。これを知る知らないはこれからの話の理解に大きく影響する可能性があるからである。
評価するのは史実に対する裏付け・考証の確かさである。スペインを巡る英国スパイ組織の活動は、本欄で何度も取り上げている関連ノンフィクション図書と矛盾するところが全くない。むしろ「こいつはあの本に出てきたあいつのことだ!」を発見する楽しみさえあった。
蛇足:中立国(ペルー、スペイン)の人間として主人公がロンドンに出向くが、滞在するホテルから離れた場所で独空軍の爆撃に遭遇する。避難場所は地下鉄だがその入り口に待ち構える女性空襲監視員に「チケットは?」と問われる。「チケット?(入るだけで?)」「そうよ。名前入りのチケットよ」 居住者や滞在者には地域毎に退避用のチケットが配られていたのだ。これは本書で初めて知らされた。
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