2017年1月31日火曜日

今月の本棚-101(2017年1月分)


<今月読んだ本>
1) 乱読のセレンディピティ(外山滋比古):扶桑社(文庫)
2) ヒトラーと物理学者たち(フィリップ・ボール):岩波書店
3) 人口と日本経済(吉川洋):中央公論新社(新書)
4)鉄道王たちの近現代史(小川裕夫):イースト・プレス(新書)
5)宗教・地政学から読むロシア(下斗米伸夫):日本経済新聞出版社
6)ビッグデータと人工知能(西垣通):中央公論新社

<愚評昧説>
1)乱読のセレンディピティ

-御歳94歳の現役老学者による、新鮮で気力に満ちた読書論-

年間雑誌類を除き70~80冊本を読む。よく「多読家ですね!」と言われるが、自分ではそう思っていない。今までに百冊を超える読書家(必ずしも愛読家ではないが)に何人も会っているからである。学者やビジネスコンサルタントの中には、仕事上の必要もあって、飛ばし読みながら「200~300冊は読む」などと豪語する者も居たし、入社面接試験で「文庫本・新書をだいたい一日一冊読みます」と答えた女子学生に出会ったこともある(採用した)。私の場合は、中学生時代母が決めつけたたように“活字中毒者”が当たっているようだ。新聞は無論、母の実家からもらってきた日本近代文学全集、父が購読していた文芸春秋・週刊朝日、母の井戸端会議メンバー間で回覧されていた婦人雑誌や芸能雑誌、それに自分でとっていた少年倶楽部や学校の図書館から借りてくる少年少女世界名作全集、古本屋で求めた自動車・飛行機雑誌など、手当たり次第に読みまくった。乱読以外の何ものでもない。お蔭で雑学知識のみは豊富になったが、成績は一向に改善しなかった。
“セレンディピティ(Serendipity)”とは;思いがけないことを発見する能力、特に科学分野で失敗が大発見につながったようなときに使われる言葉である。“乱読こそ発想の原点”の主旨でつけられた題名である。だからと言って決して“乱読の勧め”を説く本ではなかった。専門の“思考”の観点から読書の仕方・効用に関する自説を開陳するものであり、知識取得に偏った読書を厳しく糺す内容となっている。
著者は今でこそ超ロングセラー「思考の整理学」で知られているが、本来は英文学・言語学が専門。戦時中に(苦労の多い)人文科学を学んだ者として “本はナメるように読むのがいい”と長く考えてきたが、いつの間にかその考えがゆらぎだす。「本べったりになっていると、読んでいるつもりの本に飲み込まれて、自分を見失ってしまう」「みずから考える力が育たない」と。行き着いたのは「本は風のように読むのがいい」との思いである。そしてそれが“もっとも面白い読書法”、(専門外の)乱読に至り、学者として重要な創意に満ちたユニークな研究テーマ発見とその後の理論展開につながっていく。従って、ここで取り上げられる読書とは思考法開発・習得の一手段としての位置付けになる。
先ず若き日々の読書とそれに対する思い(反省)を小テーマに分けてエッセイ風に綴っていく。悪書(思想上の禁書)は良書を駆逐するか?“読書百遍神話”は正しいか?本読みの本知らずになっていないか?遅読は速読より薦められるべきか(速読術は否定)?日本語は非論理的か?もらう本・借りた本・買った本の違い(著者はある時から贈呈を一切しなくなる)、書評に対する評価(出版時と10年後、20年後では著しく異なるものが大部分)、編集者としての出版物の在り方(“英語青年”の編集長を長く務め、発行部数を伸ばす)、読書信仰対おしゃべりの効用、忘却することの重要性。このような問題意識をもとに“知識”重視の読書から“思考”のための読書への転換を促していく。
つづいて著者の乱読の具体例の紹介;例えば新聞の全ページに目を通す。この際隅から隅まで丁寧に読む必要はなく、見出しだけでもよい。新聞には、政治、経済、社会、スポーツ・芸能、文化、あらゆる分野が網羅されているので、好みや専門に偏りがちな読書に、新たな視点を与えてくれる。この新しい視点・情報が既得の知識とある種の化学反応を起こし、そこに新たな独創が生まれる。つまりセレンディピティが生ずるわけである。
読後感は「今までの私の読書は一体何だったのか?!」の猛省。しかし、冷静に思い返してみると、長く携わってきた“経営とIT”の関係に随分他分野(特に軍事システムや諜報戦)の出来事にヒントをもらっている。「あながち、間違った読書方法ではなかったか・・・」と今では慰められている。
それにしても驚くのは、著者が1923年生まれの94歳であることである。本書の単行本発行は2014年、91歳。この文庫本はそれに加筆修正し昨年10月に出版され、そこに“文庫本のためのまえがき”が添えられており、文末に“2016年秋”とある。93歳でこれだけ新鮮な内容のものを世に送り出せることに、ただただ感心するばかりである。

2)ヒトラーと物理学者たち

科学者はどこまで戦争責任を負わねばならぬか?を問う入魂の一冊-

高度成長期の初期、1962年に技術者として石油企業に就職した。石油エネルギー需要は旺盛で、プラント・工場の建設計画は目白押しだった。現場技術者は人手不足で2年もすると、かなりの規模を任されるプロジェクトリーダーになっていた。そんな時手にした本に「マンハッタン計画の内幕」がある。原爆開発のプロジェクトリーダーだったレズリー・グローブス空軍中将(プロジェクト担当時は陸軍准将)が著したものだ(原著は1962年刊)。浅慮な20代半ばの若者の読後感は、凄惨な広島・長崎の被害よりも、壮大な先端科学・技術開発にすっかり魅せられてしまっていた。
戦争と科学者・技術者の関わりについて、その後も兵器開発から作戦への数理応用まで、担当者自身が書いたもの、ノンフィクションライターやジャーナリストの手になるもの、海外、国内、幅広く各種の書物を読んできた。いずれにも共通するのは、勝ち戦であれ負け戦であれ、登場人物が喜々としてそれに当たり、今でもその仕事を愛おしむ姿である。それは、原爆開発に携わった物理学者たちにも“開発物語”を読む限り大差ない。アインシュタインがドイツに先を越されることを恐れて、ルーズヴェルトに原爆開発を進言したものの、のちにそれが誤りだったと反省の意を表するのは投下後の話である。つまり倫理観よりは、学問的な探求心・競争心あるいは(自分を追放したナチスドイに対する)復讐心が勝っていたわけである。
それでは、アインシュタインが懸念したナチスドイツ下の物理学界・物理学者は、大量殺戮兵器につながるこの分野の活動に関して戦前・戦中・戦後どのようだったのであろうか?これを3人の著名な物理学者(いずれもノーベル賞受賞者)の言動・足跡を中心に追い、糺していくのが本書の骨子である。
3人の主人公は、マックス・プランク(185819461918年受賞)、ピーター・デバイ(188419661936年受賞)、ヴェルナー・ハイゼンベルク(190119761932受賞)。生年~没年に見るように、3人は20歳近い差があり時代における役割は違っているが、共通するのは19世紀末から提唱され1911年に発足する、ドイツ科学の総本山、カイザーヴィルヘルムゲゼルシャフト(KWG;戦後マックス・プランク研究所)と称された研究機構(1920年代末期には30以上の研究所を抱える)で重要な役割を演じたことにある。そしてこの研究機構が国策と密接に結びついていたことから、各人の戦争責任が問われることになるのである。1933年ナチス政権が成立、プランクはその時すでにKWG総裁、デバイはその組織の中で歴史もあり評価も高い物理化学・電気化学研究所(KWIPC)所に関係しており、前任者がユダヤ人であったため後任を務めることになる。ハイゼンベルクは政権発足時管理的な仕事にはついていないものの、31歳でノーベル賞受賞して2年後(33歳)、ドイツ物理学界のスター的存在であった。
プランクは伝統的なドイツ人科学者、科学に依って国家に尽くすことが使命と考えその任務を果たそうとする。別の見方をすると政治的な動きには積極的に関わらず、ナチスの意向に唯々諾々と従う。デバイは中等教育からドイツで教育を受け、ドイツ学界で認められている(1937年ドイツ物理学会会長)がオランダ人、その国籍を放棄しドイツ国籍になるよう執拗にせまられる。挙句、1940年追われるように米コーネル大学へ講演旅行に出かけたまま帰国しない。ハイゼンベルクは、“白いユダヤ人”と蔭口をたたかれるほど、学問的にはその系譜(実験より理論重視)につながっているのだが、ナチスのおぼえはめでたく、デバイが去った後1942KWIPC所長の地位を襲い、核分裂研究に邁進することになる。
しかし、戦後明らかになったドイツにおける原爆開発の実態は米国のそれに比べ著しく遅れており、戦争犯罪として科学者個人を裁くようなレベルにはなかった。では何が問題なのか?“ユダヤ人排斥さらには虐殺”への関与である。アインシュタインを始め大量の超一流科学者が職場を追われ、国を追われ、家族ともども強制収容所に送られる。これに3人を含めたドイツ人物理学者が如何に関わったかを、丁寧な核物理学の発展史と同期させながら追及していくのが本書の核である。
本書は、敵国であった英人ジャーナリスト(物理学の学位を持つ科学誌ネイチャー元編集長)に依るもので、単純な二流・三流ジャーナリストの告発本ではない。否、それまでの告発本に反証まで加えて、関係者の弁護までしている(特にデバイ)。一方で彼らの戦後の言動が戦時のそれと微妙に異なり、巧みに自己弁護・保身に転じていく点をえぐり、人間の弱さを露わにする(特にハイゼンベルク;1946年よりマックス・プランク研究所長)。また、ユダヤ人問題の責任をナチスに帰する風潮に対し、当時の国民(さらには西欧)世論がそれを強く求めていたことを、物理学界を具体例に批判する。つまり優れた者への妬み・恨みが底流にあったことを炙り出す。根底にある著者の主張は「あなたも立場が違えば、同じことをしたのではないか」と言う自戒を含む警告のメッセージと読んだ。

3)人口と日本経済

人口と経済の関係を学ぶには時宜を得た格好の教材だが・・・-

実のところ40代を過ぎるまで“人口と経済”の関係を真剣に考えたことがなかった。高校の世界史でマルサスの“人口論”を知ったものの中身がどんなものかまでにはおよんでいない。この本(人口の原理)を読んだのは30代半ば、記憶にあるのは「耕地面積には限りがあるのだから、人口が増えることは豊かな生活につながらない」あるいは「都市に人が集まると不衛生になる」と言うことくらいである。当時保土谷から川崎まで毎日乗る横須賀線のすし詰め状態に辟易としていた私には“耕地面積”はともかく「人口が増えることが良いことではない」には我が意を得たりであった。
この問題を身近なことと教えられるのは1983年参加したカリフォルニア大学バークレー校の企業人向け短期MBAコースにおいてである。当時すでに欧州経済は停滞しており、それを人口減と結びつけた講義が行われ、クラス討論に入るとデンマークBP(英系石油会社)からきていたクラスメートが、人口に絡めて自動車保有台数減と潤滑油売上数量減少の関係を具体例として説明し、講義内容を補完したのである。爾来“人口と経済”に注視していると、親しく接した経済紙のベテラン記者や総務省のキャリア官僚からも同様な趣旨を聞かされ、我が国経済の先行きに不安を覚えるようになる。
人口減とそれに同期する少子高齢化を取り上げた著書は汗牛充棟、それに対抗するように人口減悲観論を否定する本も散見される。しかし後者はジャーナリスティックな論調の“カンフル剤”のような気がして手に取る気になれなかった。そんな時出版されたのが本書である。学者としての評価がいか様かは知らないが、著名な経済学者(東大名誉教授)の手になるもの「悲観論を拭い去る、裏付けのしっかりした具体的な提言に触れられるなら」との思いで読むことになった。
恥ずかしながら、人口が経済学の基本要素の一つであり、重要研究テーマであることを本書で初めて知った。マルサスの“人口論”が早い機会に厳しい批判にさらされながらも、ケインズさえ(批判的に)取り上げるのは“人口”に着目した先駆者だったからである。本書はこのように“人口と経済”の歴史から説き起こしていく。この段では西欧史ばかりでなく中国史も取り上げ、さらには“人口論”がダーウィンの“自然淘汰のインスピレーションつながったことや歴史学の進歩史観にもおよぶことを知る。この辺りは正統な学者の研究推進の手順を観るようで興味を惹かれた。
さて最大関心事は人口と経済は強い相関を持つのか?である。先ず取り上げられるのがケインズの人口論“人口減少の経済的帰結”である。ケインズの着眼点は工業化社会における“投資”にあり、これは人口、技術進歩および資本の耐久性(例えは遊牧民のテント住居と鉄筋コンクリートとの違い)の三つで決まるとの考え方に立つ。人口が減れば投資が減ずる可能性が高いので、それを放置すれば経済は停滞する。しかし、他の二つが上手く機能すれば、人口減でも経済発展は可能と言うことになる。
著者はこのケインズの論を踏まえて、人口と経済の関係を先進国・新興国のデータを種々の角度から収集・分析し、人口減が必ずしも経済発展を阻害していないことを示す。ここで用いられるデータ・情報の出典は国際機関や政府によるもので、客観的なものと捉えていいだろう。ここでの論理展開も充分うなずける。
問題は提言である。人口減は明らか、資本の耐久性(これについてはあまり深く見解を示していない)はケインズが述べた時は財政出動(公共投資)があったのだろうが、今の国家財政を考えれば、大きな期待はできない。そこで著者が着目・強調するのが技術進歩(イノヴェーション)である。数次の産業革命(1次;動力、2次;電気、3次;情報・通信)は確かに、人口以上のインパクトを経済発展に寄与したのは確かだが、4次と言われるIoTAIがそれに相当するとは、ITビジネスに長く携わった者として、簡単に信ずることは出来ない。また、それが大きな社会変革をもたらすとしても日本だけが特にこのメリットを享受できるわけではなかろう。著者はこの4次をクローズアップするわけではなく、チョッとしたサービス業の新ビジネスモデルになども例示して、イノヴェーション期待説を説くが、これらが人口減に取って代われる道は容易ではない。
イノヴェーションが経済発展に重要な因子であることに異論はないが、読後に“人口減悲観論”から脱することは出来なかった。

4)鉄道王たちの近現代史

-個性ある鉄道経営者たちが切り開く日本近代化路線-

マリンスポーツや釣りに格別興味があるわけではないが、海にあこがれて、三浦半島・横浜南部に住んで36年になる。最初は久里浜、現在は金沢文庫である。小さな半島に延びる鉄道はJR横須賀線と京浜急行。汽笛一声で1872年に始まった我が国鉄道史と比べれば短い時間だが、この36年で両線とも随分変わった。横須賀線は民営化の後しばらくして、湘南新宿ラインを開通させ、渋谷・新宿・池袋と直結したし、京浜急行は羽田空港の大規模な拡張・国際化で羽田線が大化け、我が家の最寄り駅からも10分間隔で直行の急行・特急が利用できる。世界が近くなった感じだ。他方、横須賀線は久里浜に住んでいた時から、ラッシュアワーを除けば途中の逗子で乗り換えを要したし、着実に利益を伸ばしている京浜急行も昨年三崎口から油壷に達する伸延計画取り下げを決した。人口動態や生活様式の変容が鉄道経営にあらわれているわけである。本書は明治維新以降の社会環境変化と鉄道行政・事業、中でも民間鉄道発展を中心に、我が国近代化の一面を詳らかにするものである。
話は馬車鉄道まで遡る日本鉄道事始めから書き出されるが、この導入部の意図は民間(私鉄)と国(国鉄)が初期の鉄道敷設で如何に絡み合ってきたかの理解を助けるためである。維新後の指導者たちに、鉄道が国家の近代化に欠かせぬものとの認識はあったものの、財源に限りがあることから、民間投資を誘い出し、それが上手くいくと法令を立案・改定しては国有化すると言う手段を繰り返す。のちの東北本線や山陽本線がその代表的なものである。経営・管理形態が異なればサービス内容も当然変わる。民間の場合は収益を厳しく問われるし、そのために独自サービスを生み出す。国の管理となると国策が優先され、経済性や利便性が犠牲にされることもたびたび起こる。東海道本線の御殿場ルートは国防上の要請から決まった。この官と民の対比によって、その後の私鉄経営の数々の課題が予見されるようになる。
やがて国鉄となる長距離鉄道と公営鉄道(主に路面電車)の変遷をたどった後、大方の誌面が割かれるのは都市とその近郊を結ぶ私鉄とその発案者あるいは事業推進者である。著者が“はじめに”でことわっているように、力が入るのは鉄道そのもののよりも、タイトルの“鉄道王”つまり人である。それらは、阪急の小林一三、東急の五島慶太、小林と五島を結んだ渋沢栄一、西武の堤康次郎、京成と深く関わった正力松太郎、名鉄の土川元夫、東武の根津嘉一郎など、いずれも財界・政界・官界で名を成し、数々の話題を提供した人物である。
これら鉄道会社の設立動機、認可を受けるための工作、資金繰りやスポンサー探し、経営戦略(近鉄の路線買収・拡大の根源に国の神道重視政策が深く関係する;橿原神宮・伊勢神宮・熱田神宮につながる)、ルート検討、難工事、国鉄を含む競合会社との競争などがひとあたり紹介された後、鉄道事業に付帯して相乗効果を出す関連事業をそれぞれ別の章立てにして鉄道経営を見せる。例えば、宅地開発、学校誘致(東急は慶大に日吉駅前の土地を無償提供)、百貨店経営、観光地開発・売込み、娯楽施設とそのコンテンツ(例えば、宝塚やプロ野球)、沿線の電力販売(これは初期の動機としてかなり大きい)と言うようにである。こうすることにより、人と企業の特色が浮き彫りになる。独創する者、真似る者、徹底的に先駆者に学んだ者、形だけ導入した者、相乗効果の度合いははっきり違ってくる。ここで際立つ存在は何といっても小林一三だ。例示した関連事業のほとんどは彼の発意に依って起こされているからだ。
またこの関連事業展開策がそれぞれの鉄道王のバックグラウンドの違いを反映するのも読みどころである。堤康次郎が情熱を傾けたのは鉄道事業よりも不動産業だったとの指摘には「なるほど」と思わせる。福島原発の土地(戦前は旧陸軍の射爆演習場)が終戦直後から堤の手にあり一時製塩事業に使われたものの長く放置されていた荒地であったことを本書で初めて知った。原発事業のための土地譲渡交渉は彼の生前には価格差があり過ぎてまとまらなかったと言う。鉄道屋ならあんなところに投資(二束三文だったろうが)などしないだろう。
近郊鉄道ばかりでなく、地方鉄道や旅行代理店業、時刻表・ガイドブック出版業など関連事業の起業家や鉄道作家(宮脇俊三)までも取り上げられ、鉄道人オンパレードの内容はそれなりに面白いが、時代が飛んだりもどったり、考証が不十分だったり、繰り返しが多かったり、と読み物としての洗練度には不満が残った。

5)宗教・地政学から読むロシア

-内容一流、書き方三流、それでも読む価値のあったことが救い-

2003年、41年間働いてきた東燃およびその関連会社勤務を務め上げ、横河電機海外営業本部の一担当者として働く場に復帰した。役割は海外石油精製企業に対する情報・制御システムの売込みである。爾後4年にわたるこの仕事が結局私の終(つい)のビジネスとなる。4年の内前半の2年は専らロシア(ウクライナを含む)市場の開拓、通算8回訪露し累計約4ヶ月間彼の地に滞在した。きつい仕事であったが、米系石油企業や国内では決して得られない貴重な体験ができた。それはビジネスばかりではなく、ロシア人日常生活の一端に触れられたこともある。
何度目かのモスクワ滞在中、休日に東京からの同行のスタッフ(ロシア語専攻)が常設で大規模な蚤の市に連れて行ってくれた。入場料を払って入るそこは、マトリューシュカ人形のような土産物、各種衣料品、台所用品や大工道具、中古の東ドイツ製カメラや交換レンズ、はては独ソ戦時におけるドイツ兵の遺品(ヘルメットや勲章など)まで、雑多なものがあり、見て回るだけでロシア人の家の中がうかがえるような楽しさがある。そんなあるとき小ぶりの木板に描かれた薄汚れた感じのキリスト像を並べた露店が何ヶ所か在ることに気が付いた。「あれは何ですか?」と問うと「イコン(聖像画)ですよ。でもあれだけは買わないでください!もし出国検査で見つかると没収されるだけではなく、拘束される可能性もありますから」と忠告された。宗教画には全く興味はないので買う気はなかったが、中には文化財として価値があり、国外に持ち出せば結構な値段がつくものもあるらしい。生じた疑問は「共産主義下で宗教は禁じられていたはずなのに、何故これほど多くの聖像画が残っていたのか?」と言うことである。どう見ても由緒ある教会などに寄進され飾られるような立派なものではないからだ。どうやら共産党政権崩壊を受けた経済混乱下、秘密教会や家庭に秘匿されていたものが、換金目的でここに出てきたらしい。隠れキリシタンのような存在だったロシア正教の影響は、ロシア世界の深奥部に潜み続け、社会・政治への影響因子として脈々と生き続けていたのだ。
本書の核心はこのロシア正教、題目に併記される“地政学”も地理や経済、民族よりも宗教に重きを置いた角度から語られる。そして本書の読後、現在のロシアをめぐる国際問題“ウクライナ”はプーチン大統領の主張「クリミアは本来ロシアのもの」が正しいのではないかと変じた。
ヨーロッパ諸国の歴史は紀元前のギリシャ・ローマと関連付け説き起こされ、中国の歴史も5千年前まで遡る。それに比べると超大国ロシアの歴史は極めて浅く、9世紀のキエフ(現ウクライナ首都)公国あたりからである。欧州国家の成立はキリスト教会と深く関わる。つまり教皇(法王)のお墨付きが不可欠なのだ。既にキリスト教会は東西に分かれ、この地域は東方正教会の下にある。ロシアのルーツであるキエフ公国の大公が10世紀末受洗(正教に依って国主と認められる)を受けた場所がクリミア半島に在るのだ。
東方正教会はローマ・カトリックと異なり分権的で国家を重視する。モスコー公国→ロシア帝国と拡大する過程でロシア正教が権威を高め政治と宗教の緊密度が増していく。つまり教会が世俗化していくわけである。これに反して起こるのが古儀式派と呼ばれるある種の原理主義の流れである。皇室を始め既存体制は正教本流と一体化しているからこれを弾圧する。しかし地下(実際には北方を始めとした辺境地域や秘密ネットワーク)に潜った古儀式派はしぶとく生き残り、活動を続ける。これが反体制と言う点でロシア革命に結びつく。力を吹き返す古儀式派、レーニンは党をまとめるため建てまえで無神論を唱えるものの、スターリンは若き日々神学徒であったこともあり正教と和解(特に、モスクワ攻防戦に功のあった古儀式派の労多しとした)、その後に活躍するこの派に属する人材を輩出する。首相を務めたマレンコフ、ブルガーニン、外交官のモロトフ、グロムイコ、第2次世界大戦の英雄であるワシレフスキー元帥、ウォロシーロフ元帥などなど。ソ連の幕引段階きでは、スースロフ、アンドロポフ両書記長、ウスチノフ国防相もしかり、エリツィン、プーチンもこれらの人物につながっていた。実はプーチンは母に依って秘かに洗礼を受けさせられていたのだ(1993年エルサレム訪問以降十字架を肌身離さない)。
プーチンがエリツィンから大統領職を引き継いだころは、共産党政権崩壊後の経済混乱が依然として続いており、オリガルヒと呼ばれる新興財閥が政治を操り国有財産を食いものにしていた。大衆にとって信用出来るものは宗教のみ。この期待に応えてプーチンはオリガルヒ対策に乗り出し、評価を受けたことが今日につながっている。プーチンの権力を支えるものはシロヴィキ(治安・国防関係者;必ずしも“強硬派”を意味しない)やレニングラード人脈と言われるが、正教なかでも古儀式派こそその根源である、と著者は説く。
古儀式派が活発に動いていた時代信徒たちは「モスクワを第三のローマに!」と唱えていた。第一はエルサレム、第二はローマ、やがてモスクワが第三の聖都になる、との意である。最近プーチンは正教の準国教化に熱心だし、ロシアを“正教大国”と発言したりしている。国際社会を取り仕切るG国家の衰退、イスラムの動きから“脱世俗”がこれからのキーワードと読んでいるふしがうかがえる。
ウクライナのキエフ正教会は長くモスクワ教会の下に在った。ロシア発祥のゆえんと正教大国本家として、ウクライナ問題はプーチンにとって譲れぬ一線、解決のために宗教が果たす役割が大きいことを著者は示唆する。
本書はロシア起源前史から現在に至る国家形成の過程と正教の関係を詳述した、あまり類を見ない内容のものである。プーチン周辺に古儀式派があることは、神学に詳しい佐藤優などの著書にも見られるが、あくまでも現代ロシアの政治情勢と絡んだところに絞り込まれている。それに対して、本書では東西ローマの分離、東方正教会の変遷、そこでのロシア正教会内の動き、近世(ウェストファリア条約)以降のカトリックとの関係(特にウクライナ西部;ハプスブルグ家の領地)、拡大してきた版図の中に存在するイスラム地域や周辺イスラム教国とのせめぎ合い、さらには国内のユダヤ人・ユダヤ教問題など、宗教を通じロシア全史を語ると言ってもいいほどの大作である。出典もしっかりしており、ロシアを正面から理解するために読むべき一冊と言ってもいいだろう。しかし、問題もある。とにかく繰り返しがやたら多い!ロシア学者としては一流だが、書き手としては三流ジャーナリスト(口述筆記にしても酷い!)。編集者は糺そうとする気がなかったのだろうか?大先生を恐れて口出しできなかったのだろうか?それでは編集者失格!

6)ビッグデータと人工知能

AI研究者が説く、ロボットと人間の共棲社会。夢想論に惑わされるな!-

題名の二つの言葉ともITをめぐる“バズワード(騒がしい言葉)”である。両語とも私が現役時代から何度も話題を呼び、特に人工知能(AI)は1980年代から聞かされてきた。その都度、大量の本が出版され、メディアで取り上げられる(昨130日から日本経済新聞で“AIと世界”の連載が始まった)。最近ではグーグルのビッグデータ解析によるインフルエンザ流行発見が米公衆衛生局より早かったとか、AIが囲碁の世界名人を破ったとか、さらには近未来に起こるAIに取って代わられる職種予想などと賑々しい。実務を離れて今年で10年、最新技術の最前線に触れる機会はほとんどなくなったが、“雀百まで踊り忘れず”で「またか!」と思いつつ、本書を手にとることになった。
数多ある中からこの本を選んだ理由は、先ずビッグ-データとAIをひとくくりにした題名に「月並みで欲張った題だな~」と感じつつ「どう関係づけるのか?」と好奇心が沸いたこと、第二は同じ著者による既刊書「集合知とはなにか」(結論は “三人寄れば文殊の知恵”)に好い読後感を持っていたからである。コンピュータ開発の実務経験(日立)ののち研究・教育者(東大名誉教授)に転じた経歴から来るのだろうが、流行の話題を、短所も長所も客観的に分析し、分かりやすく、抑えたトーンで、かつ最新技術の将来を(能天気に楽観視せず)暖かい目で見ようとする執筆姿勢に惹かれるところがあった。この筆致は多少気になるところがあるものの(後述)、今回も変わりなかった。
書き出しは軽く両用語のメディアによる軽薄で扇情的な取り上げ方を批判する。全く同感である。次いで両技術の歴史と概要・問題点を概説し、二つが一つになって初めて実用になることを丁寧に説明する。ビッグデータは過去の知識の蓄積、これを将来に向けて使いこなすのがAIと。しかし過去からだけで将来は必ずしも読めない。AIが過去の棋譜から次の手を打てるのはそこにルールがあるからだ。現状のAI過大評価に警告を発する。
本書で最も力が入るのが、「(ビッグデータを取込んだ)AIはやがて人間に置き換わるか?」と言うテーマである。現在はどんな優れたAIも人間によって知能を与えられている(プログラミングされる)。しかしその先にAI自身がAIを創造するSFのような世界がやがて実現すると唱える人々がいる(主に欧米人とその尻馬に乗る一部の日本人)。このような技術大変換点を“シンギュラリティ”と言うが、これが2045年頃到来すると時期まで予想する。著者はこれに敢然と反論する。「人間は知能だけで出来上がってはいない。(本能的に動く)身体もあれば、過去情報だけでは再現できない心の動きもある」とその将来性に否定的だ。納得てある。
上記で取り上げられているのは“汎用AI”と分類されるもので、これに対して“専門家AI”のジャンルについては著者も期待している。専門家を支援するAIである。例えば銀行の融資担当者、汎用AI楽観論者は直ぐにAIに置き換えられる職種の一つとしているが、融資の最終決定は経営者の資質や日頃の言動、さらには融資交渉の場での顔色まで読んで行われる。人間がビッグデータ・AIの助けを借りて判断すれば、より好ましい結果がもたらされるはずであると、この分野の研究開発にエールを送る。
このような人間・機械共存論のよってきたる根源は、著者が1980年代初めに通産省の強力な(5百億円が投じられた)バックアップで進められ見事に失敗した第4世代コンピュータプロジェクトのメンバーだったところからきている。あのコンピュータは当にAIだったのである。全てをコンピュータのハード・ソフトで実現しようとしたその試みが失敗してしばらくのち、身近にあるPCやインターネットを利用した分散処理で同じような課題が比較的容易に解けるようになる。人間と機械が補完し合う“三人寄れば文殊の知恵”だったのである。
以上かいつまんで内容紹介したように、著者の主張は“汎用AI夢想論”である。このために、技術調査・分析、数理・情報論(言語学を含む)ばかりでなく生理学、心理学、社会学などが動員されるのだが、“夢想”の原点を一神教(ユダヤ教・キリスト教)に求め、執拗にここを攻める。この一神教とAIの関連付けはユニークなところではあるが、一方で確信犯的で些かくどく冷静さを欠いた論調が気になる。また、健全なAI発展のカギとして文理融合を説くのだが、ここもやや論理に飛躍を感じた。

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2017年1月25日水曜日

台湾一周鉄道旅行-12


10.高雄へ
台湾一周の中で阿里山森林鉄道往復はその途上から一旦離れるのだが、欠かせないルートだった。しかし高雄についてはどうすべきか随分思案した。と言うのも1994年訪台時ここに2泊したので、おおよそ町の感覚はつかんでおり(当然30年前と違っているが)、それほど観光地として魅力があるところとの印象は残っていなかった。また最新のガイドブックでも今一つ惹かれるものがなかったからである。そこでJTBに提示した旅行計画検討案の中で、敢えてここに1泊する意義があるか、いくつかのオプションを含めて問うた。一つは高雄に午前中に着いてバスで原住民居住地を訪問するケース、もう一つは高雄には宿泊せず、古い台湾が残ると言われている台東まで、高雄で在来線に乗り換えて行ってしまう案である。だが、このような個別検討はサービスの範疇ではなく、的確なアドヴァイスが得られぬまま、最終決定はこちらに戻されてしまった(JTB個人海外旅行サービスについては最終回近くで総括する予定である)。結局今や台北を上回る人口を持つ台湾第一の大都会を観るのも一興とここに1泊することにした。
1122日(火)早朝起きて外を見ると雨だった。TVでは福島でかなり大きな地震があったことを報じている。この日の朝だけは朝食をホテルで摂れる唯一の機会(帰国日を除き)。7時に8階のレストランへ向かうと席はかなり埋まっている。感じでは中国本土や台湾の団体客が多そうだが、日本人の小グループや欧米人も見かける。ビュッフェに用意されているのは、中華・和・洋3種ある。無難な洋食で済ませ、デザートの果物を取に行ったところ、中国人・台湾人と思しき人たちが見たこともない果実を何個も持っていく。小ぶりのミカンほどの大きさの外側は赤い色で厚い皮でできた丸いそれを二つに切り分け、中にはチョッと魚の眼に似た緑の芯が入った・小球状の透明のゼリーのようなものが沢山入っている。試みに二つほど席に持ち帰り味わってみると、酸味の爽やかな味わいだった。あとで調べてパッションフルーツであることを知った。こんなことも海外旅行の楽しみの一つだ。
天気は展望の効くレストランに居るうちに曇りに変じ、チェックアウトした8時頃にはその雲も薄くなって快方にあることをうかがわせ、タクシーで高鉄(新幹線)駅に向かう道筋は雨上がりの爽快ささえ感じられる。今日も天気は何とかなりそうだ。
914分嘉義発の列車は定刻通り出発、沿線の天候は薄日が差すほどで雨が降った形跡はない。途中台南に停車しただけで30分後には左営駅到着。さすがに新幹線のターミナル駅、真新しく広々した駅舎はなかなか立派なものだ。位置が在来線の高雄駅のかなり北にあり、そこへ行くには在来線かMRT(正確にはKRT;地下鉄)に乗換える必要がある。ホテルは高雄駅ではなく市街中心南部の三多商圏(ショッピングセンター)近くにあるので、そこへ直行できるMRT(紅線;レッドライン)で向かうことにする。方式は台北と同じだから何も困ることはない。
20分ほどで三多商圏駅到着、調べてあった出口3番を出ると、目の前にこれもインターネットで画像確認した、ガラス張りの高層ビルがそびえ立っている。ホテル(和逸・高雄中山館;Hotel Cozzi)のフロントはこのビルの最上階に近い30階、客室はそこから下へ専用エレベータで下りる方式である。チェックインタイムが14時なのは承知していたから、荷物を預け観光に関して案内を乞うた。ここもすべて日本語でOK。先ず勧められたのが史跡高雄英国領事館、そのあとは港湾地区を再開発した駁二(ばくに)藝術特区を訪れると良いと言う。

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(次回:高雄観光)

2017年1月21日土曜日

台湾一周鉄道旅行-11


9.嘉義の夜
嘉義のホテルは「駅にも繁華街にも近く、日本人団体客の利用しないところ」とJTBに頼んで決めた。しかし、阿里山森林鉄道に乗る前荷物を預けるために立ち寄ったところ、駅まで徒歩だと20分くらいかかると言われた。確かに、歩けない距離ではないが、荷物を持ったり不案内なことを考えると“駅に近い”とは言えない場所に在った。台湾名は“兆品酒店”ローマ字表記では“Maison de Chine Hotel”とある。飯店や賓館がホテルを表すことは知っていたが“酒店”は初めてなので、ヨーロッパ(名前もフランス風)に多いレストランでも兼ねた小さいホテルを想像したが、高層の普通のホテルであった。フロント担当者の何人かは日本語を話すので何ら不自由を感じない。部屋は6階でつくりは簡素、クローゼットはなく、衣類は壁のハンガーにぶら下げるだけだが、日本のビジネスホテルよりははるかに広く、清潔感やセキュリティにも問題ない。
雨のちらつく夕方のチェックイン、早々に荷物の整理をして6時前にフロントに下りて夕食の相談にのってもらう。「土地の名物料理をカジュアルな店で摂りたいんだが・・・」用意されたのは2種類の地図。一つは(何故か)“神木”と題されたホテルのパンフレット、駅を含めた嘉義中心部をカバーし地図上には10を超す番号がふってある。全部食べ物を扱う店のようだ。もう一つはA5程度の紙片に“嘉義~小吃美食地図”と題した、ホテル周辺の食べ物屋を記したものである。残念ながら日本語表記はないので漢字から類推するしかない。
先ず夜市のことを聞いてみた。「近くにあります。しかし始まるのは夜の10時半からです」「終わるのが?」「いいえ、始まるのが10時半、終わりは朝の4時頃です」「平日も?」「そうです」「うーん(一体全体ここの人はどんな生活を送っているんだろう?)」で夜市はなし。
「海鮮料理は?」「お薦めの店があります」と“小吃地図”で示してくれる。店の名前は“林聰明砂鍋魚頭”(Fish)とある。「(どこかで見たな)」とガイドブックを当たってみると砂が沙と変わっているが同じ店らしい。“地元の人に人気”、“名物スープは直ぐ売切れになる”などと書いてある。「よしここにしよう!」と決めて「予約できる?」と問うと「ここは予約できません」との返事。「日本語OK?」と聞くと「大丈夫」と言う。
早速“小吃地図”で道順を確かめる。しかし、この地図が問題だった。「ホテルの前の通りをまっすぐ行くとロータリー(中央噴水池)になっています。その一つ先の道を左に行くと看板が見えます」といとも簡単にたどり着けそうな説明。ロータリーまでは迷わず行けたが、その周辺の道路はこの地図ほど簡単ではなかった。微妙に曲がったり、ロータリーから放射状に走る道もある。ロータリー周辺を右往左往した挙句、もう店の商品も大方片付いて客もいないケーキ屋に飛び込んで、地図を示して案内を乞うた。店番をしていたおばさんは日本語も英語もダメ。奥から若い女性が出てきて「日本の方ですか?」とおばさんから引き取り「この地図は少し変。ここからではチョッと分かりにくいから私が案内してあげます」とあまり流暢ではないが日本語で対応してくれる。道々聞けば数年前インターシップで鳥取県大山のホテルで数か月、日本語研修もかねて働いたことがある人だった。日本語会話が上手く通じないとき英語で問い直すとそちらの方が分かりやすかった。
店に着いて驚いた。まるで市場のオープン食堂、道路までテーブルが並べられ、客が受付係の前に並んでいる。大きな声が飛び交い、店員が走り回っている。注文はメニューを印刷した紙に数量を書き込んで店員に渡すのだ。案内してくれた女性が漢字のメニューを説明してくれる。名物のスープと鶏肉ご飯の欄に2を記入して、店員に渡して「楽しい旅を!」と言って去っていった。もし彼女がいなければ注文できたかどうか。多謝である。
出てきた料理は、魚の頭・身、豆腐、白菜、きくらげなどを煮込んだもので、(ガイドブックによれば)扁魚(これがどんな魚だかよくわからない)を干したものが出汁として使われているらしい。美味しいがボリュームが多く完全に平らげことが出来なかった(スープは二人一つで充分)。店を去るとき見ていると、スープだけを透明のポリ袋に入れて持ち帰る人も結構いる。この夜の会計は台湾ビール1瓶いれて400元弱。台湾のホスピタリティーを満喫した夜だった。

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(次回:高雄へ)

2017年1月18日水曜日

ひと時の少年時代

 
 
今日の昼中学・高校を共にした友と半世紀ぶりに会った。きっかけは私のブログ記事<今月の本棚-99(2016年11月)>に取り上げた“生きているジャズ史”である。彼の家には中学時代からアメリカ音楽を聴くためによく訪れた。ブログを読んだ彼から便りがあり、久々の再会となったわけである。
 
 慶応医学部を出た後長く北里大学で教授と医師を務め、今は月数日クリニックのパート勤務。40数年来のお互いのその後を愉快に話し合った。
 彼から自分で編集したビング・クロスビーとエラ・フィッツジェラルドのCDをもらい、こちらからは高校時代一緒に観た映画「ベニーグッドマン物語」(1956年日本上映)のパンフレットとニューオーリンズのプレザヴェーションホールで入手したディキシーのCDを贈った。少年時代に戻った楽しいひと時だった。

2017年1月17日火曜日

台湾一周鉄道旅行-10


8.阿里山森林鉄道-3
奮起湖駅到着1120分、下りの出発時間は14時だから、それまで2時間半ほどはこの駅周辺で過ごすしかない。計画立案時はてっきりここに湖があると思っており、湖畔の散策と昼食で時間をつぶせば丁度良いと考えていたのだが、この鉄道を詳しく調べるうちに、そうではないことが分かった。奮起はもともと畚箕と書き“ちり取り”を意味し、湖は“みずうみ”以外に“窪地”も表すことから、東西と北を山で囲まれ、雲や霧が漂う盆地がみずうみのように見えることからきているのだ。つまり“ちり取り型窪地”なのである。それでも阿里山への代表的な中継地「何かあるだろう」と期待していたのだが、見事に外れであった。
確かに南台湾を代表すると言われる老街(古い街並み)が駅の周辺に在るのだが、土産物屋や食べ物屋の続くその通りは10分も歩くと終わってしまう。その先にはちり取りの中身を見渡せる展望台とホテルや野外レストランがあるくらい。そこから先は人家もまばらな下り坂で戻りの上りを考えると歩き廻る気は起きない。
チョッと時間は早いのだが、朝が早かったこともありひとまず昼食を摂ることにする。何軒か駅周辺の食堂をのぞいてみて一番客が入っている“奮起湖大飯店”で当地名物の“便当(弁当)”を食することにする。丸いアルミ弁当容器の中に鳥のもも肉と豚肉、卵、タケノコなどをウーロン茶で甘辛く(甘味が強い)煮込んだものが、ご飯の上にのっている。汁物は好きなだけ別の器にとる。一人120元。味も値段も量も申し分なし。最近は町中のコンビニでもこの弁当が売られているとのこと、その人気が分かる。そうは言ってもここまでくるには、実は苦難の時期があったようだ。
阿里山森林鉄道は森林鉄道とはいえ、1982年までは嘉義・阿里山を結ぶ唯一の交通手段、それまでは列車の本数も多く、この弁当が一日千食も出ていた時期もあったらしい。しかしこの年阿里山公路(道路)が開通し、観光客は一気に時間のかかる鉄路からクルマに移ってしまい、弁当の売れ行きが減じてしまう。そこで商売のやり方を変え“観光弁当”に転じて今日の隆盛に至ったとのことである。まるで長野新幹線開通で様相が一変した、碓氷峠下横川の釜めしと同じ話だ(横川は信越道も通ったので、旧道はバイパスされているはず。今はどうなっているのだろう?)。
昼食を終えると旧機関庫がチョッとした鉄道博物館になっているので、そこを一覧する。昔の小型蒸気機関車やループ路の模型が置かれていたり、黒部峡谷鉄道や大井川鉄道との姉妹関係を説明する資料・写真やヘッドマークなども展示されており、鉄道ファンにはそれなりに面白い。しかし、食事とここだけでは14時までまだまだ時間が余ってしまう。仕方なく最初に訪ねた展望台に戻り、ベンチに座ってぼんやり出発時刻を待つことにする。大方の乗客も大体そんな風な行動パターンである。
14時丁度、正確に下り列車は出発。今度の席は3号車の913番、上りと同じ側なのが残念。来るときには全くいなかった立客が各車両数人いる。検札が来たが特に問題もないようだ。しかし45分頃ループの途中に在る梨園寮駅でそれらの客は全員下車した。ループ観光の特別団体客扱いがあるらしい。
下りは機関車が先頭、エンジン排気が車内に漏れ込み臭いが気になる。うつらうつらしているうちに1620分列車は定刻通り嘉義駅に到着した。雨がポツリポツリと落ちてきた。

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(次回:嘉義の夜)