2017年2月28日火曜日

今月の本棚-102(2017年2月分)


<今月読んだ本>
1) 艦艇防空(石橋孝夫):光文社(文庫)
2) 十字路が見える(北方謙三):新潮社(文庫)
3) イスラエル秘密外交(エフライム・ハレヴィ):新潮社(文庫)
4HAPARNOLDDIK ALAN DASO):Smithsonian
5)わたしはこうして執事になった(ロジーナ・ハリソン):白水社
6)戦争の社会学(橋爪大三郎):光文社(新書)

<愚評昧説>
1)艦艇防空
-弾幕防空、特攻機はこうして散華した-

戦場における数理利用(Operations ResearchOR)の対象分野のひとつに対空銃砲撃撃墜率改善がある。ORの父と称せられた、英国の物理学者ブラケット(マンチェスター大物理学教授)による改善指導効果が著しく、巡回する彼のチームは“ブラケットサーカス”と渾名され、各対空砲基地は来訪を待ちわびたほどであった。英国の命運を分けた“バトル・オブ・ブリテン”でしばしば語られる逸話である。この戦時のOR活動は秘密裏に米国にも伝えられ、戦後1951年その内容がキンボール(コロンビア大化学教授)とモース(MIT物理学教授)によって“Methods of Operations Research”として世に知らされる。ここでは日本の特攻機による攻撃回避法を対空射撃と併せてかなりの紙数を割いて解説している。
OR歴史研究”のため2007年渡英した際、OR史の権威モーリス・カービー教授(ランカスター大経営学教授)から「残念ながら、日・独・ソにはこの種の活動はなかった」と告げられたが、日本にもただ一人この分野の研究者が居たことを話すとびっくりしていた。その人は末期の連合艦隊参謀の一人であった千早正隆海軍中佐(砲術(特に対空)専門;戦艦長門高角砲・機銃分隊士、戦艦武蔵艤装員;高射長予定者)、大東亜戦争直前に提案制度を利用して著した確率・統計に基づく「艦隊防空に関する研究」が当に彼らのOR研究に匹敵するものだったのである。ベースになったのはその時までに、艦隊勤務や演習などを通じて個人的に集めておいたデータである。この論文は昭和16年度の最優秀論文となり極秘で印刷・配布されたが、それはミッドウェー海戦後で、現場には一顧だにされなかったと自著「日本海軍の戦略発想」に書き残している。
ブラケットサーカスの実績を見ると、基盤がしっかりしている陸上の高射砲ですら、改善前で1機撃墜に要する砲弾数は2万発、改善後はそれが4千発に減じた程度(それでも5倍は凄い!)、回避運動で大きく揺れ動く艦からの対空射撃はこれよりはるかに撃墜率が悪かったことは想像に難くない。OR以前の問題、つまり対空兵器そのものに問題があったのではないか?長くそんなことが頭の隅に残り、高射砲についてはそれなりに知見を得ていたが、艦艇対空兵器に関しては全く手掛かりになるものがなかった(和書・洋書とも)。本書の出版直後書店でこれを見つけた時、待望の本が出た!と求めることになった。
全体としては帝国海軍航空の黎明期における艦載銃砲から説き起こし、現代の艦対空ミサイルまで、第二次世界大戦とその前後期を中心に、艦艇の防空システムを歴史的に総覧したものである。
初期の段階では当然、陸上で利用されていた銃砲あるいは艦砲の転用・流用・共用からスタートする。しかし高空を高速で移動する航空機に銃砲弾で致命的な被害を与えるには、特別な機能が必要になってくる。重力に抵抗して短時間に高高度に達する早い発射速度、高速移動体をとらえるための短時間内の多弾発射、角度・方位を素早く変えるための機構や給弾方法(自動給弾)、発射角度・方位やタイミングを決める指揮システム(揺れ補正装置を持つある種の計算機)、敵機の近傍でさく裂する弾丸の起爆装置(時限・音波・温度・光学・磁気・電波(近接))、また兵員防護も必須である。
日・米・英・独・仏・伊における艦載対空兵器の開発・生産・構造・装備・運用状況が詳しく解説され、戦況の変化(航空攻撃の熾烈さ)にともなって増強されていく姿を、図面を用いて一目瞭然にしてくれる。また単艦の防空強化ばかりでなく、艦隊に防空専用艦(主として駆逐艦)が組み込まれる新しい編成とその効果にも触れる。
意外だったのは、これらの艦載対空兵器で最も性能が優れ広く使われたものが、主要交戦国自前のものではなく、ボフォース社(スウェーデン)、エリコン社(スイス)のものだったことである(各国ともライセンス生産。艦載ではないがゼロ戦の20mm機関砲はエリコン社製品のライセンス)。また、帝国海軍の艦艇(特に戦艦)は優れたものと語り伝えられているが、副砲(米英は両用(対艦・対空)砲、大和は分離)を含め、対空兵器の面ではかなり(射撃管制システムや兵員防護などを含め)後れをとっていたことを知らされた(現在の自衛艦もほとんど輸入品)。
2次世界大戦における駆逐艦(護衛駆逐艦を含む)喪失;英139隻(内航空機によるもの5036%)、米82隻(2632%)、日136隻(6044%)。
本書は雑誌「丸」に連載されたものを文庫本化したものであるため、全体構成に統一感を欠く点に難があるものの、大変ユニークな内容で、その分野に関心のある者にとっては貴重な情報に満ちている。

2)十字路が見える
-息抜きに、洒落た人生エッセイをどうぞ-

昨年は船戸与一(満州国演義)、逢坂剛(イベリアシリーズ)など日本人冒険小説作家の作品に触れる機会が多かった。読後、スパイや軍事サスペンスは海外(特に英米)物に限るとの思い込みを若干正された感無きにしも非ず、と言ったところである(イベリアシリーズには不満も多々あるが)。もう少し読んでみたいと思うのだが、船戸は他界、逢坂は時代小説や刑事物に転じ、一時軍事サスペンスで優れた作品を書いていた佐々木譲も今は専ら警察小説で興味がない。20代の頃銃器とヴァイオレンスではまっていた大藪春彦を読み返す気も起きない。フッと書店で本書を目にしたとき「そういえばこの作家、読んだことはないが、昔はハードボイルドで売っていたな」と気を惹かれて手にした。
内容は小説ではなくエッセイだった。未知の作家に取り組むきっかけとして悪くない。小説よりも作家の地がストレートに読み取れるからだ。狙いは違わなかった。仕事、食べ物・酒、音楽、旅行それにクルマ、を題材にして人生の節目となる“十字路”で結ぶ。「そういう男だったのか!」と認識を新たにする一方で「最近の作品を読むことはないだろうな」との思いにも至った。十字路を何度か曲がるうちにハードボイルドの世界とは異なるところにエネルギーを注いでいることが分かったからである(昨年完結した最新作「大水滸伝」(菊池寛賞受賞)は何と51巻!中国古典にも、こんな超長大作にも興味は全くない)。
純文学からスタートし、ハードボイルド路線で世に出る。その道を進んでいると先が見えてくる。十字路をそのまま進むか右折・左折するか?時代小説に向きを変える。その通りを直進してもよいのだが中国古典へ舵を切る。方向転換にはそれなりの理由と決断があるのだ。個々の小文の内容は直接人生の岐路と結びつくわけではないが、考え方や生き方が伝わり、十字路で立ち止まり思案する著者の心中に共感を覚えてくるのだ。「確かに自分もいくつかの十字路で逡巡したな」と。
個人的に面白かった話題を二つ。一つはクルマと旅。30代半ばで運転免許証を取得した著者は既に売れっ子作家。イタリアの高級スポーツカー、マセラーティを購入する。若葉マークで第3京浜を爆走しパトカーに捕まり即免停。爾来65歳で免許返上までマセラーティ一本やり、一時はそれを複数車種保有する。最後のクルマは“スパイダー・ザガート(特別仕立てのオープンカー)”、25年連れ添った別れのシーンは泣かされる。海外のドライブ経験もすごい。レンタカーだが、フランス、ドイツをマニュアル車で駆け巡っている。「オレもやってみたいなー」の感しきり。モロッコでのちょっとした砂漠単独ドライブで盗賊に襲われ、クルマも所持品もすべて失う話も凄い。
もう一つは今や超ベストセラー作家である佐伯泰英との若き日々の想い出。佐伯はスペインに滞在し写真家として仕事をしながら取材に励んでいる。そこへ逢坂剛にことづけ(逢坂が滞西中知り合った女性の消息を調べ、手紙を渡す)を頼まれた北方が合流(北方はスペイン語を解しないので佐伯の助けをかりる)。闘牛見物やそこで倒れた有名闘牛士(佐伯の知り合い)の葬儀参列、そしてことづけの顛末を語る。佐伯の本は全く読んでいないが、当初はスペイン物を書いていたのだ。3人に共通するのはほぼ同世代で(北方はやや後輩)、純文学や外国物あるいはハードボイルドで売り出しながら、時代小説や古典あるいは警察物(佐々木も含め)に収斂していくのは出版市場の求めということもありそうだ。つまり十字路を曲がったのは必ずしも本意ではなかった可能性も窺えるのだ。
年下に語りかけるような、ぞんざいな口ぶりにやや抵抗を感じたものの、内容には大いに満足した。

3)イスラエル秘密外交
-四面楚歌の中での綱渡り外交、モサドは諜報・工作ばかりではない-

1970年に出版され、今や優れた日本論の一つとして出版史に残るイザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」は“安全と自由と水のコスト”と題した章から始まり、両国とその民族の違いを際立たせる。つまり、日本人にとってはただ同然、彼らにとっては血で贖ってでも確保しなければならぬものだと。この本を通じて、それまでシェークスピアのヴェニスの商人や西欧文化鵜呑みで出来上がっていた自らの軽薄なユダヤ人像(阿漕な守銭奴)を一変することになる。彼らほどしたたかで勤勉な民族はいないと。実際その後仕事を通じて多くのユダヤ系米国ビジネスパーソン(主に技術者)を親しく知ることになるが、皆敬愛すべき自立心の強い人々であった。彼らが現代のイスラエルとどう関わっているかは不明だが、2000年近く他国で離散生活を送ったのち国を再興できた民族の末裔であることを考えると、中東問題も決して別世界の出来事とは思えない。否、むしろ英露中という自己中心的な超大国に囲まれた我が国のこれからにとって、範とすべきことが多いのではないかと思ったりもする。
とは言っても本書を読む動機は例によって副題にある諜報機関“モサド”にあった。この機関については本欄でも紹介した“モサド・ファイル”を始め何冊か読んでいるのだが“前長官”作と言う触れ込みに「諜報戦・謀略工作について今までにない情報が得られるのではないか?」と期待してのことである。しかし、序文を読んで直ぐにそれが見当違いであることが分かった。本書におけるモサドは刺身のつま程度、主題は国家安全保障に関する内政および外交、当事者でなければ語れない秘話であると記されていた。
著者は1934年英国生まれ、48年パレスチナ(イスラエル建国前)に両親と移住し、ヘブライ大学法学修士課程を終えたのち1961年モサド入局、分析官・工作管理官などを経て上級職員へ昇進、ワシントン駐在官の時駐米大使で後に2度にわたって首相を務めるイツハク・ラビンの知遇を得る。首相密使として本格的に外交活動を開始するのは、第2次ラビン内閣(1992年~1995年)以降だが、その前のシャミル首相の時から副長官として政務に関わり、2002年長官退官まで6人の首相に仕えることになる。本書の内容はそれら6人の下での、前史を含む難しい国内政治、取り巻く国際環境(パレスチナ和平、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、冷戦構造崩壊(これによってロシアから百万人のユダヤ人が移住してきた!人口の25%!)、911同時多発テロ、イラク戦争)に翻弄される外交交渉や当事者(関係各国の国王や国家指導者を含む)の言動をつぶさに伝える回顧録である。
2000年近く他民族が住んでいる土地に無理やり作り上げた国家、おまけに周辺国と宗教、言語も異なる。当然四面楚歌(実際は一面は海だが)。何度も戦火を交えることになる。その都度反撃して支配地域を広げてきたからむしろ問題は複雑になるばかり。やっと和平の道が見えてくるのは1979年ワシントンDCで調印されたエジプト・イスラエル平和条約だが、イラン革命、サダト暗殺で目論み通り機能しない(エジプト政府は条約維持に努めるが、地域大国としての影響力を失う)。次のアラブ・イスラエル間の和平は1994年のイスラエル・ヨルダン平和条約である。これにより、エジプトに次いでイスラエルと国交を結ぶ第2のアラブ国家となる。ヨルダンはエジプトと異なり地域で最も弱小な国だが、紛争の最大課題であるパレスチナ人が多数居住するため、こことの国交樹立は欧米をはじめとする諸外国の対イスラエル政策に大きく影響する。またヨルダン政府もインティファーダ(パレスチナ人による反イスラエル運動、住民蜂起)を抑えるために、イスラエルの助力を必要としていた。そんなわけで1980年代後半から、秘かに両国トップの間で接触が行われていたのだ。本書の過半はこのヨルダンとの平和条約締結までの道程に費やされる。
カギになるのは、厳重な機密保持、トップ(使者を含む)の相互信頼(著者に対するフセイン国王の信頼感は極めて高い)、両国と交渉を裏で支える米国のメンツである。特に機密保持では本来の外交ルートさえ対象になる。ヨルダン側は国王とその側近(特に皇太子、首相)が当事者なので、比較的機密が漏れにくいが、イスラエル側は外務大臣を始めとする外務省関係者が蚊帳の外に置かれることを良しとしないため(当然だが)、しばしば意図的に憶測情報をリークしたりする。それが相手側に誤解を与え、生じた弥縫を繕うために、その都度著者が奔走することになる。これに国内の政争(リクルード(保守)党対労働党)や主導権争いが絡み、さらに仲介役の米国の介入もある。加えて機密ゆえに経過を知らない組織(軍やテロ組織)が不信感を起こさせる行動を勝手に行う。やっと合意に近づいても文言の一つ一つに注文が付き、その修正に難航する。19947月ワシントン宣言(平和条約)は直前まで関係者の手元に配布できなかった(フセイン国王の決断で辛うじて間に合った)。この問題の一つは水資源管理である。水はタダどころか国家間の関係や関係者の命さえ危うくするものなのである(この時の首相ラビンも翌年和平に反対するイスラエル人の若者に暗殺される)。
さて、ヨルダンとイスラエルは国境を接しており、調印場所がどこになろうとヘリコプターでひとっ飛び「何もアメリカまで行くことはない。国境に近い場所でやろう」と言う意見が出る。両国とも賛成するのだが、アメリカは許さない。クリントンは手柄が欲しかったのだ。「アメリカ(オレ)がまとめてやったのだ」と。
このヨルダンとの和平交渉以外で面白いのは、アラファトを始めとするアラブ国家指導者や仕えた6人のイスラエル首相の棚卸。アラファトが、国際交渉の場では“カネに異常に執着する男(自治政府のためかどうか怪しい)”として悪名高いことなど明かしている。また我が国安全保障に関わりそうな話題も出てくる。イラン、イラク、シリアにはかなり北朝鮮製ミサイルが流れ込んできており、それを阻止するために著者が隠密裏に北朝鮮を訪問するはなし。あるいは湾岸戦争の際イスラエルを戦争に巻き込むためイラクが30発を超えるスカッドミサイルを撃ち込んでくるが、米軍のパトリオットがまるで無力だったことなどがそれらである。
外交関係の図書をかなり読んできたが、難しさ(決裂させない)・生々しさがこれほど伝わってくるものはなかった。諜報・工作では得るものがほとんどなかったが、今につながる中東問題を見る目を変えてくれたことは確かである。

4Hap Arnold
-世界最強の空軍をつくった男の生涯-

2次世界大戦を戦った米軍大将の内終戦時までに元帥の称号(五つ星)を得たのは、陸軍;ジョージ・マーシャル(参謀総長)、ダグラス・マッカーサー(南西太平洋方面軍最高司令官)、ドワイト・アイゼンハワー(連合国遠征軍最高司令官)、ヘンリー・アーノルド(陸軍航空軍総司令官)、海軍;ウィリアム・リーヒ(合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長)、アーネスト・キング(合衆国艦隊司令長官兼作戦部長)、チェスター・ニッミツ(太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面軍最高司令官)の7名である(このほかに、ブラッドレー(陸)とハルゼー(海)が戦後元帥に任ぜられている)。この7人の中の一人、ヘンリー・アーノルドは1947年空軍創設後、1949年空軍元帥に転じられ、現在に至るまで米軍史上唯一の空軍元帥として特異な存在になっている(1950年没)。本書はそのヘンリー(通称ハップ;Happyからきている)・アーノルドの公式(空軍)伝記である。
有史以来ライト兄弟が飛行するまで戦争は表面(Surface;地面、海面)の上で戦われてきた。それが航空機の出現によって空間(Space)を含む戦いになるのは革新的な出来事だった。ごく初期には偵察・着弾観測・通信手段に過ぎなかったトンボのお化けのような飛行機が、陸戦・海戦の欠かせぬ兵器に成長し、ついには新軍種(空軍)として誕生するまでには数々のドラマがある。それらの主役は、ドーウェ(伊)、トレンチャード(英)、ゲーリング(独)などであり、米国では何といってもビリー・ミッチェル(1879年生)である。第一次世界大戦では仏遠征陸軍航空隊司令官、戦後空軍独立論を熱烈・執拗に展開、1925年事故に際して激しく陸海軍上層部を批判したため軍法会議にかけられ有罪、階級・指揮権・職務停止5年の判決をうけ、1926年除隊(准将)し失意のまま1936年に没する。しかし、やがてその先見性を広く認知されるところとなり、空母ホーネットから飛び立ち東京爆撃を敢行したB-25は“ミッチェル”と名付けられ、(死後ではあるが)戦後名誉回復少将に任命されている。本書でも空軍誕生の父として取り上げ、ハップとの関係が詳しく述べられる(殉教者ミッチェルを救わんと軍法会議でビリーを弁護し、上層部の不興を買い左遷される)。一言でいえばハップはミッチェル・スクールの優等生だったのだ。しかし、ただ盲従するのではなく、ミッチェルの失敗から多くを学んでいる点がその後の昇進、さらには空軍創設につながっていく。
ハップ(1886年生)が陸軍士官学校(ウエストポイント)を卒業したのは1907年。父は北軍騎兵隊の軍医を経て開業医兼予備役、兄の一人も陸士出の工兵、もう一人の兄も軍医。後に息子二人も陸士と海兵に進むから軍人一家と言う環境である(娘婿も海軍の航空士官)。当時の陸士は理工系の性格が強く、成績の優れた者は工兵科に進むよう指導されるが(現在は歩兵科)、騎兵科も人気があり、ハップの希望もそこにあった。しかし、卒業休暇で配属を待っていると歩兵科との決定通知が届く。父も奔走して騎兵科への配置換えを工作するが実らず、歩兵としてフィリピンに派遣される。歩兵科からどう抜け出すか?その答えが1911年通信隊の中に新設された航空科(ただし兵科としては依然歩兵)への転属である。ライト兄弟直々の指導を受け優れたパイロットに成長、陸軍で29番目の飛行士、飛行教官第1号となり後進(地位や年齢は上級者も居る)の指導に当たる。このライト兄弟の指導は飛行術ばかりでなく理論や整備にまでおよび、それがのちの行政官としての活動に寄与する(特に研究開発や生産、訓練、補給)。一方で飛行士としての技量もなかなかのもので高度世界記録を樹立したり、スピードレースに勝利したりする。
しかし、第一次世界大戦では遠征軍を通じたフランスの要請に応じて、渡欧するものの戦場に着いた時戦いは既に終わっており、実戦を体験することはなかった。収穫だったのはミッチェルや英仏航空界の人間と知り合えたこと、先進技術(欧州の方がはるかに進んでいた)に触れられたことだった。この体験が戦間期の縮軍環境の下で技術研究開発(大学、特にカリフォルニア工科大学との共同研究、軍の研究施設の増強)や生産方式開発(自動車とは違うことを開発・生産者に知らしめる。一旦生産に入ったら小改善は我慢する)につながっていく。また、空軍戦略論を実証する機会を作り出し、大陸横断飛行や爆撃機(B-10)による長距離編隊飛行(ワシントンDC⇔アラスカ往復)に挑み、これを成功させてメディアや政治家の関心を惹く。また搭乗員大量養成に意を用い、地味な部分にも周到な目配りが払われている。この辺りミッチェルの短兵急なやり方を反面教師にした、老獪さをうかがわせる。
やがて通信隊の下にあった航空隊は次第に陸軍の中で独立性を高めていき、ついには航空軍としてほぼ新軍種に近い位置付けを獲得、大統領参謀部では陸海軍と同等の扱いを受けるようになる。つまり、ハップ(空)はマーシャル(陸)、キング(海)と並んで構成員の一人となるのである。この扱いの背景には、米英首脳会談(カサブランカ)で既に独立空軍を持つ英国に対してその相方が必要だったことやヨーロッパ参戦に反対していたリンドバーグの名声に打ち勝てる人物をルーズヴェルトが探し求めており(リンドバーグは「反戦など声高に主張せず、おとなしくしていれば閣僚ポストを提供する」とまで言われるが講演活動をやめない)、航空人として知名度が上がってきていたハップを適任者と評価したことがある。
ハップの航空軍ドクトリンは、空軍独立論者に共通する戦略爆撃第一(敵の軍事・政治・経済拠点を直接たたき、戦争意思を挫く)、地上軍支援第である。これは陸軍主流と物議を醸し、第2次大戦中は戦術空軍的な役割も担わされる。戦略爆撃手法は昼間精密爆撃。これは被害が多いと英空軍から反対されるが、初志を貫き夜間無差別爆撃の英軍と分担してアラウン・ザ・クロックとして作戦が実施される。しかし、この考え方は日本への爆撃には適用されず、焼夷弾による夜間攻撃で大都市に壊滅的な被害を与える(本文ではこの方式は太平洋戦域航空軍総司令官カーチス・ルメイの発案とされている)。では原爆投下はどうだったのだろうか?本書では統合参謀本部員全員が反対したが、最後はトルーマン大統領が決したとなっている。
また空軍創設に際しては、海軍航空隊も統合する案を推すが、海軍の徹底抗戦に会い実現しない。これは先行した英独空軍が海上で航空力を十分発揮できなかったことにも鑑み、米海軍の考え方が正しかったと私は思う。
読んでいて、強いリーダシップやカリスマ性、あるいは勇敢な兵士というイメージは全く感じ取れない。本書に書かれているわけではないが、キングは「あいつはマーシャルの腰巾着だ!」と酷評したとの話もある。しかし、急速に発展する技術と拡大する組織・役割を考えるとき、政治もメディアも生産者も学者もそして運用する兵士たちとも、余計な摩擦を起こさず、任務を達成し理想を実現するためには、前述した先駆者とは異なる、並みはずれたバランス感覚こそ不可欠の資質ではないかとの感を持った。これは企業経営におけるIT利用にも言えるような気がする。「我が国はIT利用が遅れている、徹底的にビジネスプロセスを変えよ!」と叫ぶ米系経営コンサルタントなど「ハップの爪の垢でも煎じて飲め!」と言ってやりたい。
本書は空軍公式の伝記である。従って士官学校時代の教科ごとの成績明細(あまり良くないことが一目瞭然)、人事異動記録、組織変遷などが添付されており、内容理解の助けになる。

5)わたしはこうして執事になった
Gentlemen’s Gentlemenの世界へようこそ-

英国を舞台とした小説や映画を読んだり観たりしていると、お城と見まごうような豪壮な邸宅で大勢の家事使用人にかしずかれて暮らしている上流階級の人々が登場するシーンに出くわすことがある。執事やハウスキーパ(家政婦長)などと言う言葉を目にすると、在英日本人作家カズオ・イシグロの権威あるブッカー賞受賞作品「日の名残り」や少し古い映画だがアカデミー賞作品賞を受賞したヒッチコックの「レベッカ」などが思い浮かぶ。
2007年渡英した際にはチャーチルの生家ブレナム宮殿やランカシャー、スコットランドのマナー(大邸宅)を訪れる機会を持ち、その維持・運営がいかに大変かを身近に知ることができた。従僕・下僕、メイド、料理長とその下働き、御者・運転手、馬丁、庭師、食品(食費管理を含む)や食器の専任管理者(特に変色しやすいな銀器の手入れ担当など)など、庭がそれほど広くなくても、数十人は必要だ。現在このような形が残るのは王族くらい、あとはナショナルトラストの管理になったり、ホテルやレストランあるいは小規模な美術館や博物館、遊園地などを営んで何とか生き延びている(ブレナム宮殿の城外には子供用豆汽車が走っていた)。運よくそのままの管理形態を残すのは、古くは米国人の成功者、最近はアラブの石油成金の所有物になっていると聞く。しかし、形だけは整ってもサービスの質的内容は往時とは比べ物にならないことが本書から窺える。今や先進国ではプロの“家事使用人”の志願者など皆無に近いのだ。
本書原著は1976年英国で出版されている。この前に同じ著者、ロジーナ・ハリソンによる自らの体験を題材にした「おだまり、ローズ -子爵夫人付きメイドの回想-」が世に出て話題になり、その続編として本書が書かれる。執筆当時著者は既に引退生活にあったから、中身はそれ以前の出来事ということになる。つまり半世紀近く前の英国の上流階級が描かれているのである。
前作を読んでいないので“アスター家”なるものの故事来歴は分からないが、著者が仕えたアスター夫人(正確には“レディ”アスター、夫人はミセス)はアメリカ人、彼女の夫もその父もアメリカ人、どうやら爵位を買い取り英国人になった家系のようである。もともとはドイツ系、アメリカに渡り財を成し、マンハッタンのシンボル、ホテル・ウォルドルフ・アストリアは一族の所有だった。レディアスターは才色兼備、義父の死で夫が爵位を継ぐと下院議員の資格を失う(貴族院議員になる)。身代わりとして夫人が立候補当選し英国初の女性下院議員となる。この才気あふれるしかし欠陥も多い夫人とローズの丁々発止のやり取りが前作の評価を高め、本書の執筆につながっている。
ここに紹介されるのは皆、アスター家を通じて彼女がよく知った人ばかり6名(一名は途中で実業に転じる)。最も年長者は1886年生まれ、最も若い執事経験者は1930年生まれである。これらの人々と面談し、生い立ちから家事使用人になった動機、昇進過程、出会った有名人(チャーチルからチャップリンまで)や当主家族を巡るゴシップなどで、その人生を語らせ、往時を再現する。
19世末から20世紀初頭のかけての英国下流労働者階級の貧困は凄まじい。子沢山で充分食べ物もいきわたらない。初等教育を終えた12~13歳で奉公に出るしかないのだ。当時でも下位の家事使用人(下男・下女)は蔑まれる働き口、それに耐えあるいは転職を繰り返しながら修業を積み、階段を昇っていく。奉公するのは豊かな王侯貴族ばかりではない。体裁だけを繕う没落貴族、上流階級の真似ごとをする見栄っ張りの中産階級、伝統的なしきたりを知らない成金や外国人。苦労は尽きないが、ここに登場するのはそんな使用人の中で懸命に努力し、運にも恵まれ、執事になった人々である。
名家の名執事と評価されるようになると別世界が開けてくる。有名人からの便宜供与(例えばアスコット競馬の際、王城に宿泊し下男部屋ではあるが、王族の暮らしぶりをつぶさに観察する機会もある)や高額なチップ、他家のパーティーの応援依頼(アルバイト)、高額報酬で持ち込まれる転職話、さらには主人家族に同行する海外旅行(それも一等船室)。最も華やかな舞台は、大規模パーティー、まるで主演俳優になった気分でこれを仕切る。こうなると一般庶民とはまるで異なる人生体験ができるのだ。
ところで“アスター子爵”である。本書の中に、1962年に起こりマクミラン内閣の倒壊につながる “プロヒューモ事件”が出てくる。プロヒューモとは当時の英陸相、アスター邸で開かれた大規模なパーティーで(出席者約2000名!)高級売春婦クリスティン・キーラ―嬢を紹介され懇ろになる。この女性が駐英ソ連大使館に勤務するソ連軍大佐とも金銭・肉体関係にあったことが分かり、機密漏えいの大スキャンダルに発展していくのだ。パーティーの会場がアスター邸であったばかりでなく紹介者がアスター子爵(レディアスターの子)だったことから、子爵は「ポン引き」と揶揄・非難されることになる。著者も当時の執事も「子爵に全く他意はなかった」と弁護している(しかし子爵様は彼女とどこで知り合ったのだろう?)。
やりたいと思う職業ではない、出来る仕事でもない。せめて本書で大英帝国最後の残照を垣間見る。そんな楽しみだけは十分堪能できた。前作「おだまり、ローズ」を読んでみようか、今はそんな心境にある。
訳が高質で英国の雰囲気が良く伝わるところも評価する。

6)戦争の社会学
-大先生、“社会学”はどこですか?-

著者は現代日本を代表する高名な社会学者。しかし、今までに読んだものは一昨年本欄で紹介した「教養としての聖書」のみ。キリスト教徒にとって生きるための源典と思っていたのものが、意外と時代によって中身に違いのあることを知った程度の記憶しかない。もともと宗教には関心が薄いからだ。それに比べると戦争の次に何かつく本(戦争の(と)XXX)は汗牛充棟、振り返って本棚を見ると、“新聞”、“経済”、“鉄道”、“物理学”、“科学者”などなど。この本に惹きつけられたのは“社会学”である。実は戦争と社会学に関して極めて強く印象に残っている本があったからだ。ジョン・エリス「機関銃の社会史」がそれである。手短に論旨をまとめると「同じ人間にあのような大量殺戮兵器を使っていいのか?」と言う戦場の倫理問題があり、その社会的背景が詳しく説明される。これが実戦に投入されるのは、植民地の暴徒、アメリカインディアンなど機械文明に後れをとっている人々、さらには文明が同程度でも日露戦争のように異民族に向けて始まり、やがて白人同士の戦いにおいて、通常兵器なっていく過程を描いたものがあったからだ。副題に-はじめての軍事・戦争入門-とあるのは気づいていたが、大先生の書くもの「どんな切り口で戦争を解剖してくれるのだろうか」と期待して求めた。
副題があるので“羊頭狗肉”と非難は出来ないが、どう読んでも“社会学”が明瞭に浮かび上がってこない(もともと社会学そのものの定義が難しいからかもしれない)。「あらゆる戦争にはその時代の社会が反映されている」と開き直られると反論のしようはないが、本書は当に軍事・戦争の“入門書”に過ぎなかった。戦い方・軍事組織の変遷、軍事思想に関する古典解説(クラウゼヴィッツ、マハン、孫子、リデル・ハート)、戦争に関する国際法、武器の発展(石器から大量破壊兵器まで)、歴史上主要な戦争の概要、戦争と政治指導者の関係、近代兵器の用法、日本軍の特異性など、戦争・軍事知識のてんこ盛り。それを新書一冊に詰め込むのだから、超ダイジェスト、超短絡になり、記憶に残るのは用語だけとなりかねない。しかし、それも糾弾できない。何故ならば、本書は著者が東工大で行ってきた「軍事社会学」の講義内容をまとめたものだからである。「大学の教養課程、それも選択科目の教科書なら仕方ない。まえがき、あとがきをしっかり読んでから購入すべきだった」と諦観するしかなかった。
しかし、本書を読んで全く得るところがなかったわけではない。
・一流大学で、一流の学者によって、きちんと軍事学(この分野では三流だが)の講義が行われていることをはじめて知ったこと。大いに評価する。
・終章近くの“奇妙な日本軍”で、軍人勅諭が明治憲法に先立って軍に与えられていたことを知ったこと。のちの“統帥権干犯”問題の原点はここらにあるのだろうか?
・軍人勅諭、戦陣訓の内容が国際ルールを反映していないこと、あるいは意図的に出典(中国古典、「戦争論」)解釈を曲げているとの指摘。
・高級軍人(参謀・司令官)向け「統帥綱領」の復刻版(終戦後直ちに焼却処分されたが、その後関係者が記憶を頼りに復元)を分析、そこに“奇妙な日本軍”の根源があるとの考察。また、この綱領の中に毒ガス兵器取扱に関するところが数カ所あることを初めて知った。
1941年設立された「総力戦研究所」による日米戦シミュレーション結果に言及していること。研究所の存在とその研究結果、それに対する東条首相のコメントは我が国OR史の原点であり、おおむね記載されていることは承知していたが、この研究所の詳しい活動内容をノンフィクション作家(元東京都知事)猪瀬直樹が「昭和16年夏の敗戦」として1980年代に出版していることを知ったのは大きな収穫だった(次月紹介予定)。
・一方で軍事研究専門家でないことからくる、未熟なミスや無知も散見される。その一例は“マハン海戦論”の章の中で、1922年のワシントン海軍軍縮条約に言及する際、主要艦保有比106.975を、実際の戦力比較する場合これを二乗して10049として紛糾したことを「根拠は曖昧であるが、戦前の日本で広く信じられていた」と記している。軍事数理の基本のひとつ、有名な“ランチェスターの法則”を知らない、と言うことである。

まあ、戦争につて何も学んでこなかった、大学新入生にはそれなりに斬新は知識かもしれないが、戦争をより深く知りたいと思うものにとって価値のある本ではない。

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