2017年4月18日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-7


5SPIN経営―3連載再開にあたって
昨年11月「旅行に出るのでしばらく時間が空きます。次回は12月に入ってからになります」とお伝えしながら、台湾鉄道旅行記で年を越し、その後も旅行記が予想外に長引き、中断していた“SPIN経営第3部”の連載を遅ればせながら再開することにします。読んでいただいていた方々に深くお詫びしますとともに、これからの閲覧をよろしくお願いいたします。
再開に当たり、先ず今までの経緯をかいつまんで辿ってみたいと思います。
1部(SPIN経営-1)は1985年の会社設立の背景・準備段階から、私が取締役に指名される1988年までの主要な出来事を記してきました。当時の我が国は“ジャパン・アズ・ナンバーワン”の時代。いずれの企業も勢いがあり「世界の製造業を制覇するのではないか」と米国にさえ最強のライバルと警戒されている有様でした。潤沢な余剰金を新規事業開発に充てるのがブームで、東燃も新エネルギー、新素材、バイオ、情報技術の4分野でそれに取り組んでいました。しかし、これらはいわば探索段階で、直ぐに事業化できるものではなく、「もっと手近なものから」との発想でNKH副社長から検討を命じられたのが情報システム部を核にした、成長著しい情報サービス業への進出でした。
このような声が上がったのは既に1983年から子会社の一つである東燃テクノロジー(エンジニアリング会社)にシステム部を設け、IBM汎用機と横河電機の分散型DCSシステムで構成されるプラント運転制御システムTCS(東燃コントロ-ルシステム)の外部向け販売が順調に進んできていた背景がありました。これに事務系のIBMおよび富士通向け受託開発を組み合わせて、グループ内外の情報システム開発・運用ビジネスを行う目論見です。この構想は多くのライバルが在ったにも関わらず、広義の化学プロセス工業の的を絞った差別化策が功を奏し、IBM・富士通・横河電機と言う強力なパートナーの協力もあって、経営は順調に推移していきました。
2部(SPIN経営-2)では1988年の経営陣刷新で初代社長のMKNさんが二代目のSMZさんに変わり、既に1986年東燃社長に昇格していたNKHさんから私も取締役に一人に任じられ、1994年三代目の社長になるまでの6年間を記しました。日本経済がバブル絶頂期から凋落し、IT環境がダウンサイジング、ネットワーキングへと激変した時代です。さすがに汎用機ベースのTCSビジネスに陰りが出てくる一方で、情報システムによる経営改善・革新意欲は依然として高く、戦略的情報システム(SIS)への関心が高まり、ERP(統合基幹情報システム)導入ブームが緒につき始めます。このような環境変化に対応するためSPINも、生産管理システムのMIMICDS社;計画立案・スケジューリング)やPIOSI社;プラント運転リアルタイムモニタリング)などの新しいアプリケーションパッケージを扱う米国ソフトベンダーと提携、品質管理用ソフトLab-Aidの自社開発など商品ぞろえを強化し、営業利益レベルには凹凸があるものの、売上高と人員数は業界の成長率を上回る伸びを続け、オフィスも東燃本社が在った竹橋から飯田橋に子会社を結集してビルを一棟借りするまでになりました。
19941月、NKHさんに次期社長を告げられ責任の重大さをあらためて自覚させられた直後、そのNKHさんが大株主(ExxonMobil)によって社長を解任されるという激震が起こる。生みの親を失った孤児の心境。第3部はここから話が始まります。
幸い業容の拡大は続いていたものの、それまで手作りだった企業の経営管理中枢(営業・生産・会計・調達など)機能を担う情報システムはERP(基幹業務統合情報システム)パッケージに置き換わる時代を迎え、SPINもプロセス特化した米国ROSS社のERPRenaissanceを総代理店として扱うことになり、その経緯を“経営陣一新”に続けて2回にわたり紹介しました。次いで社長として忸怩たる思いが残る、株式公開を期待して資本出資したソフト開発会社SBC社倒産の顛末を書いたところで連載を一旦中断しました(1995年)。
これから2003年の社長退任までの8年間、SPINも私も数々の経営課題に直面し、その解決に取り組むことになる。再開の始めとして、2015年前横河電機の子会社となった、英国石油コンサルタントKBC社との関係を取り上げてみたい。


(次回;英石油コンサルタントKBC社)

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