2017年5月29日月曜日

今月の本棚-105(2017年5月分)


<今月読んだ本>
1) 裁判の非情と人情(原田國男):岩波書店(新書)
2) Patton’s Air ForceDavid N. Spires):Smithsonian Institution Press
3) 「考える人」は本を読む(河野通和):KADOKAWA(新書)
4)人間の経済(宇沢弘文):新潮社(新書)
5)張作霖(杉山祐之):白水社
6)プロ野球の一流たち(二宮清純):講談社(新書)

<愚評昧説>
1)裁判の非情と人情
-もしあなたが裁判員に指名されたらまず本書を!-

私が自身の問題として裁判所と関わったのは、父の死に伴う遺産相続手続きに関する1件でだけである。特にややこしい背景があったわけではなく、母がそれ以前重度の認知症になっており、私が成人後見人になっていたのだが、遺産分割に際し、母の代理人にはなれないことから弁護士と家裁に出向く必要があったのだ。つまり、簡単な民事における法的手続きを進めるための行為に過ぎない。多くの人にとっても裁判所との関わりはこんなことくらいではなかろうか。まして刑事事件ともなれば別世界の出来事と言っていいだろう。本書はその無縁とも思える刑事専門の裁判官が月間総合誌「世界」に連載してきた、裁判エッセイをまとめたものである。司法分野に対する興味はほとんどないのだが、以前本欄で紹介した「絶望の裁判所」の記憶(最高裁判事の意向を忖度する調査書づくり、人事の恣意性)と題名“非情と人情”に惹かれて手に取ることになった。
テーマは、研修生時代の弁護士事務所勤務、海外研修、法務省へ戻っての検事経験(検察と警察の関係、死刑求刑文の起案)、前記著書で悪評の最高裁判所調査官として仕事、地方勤務(ほとんど事件無し)、法科大学院教員としての体験など司法全般におよぶが、中心は何と言っても長く深く関わった刑事事件に関するものが多い。しかし、事例を同じように解説するのではなく、切り口は多様である。裁判長・左陪席・右陪席の役割(裁判官から見て右が右陪席で上席;判決文の起案は左陪席が行う)、被告とのやり取り、量刑(この分野で博士号取得)、最終判決文のまとめ方(裁判長によって異なる)、資料保全、調査活動の心得(湯茶・食事サービスへの対応基準;食事は無論不可、緑茶はいいが紅茶はダメ(アルコール混入の恐れ)!)、高度に専門性(数理や工学)を要する事件、裁判員に対する資料開示(裁判員裁判の対象事件は死刑・無期相当(殺人事件);裁判官には日常的なものでも、一回限りの裁判員にとっては受け取り方の振幅が大きい)、自ら下した判決に対する上級審での逆転、メディアとの関係などなど、部外者にとっつき易い形で書かれている。
“非情”;何といっても厳しいのは多数関わった“死刑”事件である。オウム事件、永山事件も担当しており「書きたくないくらいだ」と心境を吐露している。法律で許され、職務上避けられぬことだが、これも“殺人行為”に違いないこと。最終判断を決するには相当な苦しみが伴う。判決言い渡しの前の晩は眠られぬこともしばしば、死刑が執行されたと報道で知ると、心からその冥福を祈る。一方被害者遺族を慮れば冥福を祈るべきは被害者に対してではないかとの思いも去来する。量刑、冤罪・誤判、裁判員制度の話も、死刑との関係で語られるものが多い。
“人情”;量刑の決定基準はおおむね判例によるが、根底にあるのは「健全な社会常識に照らした合理的判断」、この“社会常識”涵養のために藤沢周平作品や鬼平犯科帳に範を見出し、寅さんをこよなく愛する(帯に山田監督の寄言)。「白黒を裁くのでなく、灰色か黒かが問題」との信念を持ち、控訴審(第2審以降)で逆転無罪判決を20数回行っているのはダントツ(無罪判決の多さは人事評価上好ましいことではないようだが・・・)。多くの内容はこの“人情”を感じさせるもの、重苦しい世界ととらえがちの裁判を明るいものにしてくれた。
確率的には極めてまれだが裁判員になる可能性はゼロではない(70歳以上は辞退可)。裁判を身近なものとして理解しておくことはある程度“社会常識”ではなかろうか?本書はそんなことも考えると「気軽に読める裁判入門」書としてお薦めの一冊と言える。

2Patton’s Air Force
-パットン戦車軍快進撃の裏方。地上軍直協航空隊のすべて-

航空機の軍事利用はそれまで平面で行われていた戦いを立体的な空間に広げた画期的な出来事であった。ただ、本格的な航空戦が始まった第一次世界大戦では広義の偵察任務(着弾観測を含む)とそれを阻止あるいは援護するための戦闘機同士の空中戦が専らで、新兵種(航空兵科)、新軍種(空軍)誕生のカギとなる爆撃機が決定力を発揮するまでには至っていない。技術力や経済力の限界もあり運用思想が充分成熟するところまで固まっていなかったことがその背景にある(夢が先行)。この運用思想の模索は第二次世界大戦が始まるまでの戦間期、既存の陸海軍各兵種ばかりではなく、航空兵科の中にさえ存在した。代表的な論点は、独自性の高い戦略空軍志向か、既存の兵種と協同する戦術重視か、である。米・英の爆撃機関連図書は戦略爆撃に関するものが多く、ドイツ空軍を取り上げたものは専ら戦術空軍としての活躍をクローズアップ傾向にある。その根源は海洋国家と大陸国家の違いから来ていると考えていいだろう。本書はその戦略空軍志向の強かった米陸軍航空軍で非主流派ともいえる戦術航空戦力の姿を、第二次世界大戦時の米陸軍第3軍(機甲師団中心に編成;司令官パットン中将、のちに大将)と作戦行動を共にした米国陸軍航空軍(空軍になるのは戦後)第19戦術航空団の戦いを中心に調査・分析した、ユニークな戦史である(独空軍戦史にもこれだけ地上戦との関わりを詳しく書いたものはない)。
戦場は北アフリカ、シシリー島、欧州大陸と転じるものの、主体はノルマンディー上陸後から終戦に至る10か月に絞られ、チェコスロバキア、オーストリア東部まで攻め込んだパットン軍(機甲軍)の突進力に如何に戦術航空団が貢献したかを、ノルマンディー上陸、ブレスト・ロリアン・サンナザールなどの主要港湾都市(いずれもUボート基地)攻略、パリ奪還、ジークフリート線突破、ライン河渡河、独バルジ反撃防戦など代表的な作戦ごとに、詳らかにしていく。
戦車・装甲車両を用いそれに急降下爆撃機を組み合わせたドイツの電撃戦は初期(1939年、’40年)の欧州戦線で圧勝、その力を世界に知らしめるが、5年後の米空陸協調作戦は、細部の戦術を見ると桁違いの複雑さと統合性を持つものであることが本書でよく分かる。ある意味戦略爆撃の方が遥かに作戦としては容易である。乱暴に手順をたどると、爆撃目標を決める→必要な爆撃機をそろえる→爆撃を実施する、これだけでいいのだ。ミサイル・核兵器の出現で有人戦略爆撃機の存在が問われるのは当然である。
これに対して戦術航空軍の役割は、戦域の制空権確保、地上部隊の上空援護(傘)、敵軍進出阻止(補給・交通・通信の遮断・阻止)、空飛ぶ砲兵、武装偵察(爆弾携行、機銃掃射)など多様で、複数の任務が組み合わされるのが当たり前、綿密な事前作戦検討・準備と臨機応変の現場対応が不可欠である。この任務の多様性とこれに応える柔軟性・即応性が独電撃戦と大きく違う点である。
指揮(権)の問題、司令部の配置と構成(集中、分散)、要塞都市攻撃(爆弾搭載量制約と対空砲火から戦闘爆撃機には不適な戦場)と機動戦の違い、作戦会議の構成と進め方、前線における連絡・通信のやり方(陸-陸、陸-空、空-空)、補給(特に燃料と弾薬)方法や優先度、前線飛行場確保と補修・建設、作戦に適した飛行機(戦闘機、戦闘爆撃機、戦術偵察機(低空高速写真撮影)、夜間偵察機(敗勢の独軍は夜間移動が多い))と搭乗員の育成(国内、現地)・確保、独立志向を考慮した航空軍教義(制空権確保が第一、上空カバーは最低位(地上軍の最優先要求事項);教義上は15%を超えてならない;実態ははるかにこれを超える数値)との折り合い、他連合軍(隣接地上軍や戦略空軍)との調整、晩秋からの欧州の悪天候(飛行可否のみならず、滑走路の痛み、そこからくる運用機種の制約)、が協同作戦実施に難題を投げかける。
パットンの快進撃を支えたのは第19戦術航空団長のウェイランド准将の存在。二人の経歴、性格が対照的なことが関係強化に深くかかわったと著者は見ている。パットンは名家の出身、ウェストポイント(陸士)卒後騎兵から機甲に転じた経歴、常に華々しい言動で存在感のある人。ウェイランドは経済的に恵まれぬ家庭出身、苦学してテキサス農工大に学びここで将校教育を受けたのち陸軍航空隊に入隊、主に偵察畑を主務としてきた、地味な性格の人。パットンよりは17歳若い。パットンはハスキー(シシリー島上陸)作戦で精神を病んで入院中の兵士を殴打したくらい激しい性格だが、ウェイランドとのやり取りに自分の考えを押し付けるようなシーンは全く出てこない。むしろ軍内あるいは軍間で意見の対立があるとウェイランドの肩を持つことが多い。お互い補完するところが多かったのである。ただこの人間関係をやや強調する筆致には些か疑問が残る。組織としてまたパットンの巷間伝えられる言動から見て、激しく対立することもあったのではないかと。
軍事技術の点で戦術航空団の地上軍支援活躍に際立つ貢献をしたのは、各種通信システムや移動式レーダーの開発・運用(民間技術者を戦場に同道させることもある)、飛行場建設に関する指揮下の工兵の創意工夫などがあげられるが、それ以上に決定的なのはP-47戦闘爆撃機とP-51戦闘機の登場である。中でも頑強な作り(空冷エンジンは対空砲火に強い)のP-47は地上軍直協のあらゆる場面に投入され、今に続く戦闘爆撃機の開祖の位置を占めることになる(戦闘ヘリやミサイル出現前)。
戦術爆撃評価(例えば、車両破壊数)についても各種資料(OR部隊からのものが多い)から数値検証(総じて飛行士の申告は過大)を行うなど、“戦争と数理”と言う視点からも価値のある情報が多く含まれる。
数百冊持っている軍用機・空軍に関する書物で、本書ほど戦術航空を幅広くかつ深く論じているものはない。私にとっては貴重な一冊となった。
なお、ウェイランドは欧州戦末期少将に昇進、その後新設の空軍に移り、朝鮮戦争時極東空軍司令官として長く滞日、“航空自衛隊育ての父”と称せられ、1954年大将で退役した。

3)「考える人」は本を読む
-楽しい読書エッセイ。「考えない人」も本を読もう!-

書評をよく読む。新聞が主体だが、ネットの“お気に入り”にいくつか出版社あるいは個人のHPを登録してあり、そこにアクセスすることが多い。言わばプロと思われる人のそれは、取り上げた本を題材に自説を売り込むことに熱心な内容から上品なウィットに富むエッセイ風まで千差万別、前者の代表例は編集工学研究所松岡正剛の“千夜千書”、後者は既に故人となった丸谷才一の一連の作品(時に辛辣ではあるが、読んでいて楽しい)と言ったところであろうか。当然のことだが両者とも好悪はともかく“評”に重心が置かれているのは言うまでもない。
本欄を<愚評昧説>と名付けたことから、書評ととらえられがちだがこの“評”に関しては、もともと内容を批判的に深く掘り下げる意図はなく(力もないので)、購入動機や興味の視点から読中・読後の思いを、特に自身の生い立ちや体験と関係づけて紹介し、印象に残った読みどころを概説することを主眼に置いている。言わば自己中心の“拙い読書エッセイ”といったところが適当な位置づけだろう。
本書は長く中央公論社で雑誌編集を手掛け、その後新潮社に移って季刊雑誌「考える人」編集長を務めた著者がメ-ルマガジンに書き続けてきた書籍エッセイをまとめたものである。厳密な意味での書評ではないという点(内容を深く掘り下げるのではなく、読書ガイドのようなスタイル)で、本欄執筆に大いに参考になるものであった。
さすが大出版社のベテラン編集者、先ず25編の分類が見事だ。Ⅰ)読書を考える、Ⅱ)言葉を考える、Ⅲ)仕事を考える、Ⅳ)家族を考える、Ⅴ)社会を考える、Ⅵ)生と死を考える、と章立てし最終章を除きすべて4作品で構成する(最終章のみ5編)。バランスの良さ、小見出しの流れ;読書から入り生死でおわるところにも、それぞれが独立した作品の随想であるにもかかわらず、一冊としてのまとまりを見せる。
「書き物は最初の一行が勝負。これで読み手を惹きつけなければダメ」とはよく言われることだが、当に“言うは易く行うは難し”であることは本欄を書く際いつも身につまされる。本書はこの点でも一級品である。本文中の一節、題目にかこつけた自身の体験、薦めてくれた人の一言、時の社会問題、著者の経歴、仕事を通じて先輩から学んだこと、一つとして同じパターンはなく、「先の展開はどうなるんだ?」と読む意欲を沸き立たせてくれる。
導入部の後に本文の概要紹介を兼ねながら、それと本書著者の体験などを交えた思いや蘊蓄が語られ、この部分がメインとなるが、小難しい持論の展開(これこそ書評と信じている評者が多い)など皆無、身近な話題を取り上げるので気楽に読み進められる。
取り上げられる題材は、山際淳司(故人)の「スローカーブを、もう一球」のような古典?も含まれるが、概ね最近の書下ろしノンフィクション。上記以外本の存在さえ知らないものがものばかりだし、題材も興味を惹かれるものは“読書を考える”くらいしかなかったのだが、一読した後で「少しは食わず嫌いを改めなければな」といくつかの本に触手が動き始めている。
面白そうな作品を二つ;
1.「〆切本」(左右社):作家、漫画家などが原稿〆切に対してとった言動集。柴田錬三郎が週刊誌連載に間に合わず連綿と詫び状を書き、それで一回穴埋めをした話。同様なことを谷崎純一郎も中央公論で起こしていること。手塚治虫が〆切を守らない“うそ虫”と綽名されていた話。「おたくのFAXこわれていませんか」と開き直る者、編集者だっただけに切り口はいくらでも手持ちがあるので“評”自身が喜劇を観るようだ。
2.「大東京 ぐるぐる自転車」(伊藤礼 東海教育研究所):本書の著者は1933年生まれ、作家で大学教授だった伊藤整の次男、杉並区久我山に住み練馬区江古田に在る日大芸術学部教授。直線で約12kmの距離だが電車やバスでは時間や乗り継ぎが大変。それまで乗ったことのない自転車で通勤することを思い立ち、実行する。苦闘の数か月、それから数年「軽々と、すいすいと自転車に乗り」となり、今では自転車用ナビ、ディジタル標高地形図などを駆使、7台の自転車を使い分けて都心部移動は専らこれ、「銀輪ノ翁、東都を徘徊ス」と雑誌記事になるほど。本書ガイドは“映画における自転車”から始まり、「突然炎のごとく」「二十四時間の情事」「大脱走」「明日に向かって撃て」「ET」などが取り上げられて、「偉大な発明品」の気ままさ、親しみやすさを先ず印象づける。読んでいくうちに本を買いたくなるばかりでなく、「自転車やってみるか」となっていった。
「考えない人(私)」にも普段読まない本を読む気を起こさせてくれた、見事なセールスマインドもなかなかのもの。
著者は本年4月「考える人」休刊とともに新潮社を退職したが、同社のメルマガ“Web「考える人」”(http://kangaeruhito.jp/category/html-mailmagazine)にアクセスするとバックナンバーが閲覧できるので、本書に取り上げられた記事を読むことが出来る(登録要(無料)かもしれない)。

4)人間の経済
-反市場原理主義者が語る社会共有資本と経済-

著者は、数少ない日本人ノーベル経済学賞候補者(スタンフォード大学指導教官のケネス・アローは1972年度、一時期部屋を共用したミルトン・フリードマンは1976年、シカゴ大学で指導したジョセフ・スティグリッツは2001年度受賞者)、文化勲章受章者、若くして米国経済学界の頂点に立つシカゴ大学経済学部教授となりその後痛烈な批判者に転じた反骨学者、理学部数学科出身の東大経済学部名誉教授、公害や環境問題の理論的支柱でもあった。3年前に亡くなったときには死亡欄ばかりでなく一面、経済蘭、社会面にも記事が載るほどの超有名人である。この死亡が伝えられたころ、経済紙の元編集委員である商科大学副学長を務めていた友人から「あの人の本は一度目を通しておいた方がいいよ」と薦められていたが、本格的な経済学の本をいきなり取り上げる気はなかったので、なかなかチャンスがなかった。書店で本書を手に取り「これならいけそうだ」と読むことになった。
死後3年もたっているのに本人が著者になっていることに違和感を覚えたが、長女が記したまえがきを読むと、生前から出版社と企画が進められていた作品のようである。おそらく私のような読者(気軽な入門書)を想定したのだろう、中身は長年かけて学説化してきた「社会的共通資本」をテーマにした、講演やインタビューをまとめたもので、この人の全学者活動をダイジェストした内容である。
既存の経済学(新古典派、ケインズ、マルクスなど)とどこが異なるか、どうしてこのような考え方に至ったか(特に若き日々の米国での体験・論争など)、世界が直面する諸問題(金融危機、地球環境、格差問題など)に対する経済学の在り方はいかにあるべきか、概ねこんな流れで構成される。
「人間は心があってはじめて存在するし、心があるからこそ社会が動いていきます。ところが経済学においては、人間の心というものは考えてはいけない、とされてきました」で本書は始まり、マルクス経済学と新古典派経済学批判を概説する。「社会主義の弊害と資本主義の幻想」と。
“心の経済”と言われてもとても私ごときにピンとこないのだが、読み進むにつれ、医療・教育・環境など人々の心に安寧をもたらすものこそが重要な経済ファクターとなるので、人を単なる労働力と見て経済政策を進めてはいけないのだと説く。根底にあるのは社会正義あるいは社会規範。これが著者の提唱する“社会的共通資本”につながっていく。
著者は東大理学部数学科出身(旧制高校では医学進学クラス)ではあるが、戦後の混乱期、経済学こそそれを解決する学問に違いないと専門分野を変え(数学が趣味の世界に見えてきた)、数理に基づく経済理論分野の研究をはじめる。米国でその論文が注目され、30代の若さでシカゴ大学教授に任じられる。ここで出会うのが市場原理主義の旗手となるミルトン・フリードマン、本来の新自由主義(ハイエクら)から踏み込んで、利益最優先のなんでもありの世界を見せつけられる。これに対して著者な経済活動において無制限の自由は無く、社会的(規範の下での)自由と言う枠をはめる必要性を著者は主張する。これだけでもシカゴ学派内では異端ととられたようだ。ときはヴェトナム戦争で米世論が激しく揺れ動いていた時代、成績の劣る学生から徴兵される学内の制度に反対し、共産主義者扱いされ、これに嫌気がさして日本に戻ることになる。
高度成長の真っただ中、環境汚染が喧しくなった時期「自動車の社会的費用」で注目を浴びる。水や空気と言った自然は社会共通資本であり、それを野放図(つまり自由に使い汚染する)に利用することは許せないとし、環境維持(あるいは浄化)コストを社会(製造者、利用者)が負担すべきと主張する。爾後最近の地球環境問題まで、自然や人間の精神をも取り込んだユニークな経済学理論作りに取り組み、世界もこの経済思想に注目する。
戦中派世代(終戦時旧制高校生)の多くにみられるように、戦前の政治体制・思考につながることに強烈に反発するところがあり、一見反体制派(いわゆる左翼知識人)ととられかねないが、1980年代初めしばらく中国経済研究のため農村部に滞在し報告書に「資本主義的な搾取には市場的限界があるが、社会主義的搾取には限界がない」との報告書を党本部に提出、物議を醸したこともあるくらい気骨のあるリベラリストなのである。
晩年の大きな経済問題はリーマンショックとそれに合わせて到来した格差社会問題。これが過度の放任自由主義によると断じ、市場原理主義憎し、フリードマン憎し(ここは一項設けられており、下種として面白い)、米国憎し、それを追従する我が国経済政策憎しに転じていく。具体的には(市場原理主義に毒された)埋立ダメ、高速道路ダメ、農業基本法(集約化)ダメ、医療や教育政策もダメ、金融政策ダメ(数理経済専門だが金融工学は蛇蝎扱い)となる。
確かに言わんとすることはよくわかる。大変正義感の強い人であることも伝わってくる。しかし、この論を実現するためには、結局税制を含む規制の強化しか解決の道はないのではないか?それは今より大きな政府を出現させ、官僚支配の強い社会になり、国際(経済)競争で後れをとることになり、財政も苦しくなって、環境改善も進まないのではないか?その辺(自由と規制)のバランスをいかにとるのだろうか?読後に大いなる疑問が残った。

5)張作霖
-近代版三国志!初めて明かされる、奉天軍閥総帥の来し方と満州-

一昨年から昨年にかけて船戸与一の「満州国演義(全九巻)」を本欄で紹介した。満州国成立(1933年)前史から始まり終戦で終わる大河小説である。主人公は満州と深くかかわる4人の兄弟。この中で最も魅力的なのが次男の次郎。旧制中学を終えると家を飛び出し満州に渡り、小説の冒頭に登場する。小規模な馬賊の頭として貧村を盗賊(これも馬賊)から守ることを請け負うのである。日本人の描く満州馬賊にはいつもロマンが漂うのだが現実は厳しい。次郎もやがて手下を次々と失い、日本軍の特務機関に雇われるようになる。本書「張作霖」を読むと馬賊として生き残ることの苦労が良く分かる。
満州の歴史を語るとき、頻繁に出現するこの馬賊と呼ばれていた武装集団にも、単なる盗賊、強きから巻き上げ弱きに施す義賊、抗日ゲリラ、裕福な私人の用心棒、請負必殺仕置人、村や町の自衛団など種々ある。張作霖も、盗賊はやっていないものの、義賊まがいや用心棒、自衛団を下っ端から務め、馬賊同士の戦いに何度も加わりながら、満州最大・最強の奉天軍閥を作り上げる。その勢いは、一時北京まで勢力下におさめ、中国全土支配を窺うところまで達するが、国民軍の北上作戦(北伐)に敗れ、奉天へ帰ることになる。この帰還の最終段階、専用列車が爆破され風雲児の生涯が終わる(1928年)。本書はこの偉才を中国事情に精通した日本人ジャーナリストが、従来の満州史とは異なる視点でまとめ上げた評伝である。
何が従来と異なる視点か?日本政治史・軍事史よりも中国近代史の一部としてとらえているところに最大の違いがある。当然のことだが前者の視点に立てば日本に関わることしか取り上げない。中国の国内事情こそが張作霖の行動の原点なのだが、そこの部分が断片的・表面的になって、中国と日本の対立のみがクローズアップされてくる。あれだけの広大な土地・多民族国家・それらの歴史的な背景・思想的な違い、清朝末期から中国全体が大混乱する中での、国内の政治的軍事的な主導権争いで見る張作霖は、決して当時の日本人がイメージするする無法集団“馬賊”の頭目などではなく、飽くなき勢力拡大を目論む、狡猾でしたたかな、戦国武将を彷彿とさせる。張作霖からすれば日本や関東軍など、野望達成の脇役に過ぎず、利用すべきは最大限活用する存在なのだ。満州事変の3年も前に関東軍の工作で起こった爆殺も、こう見てくると敵味方不明の不気味な存在を恐れ、早いうちに削いでおこうとの意図だったと推察できる。
草莽(そうぼう;草むら;満州は女真族清朝の故地、漢民族の移住を禁じた封禁の地だが、末期の混乱によって難民が大量流入、張の祖父の代に奉天近郊に移ってきた)から身を起こし、乱世を駆け上がり、(国民党)革命軍や日本軍にも屈しなかった男の一生は当に波乱万丈、中学生時代読んだ吉川英二作三国志の主人公、劉備・曹操とダブル。
生きた時代は国内外が激変する時期。日清戦争((189419歳)、義和団事件(190025歳)、日露戦争(190429歳)、辛亥革命(191136歳)、第一次世界大戦(191439歳)、ロシア革命(191742歳)。各地に割拠する軍閥間の抗争、裏に居る外国勢力、それらの合従連衡、寝返り・裏切り・下剋上、政略・戦略・謀略、指導者の私利私欲、国民党と共産党の戦い。幾多の難題・危機を、脅したり、すかしたり、騙したりしながら、巧みに処していくところは、ノンフィクションであるにもかかわらず、優れた著者の描写力で冒険小説を読むような気分にさせてくれ、ハードカバー300余ページを一気に読み切った。
著者のバックグラウンドは、東京外大で中国語を専攻したのち読売新聞に入社、国内支局やハノイ勤務があるものの通算10数年中国に滞在、中国総局長、論説委員を務め、現在は中国駐在編集委員という特異なポジションにある。中国内でも極めて少なく、国内ではほとんど入手不可能な資料を渉猟して書き上げただけに、一味違った張作霖像が描けたのである。
読んでいるときは三国志や我が国戦国時代(斎藤道三が近いか?)がしばしば頭をよぎったが、読後にふと浮かび上がってきたのは、幕末・維新史である。第1幕は清朝が徳川幕府、軍閥が薩長をはじめとする雄藩と言う構図、これで辛亥革命が起こり清朝は滅びる。第2幕は日本が徳川幕府、国民党と共産党が雄藩。張作霖の死後、そのあとを継いだ息子の張学良は満州事変で勢力地盤を失い西安に居る。ここに蒋介石を拉致し周恩来らと会わせ、国共合作を成功させる。まるで幕末の薩長同盟、張学良は坂本龍馬の役回りと言うことになる。
閑話休題。満州こそ日本近代史における岐路だった(と私は思っている)。満州事変前その満州を実効支配していたのは奉天軍閥を率いていた張作霖。それ故にこの男を掘り下げ、そこから当時の日本の政略・軍略を検証することは歴史認識を質す上で大いに意義がある。本書はそれに応えた稀有な著作と言えるのではなかろうか。加えて調査・分析の確かさ構成や筆致の巧みさ、読み易さ、歴史ファンとしてこれほど楽しませてもらった本は少ない。年末恒例の“今年の5冊”の有力候補の一冊は間違いない。

6)プロ野球の一流たち
-プロ野球名選手の奥義公開。何故彼らは一流になれたか?-

子供の時から現在まで、主に学校の授業を通じていろいろなスポーツを一通り学び、時にはオリンピックやワールドカップなどで自分では決してやることのない競技にも触れる機会もあったが、細かいルールや戦い方の細部まで関心が向くのは野球しかない。相撲が国技だ、柔道がお家芸だと言っても、全体から見ればマイナーな競技である。老いも若きも日本人に最も人気があり、誰でもが身近に感じるのはやはり野球を置いて他にないのではないか(「サッカーがある!」の声がかかりそうだが、それには「世界レベルか?」「世界の名選手・スターになったものがいるか?」と返したい。経営の仕方はJリーグの方が優れているが・・・)。メジャーリーグで活躍する選手を輩出する昨今「野球こそ国技」の感さえしてくる。本書はその一流選手たち(監督を含む)の“一流”を探り、明かすものである。
著者のスポーツ評論は新聞でときどき目にするだけだが、野球に限らず切れ味鋭く、読んでいてスカッとする。どこにも媚がないのが良い。2008年の初版刊行ながら何故か平積みになっていたので目に入り、「チョッと軽い本を読みたいな」と思っていいた時だったので、即購入した。期待以上に面白い!上手く一流選手の極意を引き出している。著者も一流スポーツライターだからだ。
書き出しは「名捕手あるところに覇権あり」(これだけでは「風が吹けば桶屋が儲かる」と大差ない)野村克也の口癖から始まる。野村のややひねた性格は個人的には好きになれないのだが、ID野球の始祖であるように、野球戦術理論では超一流である。その根底に肌で身に着けた数理やそれから導かれた論理があることに大いに敬意を払う。野球の選手は誰も数理理論などに長けてはいない。しかし、一流選手は積み重ねた経験を知らず知らずに数値化し、それを昇華して頭や身体が反応するようにして試合を戦い、さらに一流度をたかめている。著者はそのことを承知して、対談相手の日常語で問いを発し、答えを我々が理解できる言葉に一般化する。つまり、本能化した数値(判断・動作)→その選手固有の言語化→一般化のプロセスで、一流選手の資質に迫っていくのだ。
配球学では野村、彼に育てられた古田、打撃論では中西、中西の弟子たち(若松、掛布、ブライアント)、理論を超越する長嶋(考えるバッテリーほど痛打を浴びる)、晩年の江夏から学んだ大野(先発、抑えの両方で成功)、その大野にカモにされつづけた松井秀喜、大野が一番と位置付けるバッターは落合。
しかし、一流選手にも弱み・欠点がある。松坂のメジャーにおける防御率の悪さ、体幹は素晴らしいが指先の感覚に問題があったことを東尾が明かす。マウンドの違い(砂場(日)とコンクリート(米))が効いてくるのだ。無冠の帝王(新人王は除く)で終わった強打者清原、最後まで克服できなかった致命的な内角球に対する弱点がその因である。落合と清原の差は、ホームランの方向に顕著に表れる。落合はセンター方向が12%なのに対し清原は23%もある。一番遠いところに打たない落合は無駄のないバッティングをしているのだ。捕手として唯一メジャーで活躍した城島は入団当初キャッチングが悪く、ベテラン投手からみそくそだったらしい。先ずここを直しやっと正選手になるがこの度はリード(配球)に頭が回っていない。それを育てたのは工藤、勝負に関係ない時には城島の要求通りの球を投げ、長打を打たれ、ベンチに帰ってから「何で真っすぐのアウトコースなんだ?!」「前の打席のこと覚えていないのか?!」と言う風に鍛えていったのだ(因みに、この項でメジャーでは投手が配球を決めるので優れた捕手が育ちにくいことを知った。冒頭の野村の一言と矛盾しないか?)。この指導法の裏にはベテラン工藤の持ち味を知った当時の王監督がいる。
ここに紹介したのはごく一部の一流選手。理論・持論もまだまだある。どれもこれも「なるほどな~」と感心するばかり。
全体で4章構成、個々の選手を丁寧に取り上げるのは前2章、後半は日米プロ野球界の問題点(契約金、移籍金、代理人、裏金、試合日程、WBC問題、ステロイド服用問題、高野連と朝日新聞など)をテーマにこれと一流選手の関わりを論ずる。前半に比べプレイと関係ないことが多く、著者のジャーナリストとしての主張(提言・主張には賛同することも多いのだが・・・)が強く出て、興味半減、対象者を増やし表題通りの内容でまとめてほしかった。


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2017年5月24日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-14


8SPINの将来を考える-3
横河電機がソリューションビジネスに進出を表明することで、SPINの将来を考える上で、大きな存在になり、具体的に関係強化について検討し始めるのだが、それについては少し先で説明するこことし、このころの情報サービスビジネス環境を俯瞰してみたい。
ダウンサイジングとネットワークをはじめとする新技術の発展・普及は、サービス分野(コンピュータ運用、ソフトウェア開発、システムインテグレーション(SI))に限らず、確実に汎用機メーカーを中心とした情報産業全体に変革を求めてきていた。それまで自社製品販売を旨として来ていたIBMですら、PCビジネスではインテルのCPU(演算装置;ハードの心臓部)とOS(ソフトの心臓部)にはマイクロソフトのDOSを導入、自前戦略が崩れてきたこと、大型汎用機の一部機能がPCやワークステーションに置き換わること、オープン化で他社製品と組み合わせ需要が必要になるがSIサービスを行ってこなかったこと、これらが合わされて収益を圧迫していく。1993年この苦境を打開するために、それまで内部登用しかなかったCEO職に、マッキンゼーを経てナビスコCEOを務めいたルイス・ガースナーが招聘され、サービスビジネスに大きく舵を切る。“ソリューション(回答、解決策)”なる言葉が業界にあふれ出すのはガースナー以降である。日本のコンピュータメーカーはIBMと異なり、顧客向けアプリケーションソフト開発や他社製品を含むSIサービスを付けることで何とかそれに対応してきたが、この時代になるとそれが生きてきて、システムサービス部門が急速に拡大していく。
一方バブル経済が1990年代初めに弾け、それまで事業拡大や新事業開発に奔走してきた我が国企業は総じて本業回帰の傾向を強める。この戦略転換の中に一時雨後の筍のように誕生した分社化情報サービス子会社の整理・再編成が起こってくる。ソリューション提供に欠かせないのはユーザーの業務知識、ユーザー系情報サービス子会社を取り込むことのメリットはこの業務ノウハウ取得ばかりでなく、コンピュータやネットワークの運用サービスを取り込んで安定収入を得られるし、自社製品を売り込むチャンスも増える。ユーザー系情報サービス会社獲得に、コンピュータメーカーばかりでなく、大手のシステムインテグレータも触手を延ばしてくる。
この業界再編成の中でSPINの将来を考える上で個人的に大きな影響を受けた出来事がある。1997年の山一證券倒産である。山一證券には山一情報システムという子会社があり、親会社の関連業務が多かったものの、野村コンピュータシステムなどと同様、独自のサービスも提供しており(例えば、地方選挙の当落判断、これは国政選挙とはかなり異なるノウハウが必要)、倒産前から業界の評価の高い会社であった。たまたまこの倒産前から社長を務めていたSMRさんと大学の情報サービス産業経営者同窓会(かなり先輩だが)で知り会い、前職は本社の常務だったが気さくな方で、親しくお付き合いいただいていた。山一が倒産するとこの子会社は業界大手で既に一部上場会社であったCSK(現日本フィッツ)に引き取られ、SMRさんはしばらくそのまま社長職を継続しており、同窓会で親会社変更の顛末について話を聞く機会が会った。一言でいえば、CSKが山一向けサービスが無くとも、山一情報を(当面)そのままの形で残すとしたことが決め手になったとのことだった。「SPINもこんな条件で引き受けてくれる会社があると良いんだが」株主移管の大きな方向性が胸の内に確り固まっていった。


(次回;SPINの将来を考える;つづく)

2017年5月21日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-13


8SPINの将来を考える-2
19977月に「SPINの今後についてまとめ欲しい」とチェンジチームに告げられ「いよいよ来るものが来たな」となるわけだが、ある程度予想していたことだったから意外な感じはしなかった。それまでに一人でこのことについてあれこれ考えていたので、それを整理し、役員・部長の考え方と突き合わせて落としどころを探ることにした。いくつかのゴール案は; 1)東燃グループからの出向者は東燃グループに返し、プロパー社員には退職金を払って、会社を解散する、2)機能・組織を分割して、一部をグル-プに戻し、グループに不要なものは他社に人を含めて売却する、3)経営陣と社員の一部で株式譲渡を受けてSPINを存続させる。いわゆるMBOManagement Buy Out)に近い、4)取引先(IBM、富士通など)に株式譲渡してもらい、その下で再編成する。5SPINのまま買い取り、経営形態をしばらく存続させてくれる株主を探す、こんなところである。
チェンジチームからの申し入れがあったこと、その概要は直ぐに役員・部長には話をしており、夏休みが明けたら適宜時間外に会議を持ってお互いの考え方を摺り合わせることにした。無論他言無用は言うまでもない。
9月から始まった検討会メンバーは、総務部長、営業部長、開発1部長、開発2部長、技術部長、ルネサンス事業部長、非常勤役員・監査役を除く私を含めた3人の常勤役員。週一度定時以降に集まり、2~3時間かけて、先ずチェンジチームからの申し入れそのものの受け入れ可否から検討に入った。期限を限った早期退職も始まっている現状から、チェンジチームの提案は受け入れざるを得ないとの結論には直ぐ達した。いよいよ本題である。
先ず1)案に対しては、東燃出向者(プロパー社員と役員を除く大部分)の中に、早期退職積み増し金に傾く人がかなり出そうだとの見通しがあるものの、プロパー社員の多くはまだ退職金対象年限に達しているものが少なく、従業員全体の今後の生活に大きな問題が出そうなこと、既に営業開始から12年、取引先は大小相当な数に上がっているが今後のサービスを如何に提供していくか良い対応案が見つからないこと、から早々に候補から落とすことにした。2)案は1)に比べれば実現の可能性はやや高いものの、機能・サービスによって売却可能性が異なり、最も大きなビジネスの一つになることを期待されているERPパッケージ“ルネサンス”の扱いがこの段階では難しかった(果たして引き取り先が現れるか?)ことから優先度の低い選択肢になった。3)案のMBO、東燃はSPIN全体を整理したいことから、役員・従業員に損をしない範囲で株式譲渡してくれることが予想できるものの、情報サービス業にとって命ともいえる信用力が著しく低下する恐れがあることから、これも積極的に取り上げないことになる。4)案、5)案は基本的に同じ性格を持つ。SPINをそのまま引き取る、株主が変わるだけで、各種商権・顧客・資産(主にコンピュータ・システム)・人も従来の姿を継続できる。ただ明らかに違いがあるのは、最も有力な候補である、IBMと富士通は我が国情報産業市場において強力なライヴァル同士であることである。富士通傘下になればIBM顧客が離れる恐れがあるし、その逆もある。またこの両者は、既にユーザー系情報サービス会社を何社か子会社化しているが、組織の再編成に素早く取り組み、元の会社の特徴を削ぐ傾向が強かった。これは他の大手システムインテグレータも同じで、プロセス工業特化を売り物にしてきたSPINとしては、このような全方位経営型大手情報サービス企業に帰属することが適当ではないとの意見が強かった。そこで浮上してきたのが10月に、新しい経営戦略を大々的に打ち出してきた横河電機である。その新戦略の呼称はETSEnterprise Technology Solutions)、もともとプロセス工業を主要顧客とする会社がソリューションビジネスに進出すると宣言したのである。


(次回;SPINの将来を考える;つづく)

2017年5月20日土曜日

ゴルゴ13の先見性

ゴルゴ13第64巻(1984年7月刊)の第3話「2万5千年の荒野」を読んだ(眺めた)。びっくりした!この時期に何と“福島第一原発事故”を予測したような内容だ!同じ思いの人がかなりいるようだ(これは55巻だが)。さすがゴルゴ!原発理解;内閣府、経産省、東電、原子力保安院、メディアとは段違いに優れている。外交でも安全保障でも同じことかな?

タイトル『2万5千年の荒野』とは、原子炉から排出されるプルトニウム239の半減期が2万5千年であることに由来している。
MATOME.NAVER.JP

2017年5月15日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-12


8SPINの将来を考える
東燃の経営陣刷新による本業回帰策は、新事業開発の中止・整理、工場生産効率の改善やオフィスの移転ばかりではなかった。それよりはるか以前、第2次石油危機以来始まっていた早期退職優遇制度の一層の推進があった。“優遇(積み増し)”の内容は一段と高まり、その退職金の運用や再就職斡旋も会社が保証してくれるのである。40歳代後半から50歳代半ばの社員が続々と会社を去っていった。次に来るのは子会社のリストラ、そんな予感がひしひしと感じられた。
もともとSPINの設立時からE/Mはその存在意義に疑問をぶつけてきており、スタート後も年々チェックが厳しくなってきていた。ポイントは東燃グループ関連売上と利益に何かからくり(新規事業投資の隠れ蓑)がないかと言う点である。初めは収支だけであったチェックポイントは次第に第3者との価格競争力を問うようになっていった(競争購買)。ある時には日本法人のエッソ石油のプロジェクトに応札する誘いまでかけて、我々の手の内(内外サービス原価格差)を調べることまでしてきた。これは愉快なことではなかったが、自らの身を質すために大変役立つことだったし、E/Mの経営方針がストレートに伝わることで、自社の将来を考える上での心構えを醸成する機会を早めに与えてくれるという利点もあった。
グループのオフィスが恵比寿に統合されたのが1997年の5月。それからしばらくした7月チェンジプロジェクトチームの3人、サブチームリーダーのIWSさん、社長室からこのチームに加わったSNTさん、これも経理から選ばれたKNZさん、が「折り入って話がしたい」と私に単独面談を求めてきた。いよいよ来るものがきたのだ。何社かある子会社の見直し・リストラである。石油化学(TCC)は兄弟会社と言いていい規模なので別扱い。東燃タンカー(TTK)はエネルギ行政と海運行政の違いから必須の会社。東燃テクノロジー(TTEC)はエクソンエンジニアリングの出先機関であり社員はすべて東燃からの出向者。この2社は本業と一体なので存在を問われることはない。東燃不動産も所帯が小さくどうにでもなる。当面の対象はグループ向け人材派遣や総務関連サービスを提供する東燃総合サービスとSPIN、中でもプロパー社員数の突出しているSPINが大きな課題とのこと。
TMB社長やNo.2FJM常務は同じ東燃グループ、何とかグル-プ内に残したいとの意向ですが、今までのE/Mとの交渉過程では難しいと感じます」と切り出される。E/Mの本業回帰・強化戦略の視点から「創設時の構想でいずれ株式を公開することを目標にしていた」「それを忠実に追うようにSPINビジネスは売上ベースで、コンピュータ運用サービスを除けばグループ外ビジネスが年々高まっている」「これは本業には不要、そこから遠ざかる何よりの証ではないか」と見られていると言うのである。反論のしようがない見事な論理である。「この環境を踏まえ、SPINをどうするか早急に考え方をまとめてほしい。また、東燃グループから切り離されることに対する希望・条件を提示してほしい」と告げられる。どんな選択肢が考えられるだろう?これがSPIN生き残り策検討の始まりである。


(次回;SPINの将来を考える;つづく)

2017年5月10日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-11


7.東燃の経営環境-2
1994年に発足した東燃の新経営陣が先ず取り組んだのが新規事業開発の縮小と1995年から始まった“チェンジプロジェクト”による本業の石油精製業におけるさらなる効率改善であることを前回紹介した。この間SPINの経営はこの本業回帰によって直接大きな影響を受けることはなかった。経営に大きなインパクトを与えたのは、このシリーズ(SPIN経営-3)の書き出しで触れた、出資会社SBCの経営行き詰まりや、総代理店として契約した米国ROSS社の基幹系統合経営管理ソフト(ERP)、ルネサンスの売り込み・ユーザー導入に関する苦戦(売れなくても契約ノルマの仕入れは確実に回収していく)やトラブルだった(複雑なソフト、なじみのない顧客業種)。それでも’94年度、’95年度と売上も利益も順調な伸びを見せていた。バブル経済は弾けて数年経ていたものの、依然としてIT環境の変化は急で、ユーザーの多くはネットワーク化やダウンサイジンに取り組んでいたからである。
しかし、’96年東燃グループ全体の経営に関わる思いもよらない話が起こる。分散している関係会社を一つのビルに統合すると言う計画である。東燃本社が1966年の新設来居を定めていた、皇居を望む一等地に在ったパレスサイドビルディングを引き払うほか、築地の東劇ビルを長く使ってきた東燃化学もここを解約、SPINも関連会社で一棟借りしていた秀和飯田橋ビルを出て、広尾に建設計画が進んでいたプライムスクウェア―タワーにまとめるとのだという。一体何のために?誰が言い出したのか?どう考えても新経営陣の発想とは思えない。いろいろな憶測が駆け巡る。
外資系の会社は並べて自社ビルを持たない。事業の中核である工場は別にして、オフィスどころか社宅なども最低限に抑える。資産化せずに経費で賄う発想である。東燃の場合もいくら内部留保があるからと言って、都心のビルのオーナーになる発想はなかったが、新事業関係ではそのための研究施設を、総合研究所の在った埼玉や工場用埋め立て地が石油危機の影響で未使用になっていた清水工場などに建設していた。これらが本社統合と直接関係するわけではないのだが、「不動産管理が杜撰だ」とE/Mに取られていたふしがあるのではないか?オフィスが分散していると、全体の人員数把握が難しく、“隠れ新事業要員”をあぶりだせないと考えているのではないか?いや、そんな複雑な背景ではなく、統合することによって、グループ全体の要員合理化が図れるのではないか(例えば先行している経理センターのように)?お堀前や銀座に比べて恵比寿は賃料が安いからだ、心機一転新しい会社・グループに生まれ変わるためだ、等々。
SPINの経営者として先ず思ったことは、今や社員数も200名を超え、プロパー社員が出向者上回るところまできて、再び一ヶ所にまとまることの士気への影響である。竹橋から飯田橋に出たとき、プロパー社員がどんなに喜んだことか(逆に出向社員の中には不満を持った人もいたようだが)。何とかこのまま飯田橋に居たい。しかし同居する他の関係子会社にそんな考えは全くない。経営者を除けば皆東燃や東燃化学からの出向者だからだ。こちらの意向に関わりなく移設統合計画は着々と進められ、’975月結局SPINもここに移ることになる。
現在に至るまでこの移設統合計画の最大因子が何にあったか不明であるが、漠然と感じ始めたのは、「(外資でありながら、自主性のあった)かつての東燃経営が大きく変わり始めている」と言うことであった。「ならばSPINをどうするか?」


(次回;SPINの将来を考える)