9.横河電機への株式譲渡
プロセス工業(石油、石油化学、化学、鉄鋼、紙パルプ、セメント・ガラスなど装置主体で生産活動を行う産業)の多くは24時間数年間にわたって連続操業する。生産工程が人目に触れることが少ないこともあり、信頼性の高い計測・制御機器が全工程にわたり重要な役割を果たす。この計測・制御機器製造に携わる企業にはかつて“御三家”と呼ばれる三社が存在した。北辰電機、山武ハネウェルそれに横河電機である。同様な機器を日立や東芝も提供していたが、需要家は国の影響力のある電力などに限られ、我々から見ればマイナーな企業だった。この御三家の内北辰電機は石油関連では3番手(鉄鋼に強かったが)でやがてSPIN創設少し前に横河電機と合併することになる。
横河電機と東燃そして私との関わりは長く深い。東燃が初めて横河製品を導入するのは昭和30年代前半、横河電機が米国Foxboro社と技術提携したからである。東燃は戦後事業再開(昭和25年:1950年)に当たりスタンダードヴァキューム社(Esso、Mobilの海外事業合弁会社)と資本提携しその関連会社Esso Research &
Engineering社と技術提携する。従って当時の新設プラントの指定計測制御機器はHoneywell社かFoxboro社のものに限られていた。当時も今もHoneywellはこの分野では世界一だがFoxboroも日本の石油精製業再開時はNo.2の位置にあったから、多くのシステムが導入され、横河が国産化を始めてからはそこからFoxboro製品が調達されることになる。
私が深くかかわるようになるのは昭和40年代前半(42年~44年)、横河が初の自社開発DDC(コンピュータによる直接ディジタル制御)システムYODIC-500の試作機を和歌山工場で実用テスト始めた際である。このプロトタイプを半年実プラントで試し、43年新設プラントに商用機導入を決め、3台のYODIC-500を逐次稼働させた。この時本社で全体プロジェクトを取り仕切ったのは、のちにSPIN発足時取締役になるMTKさん、私は最初の2台の現地プロイジェクトエンジニアを務めた。それぞれのプラントの最初のスタートアップは横河メンバーと交代勤務体制を組んで成功させたほどだから、発注者・納入者と言うより戦友の気分であった。そんな関係はその後の川崎工場新増設(YODIC-600)や、10数年後に取り組む第一世代プロセスコンピュータ(-500、-600を含む)の更新、TCS(Tonen Control System;IBMのACSと横河の後継DDCシステムCENTUMを結合したプラント運転制御システム)プロジェクトまで続く。当時の戦友たちは既に事業部長クラス、役員へと昇進している。
しかしどこから見ても違和感があったのは、創立来SPINの実質最高責任者(初代社長は本社常務から天下った、情報サービス業務には門外漢)として経営の中枢にあったMTKさんが3年目(1988年)に私が役員に任ぜられたとき、常勤監査役として実務から外れたことである。これには後天的な癲癇に対して常用していた薬をたまたま服用しなかったために起こった突発性の発作が影響している。本社社長がそれを知り、トップ登用を避けたのである。1988年梅雨の頃、若いころからの戦友で、このとき横河のシステム事業部長の職にあったTMTさんから私に電話がかかってきた。「MTKさん今の処遇でハッピーなんですか?」「忸怩たる思いでしょうね」「東燃さんがOKなら横河に割愛していただけませんかね?」こんなやり取りがあった。誰にも相談せずこの話を直にMTKさんに伝えた。これからしばらくしてMTKさんは横河に理事として迎えられ、のちに社長になる美川常務に親しくレポートする位置に着いた。そしてその美川さんがSPINの将来を検討している1997年社長になっていたのである(1996年就任)。株式を100%他社に譲る。こんなことはボトムアップで上げていくことではない。ETS戦略の発表から3か月くらい経ち、役員・部長検討会でも横河を身請け先の有力候補の一つとして取り上げることに前向きな空気が醸成された。そんな秋も深まったころ、MTKさんをさる料理屋に出向いてもらい、株式譲渡の話を切り出した。
(次回;横河電機への株式譲渡;つづく)
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