9.横河電機への株式譲渡-3
MTKさんに横河電機によるSPIN買収の可能性を相談したのは1997年11月下旬。それから2週間ほどして返事があった。「美川社長は大変乗り気で、直ぐに検討を開始するよう担当役員に指示が出た。年内にも一度顔合わせをしたいが、東燃・SPIN社内は話を進めることに問題ないか?」との確認を伴う内容だった。前回会ったとき「これはまだ私の腹案です」と言ったからもっともなことである。
早速相談したのは同時に役員になりSPIN業容拡大に努めてきたMYI常務。同期入社の経理系、現陣容の半数以上は事務系のアプリケーションを担当しているし、SPINの100%子会社で東燃向けメインフレームの運用サービスを行っている東燃システムサービス(TSS)の社長でもある。彼から異論が出ればこの交渉は直ぐにはスタートできないが、答えは「東燃からの出向者の退職条件が、将来も含めてそのまま認められること。雇用が継続され、処遇が当面変わらないなら」との条件で同意してくれた。次いで東燃本社でTMB社長に次ぐNo.2かつSPIN担当役員である、これも同期入社のFJM常務。彼も経理・財務が本務で購買も担当したことはあったものの、メーカーとの深い付き合いはなかった。しかし幸いなことに東燃も横河も芙蓉グループに所属、この関係でゴルフ仲間が居たこともあり、Goサインを出してくれた。両者の賛意が得られたのは12月中旬。直ぐに「交渉開始OK」をMTKさんに伝えた。
指定された日にちは忘れもしない12月25日、クリスマスである。朝9時にクラブ関東に来るようにとの指示だった。クラブ関東は、財界人の集う所で戦前の工業倶楽部に変わる役割を果たしていた。現在は大手町に居を移しているが、この時は麹町に在った。こんな所へ行くのは初めて。こちらのメンバーに要望はなかったが、MYI、FJM両氏と相談の上、まだ先が見えている段階ではないので、チョッと心細くはあったが、一人で会談に臨むことにした。
当日の朝はよく晴れて寒さが厳しかった。遅れるわけにはいかないから、早めに地下鉄半蔵門駅に着いて会場に向かった。クラブの正面玄関前が駐車場になっており、既に黒塗りの車が一台エンジンをかけたまま駐車しており、私を認めるとMTKさんの他に数人のメンバーが降りてきた。
人数に比べかなり広い会議室に入り、MTKさんの仲介で挨拶を交わす。先方のリーダーは経営企画担当のUEB常務、他に経営企画室のスタッフが数人。横河との付き合いは長いが、既知の人はひとりもいなかった。ただ少しホッとしたのは、恰幅が良く位負けしそうなUEBさんが昭和37年入社、つまり私と同年に社会人になったことを先に言ってくれたことである。大学の研究室から二人入社しているし、懇意のTMTさんとも1年しか違わない。彼らを話題にして、会議開始前のひと時で打ち解けた雰囲気になれた。
会議のとっかかりはMTKさんから、改めて今回の譲渡交渉の背景(東燃、SPINの事情、横河を選んだ理由)を今日のメンバーに話すよう促された。若干の質疑があったものの特に先に進むことに問題になるようなことはなかった。次いでUEBさんから横河に対する要望を聞かせて欲しいと言われ、これも既に本連載-15で列記した、SPIN丸ごと買収・経営継続、雇用の保障などを語り、加えて創設以来目指してきた将来の株式公開希望に触れた。全体としては「持ち帰って返事をする」と言うことで先に進むことが確実になった。しかし、終了際にUEBさんから「株式公開は必須ですか?」と質問があり、「出来れば」と答えたところ「当社がSPINさんに期待するのはETS戦略のコア―、つまり本業の中核に位置付けたいと思っているからです。その点だけは考え直してもらえませんか?」と注文がついた。東燃(とエッソ、モービル)はコア―でないから去れと言い、横河はコア―だから100%取り込みたいという。確かに、株主の事情は全く異なり、ある意味有り難いことである。「これは取り下げよう」と決意した。
直ぐに会社に戻り初の交渉内容をMYIさんとFJMさんに報告。次のステップに進むことの了解を得た。年末年始は挨拶回りに時間をとられ1月中旬本格交渉開始の連絡が入り、2月初め譲渡交渉が本格的にスタートする。
(次回;横河電機への株式譲渡;つづく)
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