2017年7月4日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-21


10.横河電機傘下になって
199871日をもって株式が100%東燃から横河電機に譲渡されるのだが、その前後のトピックスをいくつか書いておきたい。
第一は、SPIN生みの親であるNKHさんのことである。1994年私が社長に任じられた直後、大株主のExxonMobil(当時は、そしてSPINが横河傘下になったときも、両社は独立企業だった)によって代表権のない会長に祭り上げられ、オフィスもパレスホテルの別棟事務棟に移っていた。しかし、この年4月日銀政策委員審議委員に就任、5月連休明け、譲渡が公表された直後、SPIN常勤役員だったMYIさん、YNGさんと日銀にご報告に伺った。NKHさんは新聞にも載ったこの件をご存じなく、チョッと驚かれたが、その場で横河電機会長で旧知のYMNさんに電話をかけ「SPINは私が創った会社なんです。よろしくお願いします」と心強い支援の一言を伝えていただいた。
第二は、6月中旬開催された横河トップとの顔合わせ懇親会である。メーカー/ユーザーと言う関係から、多くの横河役員と交流はあったが、その多くは技術担当、美川社長は専務時代横河正三社長と年始挨拶で東燃トップを訪ねて来られたときに同席するくらいだったから、さしでお話しする機会はこの時が初めてだった。印象はとにかく“エネルギッシュ”の一語に尽きる。さすがかつての全日本ラグビー代表、「この人ならついていこう」と思わせる人柄だった。面白かったのはそんな一件元気そうな人が実は痛風病みだったことである。これはこちらのMYIさんと同じ。二人の話が、それから弾んだことは言うまでもない。MYIさんにとって横河は未知の会社、少しは気が楽になったのではなかろうか。
その美川社長は横河社内に「SPINの経営は当面の間、従来通りの経営を継続させ、ETS戦略に相乗効果を出せ!」と命じたらしい。それもあって役員にはシステム事業本部を率いていたHRS取締役が非常勤取締役になり、デューディリジェンス・チームメンバーだったUKIさんが非常勤監査役に任じられただけだった。これはSPIN社内はもとより顧客にも安心感を与える断で、大変有り難かった。
さて、東燃グループの決算期は1月~12月、横河は多くの日本企業同様4月~3月である。従って1月~6月の半期は東燃下で決算を行い、その後7月~3月の9カ月の変則決算となる。ところがこの16月期ERPパッケージルネサンス事業に種々トラブルがあり、近年まれな苦しい収支見通しになってしまった。下手をすると企業評価ベースが狂ってしまう。結果は何とか黒字にできたものの、譲渡交渉と合わせて少々ストレスがかかったのだろう、8月に入り、胃痛が始まり日々酷くなっていった。9月に入り医師の診察を受けたところ急性胃潰瘍との診断。幸い入院や休みもとらずに何とか回復したが、厳しい数か月だった。翌年3月決算では計画通りの実績を上げることが出来て、評価チームそして株主の期待を裏切らずに済んだ。
残る大きな問題はオフィスをどこにするかである。1996年それまで何カ所かに分かれていた東燃および東燃関係会社のオフィスは恵比寿プライムタワーに統合された。ここでは会議室の共同利用なども行われ、全体としての経営効率改善が進んでいた。しかし株主が変わった以上、ここを出ていかなければならない。横河電機の本社は三鷹、工場群もそこがもともとは主体だった。しかし、バブル期営業本部は新宿に、新工場は甲府にと分散拡大していった。バブル崩壊後これを整理する計画が着々と進んでいた。新宿の営業本部は三鷹の新オフィス棟に移り、工場も国内は甲府中心、それにシンガポールや中国の工場に製造ラインがシフトされつつあったので、三鷹の古い工場建屋にかなり空きが出てきていた。「三鷹に来ませんか?」横河からはそう勧められた。確かに家賃の点では魅力的だ。しかし、竹橋→飯田橋→恵比寿と移ってきた経緯から、多くの従業員はこれらの通勤域に住居を構えていたし、東燃の社宅(これはしばらく家賃さえ払えばいいことで譲渡契約した)は横浜地区に在ったので、三鷹では不便この上ない。悪くすると退社するものが出る恐れもある。あれこれ検討した上で、たまたま恵比寿に建築中の手ごろなビルが見つかり、12月にそこへ移ることを横河本社も認めてくれた。
いろいろな角度から見て、これほどスムーズに譲渡が進んだのは、東燃、横河ともに経営状態が極めて良かったことに尽きると今でも思っている。多くの場合、経営が追い詰められてからのリストラ(人に限らず組織も)は“貧すれば鈍する”でとてもこのようにはいかないであろう。


(次回;横河電機傘下になって;つづく)

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