2017年7月16日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-23


11.美川社長の死
横河電機は工業用計測制御システムの世界で五指に入る(厳密な数字は手元にないが)、知る人ぞ知る、その分野で我が国を代表するグローバル企業である。主たるコンペティターは、ハネウェル(米)、エマーソン(米)、ABB(スイス・スウェーデン)、シーメンス(独)などだが、ABBはボイラーなどユーティリティ、シーメンスも発電を中心に電力に強く、石油精製・石油化学、化学、鉄鋼、紙パルプ、セメント、ガラスなど含むプロセス工業向けオールラウンドプレイヤーとしてはハネウェル、エマーソンと覇を競う位置にある。
横河電機がここまで達した経営上の節目は、1950年代の米フォックスボロー社(かつてはハネウェルと並ぶ、この業界の2大メーカ。デジタル化で後れをとり、英国次いでフランスの会社(シュナイダー)の傘下に入る)との技術・販売提携と1970年代のその解消、次いで1983年国内第2位だった北辰電機との合併であると見る。提携時は私が学生時代だから、その経緯を知る由もないが、解消時は第一次石油危機の前後横河正三社長の時代(1974年~1986年)、独自開発によるデジタル制御システム(YODICCENTUM)のビジネスが軌道に乗り始めた時期である。北辰との合併も横河正三社長の時で、これが認められたのは世界トップのハネウェル資本が入った山武ハネウェルが、北辰以上に石油精製・石油化学の国内市場を押さえていたからだと言われる。美川さん(専務)が我々の前に姿を現したのはこの横河正三社長の後半からと記憶する。東燃トップへの年始挨拶に同道されていたから、後継者として考えられていたのだろう。美川社長登場(1993年就任)の前にYMN社長がその間をつなぐが、特に経営上大きな変化はなかった。
横河電機はもともと技術一筋の地味な会社。それも計測・制御と言う工学部でもマイナーな学科、主要顧客も素材産業が中心、本社も三鷹に構えていたから、メディアで大きな話題になったのは北辰との合併くらいで、認知度は高くない。それが変わり出すのが美川社長時代である。一つは半導体製造装置への進出、もう一つはユニークな人事施策である。特に後者は業界を超える関心事だけに注目度が高かった。(源点ではあるが本流でない)測定器関連ビジネス、海外勤務(ブラジル)、人事部長それにラグビー(全日本代表)などで培ったユニークな経験が随所に生かされた人材活用策はしばしばTVを含むメディアに取り上げられるようになっていく。高齢社員の得意技を生かした子会社が創設される一方、行き詰った会社の一部を機能ごと(例えば財務部門だけ)買い取るなど、今までの日本企業にはなかった、ある種のリストラを積極的に進める。
とにかくエネルギーに満ち溢れた風貌と行動力は、今までの横河文化とはまるで異なっていた。ETSもその流れの中で、中枢戦略と位置付けられSPINもそのいち構成要素になったわけである。ただそのETSは前回触れたように何か上滑りしている感を免れなかった。傘下に入って半年くらい過ぎたある時、経営会議に呼ばれ美川社長から私と担当役員に「シナジー効果は出ているか?」とのご下問があった。私は不十分と思っていたのでその旨応えたが、担当役員のHRSさんは、「時間が短いので顕著な効果は出ていないが、着々と進んでいる」と答え、その場は問題なく収まるようなことがあった。何か闘志満々の美川さんの前では堂々とありのまま言えない雰囲気があった。つまり見かけと実態の齟齬である。
こんな社内環境の中で1999年の春先から美川社長の体調不全が語られるようになってきた。そして入院、6月現役社長のまま他界された。後継は筆頭専務のUCDさんに決まり、6月の株主総会でそれが承認される。


(次回;美川社長の死;つづく)

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