11.美川社長の死-2
美川社長の生年は1933年、入社は昭和31年(1956年)、社長就任は1993年、60歳の時となる。創家出身の横河正三さんを除けばそれほど若いわけではない。三期目の半ばであるから、自身しばらく続けるつもりであったと推察される。実際、数々の新施策は話題になることが多かったものの、未だ緒についたばかりか、道半ばと言うところである。心残りであったであろう。
残された専務は、MZGさん、UCDさん、UEBさんの3人。MZGさんの入社年度は知らないが、おそらく3人の中では最年長ではなかったろうか。しかしこの人は北辰電機出身で総務部門が主務だったから社長候補として取り沙汰されることはなかった。次のUCDさんは昭和35年入社、海外営業畑が長かった人である。私が彼を知ったのも東燃テクノロジー(TTEC)時代、シンガポール・シェルのプロジェクトに協力を求められた1980年代半ばである。つまり国内営業が主流である当時の横河では傍流の感があった。それが存在感を示し出すのは美川社長誕生以降、ETS戦略推進で前面に出てきた頃である(のちに分かってくるのだがETSは海外法人から上がってきた案件だったらしい)。SPIN買収で知り合うとこになったUEBさんは昭和37年入社で一番若く、当時は美川さんの進めるM&A戦略の要だった。こうして年次や担当業務を見るとUCDさんの社長昇格はごく順当なものととらえることができる。
美川さんの経営は積極的な攻めだった。バイタリティと闘争心を露わにする容貌と合わせてそのリーダーシップは見事なものだった。一方で豪放な言動の裏に、下積みの長かったベテラン社員の有効活用など、細心な気配りを怠らないところもあり、それも社員を魅了した。こういうカリスマ性のある社長の後釜はそれなりに大変である。
UCDさんが先ず手掛けたのは“行け行けドンドン”の感無きにしも非ずだった、美川路線の見直し、引き締めだった。横河グループ入りして、ETS戦略の実態(足が地に着いていない)や子会社社長の集まりで見た経営の甘さ、に疑念を感じていただけに、私にはこの施策がもっともなことだと思われた。しかし、多くの美川ファン社員にとって受け入れ難いことだったようである。場所も別なところに在る傍流子会社ゆえにかえってそんな不満が耳に入るようになってきた。
この見直し・引き締め策と合わせてUCDさんが行ったことに役員人事がある。一部の役員・管理職の異動である。1999年秋、国内営業担当常務で美川さんのおぼえめでたかったNKMさんをシンガポール法人の社長に出したほか、何人かのキーパーソンが本社を離れていった。NKMさんはSPIN買収が決まると私との宴席を設けて協力を約してくれた人である。チョッと意外な感があったが、これを左遷とはとらえなかった。何故ならば、シンガポールには早くから工場もあり、中国を除くアジア戦略の要であったからである。しかし、NKMさん本人にとっては予想外のことであったらしい。そのNKMさんから12月初め「年が明けて年始回りが終わったら、SPINビジネス紹介を兼ねてETSセミナーを開催したいのでシンガポールに来てほしい」との依頼があった。こちらも「SPINが海外に出るきっかけになる」と期待してこれを受けた。
日曜に発ち水曜には帰国する短い日程でシンガポールへ飛んだ。NKMさんは昭和39年入社だから同世代と言っていい。明るい性格で何事も前向きに取り組むことから、営業部門では多くの人から慕われていたし、顧客の評判も高かった。シンガポール赴任も海外勤務は初めてと言うことで、張り切っていいたが、同年代・海外と言うこともあったのだろう、ポロポロっとUCDさん批判を口にした。この時二人とも間近に起こる驚愕の人事を想像だにしなかった。
(次回; SPIN会長誕生)
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