今日は長崎に原爆が投下された日として毎年ニュースに取り上げられる。しかし、私にとっては「ソ連が満州に侵攻した日」として、強烈に記憶に残る一日である。
昭和20年4月、私は新京特別市立桜木国民学校(小学校)に入学、一学期を終わり夏休みに入っていた。少し寝坊していたらしく父に起こされ、「朝食が済んだら社宅を(クルマで)廻るから一緒に来るか?」と聞かれた。自動車好きの私のことを思ってのことである。ただ何故そんなことをするのか分からなく、ポカーンとしていると「露助(ロすけ)が攻めてきたんだ」とつぶやいた。
満州国の首都新京(現長春)に住む幼い少年にとって戦争は全く想像の世界であった。無論日本の軍人はいたるところで見かけたし、同級生の中に父親が軍人の者もいた。しかし、戦闘行為など身近に感じたことがない。ロシア人の存在は街中で偶に目にする“白系ロシア人(この言葉は大人たちがよく口にしていた)”くらいだったから、戦争と関係するなどと思ったこともなかった。
市内各所に散在する社宅巡りの理由は、これからの会社・社員の対応策のためだったことは、あとで漠然とわかってくる。当時の父は鮎川義介総帥の日産コンツェルン傘下、満州自動車新京工場の総務課長のような役職だった。当にその職にあったわけである。
朝食を済ませてしばらくすると、ダットサン乗用車に乗った社員が自宅(コンクリート造りの二階建てアパートに居住)にやってきた。これに父と私が乗って動き出したが、間もなく少し離れた女学校に入る。何かと?と思ったが冷却水の補給だった。この学校の門から事務棟までは高い木々が茂り、木漏れ陽が眩しく注いでいたのはよく覚えている。後年芥川賞受賞作家三木卓(1935年生まれ、満州在)の「砲撃のあとで」を読んで、彼が同じようにこの木漏れ陽のことを描いているのを見てそれを確認した。当日は今日の横浜同様朝から日差しが強かった。
一旦帰宅し父はどこかへ出ていった。おそらく招集をかけた人々と善後策を検討していたのだろう。昼食が住むと昼間なのに風呂に入ると言う。そこで父が言ったことがまた幼心に、違和感を持って、刻み込まれた。「お父さんはこれから戦争に行く。お前は長男だから、確りお母さんや妹たち(3歳、1歳)の面倒を見てくれ」と言う趣旨だった。7歳の子供にも容易ならざることであることは伝わった。
3時頃社宅の壮年男子は病弱者や最小限の保安要員を残し、木銃・出刃包丁・ビール瓶などを持って、どこかへ去っていった。無論父もその中にいた。
夕刻少し前から、社宅(アパートは一棟ではなく、独身寮を含めL字型二棟をロの字型に組み合わせ、40世帯ほどあったと思う)が騒がしくなり、家でも母が何やら荷作りを始めている。急遽疎開が決まったのである。これも無論のちに知ることだが、ソ連軍は首都新京を目指すに違いない、また空襲もあるだろう。そんなことがこの行動を決したらしい。
自動車会社故2台のトラックの手配が直ぐに出来、夕方女子供が保安要員として残った数人の男に率いられ、南下を始める。やがて日が暮れ、明るいうちの天気が嘘のように雨さえ降ってくる。市内を離れれば荒野の中、夜道は平時でも物騒で、こんな時間に移動するものなどなかった。母は傍にいるものの、心細さに涙が出てきた。やっと小さな満人村落にやってきたとき、2台のトラックは止まり、男の引率者がどこかへ出かけ、満人の男性と一緒に戻り、彼も同乗してやや大きな建物の前まで来た。小さな小学校である。結局この晩はここで寝ることになった。同行した満人はこの小学校の校長先生である。あの状況下で信じがたい親切である。
何事も起こらず一夜を明かした我々は、そこからさらに南へ向かい公主嶺にたどり着いた。ここにも会社の工場が在り、我々は家族ごとに社宅に一時同居させてもらい終戦後数日経るまでとどまり(8月15日以降20日以前)、列車で新京の自宅に戻った。
戻りの列車は北に向かう。車内はそれほど混んでおらず、家族全員座れたが、結構日本の民間人が家族連れも含めて大勢乗っていた。これも後で知るのだが、多くは満鉄社員で、大連には向かわず、鮮満国境から朝鮮半島を抜けて日本へ向かう人たちだったようだ。
自宅に戻ると父がそこに居た。一週間ほど関東軍配下の民間人部隊に組み込まれ、公園で野営したのち解散したとのことだった。社宅内も荒らされたりしていなかった。ただ、アパートの道路に面した外部回廊にはコンクリートを斫って銃眼が穿たれていたり、満人たちが青天白日旗を掲げて行進したりする光景は、明らかに何かが大きく変わったと感じさせた。
ソ連兵を見るようになるのは9月に入ってから、社宅裏の満州国財務大臣の豪壮な邸宅が、ソ連軍高官の住まいとなってからである。女学生が髪を切って坊主頭になり、おばさんたちが時々顔を炭で汚すのを見るのはさらにその先のこと。8月の戦争記憶は9日~10日わたる公主嶺への逃避行に凝縮されている。無論広島も長崎も知らなかった。
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