<今月読んだ本>
1)飛行機の戦争1914-1945(一ノ瀬俊也);講談社(新書)
2)マスター・スナイパー(スティーブン・ハンター);扶桑社(文庫)
3)北朝鮮の核資金源(古川勝久);新潮社
4)戦争と農業(藤原辰史);集英社(新書)
5)データサイエンス入門(竹村彰通);岩波書店(新書)
6)物語を忘れた外国語(黒田龍之助);新潮社
<愚評昧説>
1)飛行機の戦争1914-1945
-責任逃れ・転嫁のための大艦巨砲主義批判-
第二次世界大戦を中心に、そこで決定的な役割を果たすことになる兵器システムについて、ITシステムの発展と対比しながら長年調べてきた。飛行機・戦車・潜水艦がそれらである。日本の場合、戦略兵器と言う観点からは飛行機と潜水艦に絞られ、特に飛行機の活躍は真珠湾攻撃やマレー沖海戦での実績から、我が国に限らず米英の軍人、軍事評論家や戦史家からも高い評価を得ている。空母の先駆者は英国だし、米国でもその建造・整備は進んでいたものの、機動部隊のような大規模な戦略システムには育っていなかったのが開戦前後の実態であった。しかしながら、戦後の旧海軍に対する見方は、そこに属した者ですら“大艦巨砲主義”にその敗因を求めるものが多く、さらには企業経営に対して、しばしば守旧的は経営スタイルを“大艦巨砲主義”と侮る風潮が横溢している。一時ではあるが世界を震撼させた“航空主兵”の先駆けが、実は“大艦巨砲主義”だったと言うのは真実なのだろうか?若き歴史家(1971年生まれ)がこの疑問に挑戦する。
従来の軍事システム論あるいは軍事思想史は、当事者である軍人あるいは戦史家・軍事思想家と言う専門家の視点から描かれるものがほとんどであった。本書の著者も若いとは言え、日本近代史の中で戦史を専門としている点ではその道の先輩たちと同じ立ち位置にある。しかしながら、一般庶民の“軍事リテラシー(特に兵器)”に着目して、課題に取り組んでいく姿勢は極めてユニークである(戦争そのものを大衆の眼で語らせるものは多いが)。飛行機が兵器として初めて登場した第一次世界大戦開始時(1914年)から第二世界大戦終了時(1945年)の間、日本国民は兵器としての飛行機をどのようにとらえていたか、この間の軍の啓蒙活動から少年少女あるいは婦人雑誌の記事、日記・作文までを丹念に追いながら、一方でこれらに対する反応を軍への志願者や航空兵の処遇あるいは兵器購入の献金活動まで調べ、さらには米英における海軍内の論争や対日戦略、旧陸軍における飛行機に対する考え方まで踏み込み、“大艦巨砲主義”と“航空主兵論”を検証していくのである。
明らかになってくるのは、制空権の重要性は広く認知されており、どこの切り口から見ても“航空主兵論”を支持する声が高いく、その認識は米国と大差ないことである。つまり“大艦巨砲主義”なる批判は、敗戦の責任転嫁の材料だったわけである。この後知恵を経営批判に援用することが如何にナンセンスなことであるか、著者はこれで評価を高めたビジネス志向の著書を嗤う。
私にとって大きな収穫は、戦前・戦中の我が国における空軍独立論に関する活動を知ったことである。陸海軍とも安易な独立論に走らなかった背景がよく理解できたし、それは現代の米海軍が独自の航空軍を保持していることと共通しており、海洋国家の航空兵力の在り方を改めて考える機会を与えてくれた。航空自衛隊はより海軍航空的性格を強めるべきだと。
飛行機大好きの私にとっても、決して楽しく読み進められる本ではなかった。当時の一般庶民の軍事航空リテラシー解説・分析がくど過ぎるのである。しかし、そこにこそ本書の独自性があるのだから、これを責めては“角を矯めて牛を殺す”ことになってしまう。この歴史家(戦史家)にこれからも注目したい。
2)マスター・スナイパー
-敗戦間近、ナチス親衛隊凄腕スナイパーは何を狙うのか?-
スナイパー(狙撃手)ものに目がない。“必殺狙撃人”ゴルゴ13の劇画を見始めたきっかけは半世紀前、中学の同級生が経営する理髪店に置かれていたそれに目を通してからである。最近調べたところ1968年初刊で今年4月までに188巻に達している。一巻が3~4話から成り立っているので、平均3.5として658話になる。標的は一人だが、ボデーガードなどそれを阻止しようとする取り巻きが居るから一話で4~5人は射殺される。仮に5人とすると約3000人がやられたことになる。それも信じられないような環境・距離からだから凄い。映画で記憶に残るのは2001年公開の“スターリングラード(原作名;鼠たちの戦争)”、実在したソ連邦英雄狙撃手を扱った作品、ドイツ名射手との対決が見せ場となる。比較的最近では2014年公開、クリント・イーストウッド監督の“アメリカン・スナイパー”。これも海軍特殊部隊シールズに在籍しイラク戦争に従軍した実在の人物。1000m!の距離から標的を狙う。そして小説、ここでは何といっても本書の著者、スティーブン・ハンターが第一人者だろう。スワーガー・シリーズは15巻を超える。太平洋戦争に従軍した祖父、朝鮮戦争で活躍した父、ヴェトナムのジャングルで戦った本人、いずれも海兵隊のスナイパーだ。しかし、シリーズ物の宿命、残念ながら最近はいささかマンネリ感が鼻につくようになり「もう止めた!」と断捨離の下すべて処分した(ゴルゴ13がそうならないのは脚本家が変わっていくからである)。そんなとき目にしたのがスワーガー・シリーズとは異なる本書、チョッと気になることはあったのだが、それなりにチェックして購入を決めた。
この種の本は内容を明かすことは適切ではないが、時代背景とスナイパーを始め登場人物について少し触れておこう。時は1945年1月から5月の間、もうドイツの敗勢は明らかで、米英軍ソ連軍とも領内に侵攻している。そんなとき米軍OSS(戦略事務所;のちのCIA)所属の大尉の下に、ドイツ帝国鉄道局が発行した最新の突撃銃MP-44の特別出荷指令書が回覧されてくる。「この混乱期に何故“特別”扱いなのか?」 この銃を待っているのが、今は秘密基地に潜んでいるが、1942年2月守勢にまわされた東部戦線デミヤンスク近郊で8時間の間に345名のソ連兵を倒した、凄腕のスナイパー親衛隊大尉(現在は中佐)である。この時使われた狙撃銃はそれ専用のマンリヒャーシュナウアー銃だが、今回は最新型とはいえ通常の自動小銃。この銃に兵器開発者が特殊な機能を持たせ、400mの射程で確実に標的に命中するよう改造・調整、弾丸も専用のものを用意する。これが限られた時間の中で完成するまでのストーリーが一つの山場となる。新機能の性能チェック対象は強制収容所に囚われていたユダヤ人。夜間試射実験の際辛うじて逃げ延びた一人がやがてOSS大尉の前につれてこられる。なぞ解明に奔走する連合軍諜報部(OSSと英対外諜報部MI-6)、最終目的のために動き出す親衛隊。実在の人物、ヘミングウェイやアイヒマンも登場して、舞台は狙撃現場へと収斂して行く。
本書は著者のデヴュー作品、1980年に原著が出版されている。そのせいか、骨格となるストーリーは大変面白いのだが、「何でこんな話を長々と」と言う場面も多い。ただこの時から銃器に関する知識は飛び抜けており、それがスワーガー・シリーズにつながったように思われる(ゴルゴもこの銃器に関する蘊蓄が見どころだ)。
読んでいる途中から「ウン?」となった。「これは(同じ著者の)“魔弾”ではないか!」 銃の“特殊機能”に関する話で記憶がよみがえった。30年近く前に新潮文庫として出版され手にしでいたのだ。本来復刊する場合最終ページにことわりを入れるのがルールのはずだが、まったくない。さらに題名も変えている。解説者あとがきにはそれに触れているが、何か詐欺に遭ったような読後感で本書を閉じた。幸か不幸か“特殊機能”以外はほとんど記憶になく、緊迫感を持続して読めたことで良しとしよう。よく見れば帯に“復刊”とあるではないか!われ老いたり。
3)北朝鮮の核資金源
-抜け穴だらけの北朝鮮制裁、日本人国連安保理専門家が明かすその実態-
6月12日米朝会談が行われトランプ大統領・金正恩委員長はその“歴史的”意義を内外に強調している。しかし大方の国際世論は、従来からの北朝鮮の行動に鑑み、宣言の内容がその通り実施されることに疑念を投げかけている。不信の例;2002年9月当時の首相であった小泉純一郎氏が電撃訪朝、金正日総書記との間で日朝平壌宣言を交わし、10月から国交正常化交渉を行うことを明言、同月拉致被害者の一部が帰国するとともに、これについて北朝鮮側から謝罪の意を引き出した。しかしながら、拉致問題はその後進展を見ず今日に至っている。また、核を巡る五か国間協議もうやむやなまま中断され、核とミサイル兵器の開発がこの間着々と進められ、切り札を手にした北朝鮮に世界が振り回されている。これら国際関係慣例をいとも簡単に破る不誠実な行為に対して、我が国の独自の経済制裁、国連安保理による数度にわたる貿易封鎖宣言が行われているが、どう見ても実効が挙がっているようには見えない。実態はどうなっているのか?本書は国連安保理の下でこの制裁処置の実情をつぶさに調査し、理事会にアクションを進言する“安保理北朝鮮制裁委員会専門家パネル”のメンバーであった著者による、その活動(ダダ漏れ)の一端を伝える、いわば内部告発書とも言えるノンフィクションである。
本書には書いていないことだが、内容理解のために一つの北朝鮮情報を提供しておきたい。大方の日本人にとって北朝鮮と言う国は国際的に孤立し正常な国交関係のある国はごく限られている、と思われているのではなかろうか。とんでもない誤解である。国連加盟国193か国の内164か国が北朝鮮を国家として認めており、正規の外交関係が無いのは日・米・韓・仏・イスラエル、サウジそれに一部の中南米や太平洋の島嶼国家くらいなのである。朝鮮戦争を巡る特殊な立ち位置を考えれば米・韓はやむを得ないし、地理的に見て問題のない国が多い。中露を含む周辺国家が形の上で封鎖を行っても、北朝鮮の船や航空機は自在に世界とつながっているし、北朝鮮の種々の力(資源、兵器、技術、情報、労働力)を必要とする国々が数多あるのだ。本書を読んでいると、北朝鮮問題で孤立しているのは日本ではないか、とさえ思えてくる。
現在国連安保理の下に在る制裁委員会は、イラク、北朝鮮、リビアの3委員会である。この下にある北朝鮮委員会専門家パネルの構成は、5常任理事国から各1名、これに日・韓と南半球(発展途上国)から各1名の8名からなる(任期は最長5年)。委員会発足は2006年からだが、著者が務めたのは2011年~2016年の5年間。著者の経歴は大手鉄鋼会社に勤務後、平成維新の会事務局スタッフを務め、ハーバード大学政治行政大学院で学び、その後米国の国際関係シンクタンクで研究活動、さらに科学技術振興機構研究員を経て、当該専門家パネルとなる。この経歴で留意点と言えるのは、外交官を含む国家公務員職を経ていないことである(苦労する点であるし、ある程度自由にものが言える立場でもある)。
衛星による船舶航行監視システム、国際海事機関(IMO)やロイズのDBを駆使して、タレこみや前科のある疑わしい船を追跡し、積み荷の発送先や受取先を確認する。介在する貿易商社を調べる。それらの責任者のプロフィールを精査する。いずれの調査も正常な取引であっても大変な仕事である。まして国家ぐるみでそれをくぐり抜けようとするのだから、その煩わしさは倍加する。おまけに北朝鮮は中露にとって米国をけん制する重要な切り札。専門パネルの中でさえ調査や意見具申に対する妨害が絶えない。やっと合意を取り付けさらに事実確認段階に進んでも、国家威信や国内行政システム(国内法未整備、縦割り行政)の抵抗が待ち受けている。これらの障害を乗り越える間に事態は先に進んでしまう。
安保理の制裁決議内容にも問題が山積。正確な証拠ばかりでなく、船名や船会社名、責任者名を明示する必要がある。文字や発音でこれを操作して制裁逃れをすることは簡単なのだ。漢字やハングルではほとんど識別不可の状態が頻々と生ずる。禁制品の判断も軍事・民生両用品があり、明らかに兵器に使われている証拠をそろえなければならない。ところがこのような軍事情報はおのおの国でも一般開示は許されていない(米国やドイツでさえ協力しない)。スカッドミサイルに使われている部品を確かめるために米国の兵器オタクである大富豪の個人所有のミサイルを分解させてもらったりする。
もっと厄介なのは国連外交の制約である。北朝鮮密貿易にはしばしば台湾が絡む(中国経由、直接取引)。しかし、国連職員として台湾を訪問することは(中国の意向で)固く禁じられている。ネット経由や個人資格の学会参加で情報収集に当たるが満足な結果は得られない。
中でも問題なのが、封鎖・制裁から拉致問題解決を期待できるはずの日本である。これに対する国内法が未整備なこと、縦割りの度合いが酷いことで、まるで“天に唾する”状態になっているのだ。先ず、隠れた協力者が大勢いること。政府においては、強気の内閣府、及び腰の経済産業省・海上保安庁、国際協調とメンツ第一主義の外務省、が実態なのである。これでは他国に向かってエラそうなことは言えない(人道主義を盾(言い訳)に、領海に立ち入った船を臨検できないとする日本を中露が支持する話が出てくる)。
それにしても北朝鮮はしたたかである。冷戦時代に紛争国や貧しい国の治安対策用に流れ出した骨董的な旧ソ連製兵器の生産維持・補修を出来る唯一の国家として、中東・アフリカ・中南米あるいは東南アジアに顧客を抱え、ハードのみならず訓練・技術指導などのソフトサービスも提供して確り外貨を稼いでいるのである。そのためにマネーロンダリングに留まらず、パスポートロンダリング、船籍・船名ロンダリング、フロント企業ロンダリングと、何でもありなのだ!
ややくどい感はあるものの、一般メディアではうかがい知れない制裁の細部をえぐり出し、著者のむなしさ・口惜しさがよく伝わる筆致は、北朝鮮問題に関心がある人に是非一読をお薦めしたい一冊である。
4)戦争と農業
-大げさなタイトル、安っぽい社会時評-
「何て安直な体制批判本(政治・軍事・経済産業・科学技術)なんだ!いい歳(42歳)をした京大准教授がよくこんなもの出すものだ!」とあきれてしまった。既刊の「トラクターの世界史」(今月の本棚-107(2017年7月)で紹介)が新書とは言え充実した内容で印象づけられ、期待して求めた本だけに失望感一入。タイトルも内実を示すものではない(この題名に騙された私が愚かであることは明らかなのだが・・・)。
トラクター=戦車、肥料=火薬、農薬=毒ガスとして、反戦を訴え、空中窒素固定化技術を用いて肥料生産に当たった日本窒素(現チッソ)、昭和電工を水俣病の元凶(このことに反論する考えは毛頭ない)として糾弾、“存在してはならない会社”と総括する。実際は全くエコでない野菜工場出現の動機は原潜の生鮮食品生産であったとか、遺伝子組み換え食品開発に熱心はモンサントをヴェトナム戦争における枯葉剤生産者だったと(実際そうではあるが)難癖をつける。
次はこれら技術とナチスドイツや日本の旧植民地統治を関連付けて批判。西欧における断種政策や戦時における飢餓作戦を遺伝子組み換え技術などと紐づけし、巧妙に現下の民主主義批判(多数だからと言って正しいわけではないとの論)に展開していく。こうなると戦争は影が薄くなり現在の社会システムを農業・農産物の視点で批判する論調が前面に出てくる。湧いてくるのは「一体この本は誰に向け、何を目的に書かれたのだろうか?」との疑問。
それを見透かしたように、話題はファストフードや残飯問題に転じ、現在の食糧生産から消費に至る数々の問題を列記、農民と消費者をその被害者に仕立てて、持論への共感を求める。その手法は、これも人文科学系の常だが、内外の学者やジャーナリストの著書や文献をつまみ食いしながら論旨を展開するのである。
それでも「反対・批判だけではまずい」との知恵はあるようで、科学技術の二面性(軍事・民生)や食の楽しみをチョッと講釈して、「仕組みを変えることが大切」と有機農業推進や微生物活用、スローフード普及に結論を導く。
“おわりに”を読んで本書出版の背景・動機が判明した。滋賀県のある地方で自らが主宰している“子育て世代の女性”を対象とした食に関する勉強会での講演をまとめたものなのである。「京大の先生がおっしゃっていたから間違いないわ」そんな声が聞こえてきそうである。著者に隠れた下心があるとは感じないが、半世紀以上前の“主義者”の党員リクルート、宗教団体の信者勧誘、同じ手口だったな~。これが読後感である。
一つだけ面白い情報。京都には個性的で本格的な料理屋も多いが、ファーストフードチェーン店も多く、人口10万に当たりのマクドナルドは3.37、これは2位の沖縄2.96を大幅に離すダントツのトップである。“京都からマックをなくそう!”が相応し題目だ。
5)データサイエンス入門
-三点セット(IoT、ビッグデータ、AI)入門、専門学部がスタートする-
本ブログを10年前に立ち上げた意図は“経営にもっと数理を!”にあった。それほど高度な理論を用いずに、である。ブログの記事はそこからかけ離れたものが多くなってしまったが、いまでもその気持ちは変わっていない。石油精製・石油化学関連企業で計測・制御・情報を専門に半世紀務めた。若い頃はその中でも“制御”が最もかっこいい仕事に見えた。特にコンピュータが導入され、複雑なプラントモデルを高度制御理論と組み合わせて、運転の最適化を図るようなシステム作りが可能になると、そんな仕事に惹かれたものである。しかし、この種のシステムは概して環境変化に弱く、モデルの変更や制御パラメーターのチューニングを頻繁に行う必要があり、挙句の果てに自動運転システムから切り離され、運転指示・支援システムに格下げされるような事態もしばしば生じた。その一方で“計測+情報”は愚直に精度・信頼性の高い生データをきちんと収集・蓄積しておけば、高度技術ともてはやされる機会はないものの、利用範囲は確実に広がり、経営効率向上に寄与していった。これを確信したのはプラント運転制御システムから生産管理システムさらには工場管理システムと新適用対象分野が加わってからである。つまりICT関連技術者にとって新適用分野知見が竹の一節となったわけである。決め手になるのは、実務に精通していながらそれに甘んじず、さらなる改善点を見つけようとする担当者と数理専門家のコミュニケーションである。
今はやりの三つの言葉;IoT、ビッグデータ、AI、は当にこの“計測+情報(ある種の制御を含む)”の最新世界である。しからば、新時代のICTエンジニアの一種である“データサイエンティスト”はいかなる素養を身に付けるべきか、これが本書の主題である。
タイトルに“入門”とあるように、内容はデータ・情報の解説から始まり、最新の3点セット(IoT、ビッグデータ、AI)まで簡潔で平易に説明されている。ページ数も170弱、ここには付録として、統計学とコンピュータの歴史と変遷が15ページほど費やされているので、はじめにやおわりに、あとがきも除けは140頁程度の量で簡単に読めてしまう。著者の専門領域である統計学にかなりの紙数が割かれており、そこに精通した者にとってはやや冗長な感無きにしも非ずだが、初学者にとっては欠かせない内容だ。3点セット解説書の中には“もはや因果・論理不要”の暴論を吐くものもあるから、データの見方や扱い方についてきちんと初歩から学んでおくことは重要である。この暴論の事例紹介が面白い。チョコレートの消費量とノーベル賞受賞者(人口当たり)の相関やNHKが放映した「AIに聞いてみた どうすんのよ!? ニッポン」での●健康になりたければ病院を減らせ、●ラブホテルが多いと女性が活躍するなど、私は見ていないのでどのような意図の番組か知らないが、著者はこれを「相関と因果の違いを無視した根拠のない無責任な提言」と切り捨てる。
ビッグデータ活用事例では、医療関係がいくつか取り上げられ、抗不整脈薬、女性ホルモン補充療法(閉経と関わる治療法なので、年齢に対する配慮が不可欠)、血圧降下剤ティオバンが、長期の観察結果から服用停止になる経緯を、データの特質や分析上の留意点などに注視して、統計学の基本から紹介されている。ティオバンは一時服用していただけに他人事ではなく読んだ。
統計学を中心に“データとは何か”を講じたあとは、“データに語らせる”と題する章に移り、学問としてのデータサイエンスの在り方、データサイエンストの育成を語る。基本は統計学と情報学の二つだが、AIの一技法であるニューラルネットワークや携帯端末を含むIoTの最前線など最新技術の利用動向が、これも事例を交えて平易に紹介され、次いで従来の数理教育の範疇外となる個人情報保護やデータの改竄・ねつ造など社会的あるいは倫理的な問題に言及し、さらに現実の活動の場における個々の適用対象に関する知識習得や意思決定者との役割分担の在り方のような、実務領域の課題に関する考え方を開陳する。つまり、データサイエンティストは理工学分野に留まらず、積極的に文理融合領域に踏み込む必要があり、それに合った新しい教育・研究体系を用意すべきと。これが本書の落としどころ、実は著者は2016年発足した滋賀大学データサイエンス学部長(前職は東京大学経済学部教授、同大学大学院情報工学系研究科教授)。この学部は国立大学初のもので、本年スタートした横浜市立大学と2校にしかその名を冠した学部は存在しないユニークなものなのである。海外の大学には古くから統計学部や統計学科はいたるところに在る。しかるに、我が国では一般教養や専門課程の一科目に過ぎず、3点セットが実用段階に至った現在、専門家不足は危機的な状態にある。本書はいわば新学部のカリキュラム作りのガイドラインあるいはアウトラインとも言えるもので、これに基づき種々の専門領域を4年間学んだ卒業生が活躍し出せば、私の願いである“もっと経営に数理を!”が実現する。そんな期待を抱かせてくれた一冊である。
6)物語を忘れた外国語
-マルチリンガルへのアプローチ、物語から入ろう-
私が中学に入学したのは昭和26年(1951年)。この少し前に発足した新制中学(昭和22年発足だが、これは1年生のみ、昭和24年より3年生までそろった)は、戦中の英語教育中止もあり極度に英語教師不足(旧制中学の英語教諭はそのまま新制高校横滑り)、入学後しばらく英語の授業は無く、やむなく体操の先生が6月頃から代理を務めた。他校の事情も大同小異。これもあって都立の新制高校の入試に英語が無かった(信じられますか?)!一方で父は東京外語出身(仏語)ゆえ、私の成績評価は英語第一。入試に無いのと反抗期もあって、徹底的に父の苦手な理数に注力した。このころから天邪鬼な性格は変わらない。ただ本当は英語は嫌いではなかった。と言うよりも外国(米国)に対する好奇心に尽きないものがあり、親に隠れて場末の映画館で洋画を観るのが楽しみだった。それもあるのだろう、外国語に関するエッセイは好きなジャンルの一つである。「誤訳・迷訳・欠陥翻訳」(別宮貞憲)、「やがて悲しき外国語」(村上春樹)、「和製英語アメリカを行く」(石戸谷滋)、「ジャパリッシュのすすめ」(渡辺武達)、「ペーパーバック・ライフ」(常盤新平)、「私の外国語体験」(日本経済新聞社編;野末陳平、篠田桃紅、横尾忠則、岡野俊一郎、高野悦子、竹内実など)、「英語達人列伝」(斎藤兆史;新渡戸稲造、岡倉天心、鈴木大拙、野口英世、幣原喜重郎、白洲次郎など)、「あえて英語公用語論」(船橋洋一)、「訳せそうで訳せない日本語」(小松達也)などが“春の断捨離”嵐(約500冊を廃棄)に耐え書棚に生き残っている。しかし、ここ数年この種の面白そうな本に出合っていなかった。そんな時目にしたのが本書である。
著者は上智大学外国語学部露語科を終えた後東大大学院露文科の博士課程満期退学の言語学者である。ロシア語のみならず、ウクライナ語、セルビア語、ポーランド語などスラブ系言語を専門とするほか、英語にも通じているようだ(教養課程で教えている)。私は全く名前も知らなかったが、本書の購入を決める前、Amazonのカスタマーレヴューをチェックしたところ、語学エッセイではよく知られた人物らしく、「今までの著作を読んだ者には、格別新鮮味がない」との評もあった。しかし、私にとっては初体験、話題は英語以外の言語が中心でありながら、起点がそこに在るので、馴染みのない外国語(ロシア語を始めとする先に挙げたスラブ系言語の他、チェコ語、エストニア語、スウェーデン語、オランダ語、タイ語など)の世界に如何に接していくか、その一端を知ることが出来た。
出典は小説新潮(月刊誌)に寄稿したものだから、ときどきのテーマは種々雑多だが、根底には語学教育(習得、訓練)があり、会話や検定(試験)を重視するやり方を批判する。では受験などを離れた場合、どのような方法が実生活・実務に役立つのか。映画やDVDを繰り返し観る。吹き替えで観る。字幕(その国の言葉、英語、日本語)で観る。出来れば脚本を手元に置いて。表情や背景と合わせることにより、字面だけで学ぶのとはまるで違う効果がある。“物語こそ語学学習に欠かせない”。これが書名になっているのだ。もう一つ大事なことは、言語理解に取り組もうとする外国そのものに対する関心である。目いっぱい夢を膨らませてから学習に入ろう、と説く。
語学学習を離れた話題も多種多様で面白い。ソ連崩壊後の「ソ連時代の文学は悪」とする風潮に対する見解(決してロシア文学(トルストイやドストエフスキー)に劣るものでない)。翻訳方法は文法に則るよりは、語順を出来るだけ変えずに訳す方が原文の意を伝えられる(解釈は文法通りで良いが、読み物もとしての完成度)。流行りの自動翻訳批判も多言語に通じた著者ならではの考察(如何にしっくりこないか、どうすべきか)。各国日本語学習者の対日観・日本語観。どれも自身の体験に基づく具体的な事例で語られるので「なるほど」と腑に落ちる。
「もう少し著者に付き合ってみたい」そんな気にさせてくれた。
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