-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-
2.ツアー参加に決まるまで
ドイツ旅行に期待することは先ず戦跡と冷戦の爪あと。第二次世界大戦の欧州戦線は機械力の戦いだった。中でも初戦の1939年9月ポーランド侵攻、翌年5月の西部戦線、そして1941年6月の独ソ戦。ドイツ装甲軍と空軍が演じた電撃戦はいずれも短期間で敵を壊滅させる画期的な新戦術だった(独ソ戦だけはソ連の縦深戦術に最終的には失敗するが)。これらの策動点を訪れてみたいが、いずれもドイツの国境地帯や今は他国の領土になっていて普通の旅人が容易に近づくことは出来ない。せめて国防軍司令部やヒトラー総統官邸(自殺した地下壕もここに在った)、ゲーリングが君臨した空軍省の現在がどのようになっているか知りたい。巻き返したソ連軍は1945年4月ブランデンブルク門頭に鎌とハンマーの国旗を掲げ、勝利を告げる。我が国の命運は1945年7月半ばから8月初めにかけ開かれたポツダム会談で決した。ポツダムはベルリンの西郊である。加えて冷戦下で様々な緊迫シーンが起こったのもベルリンである。必須の訪問先は先ずベルリンと決まる。
第2次世界大戦はナチス党と不可分である。ヴェルサイユ条約のワイマール共和国体制に不満を持ったナチスは1923年11月ミュンヘン一揆を起こすが鎮圧される。ここはナチス誕生の地なのだ。さらに、チェコに属するズデーテン地方のドイツへの割譲を決めた4か国会議が開かれたのもミュンヘンである。ドイツを訪れてここを欠かすわけにはいかない。
1945年8月6日広島、9日長崎への原爆投下は敗勢が決定的な状況下での残虐行為だが、ドイツでも同様のことが連合軍(米英)によって行われている。古都ドレスデンは2月13日から15日にかけて延べ1300機による3900トンの爆弾投下で完全な廃墟と化した(死者は2万5千人から15万人まで諸説ある)。そこがどのように現在なっているか、長く東独にあっただけに、西側との違いも見てみたい。同じような空爆に依る大破壊ではベルギー国境に近いケルンも世界遺産となった大聖堂があるだけに、できれば出かけたい。Mustはベルリン、ミュンヘン、Wantはドレスデン、ケルン。こうして訪問都市が決まった。
次は科学技術である。ICE(InterCity-Express;高速鉄道)に乗ることはMust。ベルリンには交通博物館や産業博物館、それに小規模だが航空博物館や軍事博物館がある。ミュンヘンのドイツ博物館は実質科学技術博物館として世界的に有名だし、空港近くに別館として航空博物館がある。何とかそれらのいくつかを見学したい。ポルシェ、ベンツ、BMWは素晴らしい自動車博物館を持っていたり、テストコース走行なども可能だと聞く。またハンブルグの大鉄道模型ジオラマについて欧州滞在の長かった知人から是非と薦められていた。
しかし、以上だけを目的とした旅では家人が同意するわけがないし、私も著名なランドマークは訪れてみたい。中でもライン下りは鉄路、道路、水路と選択肢があるがやはり船が良さそうだ。これに2,3のドイツらしい歴史を残す城塞都市などを組み合わせて旅程を考えることにした(と言うよりも数年前から関係書物を集めてあれこれ考えていた)。
参考にしたのはペーター・エンダーライン「ドイツ鉄道旅行案内」、池内紀「ドイツ 町から町へ」、紅山雪夫「ドイツものしり紀行」でいずれも2013年本ブログの<今月の本棚>で紹介したものである。つまりこの頃からドイツ行きを具体的に考えていたわけである。その時は「鉄道旅行案内」に惹かれ、鉄道主体の旅行案を第一とし、<今月の本棚>の紹介記事の中でも触れておいた。しかし、これを読んでドイツ旅行を実施した東燃の同僚から「とても紹介された内容とは程遠い状態、運行時刻などいい加減で往生した!」との苦情がもたらされた。その後読んだ川口マーン恵美子「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」にも列車運行のいい加減さがはっきり記されており、鉄道中心旅行はこの段階であきらめたが、それでもどこかで一回ICEに乗ることだけは必要条件として残した。
始めは上記に挙げたMust、Wantを個人旅行で実現することで計画検討を開始した。ベルリン、ミュンヘン、それに直行便の飛ぶフランクフルトに複数泊しそれらを拠点に目的を果たす案だ。宿泊や国内交通はイタリア旅行の時と同様、現地で日本人向けに特化した旅行社を使う。しかし、ラフな検討段階で時間も費用もツアーと大差があることが分かってきた。おまけに、イタリア旅行の体験から、二人分の荷物を考えると年寄りだけの移動の辛さも半端ではない。結局ツアーで希望に近いものを探すことになる。
だがここにも難関があった。ベルリン、ミュンヘン両都市宿泊を含むツアーは数が限られること、これにICE乗車を組み合わせると、結局今回のツアー、クラブツーリズム「決定版!ドイツ感動の旅10日間」しか、不十分ながら必要条件に適うものはなかったのである。訪問地と見所・移動手段・往復の航空便・ホテルのクラス、は明示されていたが具体的なホテル名(場所)は決まっていなかった。また宿泊先での自由度も食事の有無以外は分からなかった。しかし、人気プログラムと旅行代理店から聞かされていたので、季節と催行の可能性(最少人数20名)を考慮して、他の日と違い、始めから催行決定となっていた5月20日出発のツアーを年初に申込んだ。過去2回のツアー参加は20名以下だったから(企画書には20名と書かれていてもいずれもこれに達しなかった)、漠然と20名前後と勝手に思い込んでである。
写真(上から)ブランデンブルク門、3冊の参考書
(写真はクリックすると拡大します)
(次回;希望との差異とその補完)(メールID:hmadono@nifty.com)
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