2018年7月26日木曜日

ドイツ周遊3000km-19



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-

13.ドレスデン
524日(木)今日も朝から晴れている。今日のメインエベントはドレスデン観光。旅行計画段階で是非訪れてみたい大都市として、先ずベルリンとミュンヘンがあり、次いでケルンとドレスデンを選んだ。この二つの中で優先度の高かったのはドレスデン。
理由は、第1にそこを貫くエルベ川が古くからヨーロッパの東西境界線であり、長いことザクセン王国の首都として栄え、“エルベ川のフィレンツェ”とまで称せられる文化を誇ったところであること。旧東ドイツを代表する都市でチェコ国境は指呼の間(30km)にあり、西との比較をしてみたかった。
21945213日~14日かけて行われた英米による爆撃(延べ1300機、3900トン)の跡とそれからの復興をこの目で確かめたいことである。特に、この爆撃は無用の殺戮として米英でも戦後批判されることになる作戦で、チャーチルは「テロ爆撃」と決めつけている。前述のように文化的な古都であり、大規模な軍事関連施設もなかったことから、市民も大規模爆撃を予想しておらず、そのためにかえって人的被害が多かった(諸説あり、公式には25千人と言われているが、15万人説もあり、56万人が実態らしい)。
9時半にホテルを発ったバスはA13号線をほぼ南に下って行く。道はやや起伏はあるものの平坦、アウトバーン沿いには人口密集地帯は皆無。道路の両脇に動物除けのフェンスの先に松林が続く。2時間ほどこんな退屈な状態を走ったところで急に渋滞が始まる。3車線の道がぎっしりの中を、パトカーやレッカー車が何とかくぐりぬけていく。ノロノロ運転の先に観光バスが右車線に停車し、乗客は下車している。事故の状況は不明だ。やっとスピードを回復、1315分新市街(エルベ川東岸)のレストラン前に到着。周辺はロシアでよく見かけた無機質なアパートばかりである。確かにここには“東”がまだ残っている。
昼食を摂ったレストランはかなり大きいが格別観光用と言うわけでもなさそうで、地元の人も結構入っている。メニューは舌平目のムニエル。確かにエルベ川ははるか先で北海にそそいでいるが、こんな内陸部で魚?の感。これが酷かった!まるで干ダラのように塩辛く肉が薄い。ビールで何とか流し込んだが、残した人が大勢いた。
食事の後いよいよエルベ川を渡って旧市街に入る。バスが停まったのはテアター広場、周辺には王宮、18世紀に完成したツヴィンガー宮殿、宮廷教会(オーストリア・ハンガリー帝国に囲まれたザクセンはカソリック)などバロック建築の建物が連なっている。少し奥にはこれも18世紀の作品である聖母教会の丸屋根が見えている。旧市街は壊滅状態だったはずなのに、あの爆撃の跡はどこにもない!それを日本人女性の若いガイドが説明してくれた。冷戦崩壊後基金を募り、残された瓦礫の配置を丹念に調べ、欠けているものは新規材料を使って復元したのだと言う。確かに黒くくすんだ石と新しい石材が混在していた。昨日のベルリン大聖堂同様、この再建努力には感心させられた。
広場から古い建物を一覧した後はエルベ河畔のプロムナードを歩いてみる。確かに橋や教会のたたずまい、東に広がる大平原の感じがフィレンツェによく似ている。河畔から市街へ戻って聖母教会前の広場へ、さらに王宮に沿って歩く。壁にはマイセン陶磁器(タイル)で歴代ザクセン王を描いた100mにもおよぶ“君主の行列”。そこを抜けると出発点の広場に戻る。
今度はその広場の西側に在る、ツヴィンガー宮殿の見学である。とは言ってもここには複数の文化施設が同居、中を観るのはザクセン王家が収集したコレクションを展示する絵画館“アルテ・マイスター”のみである。何といっても必見はラファエルの“システィーン・マドンナ”。この他にレンブラント、ルーベンス、クラナッハ、デューラーなど馴染みの作家の作品も多い。爆撃の時には?ソ連占領時は?と問いながら、4時半頃までここで過ごした。
実はここの案内は専任の日本人キュレイター(学芸員)が別に加わることになっていたが、数日前当地で不発弾処理のミスで大爆発があり、たまたまその事故に遭遇、そのため案内できないと昼食後聞かされていたが、何とか松葉杖をつきながら参加してくれた。お蔭で、著名な作品について丁寧な説明を受けることが出来た。

写真は上から;宮廷教会、王宮、エルベ河畔、聖母教会、君主の行列、ツヴィンガー宮殿、絵画館パンフレット

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;ノイキルヘン)(メールIDhmadono@nifty.com
  

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