2019年9月30日月曜日

今月の本棚-134(2019年9月分)



<今月読んだ本>
1)パスタぎらい(ヤマザキマリ);新潮社(文庫)
2)イギリス海軍の護衛空母(瀬名尭彦);光人社(文庫)
3)警備ビジネスで読み解く日本(田中智仁);光文社(新書)
4)数学する身体(森田眞生): 新潮社(文庫)
5DARPA秘史(シャロン・ワインバーガー);光文社
6)発想の航空史(佐貫亦男);朝日新聞

<愚評昧説>
1)パスタぎらい
-在伊30年、イタリア人家族となった女性の食べ物エッセイ-

ここ10年くらい、外出時一人で食事を摂るときはだいたいイタリアンとなる。出かける機会の多い横浜駅周辺や上大岡は行く店も何軒か決めてある。和食、中華、蕎麦屋、寿司屋は誰かと一緒の時を除き先ず無縁と言っていい。例外は、小学校から高校まで通っていた上野・御徒町界隈へ出かけた時、老舗のトンカツ屋と小学校の同級生が6代目となる蕎麦屋に入るくらいである。そんな私だから本書の題名を見て「エッ!何故?」となった。
読んでみて“嫌い”の意味が分かった。かいつまんでいえば「パスタは嫌と言うほど食べた。パスタ以外にも美味しいイタリア料理が沢山ある。それ以上に素晴らしいのは日本の食べ物」ということである。その証拠に5章構成の本書にちゃんと“それでもイタリアは美味しい”と題する1章がある。
私は全く知らなかったのだが、著者(1967年生れ)は漫画家としてかなり有名な人のようだ。代表作は「テルマエ・ロマエ」、多くの賞を受賞している。しかし、ここに至る道はかなり常人ばなれしている。その常人ばなれ人生の中で体験した食に関するあれこれをエッセイとしたのが本書である。
父は札幌交響楽団の指揮者だったが著者と妹を残して早逝、ヴィオラ奏者である母との母子家庭育ち。中学生(14歳)の時母の友人を訪ね1カ月ドイツ・フランスに滞在、帰途短期間立ち寄ったイタリアに縁が出来、高校なかば(17歳)でフィレンツェの画学校に留学する。ここでの貧乏学生時代の友人たちとの自炊で作る食事は主にパスタ、大して手の込んだものではないが、その食生活が本書の中で披歴される。著者が作るのは日本で普及しているケッチャップまみれのナポリタン、同級生の反応が面白い。学生アパートで親しくなった男(詩人)との間に子供が出来、未婚の母となる(1993年)。この頃本格的な絵画から漫画に転じ、1996年イタリア生活を描いたエッセイ漫画が注目される。一旦帰国し北海道でイタリア語教師など務め、再度渡伊し14歳年下の男性(文学者)と正式に結婚。彼の両親と北イタリアで同居。この時代のイタリア庶民の食生活、食材、調理法、調味料(バルサミコ、オリーブオイル)などいろいろな視点から取り上げられる。義母は決して料理好きでもないしまして上手いわけでもないが、それなりに自分の流儀を持っている。いわゆるおふくろの味である。ときに「何故私の作ったものをしっかり食べないの?!」とやられたり、豚一頭を屠ってソーセージ作りを手伝わされたりする。
夫の研究のためにシリアを中心とした中東、ポルトガル、ドイツ、米国(シカゴ)などにも長期滞在し、ここでも多様な食生活を体験する。
結論は「日本ほどおいしい食べ物に満ちた国はない」と言うことだが、これは本格的なイタリア料理ばかりではなく、コンビニのスナック菓子(例えば、ポテトチップスの多様な味付け)やパン(仏・独は美味しいが伊はダメ。日本の菓子パンは特に優れもの)などごく身近なものも含めた総論としてである。
読んでいて感じたのは、この日本食礼賛は、本人は必ずしも自覚しているわけではないが、ややバイアスがかかっている感じがする。17歳で渡伊し極貧生活を長期に強いられ、日本食(食材を含む)への渇望が極限まで達した結果としての評価ではないか、と。いずれにしても読みながら口の中に唾が自然に満ちてくる美味しい内容であった。

2)イギリス海軍の護衛空母
Uボートから英国の生命線を守った裏方。貨物船改造空母の全貌-

私の書架に“The Bomber Command War Diaries(爆撃機軍団戦闘日誌)”というタイトルの800頁を超える分厚い本がある。内容は英国がドイツに宣戦布告した193993日から終戦の194558日までの爆撃機軍団の出撃記録を淡々としかし正確に記録した内容である。こんな本が一般向け出版社であるペンギン社から出ているのは、いかにも「道楽と戦争だけは真剣にやる」英国らしい。一気に読むような本ではないが、戦記や戦史の内容を確かめるためには、これほど役立つ本はない。
英国の死命を制するのはシーレーンである。従って、地上戦は19405月の西方電撃戦まで“まやかしの戦争”という状態であったが、Uボートと輸送船団の戦いは開戦と同時に始まり、中立国船を含む輸送船の損害は一時期進水数を上回るところまで達する。英国も戦前からこの事態を予想はしていたが、第一次世界大戦終結後の経済疲弊・厭戦感もあり、これから10年間大戦争は起きないとして希望的な「10年ルール」で国防予算を大幅に削減、護衛艦などの建造を絞り込んでいたので直ぐには対応できず、トロール船やキャッチャーボートを改造したり、米国から旧式駆逐艦を借りたりして、それに対応せざるを得なかった。Uボートの発見・攻撃には航空機が最も有効なのだが英国と北米間には長距離多発機でカバーできないギャップが生ずる。Uボートはここを狙って船団に襲い掛かる群狼作戦を仕掛けてくる。また、英本土とジブラルタルを結ぶ航路にはフランス南西部に基地を置くドイツのフォッケウルフFw2004発)長距離哨戒爆撃機の攻撃圏内にある。さらに、英本土とソ連北極圏のムルマンスクやアルハンゲリスク間はノルウェー北部に基地を置くドイツ空軍の制空権下にある。これには正規空母の艦載機で対応したいが、その余裕は全くない。
当初は苦肉の策と作として、商船にカタパルトを応急的に装備、そこからハリケーン戦闘機を射出して攻撃機を追い払うCAMCatapult Armed Marchant Ships)船を船団護衛に投入している。この場合着艦は出来ないので、最寄りに陸上基地が無い場合、船団の中に着水、機体は捨てて、パイロットだけ救助すると言う、特攻隊もどきの作戦を行っていた。この急場しのぎの対応の後に出てくるのが貨物船(主に米国の戦時標準貨物船;リバティ船)やタンカーを改造し全通甲板を設け、攻撃機・戦闘機を数機~十数機程度搭載した護衛空母である。英海軍は各級併せて40隻弱、米海軍は約60隻(大半は太平洋戦域で補助的な役割)を就役させて、大西洋域でUボートやドイツ空軍から船団を守ることに大いに寄与することになる。因みに日本海軍も商船改造の空母を多く誕生させているが、米英の護衛空母と異なり、スピードのある大型客船を正規空母に改造している。
本書は冒頭紹介の英爆撃機軍団戦闘日誌に近い形で、すべての英護衛空母を誕生から終末(戦後貨物船として復元され最後は解体されたものが多い)まで、着工/竣工年次・諸元・性能・搭載機・主たる戦闘記録・写真・図面(一部)などを記載した一種のデータブックで、読み物としての面白味は全くないが、資料集としては価値ある一冊。英国の同種のものの翻訳ではないかと参考文献をチェックしてみたが、そのものずばりの原本はなかった。それにしてもよく日本人がこんなものをまとめたものだ。著者は私より年長のアマチュア艦船研究者のようである。

3)警備ビジネスで読み解く日本
1964年のオリンピックで開花した警備ビジネスに忍び寄る少子高齢化、2020年はどうなるか?-

第一次石油危機(1973年)あたりまで、事業所の入退管理はオフィスでは総務課員の女性が担当、危険物・可燃物を扱う工場には消防保安課があり、そこに属する守衛がその任に当たっていた。つまり全員社員だったわけである。これは我が社に限らず、他社も概ね同様だった。我が社の場合これが変わるのは、奄美大島に新工場建設が計画され、土地買収の話がある程度具体化した際、反対運動が起こって本社にその活動家が頻繁に訪れるようになってからである。外部の警備会社社員が受付の脇に控えるようになったのである。そして石油危機の後工場新設計画が白紙に戻されても、警備会社との関係は維持されOBや工場関係者も一応彼らのチェックを受けるようになった。工場でも事情は少しずつ変化してきており、社員として自衛官や警察のOBが採用されたり、外部委託が行われるようになったりしてきている。この傾向は今や社会全体の流れで、セキュリティ・セイフティ管理全般に厳しさを増す方向にある。逆に見れば社会のリスクが増してきているということでもある。
本書はこの警備ビジネスの業務概要、歴史、行政・政治との関係、法令、経営状況、問題点を概説する内容で、全体としては警備ビジネス入門と言ったところだが、少子高齢化社会との関わりは“今そこに在る危機”としてかなり著者独自の問題意識を持ち、それに向けた調査分析を行っていて、その内容を本書の中で披歴するところに独自性がある。
先ず業務概要;法律上警備業務の種類は4種;1号警備業務は建物など施設の巡回・常駐警備、空港保安警備、機械(アラームなど)に依る警備;2号警備業務は交通誘導やイベント時の雑踏整理;3号警備業務は貴重品・現金・核物質などの輸送管理;4号警備業務は警備対象者からの緊急通報への対応や特定の人物(要人から子供まで)警護。それぞれに今では法令があり、取得資格で担当できる業務が決まる(企業も個人も複数取得可)。
歴史;これがなかなか面白い。始まりは用心棒やある種の暴力集団(スト破りや企業活動抗議者排除)。刑法・民法はあっても業界を縛る法律が無かったし、主管官庁も定かでなく、いずれの官庁も関与することに積極的では無かったので、誰でもビジネスに参入出来、何でもありだった。日本警備保障(セコム)を起業した飯田氏は父親から「幡随院長兵衛(町奴)みたいなことはやめておけ!」と勘当されたと言う。また主管官庁が国家公安委員会に落ち着くまでには政治行政上多くの紆余曲折があった。
法令;やっと業法が出来ても運用上の問題が種々生じる。特に問題なのは権利と義務。警察官に近いことからその権限の一部が移譲されてもいいはずだが、現時点では万引きの現行犯捕縛くらいしか許されていない(基本的には警察官を呼ぶ)。駐車違反取締者はそれに関しては警察官と同等の権利が与えられているのに。
経営に関しては問題山積み;在職期間の短さ、業者の多さ(総数;約1万社)と圧倒的な零細・中小の多さ(突出する2社の売上(2017年);SECOM3824億円、ALSOK2955億円、他は大手4社でも3桁)、求人難、高齢化、業者の多さがもたらす薄給、などなど。
著者が問題にするのは本来屈強な若者が担うべき仕事が急速に高齢化し、警備力が年々低下してきている点である。だからと言って零細企業の多いことから初期投資のかさむ機械化(AI、ロボット)などで代替することは難しく、このままで進めば警備業は絶滅危惧業種と警鐘を鳴らす。1964年の東京オリンピックが警備ビジネス飛躍の機会だったが来年のオリピックはまともな警備が行えるのだろうか?と。
実はこのような問題は警備ビジネスに限らずいたるところに現れている。そこからタイトルを単なる“警備ビジネス”にとどめず“読み解く日本”を加えたわけである。全く知らなかった世界だけに学ぶことの多いことと少子高齢化の新たな課題を知ることが出来、深みはないが読んだだけのことはあった。
著者は学生時代にアルバイトとでこの業界と関わり、大学院で社会学(犯罪社会学専攻)を研究した社会学博士。現在仙台大学准教授。

4)数学する身体
-数の発生から説き起こす数学発展史。画期に焦点を合わせ通史でない点が特徴-

小中学生の頃は数学が最も得意だったし、好きな科目だった。他の教科と違い爽やかな“分かった感”を体験できたからだ。この感じが崩れ始めるのは大学受験数学あたりからである。なんとかそれをクリアーした大学の教養科目の数学は受験数学と変わりはないもののあまりひねった問題は無かったので優が取れたが、専門科目へ進むと偏微分や集合論で散々苦労することになる。それらを基礎にする機械工学科の基本;熱力学・流体力学・材料力学には必須の数学だが悪戦苦闘した。「制御工学を専攻したのなら、さぞかし数学が出来たんでしょうね」などと言われると「それは大いなる誤解です」と答えたくなる。制御工学を選んだのは教授の教育方法が少し変わっていて、それに惹かれたからに過ぎない。しかし、苦労はしたものの数学に対する興味は今も持続する。ただし、理論ではなく、数学者の伝記・評伝、数学に関する歴史あるいはそれをテーマにするエッセイなどである。本書は理論・数式無縁の数学史エッセイである。読むことになった動機は本欄4月紹介の同じ著者による「数学する人生 岡潔」が面白かったからである。
何故“数”が発生したのか?当然実用上必要だったからである。どのような数え方をしたのか?指折り数えるだけでは足の指を入れても20まで。パプアニューギニアとオーストラリア北端の間に在るトレス海峡諸島の原住民は、肩やひじ、ひざ、かかとなどを含め33まで身体を使って数える。人間がものを見て直感的に正確な数を把握できるのはいくつまでか?4までである。その証拠に、楔形文字、ローマ数字、アラビア数字、漢数字、インド数字、マヤ数字も、表現法は異なるものの4までは同じ発想で誰でも直ぐそれと分かる。その中からアラビア数字が普及していくのは計算に便利だったからである。
古代文明の数字・数学は政治や宗教と深くかかわっていた。しかし、ギリシャの数学はこれとは全く離れ、幾何学のように結果として実用に利するところがあっても、“証明”をすることに主眼が置かれる(実用が目的ではない)。つまり、「定義、公理、命題の連鎖」という形をとる。これは外に向かう(実用)数学ではなく内に向かう数学(数学のための数学)である。ある意味先端現代数学につながる(現代純粋数学の主戦場は、実用とは完全に反対方向にある)。
これに対してインドの数学は実用計算を始めから目指しており、特に重要なことは“記号”を考え出したことである。ここから代数が発し、やがて西欧近代数学発展につながり、そこで数学世界全体(代数から幾何学まで)の普遍・統一性を追究するデカルトの「方法序説」が生まれ、さらにニュートンの微積分学、ライプニッツ、ベルヌーイ、オイラーらの関数論へと発展、近代数学として開花する。20世紀に入る少し前から、再び数学は実用を離れ内に向かい、ヒルベルトなどが数学そのものの概念定義を巡る議論を始めて、これが現代数学の中心的なテーマになっていく。ここら辺の話はなかなか理解し難いところだが、それに続く数学における認知や心、情緒との関係づけに必要な過程として取り上げられる。
後半は「万能チューリング機械」の研究と実用化(暗号解読など)を解説してAIと“脳”さらには“心”の関係、あるいは岡潔の数学上の発想における“情緒”の概念を著者なりに考察し、指から始まった“数学する身体”を心と脳に落とし込む。
今までも数学発展史は何冊か読んできたが、どちらかと言う連続的な通史としての印象が強かった。しかし、本書は変革に力点を置いており、その点で「そう言われて見れば確かに」と覚醒されるところが多々あった。そのあたりが小林秀雄賞受賞の理由なのであろう。ただ、相当な紙数が割かれるチューリングに関する話は、既に知るところがほとんどで、最近話題のAIとの関連付けも目新しい感じはしなかった。
著者は1985年生まれの在野の数学者。幼少時米国在住、東大文二在籍中シリコンヴァレーのヴェンチャー企業でプログラマーとして働き、帰国後理学部数学科に転科して卒業、という変わった経歴をもつ。

5DARPA秘史
-インターネット、GPS、ドローンを生み出した国防総省高等研究計画局興亡史-

1957104日ソ連が打ち上げた世界初の人工衛星スプートニクが成功した。翌年大学に入学すると「もともとは文系志願だったがあれで理系に宗旨替えした」と入学動機を語った友人が数人いた。それくらい日本の若者にもインパクトのある出来事だった。新兵器開発で最先端を行っていると信じて疑わなかった米国が受けた衝撃は、国全体にヒステリー現象を生じさせ“スプートニク・ショック”という言葉が今に残るほどだった。
米国はこのとき、ドイツでV2ロケット開発に携わったフォン・ブラウンらを終戦直後に拘束、米国に連行してロケット兵器開発に当たらせていたのだが、ソ連も同様。米国が3軍(陸・海・空)個別に計画を進めたのに対し、一本化してトップダウンで政策に取り組んだソ連に先を越されたわけである。ショックを受けた米国が統一した宇宙兵器開発を狙って19582月に創設したのが本書のテーマとなる国防長官直属の高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects AgencyDARPA;ダーパ;発足時はDefenseかなくARPA)である。この組織のポイントはProjects(計画)と言う言葉にある。つまり、自身は研究を直接行うわけではなく、大学や企業あるいは研究所、シンクタンクに仕事を外注、場合によってヴェンチャーキャピタルのような役割を果たして研究プロジェクトを遂行する機関である。従って、本書からうかがえる規模は約150人といったところである(ほとんどがプロジェクト毎の契約職員)。
本書は、ARPAとして発足した時から直近の2016年までの、目玉となる研究課題とその顛末、組織内の人間関係、議会やホワイトハウスとの関係、国防総省他部門(特に研究技術局や3軍の研究機関)との関係、戦場でのプロジェクト推進と成果物の適用状況・評価、さらに研究テーマや内容に関するメディアや世論・社会の動きを追い、その時代のDARPAの活動紹介・評価を行うものである。著者は本書出版まで10年をかけて、関係者へのインタビューや資料調査を行い、綿密な裏付けをとり完成させた労作である。
組織の存亡にかかわるような大きなテーマや話題性に富むプロジェクトを凡その時代順に例記すると、弾道ミサイル;宇宙開発と兵器の二兎を追うことになりNASA主管になってしまう。ベトナム戦争支援;戦略村構想への取り組みは社会科学へ進出の機会となるが、失敗から社会科学関連研究はその後行われなくなる。枯葉剤・除草剤の研究。いずれも反戦ムードの高まりの中でDARPAは悪役にされる。この時代既に無人機の開発に着手、現代のドローンにつながっている。インターネット;集中情報管理システムの脆弱性を克服するための分散ネットワークシステム研究がインターネット(当初はARPANET)に発展していく。SDI計画;DARPAは実現不可能とあらかじめホワイトハウスに進言していたがレーガン大統領がぶち上げてしまう。ステルス軍用機;紆余曲折するが成功。テロ対策(特に、時期や実行犯の推定);ビッグデータの活用を密かに進めるがプライヴァシー問題でとん挫。直近の問題。誰でも簡単に作れる即席爆発装置(IED)対応策;被害がアフガニスタン、イラクで多発しているが、有効な手段は見つかっていない。
珍妙な研究の数々。超能力研究;あのユリ・ゲラーの面接を行ったがインチキからくりがバレ、とりやめとなる。微弱電磁波に依るマインドコントロール研究;猿を使って実験するが失敗(担当者は成功と言うが)。シミュレーションによる麻薬戦争対策(中南米からの持ち込み);麻薬戦争に勝てないことが判明する。
日本を仮想敵国とした研究。1980年代(つまりJapan as No.1の時代)、予算獲得のために日本の“第五世代コンピュータ”開発プロジェクト対応策を打ち上げ、資金調達に成功する。
著者の総括。全体として他の研究機関にくらべ(長期的に見て)成功したものが多く、その最大要因は、典型的は官僚主義や科学的な査読と言う制約に邪魔されることなくアメリカの重大な国家保障問題に関わることが出来たと言う点にある。しかし、今日のDARPAは、その重要性を失う危機に瀕し、驚きのイノベーションを次々と生み出している一方で、軍の戦い方にも国民の生き方にもほとんど影響をおよぼしていない。それはDARPAが技術的な問題だけに特化し過ぎいるから、と結ぶ。
とにかく初代局長から現(2017年)局長まで故人を除きすべてにインタビューし、この他にも関係者多数(プロジェクトリーダーや、局外のプロジェクト参加者など)から話を聞きだし、最近機密解除になった公文書なども参照して、個々のプロジェクトを詳しく調査・検証しているので、内容の信頼性が高く感じられる。また、政治任用や個人的な関係で人事が決まるので、人が変われば仕事のやり方もドラスティックに変わるところが随所にあり、そのダイナミックな変化が「やはりアメリカは違うな~」と強く印象づけられた。こういう組織を日本の官の中に作ることは、全く不可能だろう(政治任用、個人ネットワークの負の部分もあるので、日本方式がすべて悪いと言うことではないが・・・)。
著者(女性)は国防・諜報・軍事科学を専門とするジャーナリスト。

6)発想の航空史
-エッセイストクラブ賞受賞の航空学者が独特の口調で語る、ライト兄弟前からステルス機に至る航空100年史-

1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ平和条約が締結され独立を回復、それまで禁じられていた空への活動が許される。「世界の航空機」「航空情報」などの雑誌が出版されるのはそんな時期であった。中学生になったばかりの私に新刊を買う小遣いは無かったが古本は20~30円で買えたからよく求め何冊かは今でも保存してある。そこで知ったのが著者の名前である。社会人になり「航空情報」を定期購読するようになるとそこに連載されていた“晴空乱流”というコラム欄に時々エッセイが掲載されておりすっかりファンになった。1969年「引力とのたたかい?とぶ」で日本エッセイストクラブ賞を受賞するほどの筆力を持つ航空学者は、飛行機は無論、山歩き、道具など様々なジャンルの題材で、平易な技術解説書、文明・文化論、紀行文、随筆をものにしており、適度に辛口ではあるが何かほのぼのとした読後感の残るその作風に惹かれ、遺作に違いない「飛行機のスタイリング」(1996年刊;1997年没)まで、ごく初期の作品と興味のないカメラを除き、20冊以上が手元にある。本書はその内の1冊(1995年刊)、原稿書きの材料を得るため書架から引き出すことになった。
取り上げられる航空機は、ライトフライヤー以前の飛べなかった飛行機から1990年代のステルス戦闘機まで(正確に数えていないが)約2百機。これをライト兄弟から第一次世界大戦、過渡期の1920年代、第二次世界大戦、第二次世界大戦後現在まで、の4部で構成。最後に全体を通して名機100機を選び再度それぞれの講評を行う。
この本のポイントは“発想”。従って設計者・開発者・製作者が機体とともに多数取り上げられ、航空機発展の画期となる技術と各人の役割・貢献度が技術ばかりでなく、言動、人柄、発注者(軍など)や製造会社の対応面からも考察される。また、成功者と失敗者の対比や彼らのその後も取り上げられ、著者の独断と偏見(やや親独・反米英)はあるものの、人間性や国民性を垣間できるところも面白い。
例えばライト兄弟。彼らの航空界への貢献で最も注目すべきは、翼端をひねって旋回する技術を発明発展させたところにある(現代の航空機の補助翼の働きと同じ)。それまでの開発者は船同様方向舵だけで向きを変えようとしたのでうまくいかなかった。船とはスピードが違うからである(船を高速で急回頭させると反対側に転覆してしまう)。この翼端をひねるのは鳥と同じなのであるが、他の開発者は鳥の羽ばたきをまねることしか観察せず、飛行に成功しない。これに対し、ライト兄弟は羽根の端や尾のひねりからアイディアを得て翼端ひねりを完成させる。しかし、鳥の飛翔技術は発明ではなく原理である。従って特許の対象にはならないのだが、当時の米特許審査官がそれに気がつかず、この翼端ひねりに特許を与えてしまう。ライト兄弟はこの特許を拡大解釈し、ライバルたちに特許訴訟で挑み、後続する米国の飛行機開発者たちの活動を妨害する。そのため、航空機開発国として先陣を切ったにもかかわらず、米国の航空機は第一次世界大戦後まで欧州の後塵を拝することになる。そして特許にしがみつき、改善努力に乏しいライト航空機会社は倒産してしまう。
著者の考察は技術面ばかりではなくスタイリングにもおよぶ。流麗なロッキード・コンステレーション旅客機や事故は起こしたものの世界初のジェット旅客機コメットの美しさを絶賛、一方で、競合審査に敗れた巨人軍用輸送機がジャンボ旅客機として復活したいきさつを語り、実用性が高く就航数は多いものの、スタイリングに関して難色を示す。
零戦は堀越二郎と言う優れた設計者によって生み出された傑作機だが、後継機烈風の開発が上手く進まず、ヘルキャットを始めとする米艦載機に太刀打ちできなくなる。これは海軍が烈風用エンジンの選択に誤ったことや三菱航空機が堀越を局地戦闘機雷電の主任技師として指名し、併せて烈風開発に当たらせる無理な人事(加えて堀越は体調を崩していた)を行ったことにあったと当時の経営層・軍を痛烈に批判する。雷電開発に当たらせず烈風に専念させるべきだったと。
著者はプロペラ設計の専門家として太平洋戦争前にドイツに渡り、彼の地からのプロペラ技術導入に関わる。その交渉が長引き1943年独ソ戦がドイツの退勢に転じ、米英戦略爆撃機によるベルリン空襲が激しくなってから、トルコ(中立国)経由でソ連に入りシベリア鉄道で帰国すると言う特異な体験を持つ。従って、ドイツの航空技術に精通しているばかりでなく、敵対する英国の当時の航空情報もドイツで実見・入手しているので、それらに基づく第二次世界大戦機に関する評価や日本の航空技術との対比(特に材料や生産技術、工作機械の後進性)も随所に見られ、単なるエッセイを超えた技術論にも興味を惹かれる話題満載。楽しくかつ勉強になる作品であった。

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