2019年12月31日火曜日

今月の本棚-137(2019年12月分)



<今月読んだ本>
1SNS変遷史(天野彬);イースト・プレス(新書)
2)狙撃手のゲーム(上、下)(スティーブン・ハンター);扶桑社(文庫)
3)インドが変える世界地図(廣瀬公巳);文藝春秋社(新書)
4)崩壊学(パブロ・セルヴィーニュ、ラファエル・スティーヴンス);草思社
5)日米地位協定(山本章子);中央公論新社(新書)
6)戦場のアリス(ケイト・クイン);ハーパーコリンズ・ジャパン

<愚評昧説>
1SNS変遷史
-「我シェアーする。ゆえに我あり」の世界を探訪する-

携帯電話を持つようになったのは20年前、まだ現役時代で専ら仕事のためだった。2003年に個人用に切り替え、現在保有するのはその3代目、まだガラ携である。2007年にビジネスの世界を去ってからは、外出機会も減りほとんど家人との緊急連絡用で、電話もメールもせいぜい月23回程度だからその必要性さえ感じない。だから「これからはスマートフォーン(以下スマホと略す)の時代」と切り替えの際強く薦められても、増加する費用を考え断った。インターネットへのアクセスなら画面もキーボードも扱い易いデスクトップPCの方がはるかに優れている。しかし、昨今電車の中で皆それに虜になっている状態を見ると「老後、これを携行し操作できないと、日常生活に不自由することになるのではない?」との不安もよぎる。一体皆はスマホをどのように利用しているのだろうか?それを知る手がかりとして本書を読むことになった。
SNSSocial Networking Service)と言う言葉は知っていたし自身3年前からフェースブックのメンバーになり、“お友達”も40人ほどいる。しかし、自ら発信するのは一週間に12度、それも11年前始めたブログ投稿紹介が中心で、これを使って頻繁に“お友達”とやり取りをするわけではない。それでも“いいね”がクリックされると「誰かとつながっている」感で何か癒されるものがある。孤独老人ともなればこのインパクトはさらに大きくなるだろう。
SNSの定義は種々あるがそれほど厳密なものではなく、ネットワークを通じて個人あるいはグループ間でコミュニケーションを行うことである。本書でも前史として、PCメールや企業・グループのホームページにおける掲示板やフォーラムあるいはブログが取り上げられ、現在のSNSとの差異や継承機能を明らかにする。この時代はコミュニケーションを交わす相手や仲間は分かっていたからSocial(社会)の範囲も限定され、内容もそれにふさわしいものであった。
これが大きく変化するのはプラットフォーム(フェースブック(FB)、ツイッターなど。我が国のものではミクシィ)の多様化が進みスマホの普及する20067年頃(日本はさらに数年遅れる)である。そして今、SNSがごく日常的になり、変革は現在進行形で将来像が必ずしも見えているわけではないが、 “誰かにつながっている感”とそれによる“ある種の癒し”が社会に変化をもたらしていることを、SNS技術・手法の発展に合わせてたどるのが本書の内容である。
焦点を当てているのは2点。利用者は何を期待してこれを利用しているのか?プラットフォーマはこれで何をしようとしているのか?である。
利用者が期待するのは、つながりと共感を得られる仲間が欲しいことに尽きるのだが、この共感は深さも幅も異なる。海外では出来るだけ知らない人ともつながることに価値を求めが、日本では外へ広げるよりは、知り合いとの深さ・近さを重視する傾向が強い。結果として日本のSNS普及率は他国にくらべ極めて低い。
プラットフォームとして主に取り上げられているのは、FB・ツイッター・インスタグラム(写真)・TikTok(ユーチューブを利用したショート動画)だが、我が国で固有に普及しているLineにもかなり紙数が割かれ、それぞれの出自の違いが今日の特色を生み出していることがよく分かる。例えばFB(“The SNSとも言われる);もともと米国のエリ-ト大学群(アイビー・リーグ)のさらに成績優秀者限定のコミュニケーションツールとして発足(最初は女子大学生の格付け)、今でも本名を含む個人情報を登録に際して求められ、お友達承認を必要とするのはここにある。対するツイッターはいくつも裏アカウント(偽名、仮名)を登録でき、対話する相手や投稿の場を使い分けることが可能だし、フォロアーになるのも承認不要なので気軽の参加できる。Lineはどちらかと言えばFBに近く、我が国SNSで圧倒的なメンバーを擁するのは、信用度を気遣う国民性を映した仕組みが好まれる理由のようだ。
SNSの問題点もあれこれ多様。プラットフォームは参加者数が勝負(ネットワーク効果;多ければ多いほど参加者が増え、広告などの価値が上がる。一方でFBに対抗したGoogleプラスは利用者が伸びず数年でサービス停止)、利用者を惹きつけるための創意工夫と投資が欠かせない(FBによるインスタグラム買収)。結果どれも同じような機能を備える傾向にある。懸念の一例;即時性と短文通信のため直感重視の思考・決断状態に陥り易く、熟慮を欠く社会が出現する恐れがある。また、インフルエンサー(フォロアーの多い発信者)の影響力で世論が形成されることも考えられる(広告宣伝ではプラスの面もあるが)。更に多様化・高度化が世代格差を生む傾向も懸念される(それを少しでも解消することも本書出版の一つの狙い)。タークルMIT心理学教授の「我シェアーする。ゆえに我あり」がこれからの社会を象徴することになるのか?
本書は、SNS変遷史ばかりではなく、ネット社会論、メディア論としても初心者に分かり易く書かれており、面白いデータも多い(各国比較、プラットフォームの年齢別差異;FBは中高年が比較的高く、ツイッターは若者に人気)。今の時代の常識として目を通しておくことに一読の価値がある。「次はスマホを買ってFBばかりでなくツイッターやインスタグラムもやってみるか」の気分になっている(介護施設から孫とつながることに備えて)。
著者は社会学の修士課程を修めたのち電通メディアイノヴェーションラボの研究員。仕事柄、SNS最前線に居る人と推察する。

2)狙撃手のゲーム
1600mの超長距離狙撃の可能性を紙上解説-

ヴェトナム戦争における伝説な海兵隊狙撃手ボブ・リー・スワガー軍曹を主人公とするシリーズも本書で15作目、初作の「極大射程」(邦訳出版1999年)以来の熱烈なファンである。翻訳が出るのが待ち切れず何冊かはペーパバックで読んだほどだ。ワシントンポスト紙の映画批評担当時代にはピューリッツアー賞を受賞したほどの書き手が送り出す作品に間違いは無かった。ただ、個人的には背景に大きな政治や軍事組織が絡むストーリーが好みなので、シリーズ中盤比較的多かった、カルト宗教集団や想像上の悪徳都市を舞台にするもの、あるいは外国のエキゾチズムが濃すぎるものには今一つ興が乗らなかった。しかし最近作はボブも70歳を超え半引退状態にあり、立ち位置を主役から一歩引いたところに置くことで、新たな魅力が出てきている。狙撃阻止の助言者としての役割である。狙撃者の特定、その心理状態、技量、使用される銃や弾丸、足跡を残さず高性能銃・特殊弾を入手する方法、訓練場所と方法、狙撃対象者・場所・時期、限られた情報からこれらを予測し、その阻止策を考える。優れた実績を持つスナイパーにしかできない仕事だ。今回の敵はイスラム過激集団に命を受け、本人も熱烈な信者である凄腕の狙撃手、イスラエルのスクールバスを襲い大勢の子供を撃ち殺すことも躊躇しない冷酷な殺人鬼だ。
この種の本ではあらすじを語ることはこれから読む者の興を削ぐことになるが、大きな流れと個人的に興味を惹いたことをひとつ紹介しよう。
シリアで狙撃され死亡した若い海兵隊員の母が、財産のほとんどを失いたびたび危険な目に遭いながら、イスラムに改宗してまで犯人を追い求め、ついにそれと思しき人物を絞り込む。その犯人の最終確認と復讐に手を貸してほしいとボブを訪ねてくる。公的資格の何らないボブには受けかねる依頼だ。現役時代の知人で今はモサド(イスラエル諜報機関)大佐の知人に協力をあおぐ。モサドは犯人を特定、その捕縛(殺戮を含む)を試みるが失敗。狙撃者は米国に移り誰かを狙う。FBIが動き出し、ボブはその顧問となって伴に動きを追う。
一般の軍隊における狙撃訓練は概ね400mまで、特別に優れたものが狙撃専用銃を使っても800m辺りが限界と言われる(最新のレーザー誘導などを使った特殊銃はさらに長いものもあるようだ。本書の中でもその話が出てくる)。しかし、今回は1マイル(約1600m)の超長距離狙撃が行われる。こうなると銃本体や照準器ばかりでなく弾丸の重さや材質・形状、薬莢とそこに充填する発射薬も特別なものが必要になるし、気象条件・地理条件も影響する。それらを勘案し試射を何度も行って銃・照準器(と照準計算機;スマホの中に演算ソフトが組み込まれる)・弾丸のすり合わせ調整が必要になる。ここが狙撃犯と射撃場所を突き詰めていくカギになるのだが、読んでいて「本当にそんなことが可能なのか?」の疑念が付きまとう。しかし、著者はライフル協会の会員で軍隊(陸軍)経験もあるので、素人の私がそれを振り払えるだけの解説はきちんとされている。
あとは読んでのお楽しみ。

3)インドが変える世界地図
-眠れる巨象インドを覚醒させたモディ首相、カギはIT人材だ!-

19869月インド文科省が主催するプロセス・システムズ・エンジニアリングに関するセミナー兼見本市(制御システムの)で発表を行うためインドに渡った。会場はニューデリー市内の東京ビッグサイトのような所だった。約1週間滞在し、セミナーが終わった休日にはタージマハルの在るアグラも訪れる機会があり大変印象深い旅であった。多くの国々を訪れたが“もう一度来たい”と強く思ったのはこの国が一番である。アジアでもタイ辺りまでは類似性を感じるのだが、歴史・宗教・文化・社会どれをとってもここは完全に異次元世界であった。覚醒されたことの一つに紙幣にまつわる話がある。何と十数言語の文字が併記されている。この異常性をインド人に質したところ返ってきた答えは「インドの広さを知っているか?一般的な地図は平面表示なので北が実際より大きく描かれる。インドの大きさは欧州全体と変わらない。そこにどれだけの国があり、いく種類の紙幣(ユーロに統一前)が使われているか考えてみてくれ」であった。あれから三十余年彼の地への興味は変わらないものの、もう訪問の機会は無いようだ。激変しているそこを知りたく本書を手に取った。
著者はNHKニューデリー支局長・解説委員としてこの地に長く関わり(約20年)、多くの知己・知見のある人。本書で紹介されるインドは、多少歴史を敷衍するものの、現モディ首相政権下の政治・経済・科学・教育・社会(宗教・文化を含む)が中心であり、当に今のインドを理解するための入門書として相応しいものであった。
私が渡印した時の首相はラジブ・ガンジー、母インディラは前首相、祖父はネール元首相の名家出身である。長く親ソ的な社会主義に基づく政策運営が続いており、外資や外国製品は規制で厳しく導入が規制されていた。例えば、乗用車は1950年代に英国で生産されていたオースティン社やモーリス社の製品を国産化しものがほとんど、そんな中でマルチ・スズキの小型車(アルト)が輝いて見えたものである。この国産品優先政策が転じるのが1991年、このときインドの外貨が底をつきIMFによる構造改革案を受け入れざるを得なくなり、開放経済が始まる(後ろ盾だったソ連が崩壊。日本は3億ドルの緊急借款融資を行う)。これによって1991年度わずか0.9%だったGDP成長率は90年代半ばには年率6~7%に転じ、新しいインドが生まれてくるのである。
この経済成長率急増の原動力となったのがIT人材である。当初は海外への出稼ぎであったものが、国内に開発拠点を持ち遠隔地から世界各国へサービス提供を行っていくようになりITソフトサービス大国に変じていくのである。この根底にあるのは貧困からの脱出エネルギーだが、加えて英語力と歴史的に数学に優れた人材を多く輩出していることがある(例えば、0(ゼロ)の発見から二ケタ掛け算の暗算まで)、そして国策として力を入れたIITIndian Institute of Technology;インド工科大学)における情報科学教育が時代をとらえる。この大学は1951年創設だが現在は単一の大学ではなくインド各地に23の分校があり、入学定員総数は1万人、これに毎年百万人の受験者がある“世界一の難関大学”なのである。卒業生の中には、現GoogleCEOサンダー・ピチャイ、現MicrosoftCEOサティア・ナデラ、一時孫会長の後継者と擬せられたソフトバンクCOOだったニシュケ・アローラなど錚々たるメンバーが居る。世界的なIT企業でリーダーを務められるという点において、残念ながら日本人は足元にも及ばないのがこの世界の現実なのだ。
IT産業がインドで隆盛を極めるもう一つの要因はカースト制度の存在である。我々が世界史で習うのは;バラモン・クシャトリア・バイシャ・スードラの4階級(これより下位に不可触民がいる)だが、実際はさらに細かく分類され、生まれながら就ける職業が決められている(モディ首相か中下位階層のガチン)。しかし、新産業IT分野はその縛りの外にあり、幅広く人材が集まり易いのだ。
私が関わってきたIT分野を取り上げて本書の内容の一部を紹介したが、政治や宗教の世界も刻々変わりつつあるのが現状だ。政治ではもともと藩王国から成り立ったことから地方(州)の力が強くこれを如何に一つにまとめ上げるかが大きな課題、モディ首相(人民党)は中央政府の力を強めるために大胆な改革を次々に打ち出している(高額紙幣の無効令など)が当然これに反対する動きが起こる。本年5月の総選挙では苦戦を予想されていたが、開票結果は国民会議派に圧勝、政権運営基盤をさらに強化している。元来人民党は都会、国民会議派農村を支持基盤にしてきたが、農村でも人民党へのシフトが起こっているのだ。
興隆する新興国として中国がライバルだが経済力ではまだまだ差が大きい(ソフト産業にくらべハードが弱い;携帯市場は中国勢が席巻)。安全保障を含み両国の関係は微妙だ。また、対中国牽制勢力として米国との関係が緊密化する一方で、トランプ大統領の移民制限策でIT技術者の米国での就業に制約が出もてきている。
宗教では2011年の国勢調査でヒンドゥー教徒が80%を切り、逆に2001年からの10年間でイスラム教徒が15%に増加、人口数約18千万人、これはパキスタンの人口にほぼ等しい。人民党はもともとヒンドゥー教を党是の中核に据え、モディ首相自身少年時代その下部組織に属し、そこから登りつめた経緯もあるだけにイスラム教徒対策も課題が多い。
現在の人口は13億人、中国の一人子政策とは異なる若い人口ボーナスを持つこの国が、IT業界に見るような位置を随所で占めれば、必ずいつかは崩壊する一党独裁の中国よりは、“世界地図を塗り替える”可能性は高いだろう。
本書で気になるのはいかにもジャーナリスティックな表現(特にモディ礼賛)が多いことである。強弱をつけることは印象づけられる反面誤解も生じやすい。読者として適度なバイアスをかけて読む必要はありそうだ。

4)崩壊学
-崩壊が始まっているのは自然環境ばかりではない。資源の枯渇の先に経済システムの崩壊も垣間見えてきている-

世界の終末論と言うのは、宗教や占星術などに依るものが古くからあり、旧約聖書に記された“ソドムとゴモラ”や“ノストラダムスの大予言”などがよく知られている。近世ではマルサスの人口論なども終末論の一種をとらえられている。冷戦時代は核戦争がそれをもたらすとして映画「渚にて」や「ザ・ディ・アフター」などが人気を集めた。そして現代は生態系破壊を含む環境問題が専ら主役の座にある。これら終末論は、いずれも“単一の原因”で世界の終わりがやって来ることになっている。神の怒り、疫病、大隕石の衝突、人口爆発と食糧不足、エネルギー源の枯渇、核戦争、氷河期のような長期気候変動、そして化石燃料による地球温暖化などがそれらだ。
長く石油産業に従事してきたことから、昨今の地球環境問題には比較的早くから関心を持ってきたが、時代を経るに従い焦点は科学→経済→政治そして今やある種の宗教・思想へと移り、科学と遠く離れた世界で議論が行われているように感じてならない。COP25 (国連気候変動枠組条約;マドリード)開催のひと月前、世界の気象関係学者500人が国連に「地球温暖化は起こっていない」との意見書を提出しているが完全に無視されているし、「気候変動に関する政府間パネル(ICPP)」モデルの問題点が専門家から指摘されているにも拘らず、これに正面から取り組もうとの姿勢は見えない。メディアも含め「もはやそのような段階ではない」の空気が支配的なのだ。そんな時目にしたのが本書である。“崩壊学”、いかにも環境悲観論者が書きそうなタイトルである。視点・認識が異なる者の主張を読んでやろうと本書を求めた。
環境破壊論の一種との予想は 半ば外れた。環境問題も取り上げられているものの、終末をもたらす要素の一つに過ぎない。今までの終末論(単一)と異なり、多くの因子から世界の崩壊が近いと警告する内容であった。
先ず社会的・経済的面から具体的に地球にかかる負荷因子が指数関数的に増加していることを1750年(一部は1950年)から2000年のスパンで示す。それらは;世界人口・都市人口・大規模ダム建設数・自動車生産数・世界のGDP・一次エネルギー消費量・水の使用量・対外投資額・肥料の使用量・紙の生産量・国際観光旅行者数などだ。これらから分かるように、単純な物理量だけでなく社会活動全般を対象に崩壊の兆し探ろうとするところに本書の特色がある。
次にこれら因子が地球システムに与える結果としての個別データを検討する。CO²濃度・成層圏のオゾン層(破壊された%)・漁獲量・森林の消失(%)・亜酸化窒素濃度・耕作地面積・海水の酸化度などだ。これも指数関数的に増加している。
複数の負荷因子とそれによる結果(地球環境)を列記するだけならば比較的単純な論理で理解しやすいが、負荷因子そのものにも崩壊の予兆があり、それが問題をさらに複雑にして解決の道が見えないとするところに本書の第2の特色がある。例えば石油と電力;原油の推定埋蔵量は依然かなりの量になるのだが、生産のためのエネルギー消費量も急速に増加し、エネルギー収支比(Energy Return on Energy InvestmentEREI)が年々低下していることを明らかにする。20世紀初頭;10011990年;351→現在;111。因みにシェールオイル(地下水汚染);51LNG101、風力発電;3.81、太陽光;2.51、石炭火力(粉塵・煤煙);501、水力発電(自然環境破壊);401、原子力(放射能);5~151であり、それぞれエネルギー効率のみならず種々の問題を抱えており、石油系に代わるエネルギーの大宗とはなりえないのが目下の見通しである。これは石油に限らず他の鉱物資源も同様。つまり、原因の方にも崩壊(枯渇)がせまり、価格が指数関数的に増加し経済(特に金融)システムの崩壊につながるという論法である。
さらにこの資源(食料なども含む)・環境・経済システムに加えて政治システムの機能不全が最終的に社会システム全体を崩壊させることを、データを駆使し、歴史(地球史を含む)も援用して解説するところが本書の胆。ここまではかなり説得力があり、読むだけの価値はあった。
このあと、それはいつごろ起こるのか?ならば今から人類はどう行動すべきか?と続くのだが、時期については既に始まっておりごく近く壁に突き当たるような論調ながら、明確には示していない。また対応策(崩壊は避けられないとの前提)は極めて理念的(イメージ的には“清貧の生活”)で具体性に乏しい。これらはこの種の本の常である。このような展開だから「大変なことになりそうだ!」の感は持ったものの、「だからどうした!」と開き直る気分で読み終える結果になった。国連といえども全人類に“清貧を”を強いることは出来ないのだから。
本書は2015年フランスで出版されベストセラーとなったものである。著者の一人パブロ・セルヴィーニュは農業技術者で生物学博士、ラファエル・スティーヴンはベルギー人で環境問題コンサルタントとなっている(活動家?)。
崩壊学(Collapsologie;コラプソロジー)は著者の造語で、自然環境に留まらず広範な社会システム全体の崩壊を研究する学問領域とのことである。読んでいて、人類を含む地球負荷の増大とその限界は諸因子が複雑に絡み合あい、直線的な因果関係として整理出来ないことは確かなので、いささか暗いが、適切な用語に思えてきた。

5)日米地位協定
-安保条約の核心に在る地位協定、その背後にある密約の数々を明かす-

19605月に起こった安保闘争の時は3年生になって間もなくだった。専門教科が多くなった理系の学生は政治に近い文系にくらべノンポリが多く、クラス検討会でも安保そのものや対米関係よりは「国会での審議が充分でないうちに強行採決を行い、自然成立を待つ岸内閣のやり方は汚い」と言う論調が大勢、クラスとしてデモに参加することにはならなかった。それでも反自民の意思を表示したく、何度か学内で組織されたデモに加わった。半分は野次馬根性からである。社会人になって少しずつ国の安全保障について考え、知識もついてくると「あの時は何もわかっていなかったな~」と当時の浅慮を反省するばかりである。そして本書により日米安全保障条約の運用規定とも言える地位協定の細部を知ることによって、その軽い反省にとどめを刺されることになった。
1950年講和条約締結に引き続いて調印された日米安全保障条約は全5条からなる簡単なものだが付帯する行政協定は29条あり、条約運用の細目を定めている。要点は;①基地の使用、②米軍の行動範囲(演習を含む)、③経費負担、④関係者の身体の保護、⑤税制・通関上の優遇措置、⑥生活上の諸権利の保障。つまり、日常の内政と関わるのは条約本体よりはこちらの方がはるかに影響力大である。そしてこの協定は60年の安保改定に際して地位協定として名称を変えるが中身はほぼ前協定を継承し今日に至っている。
1950年の安保条約策定環境は、占領行政の延長線上にあった。日本としては独立国としての対面を保ちつつ国の防衛を米国に委ねざるを得ない。一方厳しさを増す冷戦環境もあって米軍部は占領行政で確保した既得権をそのまま維持したいとの思いが強い。この間で苦慮するのが外務省と国務省である。条約は一見対等な文書にし、行政協定に米軍部の要求を盛り込むことになる。しかし、行政協定も国会の承認が必要なので、文面は曖昧にして、ラスク国務次官補と岡崎外相の間で公文を交わし運用上の細目を決める。これなら国会で審議不要だからだ。公文は秘密ではないので問題があることは周知であったが、これを正す機会はない。かなり姑息なやり方である。
60年安保では条約と協定の改定を日本側が強く望み、NATO並み(特に西独)を模索し、若干日本側の要求が入れられるが、地位協定と改められた運用規定の要部は実質的に変わらないばかりか合意議事録(前回の公文に相当)は機密扱いとなり2004年まで非公開のまま置かれる。さらに個々の問題対応のため日米合同委員会が設置され解決に当たることになるが議事内容は一切非公開、密約マシーンとさえ言われている。
70年安保では68年頃から沖縄返還への対応がクローズアップされる。ヴェトナム戦争の最盛期にあり、米軍部は必要に応じて全島を基地として利用できる権限を留保しようとするが、日本復帰はその妨げになると強く抵抗、複雑な外交が展開され反対運動に火を注ぎ、挙句の果てに地位協定に関する沖縄密約が交わされる。現在の沖縄基地問題はこの地位協定の曖昧さ(我が国の協定に対する主権の限界)の縮図なのだ。
では真に対等な地位協定は可能なのか?著者の研究は他国・地域と米国間の地位協定を日米間のそれと比較する。NATO諸国との場合対米地位協定はそれぞれの国によって異なる。特に敗戦国である西独、イタリアは一見日本と変わらぬところからスタートするが、国防軍を保持していることとNATO加盟によって、加盟国間相互に双務的な役割を負うため、米国もこれに合わせざるを得ないことが生じて、条文と実運用に大きな差が生じなくなってきている(イタリアは、米軍と単独講和したこと。創設当初からNATOに参加していたので西独とは異なる。西独はNATO加盟と東独との統合で改定のチャンスをつかむ)。また、NATO条約と地位協定は独立しており、この面からも地位協定運用の制約が明確である(例えば、基地外・基地周辺などでの演習や訓練、沖縄では公道を一時不通にする訓練など行えるが、独・伊では許されない)。また、単独で安保条約を結んでいるフィリピンや韓国も地位協定はその付帯条項ではない。ただし、いずれのケースでも裁判管轄権だけは米国が死守している。
何故安保条約と地位協定分離し、実質的に他国と同じ条約に出来ないのか?問題は双務的な役割を果たせない憲法上の制約、軍事・外交・貿易の対米依存度の高さ(政府は貿易環境に波及することを極度に恐れ、米国はそれをちらつかせる)であり、本書の中でこれらが絡む外交交渉の細部がしばしば取り上げられる。
読んでいて「主権国家としてもう少し自主的に振舞える国になれないのか?!」と歯噛みする思いに駆られるが、本書は反安保・反米を旨とするものではない。2004年公開された合意議事録を始め、行政協定・地位協定に関する外交・内政文書を丹念に調べ、現在に至る経緯を詳らかにし、さらに他国との比較検討を行い、望ましい方向への改定の手掛かりを探ろうとする、極めて真っ当な内容である。
著者は1979年北海道生まれ。一橋大学社会学部で修士課程まで進んだのち編集者となり(あとがきによれば、家庭が学部以降の教育・研究を許さない)個人で研究を続行、夫の沖縄転勤で彼の地に赴き現在琉球大学専任講師。この経歴から「米軍基地問題は沖縄問題と片付けず国家主権に関わるとこと」ととらえて欲しいとの願いが本書に込められている。それがよく伝わる内容だ。

6)戦場のアリス
-第一次世界大戦時実在した、知られざるフランス女性スパイ網-

スパイ小説・ノンフィクションは好みの分野で本欄でも多数紹介してきたが、本書はかなり変わったその分野の実話に基づくフィクションである。何が変わっているか?主人公は二人の女性、作者も訳者も女性であること、時代が第一次世界大戦中と第二次世界大戦後と言う二つの時間が交互に繰り返されること、あまり知られていない第一次世界大戦時ドイツに占領されていたベルギー国境に近い北部フランスのリールが舞台であること、当時フランス女性スパイ網が存在したことを伝える書物の邦訳は皆無なこと、土地勘があると思えない米国人が書いたものであること、しかも諜報戦に関わりが全くない経歴であること、である。つまり私にとって知られざる世界ばかり、読書の楽しみの一つに好奇心を満たすことが挙げられるが、本書は当にそのものズバリの内容だった。文庫本とは言え600頁を超すボリュームは相当なものだが、一気に読み通した。NYタイムス紙ベストセラーリストに載っただけのことはある。
原題は“アリス・ネットワーク”、第一次世界大戦中実在したアリスと言う偽名リーダーによって率いられていた、メンバー全員が女性の対独スパイ網である。主人公の一人はイヴのスパイ名を持つ英国在住のフランス人、もう一人は母親がフランス人の米国人大学生シャーリー。年齢は30歳ほどイヴが年長、アリスの下でスパイを働いていたのはイヴである。二人を結びつけるきっかけは、シャーリーが第二次世界大戦末期行方不明になった2歳上の従姉(母の姉の娘、フランス人)ローズの消息を探っているなかでイヴの存在が手掛かりになることから始まる。飲んだくれで孤独な中年女の生活の中に突然飛び込んできた若い娘の問いかけにイヴの古傷が疼き、求めに応じてフランスに渡る。軍資金はシャーリーとローズの祖母が二つに分けて残した真珠の首飾りの片方である。二つの時代が交互に表れるのはイヴのスパイ時代(1915年~1918)とシャーリーがローズの行方を追う時代(1947年;まだフランスには戦禍の後が残っている)を一つの次元(1947年)に収斂させるためである。
45章から構成されるそのサブタイトルはシャーリー/イヴと年月・場所のみ、その時それぞれが何処で何をしていたかが語られるのだが、やはり興味を掻き立てられるのはイヴの章だ。イヴは両親とともに幼い時に英国に移住、フランス語が堪能なことから英軍諜報機関にスカウトされアリス・ネットワークに送り込まれる。アリスはイヴをドイツ軍御用達の高級レストランのウェートレスとして売り込み諜報活動を行わせる。採用が叶うのは吃音であるため頭が弱いと思われたところにある。これは英軍諜報部の思惑通りだ。重要な情報を次々にアリスにもたらし、それが連合軍に渡り戦況に影響を与えていく。そしてこの高級レストランの名前がローズ捜索の重要なカギでもあるのだ。初めは独立しているように読める時空が少しずつ距離を縮めていくところが見事。
実際のアリス・ネットワークは仲間の裏切りで休戦少し前に摘発され、アリスは獄中で病死、No.2は生き残り戦後結婚、その夫が妻の回想録を出版、これが小説の元ネタになったようだ。シャーリーは無論、イヴも架空の人物である。イヴを吃音にしたのは作者の夫が同じでその特質を熟知していたからだとあとがきにある。作家の発想の一端を知るのも面白い。
スパイ小説やミステリーは小道具の使い方に工夫を凝らす。男性作家ならば、武器や酒あるいはクルマだが女性作家はファッションとアクセサリーのようで、私には“豚に真珠”と言うところであった。

恒例の“今年の3冊”は以下の通りです。
①レオナルド・ダ・ヴィンチ(上、下);本欄-13510月)
②独ソ戦;本欄-1338月)
③数学する人生-岡潔-;本欄-1294月)

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2019年12月25日水曜日

最後のグランドツーリング-9



7. 最後の長距離ドライブを終えて
今のクルマは200710月末購入した。この年の3月末でビジネス人生を終え念願だった英国の大学でOR(オペレーションズ・リサーチ;軍事における応用数学)の歴史研究に約半年費やし、帰国後初孫の誕生と併せて求めたものである。父が自動車会社勤務と言うこともあり就学前から自動車が大好き、卒論もエンジンの制御をテーマに選んだほどだ。“いつかクルマを持とう”の思いは“三つ子の魂百まで”。
最初に持ったクルマはルノー4CVの国産化で日野自動車が学び、初めて自社開発した日野コンテッサSの中古車、1964年のことである。このクルマは1967年本格的スポーツカーであるダットサンブルーバードSSS(これも中古車)に代わる。1970年から73年の間横浜で所帯を持ち自家用車の必要もなかったので一時期クルマを所有しなかったが、長女(二番目の子)が生まれる少し前その後に備えて軽自動車のホンダライフを購入、爾後ホンダアコード、トヨタ・コロナ5ドア、BMW3、トヨタMR-S、フォルクスワーゲン・ポロと乗り継ぎ、このクルマ(ポルシェ・ボクスター)が最後となる。
9月の病気(硬膜下血腫)発症までは85歳くらいまで乗るつもりでおり、930日実施の認知症検定講習の予約もしてあったが、退院後も手の震えが起こることがあり(現在では治まり日常生活に差しさわりは皆無)、検定講習を見送り免許証更新をあきらめた次第である。免許証を取得したのは19613月だから58年間運転してきたことになるわけで、それを終えることには身体の一部を割かれるような苦痛を感じるが、一方でダラダラ運転し続けることで、高齢者が起こす思わぬトラブルと縁を切れることもあるわけで、病気発症が良いきっかけになったとも思っている。
この12年間ボクスターで走った距離は約55km。最初の長距離ドライブは20087月新潟県の十日町から信濃川を遡り、飯山・小布施を経由し今回走った蓼科を駆け抜ける23日の旅だった。以後毎年12回遠隔地に出かけ、沖縄を除く全都道府県を走破した。それらの詳細はすべてブログで紹介してきたので、関心のある方はそこをご訪問いただきたい。
日常の使い勝手は極めて悪い車だが、高速道路や山岳路では実力発揮、これほど信頼の置け、人車一体感を味わえるクルマはチョッと得難い。清水の舞台から飛び降りる想いで手に入れた愛車は、充分その価値をもたらしてくれたにである。
細部に時々不具合が生ずることもあるがトラブルと言うほどのものではなく、燃費は新車時全く変わらず、まだまだバリバリの現役として使えるが、免許証の切れる来月末には手放すことを決めている。その時はどんな心境になるのであろうか?涙でも流すことになるのだろうか?チョッと心配である。

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-完-

2019年12月17日火曜日

最後のグランドツーリング-8


  
6. 昇仙峡
117日(木)今朝も空は明るい。いよいよ宿泊を伴うドライブも最後の日を迎えた。この日の行程は計画段階からあれこれ悩んだ。最初の案は諏訪湖から天竜川沿い左岸を佐久間ダム経由で浜松方面に下るルートだった。相当な難路だが紅葉を楽しむ山岳ドライブとしては魅力いっぱいに見えた。しかし、この地方(飯田を中心とした)を知る知人から、見所は天竜峡と佐久間ダム以外は無いと言われ、同乗する家人のことも考え、止めることにした。結局最終的に選んだのは昇仙峡である。
山梨県へは、このクルマで山中湖・河口湖周辺や忍野へは何度も出かけているが、宿泊したことは無い。見所は沢山あるのだが通過・立ち寄り地帯に過ぎなかった。そして今回も同じように帰路の立ち寄り地点となる。行ったことのない場所として浮かび上がったのが昇仙峡である。首都圏近郊の観光地として名前は知っていたが、県庁所在地の甲府市内と言うこともあって、何か俗っぽい印象があり、今まで避けてきていたが「ラストチャンスかもしれない」と思い訪れることにした。
ホテルから白樺湖を経て諏訪ICへ出る道は平日の午前と言うこともありスムーズに流れ、1時間足らずで中央道に乗る。ホテルを出る時セットしたナビのルートでは韮崎ICで降りて、そこから先は甲府市内に西から入り昇仙峡の南側に達するものと思い込んでいた。と言うのも昇仙峡に沿う県道7号は、土日は通行禁止、平日は南から北への一方通行になっていたからだ。しかし、中央道を降りてからナビが案内するのは北東に向かう県道27号(韮崎昇仙峡線)、ボッチ峠を経て昇仙峡の上流に至りそこから南下するルートだった。通称昇仙峡ラインとも呼ばれるものの、昇仙峡に沿う部分は最上流部と最後の一部、後は狭隘な山岳道路である。私自身はこんな道を走るのも楽しみのうちだが家人には何の楽しみもない。しかも見所までの時間が余計にかかる。やっと難路を抜け目指す県営駐車場に着いたが既に満車状態。やむなく北上しかできない県27号の東側を走る迂回路を南下、昇仙峡南端の市営駐車場まで下り何とか駐車スーペースを見つけることが出来る。時刻は11時時少し前。
昇仙峡観光の出発点長潭橋(ながとろばし)から散策を始める。延々と続く散策路の左(西)側には奇岩が連なり特徴のあるものはそれぞれ名前が付けられている。亀石・大砲岩・猿石・ラクダ石・猫石・熊石(パンダ石の方が相応しい)のように。確かに一見の価値がある面白い峡谷である。散策路の三分の二くらいまで歩いて30分程度、その先もあるのだがそこから引き返す。駐車場に戻ったのが12時丁度。周辺に飲食店はあるが何か野暮ったい感じなので次の訪問地“笛吹川フルーツ公園で昼食を摂るべくさらに東へ進んだのだが、これが大失敗。公園到着は1時前レストランへ入ると「申し訳ありません。1時からは貸し切りになっています」とのこと。
やむなくさらにフルーツラインを東進して“甲州勝沼ブドウの丘”で何とか昼食にありつけたが時刻は既に2時を回っていた。当初はこの後信玄ゆかりの恵林寺、河口湖への山岳路御坂峠越えを計画していたのだが、遅れに遅れた昼食でその意欲は消散、ここから中央道・圏央道を経由して自宅へ直帰することにした。

写真は上から; 昇仙峡入口付近、中ほど2葉、熊石、ブドウの丘から甲府盆地を俯瞰

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(次回;最終回;総括)

2019年12月13日金曜日

最後のグランドツーリング-7



5. 蓼科を走る-3
車山周辺を離れたのは3時少し前。ホテルへ戻るにはまだ早いし天気も良い。暗くなる5時前で時間は充分ある。「どこへ行くか?」しばし考えたが結局宿の近くの女神湖を散策することに決定。湖畔の駐車場に着いたのは丁度3時、陽気も暖かいので湖畔を歩いて一周することにする。
ここは12年前、20087月に来ているのだが、その時は蓼科山のリフトを利用して中腹に在る湿原を巡っただけで、湖の周りは観光していない。駐車場はレストハウスやスワンボート乗り場と一体になっているが、数台の車が駐車しているものの、閑散としている。ボートに乗るにはチョッとひんやりし過ぎているからだろう。
この湖はもともと農業用のため池(人工湖;周囲長約2km)。ビーナスラインが出来て白樺湖とつながったことで一気にリゾート化し、前回は湖を見晴かすオーベルジュに泊まった。そんな施設や別荘が湖畔に点在しているがどこも人の気配は全く感じられない。紅葉と気候は申し分ない時期なのだが、やはり観光シーズンの切り替わる端境期なのだろうか?とにかく静かな散歩を1時間ほど楽しんだ。
途中にガラス天井の教会が在ったので立ち寄ってみるとそれはリゾートホテルの付帯設備で、ここで結婚式を挙げるために設けられたようである。しかし、本体のホテルは休館状態だった。こんな時つい現役時代に戻り「こう言うところの経営も大変だろうな~」とついつまらぬことを考えてしまう。
駐車場に戻り、レストハウスでおやつでもと思ったが、昨晩のディナーを考えるとここで何かを摂る気にはならない。と言ってホテルに戻るにはまだ早い。
出がけにもらった「信州立科町まるごとガイドブック」を調べるとホテル上方蓼科山中腹に「御泉水(ごせんすい)自然園」なる森林公園があることがわかったのでそこへ行ってみることにする。もう夕日も傾きかけていたが薄暮の中山岳道路を駆け上がる。
自然園の駐車場にはクルマが23台。入口受付の建屋で作業をしている人が居るものの、受付は閉じられ、114日でここも長期休業に入ったことが記されている。しかし、先行していたクルマに乗っていた人達が構わず中に入って行くので、我々もそれに続くことにする。本来は有料なのだが、建屋の中にいる人も咎めない。さらに、若い女性がもう薄暗くなりかけている森の中を、我々を追い越してどんどん進んでいく。「皆で入れば怖くない」の心境で彼女の後を追う。
着いた先は運休中の蓼科山ロープウェイの山頂駅。駅の下に広がる傾斜地にいくつか椅子が置かれており、彼女はその一つに座って、前に広がり夕日に映える山々を眺めている。絶景独り占め。我々もそれにならってしばし暮れゆく山容を楽しむ。こうして静かな蓼科の一日が終わる。
入口に戻る途中気がついたのだが、ここは12年前訪ねた湿原と蓼科山への登山ルートの中継点で、その時は下からここまでリフトで上がり、そこから歩いたのだった。全く意図していなかったことだけに、最初と最後の長距離ドライブ立ち寄り点が同じことに何か運命的なものを感じた。「このクルマとの別れに相応しい」と。

写真は上から;女神湖-1、同-2、ガラスの教会、自然公園入口、山頂リフト駅からの眺め

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(次回;昇仙峡)