<今月読んだ本>
1)ニッポンのざんねんな鉄道(野田隆);光文社(文庫)
2)The Bomber War(Robin Neillands);The Overlook Press
3)アインシュタインの戦争(マシュー・スタンレー);新潮社
4)世界の戦争映画100年(瀬戸川宗太);光人社(文庫)
5)戦国大名の経済学(川戸貴史);講談社(新書)
6)東京 はじまる(門井慶喜);文藝春秋社
<愚評昧説>
1)ニッポンのざんねんな鉄道
-乗換に不便な駅、景観を楽しめない車両、誤解を招く駅名、“ざんねんな鉄道オンパレード-
渋谷駅は子供のころから縁のある駅だった。叔父(父の兄)の家が井の頭線の神泉近くに在ったし、3人いとこが居る叔母(父の姉)が玉電の世田谷に住んでいたからからだ。当時玉電は山手線と改札を介して直結しており乗換は極めて簡単だった。この玉電が田園都市線と地下鉄半蔵門線と直結、下高井戸行きは三軒茶屋で乗換になるところから渋谷駅の大変貌が始まる。湘南新宿ラインの運転と新ホーム、東横線と地下鉄副都心線の直結、地下鉄銀座線のホーム更新、これに合わせた周辺の再開発で、景観も動線も大変房している(いまだ進行中)。特に地下の変化が著しく、最深部の東横線から高架最上部の銀座線に乗り換えるなど考えられないほど利便性を欠く駅に変じてしまった。残念なことである。
この書き出しは、本書Part1「「ざんねん」の王道“不便”で残念な駅」の一コマ(首都圏)を実体験に則して書き換えてみたものである。そのNo.1 が渋谷駅なのだ。首都圏ではこのほか、西武新宿駅、JR東京駅の京葉線ホーム、東部浅草駅。地方では、私も現役時代まごついた名鉄名古屋駅(とにかくあらゆる行先と普通から特急までが上り下りそれぞれの1本のホームにつぎつぎと到着・出発する)、ターミナル駅の無い京都(阪急や京阪は京都駅につながっていない)などが取り上げられて「如何に不便か」を手短(約1頁)に紹介、これを十取り上げ“不便で残念な”駅のワーストテンを一項にまとめる。
項立て(36)は駅ばかりではなく路線・車両・本数や時間帯・今昔の違い・駅名など様々。多くは題名通り“残念”なもので構成されているが、時には車窓(海・山別)・駅名(珍名・奇名・実態にそぐわないもの)・観光列車ベストテンなどもあり、楽しく読める。
一つのテーマは1頁足らず、ごく簡単なのだがかなり役に立ちそうだ。例えば、駅名と実態がそぐわないものの第一位は東上線の森林公園駅、ここから森林公園までは約3km徒歩で40分はかかるがシャトルバスは土日のみ、平日子供連れで出かけたらえらいことになる。最寄り駅名詐称とも言えるのは北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅、観光客誘致でこんな名前にしたのだろうが宇奈月温泉まではここから電車で40分もかかるのだ!また僻地の終点駅など周辺に何もなく、観光の後戻ろうにも運行本数が少なく、その日の内に戻れなくなるところもある。内容紹介の最後は海と山のNo.1 。海はJR五能線(日本海)、山は北陸新幹線(立山連峰・北信五岳・浅間山)。
著者は高校教諭からフリージャーナリストに転じた人。日本旅行作家協会理事。本書はすべて実際に現地を訪れて書かれている。
2)The Bomber War
-爆撃機は本当に有効な武器なのか?道徳的に許される作戦だったのか?欧州戦線でこれを検証する-
米戦争映画「ミッドウェイ」を観た。1942年6月5日から7日にかけて行われた機動部隊同士の戦い、これがガダルカナルとともに太平洋戦争の転換点となる。最近はCGの進歩で兵器(空母、航空機)も忠実に再現され、違和感なく観応えのある作品になっている。シナリオも比較的史実に忠実で、日本がただの悪役でないのも良い。しかし、唯一気になったのは、この決戦のきっかけとなる同年4月18日のドーリットル爆撃隊の一コマである。空母ホーネットから発進した米陸軍航空軍の双発爆撃機B-25(16機) は本土爆撃(東京、横須賀、名古屋、神戸など)決行後東シナ海を超えて中国本土に至り、夜間・降雨とあって、ドーリットル機搭乗員は落下傘降下、中国人に伴われての逃避行となる。この途上ある街に日本軍の爆撃機が飛来し爆弾を投下する。「軍事施設などなにも無い所なのに」とドーリットルは同行の中国人につぶやくシーンである。自分たちは日本の軍事拠点のみ爆撃したのに「なんと残虐で卑怯なことを!」の感を与える一方、のちの東京空襲や2発の原爆投下は「先に日本がやったから」と言う論理がうかがえる。実は、あまり日本人には知られていないことだが、民間人を巻き込んだ無差別爆撃の最初は満州事変勃発直後関東軍が行った錦州爆撃(1931年10月8日)にあると言う説が米英には流布している(当時の関東軍の主張;張学良軍主力が錦州にあり、その対空砲陣地を空爆した)。スペイン市民戦争時のゲルニカ爆撃に先立つ6年もまえのことである。映画でドーリットルが直面する場面は、この錦州爆撃を連想させられる。本書の主題は単なる戦記・戦史ではなく、この「無差別爆撃」の是非を欧州における英・米と独の爆撃戦略・作戦・戦術を通して問うものであり、ドーリットルは中国から脱出後、在欧米第8航空軍爆撃師団長(少将)としてこの航空戦に参加することになる。
有史以来と言ってもよい長い歴史を有する陸・海軍に対して空軍のそれは100年程度しかない。独立軍種とし世界初の英空軍が誕生したのは第一次世界大戦終了間際の1918年4月。これを支える軍事思想は“戦略爆撃”、他の軍種が直接敵の軍勢と決戦を行い、勝敗を決するのに対して、主要軍事拠点、政治経済の中枢を直撃して、戦争遂行能力を麻痺させると言う考え方である。この思想は1921年出版されたイタリア人ジュリオ・ドーウェ将軍の著書「制空」によって広く知られることになるのだが、英空軍はそれ以前に同様の理論を展開して独立を果たしている。その主導者は陸軍航空隊の参謀長であったトレンチャード元帥(最終)である。英国がこれに傾斜する最大の動機は第一次大戦におけるドイツのツェペリン飛行船およびゴーダ双発爆撃機に依る英本土空爆にある。それまで島国として海軍を中心に独自の国防・外交政策を採っていたことが適わなくなると考えられたからである。正面戦闘力として整備されたのは、本土防空を担う戦闘機軍団、シーラインを守る沿岸航空軍団(海軍指揮下)そして敵地深く戦略爆撃を行う爆撃機軍団の三兵種である。
第一次世界大戦時、在仏米陸軍航空隊司令官を務めたビリー・ミッチェル中佐はトレンチャードの考え方に影響され戦後米空軍創設に邁進するが、上層部の不興を買い准将で退役、失意のうちに1936年死去する(のちに名誉回復で少将)。しかし、この衣鉢を継いだ者たちが、独立軍種に近い陸軍航空軍を作り上げ、ミッチェルの愛弟子とも言えるヘンリー(ハップ)・アーノルド(最終階級;1947年創設の初代米空軍参謀長元帥)は陸海軍と並んで統合参謀本部の一翼を担うことになる。
一方のドイツはヴェルサイユ条約下民間航空やスポーツ航空を隠れ蓑に航空戦力を育成、1933年のヒトラー政権誕生で本性を露わにする。リーダーはかつてのエース(5機以上撃墜)戦闘機乗りゲーリング国家元帥。しかし、独立軍種としてスタートしたものの、大陸軍国の伝統から戦略の根源に陸戦協調があり、大型長距離爆撃機の開発に目が向かず、攻撃力の主力は双発爆撃機、空軍力だけで敵国を制圧する力はない(英独航空戦敗北はその典型例)。
以上のような背景を踏まえ1939年9月欧州での大戦が始まり1945年5月に終了する。本書はこの三国の空軍に依る爆撃機の戦いを描いたものであり、戦略爆撃とは何か、思想・構想通りことははこんだのか、何がそれを阻んだのか、結果としてどんな戦い方になったのか、そしてそれは許されることだったのか、その責任を一部の指揮官に帰していいのか?を代表的な空爆作戦を取り上げて追及していく。重きを置かれるのは戦いそのものではなく、人権・道徳(Moral)と戦意・士気(Morale)の問題である。それゆえに、欧州戦を語りながら、終わりの2章は“The Road to Hiroshima”、“Moral Issues and the Bomber War”となっている。主役は1942年から終戦まで英爆撃機軍団長を務めたアーサー・ハリス(爆撃屋ハリスあるいは屠殺者ハリス;戦後元帥・男爵)。ハンブルグの劫火、ドレスデン爆撃(終戦間際の1945年3月)。チャーチル首相やポータル空軍参謀長そして米陸軍航空軍在英第8航空軍は責任を彼一人に被せて逃げたと著者はみなす。
戦略思想の基本;軍事・政治経済の中枢を叩いて敵の戦意にとどめを刺す、が如何に絵空事であるかを多面的(国際政治・統合軍の運用・戦略・作戦・戦術・技術・経済・宗教・心理)に分析し、結局“やられたらやり返す”がエスカレートし、民間人を大量虐殺したのが戦略爆撃の実態であったことを明らかにする。表面で“昼間精密爆撃”を唱える米航空軍が対日戦では夜間絨毯爆撃に転じ(1945年3月10日の東京爆撃がドレスデンほど話題になっていないことにも言及)、果ては2発の原爆投下まで行う。欧州戦線だけで60万人以上のドイツ人を爆殺、その大部分は民間人。対する英空軍の損失は戦死者6万人弱(爆撃機軍団の51%!;全軍兵種で飛びぬけて高い)、失った爆撃機約9千機、米航空軍の戦死者2万6千人。果たして戦略爆撃に意味はあったのか?!著者の本音が随所に感じられる力作、日本人として東京爆撃・原爆投下批判には共感できるところが多かった。
著者は英人海兵隊勤務後ジャーナリスト・作家・旅行家。
3)アインシュタインの戦争
-相対論が認められるまでの孤独な戦い。実証したのは敵方英国の天文学者だった-
今年度のノーベル物理学賞は3人のブラックホール研究者、化学賞受賞者の一人はマックス・プランク研究所に所属する仏女性化学者だった。いずれもアインシュタインに深く関係する。相対論発表からほぼ一世紀を経てもそれに関する研究テーマや研究所が在ることに、アインシュタインの偉大さを、あらためて教えられた。
本書は、少年時代からスイス連邦特許局局員になるまでの前史はあるものの、大部分は相対論の発想を得てそれが1919年の皆既食観測で実証されるまでの約20年間の活動を綴ったものである。タイトルの“戦争”はこの間戦われた第一次世界大戦との関係を連想さるし、その影響も少なからずあったが、本意は相対論認知に関する戦いにある。長く物理学の基本と信じられていたニュートン力学の修正、高度で複雑な数学を駆使することに対する誤解、ドイツ物理学界における理論物理学と実験物理学の主導権争い、それにユダヤ人問題が絡む。そして第一次世界大戦におけるドイツ科学界の孤立から生ずる種々の問題(戦いの双方とも最新情報が得られない)が無理解・混乱を助長する。
この戦時に相対論実証に寄与するのは敵方に在ったケンブリッジ大学天文学教授であるアーサー・エディントン。「光には重さがあり、重力の影響を受けて曲がる」と言う相対論の核心的事象を、当事者同士の情報交換が出来ない中で、1919年5月、ブラジルとアフリカ西岸沖の孤島から皆既日食を観測、特定の恒星の位置が本来在るべきところからずれている(光がずれる)ことを写真に写し撮って相対論の仮説の一つを証明する(戦争は終わっているがドイツ学界は依然国際社会から絶縁状態)。これが相対論認知の大きな転換点となり、アインシュタインの名声が不動のものとなる(アインシュタインはこれで1921年度ノーベル物理学受賞者となるが本書はそれ以前で終わる)。
この大戦では二人とも個人的な問題を抱えている。アインシュタインはもともとユダヤ系ドイツ人だがギムナジウウム(中高一貫校)時代精神病を疑われ(徴兵忌避説あり)退校処分を受け、高校卒資格不要のスイス連邦工科大学に進み、この際国籍がスイスになっている。特許局勤務の後チューリッヒ大学(ここで相対論に取り組む)、プラハ大学などの教授となり、相対論に注目したドイツ物理学会会長でカイザー・ウィルムヘルム研究協会(KWI)の要職に在ったマックス・プランクの招きでKWIの物理学研究所長としてベルリンに移る。ここで第一次世界大戦が勃発、プランクを始め空中窒素固定化技術を開発したフリッツ・ハーバー(ユダヤ人、KWIで最も親しい友人)など著名科学者93名が「愛国宣言」に署名するが、アインシュタインはそれを拒否、それどころか「科学に国境はない」と訴える活動の中心人物となり、国内での活動に大きな制約受けることとなる。一方のエディントンはクウェーカー教徒、宗教による「良心的徴兵忌避」を貫こうとするがさまざまな嫌がらせを受け、仕事を失いかねない事態にまで追い込まれる。政府は大学と図り「余人をもって代えがたい人物」「天文学は戦争遂行に欠かせない学問」と言う理由で召集免除リストに加えるが、本人は妥協案を受け入れず、あくまでも信仰第一を主張、大臣が認めて何とか兵役を免れ、日食観測に当たることが可能になる。両者とも信念の人なのだ。既に5年前から同士であったが(中立国オランダの物理学者ヘンドリック・ローレンツが仲介者)、二人が初めて顔を合わせるのは1921年6月、米国講演旅行の後ロンドンに立ち寄り王立協会のあるバーリントンハウスにおいてである。
現在学術会議会員任命に関して科学と政治の在り方が社会・政治問題化している。政府否認の理由は多分イデオロギーにあるのだろう(医科大の関係者が一人居るが他は人文科学)。本書は自然科学の分野ではあるが、政治思想や宗教がそこにも深く影響していることをアインシュタイン中心に取り上げ、科学国際主義とナショナリズム共存の難しさを浮き彫りにする、時宜を得た一冊と言える。
著者はニューヨーク大学教授、天文学・宗教学・物理学・科学史の学位を有する。専門は科学史・科学哲学。プリンストン高等研究所(亡命後アインシュタインが所属)、英国学士院、マックス・プランク研究所フェロー。
蛇足1;カイザー・ウィルムヘルム研究協会(KWI)は第二次世界大戦中も存在したが、戦後マックス・プランク研究所(MPG)と改名され現在に至る(研究所と訳されるがその中にいくつもの研究所がある。33名のノーベル賞受賞者輩出)。マックス・プランクは“量子力学の父”と称され、アインシュタイン最大の庇護者。1918年ノーベル物理学受賞。ユダヤ人学者追放に反対しKWI理事長の座を追われる。二人の娘は第一次世界大戦中食糧難の影響もあり出産後死亡、長男も戦死、次男はヒトラー暗殺計画に関与し親衛隊に処刑されている。
蛇足2;アインシュタインは二回結婚している。最初の妻はスイス連邦工科大の同僚(セルビア人)二人の間に息子が二人。二番目の妻ははとこで離婚経験がある。前夫人が離婚条件として「もしノーベル賞を受賞したら賞金は全額渡すこと」を提案、アインシュタインはこれを受け入れ離婚が成立する。前夫人は大きな賭けに出たわけだがこれが的中、受賞決定後裁判所がかなりの部分を年金で渡すことと判ずる。
4)世界の戦争映画100年
-取り上げられる本数は700、観たのは100.映画少年時代の思いにふける-
最初の映画に関する記憶は4歳頃まで戻ることが出来る。母に連れられて観たそれは“すねかさま”と言う怪人が暴れまわるもので、母が「悪いことをすると“すねかさま”に懲らしめられる」と言った恐怖感である。多分ニュースの一部だったのだろう。成人し秋田の“なまはげ”を知ったときそれが“すねかさま”とそっくりなので、少し調べてみたら同じものであることがわかった。特定の地域でそう呼んでいたことがあるようだ。次の映画鑑賞記憶は小学校入学前後に父と観た「加藤隼戦闘隊」である。子供ながらに勇ましい格好良さを強く印象づけられ題名を確り刷り込まれてしまった。本書で久し振りにその作品に触れることができ、幼い時代にひととき戻された。
「加藤隼戦闘隊」は1941年の作品、100年と言うと1920年まで遡るわけで無声映画まで取り上げられる。本数は700本弱、ただ監督や主演俳優の過去の作品に言及したりするので、この数がすべて戦争映画と言うわけではない。例えはジョン・フォードの弟子とも言えるジョン・ウェイン作「グリーン・ベレー」を語る際に「駅馬車」が出てくるが、これも本数の内である。また映画ではなくTVの人気番組であった「コンバット」となどは映画作品と比較のために何度も登場する。邦画は最も古い「五人の斥候兵」(1938年)から最新の「永遠の0」(2019)年まで約70作品が取り上げられており全体の1割を占める。また、本邦未公開のものでDVD化され発売されているものも紹介される。国別では米国が最も多い。これはハリウッドの存在もあるが、著者が「戦争をし続けているから、題材も多々あり、市場も大きい」としているのはうなずける。
700本の作品を300頁に収めるので作品ごとの記事はごく短いものだが、画一的でないのが良い。製作時の社会的背景、原作と脚本の違い、監督の変化・変身(戦時中は督戦映画を多作していた今井正一監督が戦後は「ひめゆりの塔など反戦映画の旗手になったことを痛烈に批判」)、俳優の演技、戦闘シーンの撮影、時代考証(私自身はこれが一番気になる。「トラ・トラ・トラ(70)」の零戦は米練習機T-6(テキサン)の改造。「バルジ大作戦(65)」の独タイガー戦車は米シャーマン戦車の改造、これが分かると一気に興ざめ)、など切り口を変えて的確な批評をしている。全体構成は批評家としての立ち位置を意識してジャンル分けし(アクション映画(これが一番多い)、戦意高揚映画、レジスタンス映画、反戦映画(邦画はこれが多い)、核戦争映画、ヴェトナム戦争映画、その他)、時代受順でないのも読む者の理解を助ける。
子供時代の微かな記憶「加藤隼戦闘隊」を始め、「ヨーク軍曹(41)」「頭上の敵機(49)」「第17捕虜収容所(53)」「地上より永遠に(53)」「ケイン号の反乱(54)」「ミスター・オバーツ(55)」「攻撃(56)」「眼下の敵(57)」「戦場にかける橋(57)」「撃墜王アフリカの星(独57)」など高校・大学時代に観て印象に残った作品、その後の話題作「ナバロンの要塞(61)」「史上最大の作戦(62)」「アラビアのロレンス(62)」「大脱走(63)」「ディア・ハンター(78)」「プラトーン(86)」から今年観た「1917命をかけた伝令」「ミッドウェイ」まで、鑑賞した100を超す作品の想い出に一時浸ることが出来た。
著者は1952年生れ、高校教諭を経て映画評論家に転じた人。
5)戦国大名の経済学
-換算すれば1000人の部隊で数億から10億円、戦国大名はいかにやりくりしたか-
米大統領選挙も数日後に迫った。今回はコロナ対策を除けば正面からの政策論争は無く、相変わらず大口をたたくトランプ、まるで迫力のないバイデン、目くそ鼻くその戦いだ。低迷する世界経済、各地のテロ・紛争、中国のあからさまな覇権主義。「一体どうするんだ?!」と質したい。そこで思い出したのは1992年のブッシュ(パパ)とクリントンの戦いである。湾岸戦争勝利で圧倒的な支持を集めていたブッシュに対し、“It’s the Economy, Stupid!(経済こそが重要なのだ、愚か者!”なるキャッチフレーズで挑んだクリントンは、これで逆転勝利を収める。実際湾岸戦争後の米経済は低迷していたから、有権者の琴線に触れるメッセージだったのだ。第二次世界大戦直後の英総選挙でチャーチルが敗れたのもこれと同じだし、ソ連の冷戦敗北も軍拡による経済破綻の結果である。“戦争と経済”の関係、古くはローマ帝国興亡、中国王朝の変遷、十字軍とイスラムの戦いから、近現代の二つの世界大戦、東西冷戦、ヴェトナム戦争、湾岸戦争まで多くの出版物が著されているが、国内のそれは極めて珍しい。それも戦いに明け暮れた戦国時代、領主は一体全体どんなやりくりをしていたのか、興味の沸くテーマである。
戦国時代は応仁の乱(1467年)から信長上洛(1593年)の約百年、室町幕府の力が弱り各地の守護大名や土地の有力者が独自の領国経営を進める中で戦乱が頻発する。当時の経済はほとんど農業に依存、自然環境の影響を受けやすく、平時でも管理地・領地の経済運営は容易ではなく、戦時はそれが倍加する。まして争いを仲裁・制圧する力はどこにもない。守るもの攻めるもの独自領国経営を余儀なくさせる。領地拡大、新田開発、新産業勧業、流通の活発化さらには外国貿易、とそれぞれが経済力向上を目指すが、手っ取り早いのは領地・勢力圏拡大、これを有利に進めるには第一に戦力、次いで弱まったとはいえ、幕府や天皇・公家からお墨付きを獲得することである。経済力を高めるための戦争、戦力強化のために経済力向上、どちらが因果関係が分からぬ争いが狭い国内各所に生ずる。この時代、信長、秀吉、家康(これはあまり深入りせず)、武田、北条、伊達、大内、大友、島津など戦国大名(有力者・雄藩)の財政基盤を明らかにするのが本書の骨子である。
取り上げられるのは、戦費(武具、人馬、兵站)、臨戦体制と費用負担、平時・戦時の税制(年貢・臨時税・役務)、通貨制度(統一通貨が無い。米が基準)、産業振興策(自由市、鉱山開発、外交・貿易)、城と城下町の建設、インフラ整備、公認権力獲得のための費用(賄賂)など、高校までの日本史ではその一部表面をなぞるだけだが、ここまで深めると、雄藩になりさらに天下を取るには戦闘力以外に並々ならぬ才覚が必要であることがよく分かる。
著者は1974年生まれの経済学者(千葉経済大学准教授、経済学博士、貨幣経済史)であるが、この時代の大名・武家は帳簿類を全く残しておらず、経済分析が極めて難しいことを導入部で語り「武家社会が、総じて帳簿に依る収支管理にあまり積極的ではなかった」と推論している。そこで民間や個人が残した資料を基に米とその価格から、この課題に取り組むことにする。当時米1石(180ℓ;150kg)がおよそ銭1貫(1000文)であることをベースに、現代の数字を推算する(1文=60~70円。米価は現代の方が安いが、これは品種改良や生産性改善効果とする)。
武具(単位:文);太刀(500)、槍(1000)、弓懸(200)、鎧兜・具足(4600)。馬(3000)、鉄砲(8500)。大名から足軽まで、すべてが同等の必需品ではないものの、馬や鉄砲を除いても、一人当たり雑具を合わせて10貫は必要と見る。現代の価値では60~70万円、1000人の軍勢としては数億~10億円程度要し(固定費)、これに傭兵の費用、兵站費(輸送、築陣、食糧)が加わるわけで(変動費)、簡単に戦が始められないことが見えてくる。大名・家臣の資産(家臣は・武士は戦いに参加する条件で知行を与えられている)や臨時税でこれを賄うわけだが、厳しい取り立ては反発を招き住民の離反を生ずることもある。経済を中心に統治策の巧緻が問われる。
著者は貨幣史の専門家、この視点も面白く新鮮だ。日本史に貨幣が現れるのは8世紀の和同開珎、しかしこれは20年ばかりしか続かず、その後は中国の貨幣が主体となる。中国の鎖国政策(海禁)や王朝の盛衰でその供給量(国内流入量)は大きく変動、戦国期には大幅に不足し、私造・偽造貨幣が横行するが、これと中国貨幣との交換率が問題になり、非農民からの徴税、傭兵たちへの支払いに障害をきたす。
もう一つ貨幣と関係する興味深い話は、金・銀・銅の生産と利用である。鉱山開発は大名の財源確保に大きく寄与する。この時代、日本はこれら金属の一大産地なのだが、国内で通貨となることは無く、専ら中国を中心に海外に輸出、外国通貨になっているのだ。特に大きな存在だったのは石見銀山(島根県)、スペインがボリビアの銀山を見つけるまでは世界一の産出量だったと言う。徳川幕府が誕生するまで、金銀は装飾や贈答品として利用され、伊達は売官活動のため幕閣や公家に大量の砂金を贈っている。
信長の楽市楽座は、既得権を認めない新市場施策とてしよく知られるが、実態は征服地や新開発地(その代表は安土)に限られている。また小規模ものは織田一族の支配地で以前から行われており、必ずしも革新的なものではなく、少々過大評価されているようだ。
歴史小説や大河ドラマには見向きもされない情報が数々調査分析されて解説されており、知られざる日本史の一端を大いに学んだ。ソ連は経済に行き詰まり崩壊し、中国は鄧小平の開放政策で覇権主義を露わにしている。いつの時代、何処でも“It’s the Economy, Stupid!”だと。
6)東京 はじまる
-最下級武士の子がお雇い外人を排し、近代東京の景観を形づくるまでの人生-
母方の祖母は富山藩下級武士の娘。父親(私の曽祖父)は明治維新後警視庁に勤務していたので、子供時代桜田門近くの官舎に住み、小学校は今も銀座に在る泰明小学校の卒業である。この祖母宅(無論桜田門外ではない)に大学2年から卒業まで、用心棒(?)を兼ねて同居することになり、随分昔話を聞かされた。その中に“三菱が原”と呼ばれる原っぱが近くにあったとの話があった。今の丸の内である。あの一帯は現在三菱地所の所有地、東京駅もない時代、早くも岩崎弥太郎はそこをおさえていたのである。本書は後年東京駅の設計・建設者となる実在の建築家辰野金吾を主人公とする小説であり、久々に“三菱が原”が出ていたので、導入に祖母を引き合いに出した。
金吾は嘉永7年(1854年)唐津藩士の次男として誕生、生家の苗字は姫松だが、やがて親類辰野家の養子となったのでその姓を継ぐ。姫松家は士族とは言え、本書の中で“二士八農”と説明されるように、実態は農民に近い下級武士である。上京するきっかけは、藩校が維新の混乱の中廃校となり、英語教師高橋是清が東京に移ったことにある。高橋は、当時設立されたばかりの工部省大学校(のちの東京大学工科大学、現東大工学部)入学を薦め、終生の親友、同郷の曾禰達蔵とその第1期生(1873年)となる。この際、曾禰は一発で合格するが、金吾は2カ月遅れの補欠募集で入学を許される。造家科(建築科)の教授はお雇い外人のジョアサイ・コンドル教授(終生日本に留まり、鹿鳴館を始め数々の作品を残す)。ビリで入学した金吾は彼の指導の下猛勉強、首席で卒業(1879年)、工部省に入省、翌年英国に留学、彼の地で3年間学ぶ。本書の初めの方は、金吾・達蔵・コンドル3人を巡る話題が中心となる。達蔵も武家の出だが、年長で維新前はお世取り様:(藩主後継者)の近習、身分が違うし大学校入学はトップ、卒業時金吾に抜かれるが、金吾から見れば常に一目置く存在だ。これは後日談だが、達蔵が成績ではトップなのだが、コンドルは“何かやる男”として金吾を首席とする。その抜擢男が帰朝後コンドルの地位(工部大学校造家科教授)を襲い、コンドルは解雇されることになる(達蔵は助教授のまま)。
主題の建築家としての話は三つ。現存する日本銀行本店、2016年復興成った東京駅(中央停車場)、それに見果てぬ夢となった国会議事堂である。日銀本店は政府トップの意向でコンドルに傾いているが、金吾は臨時建設局長の山尾庸三に直訴、総理伊藤博文を巻き込んで逆転受注する(この時工部省は廃省となっており、工科大学教授兼辰野建築事務所主宰)。決め手は「コンドルの設計は古い!」であり、そのルネサンス方式を批判し、ドイツで起こったバロック方式を提案する。この日銀本館建設に絡むのが高橋是清、総責任者だった金吾は人やカネの扱いが苦手、見かねた当時の総裁川田小一郎は事務主任に高橋是清を起用する。本館完成後遥か後のことだが、是清は日銀総裁となる。
東京駅の話は達蔵からもたらされる。達蔵は工部省や海軍省に勤務後三菱合資に入りコンドルと伴に、“三菱が原”の開発計画に取り組んでいる中で、極秘情報の中央停車場(ステーション)建設を聞きつけ、三菱バックでそれを受けるよう要請する。「何故君がやらないんだ!」と金吾は問うが、達蔵はその問いをはぐらかし、金吾はそれを受けることになる。丸の内のレンガ街は小ロンドンと称せられ、東京駅もそれに合わせるように、外壁はレンガ様式を採用する(地震を想定し内部構造は複雑なものになり、それで工期が延びる)。竣工は大正4年。完成を待ち望んでいた明治天皇は3年前に崩御、金吾の痛恨事となる。
次にやってきた大仕事が議事堂建設。それまでにも2回検討され辰野案が採用されるが、藩閥政治の下議会そのものの在り方が先決でなかなか予算がつかない。3回目は一般公募方式にするが、これを司るのは大蔵省議院建築調査員会、その会長に就くと4人の調査員はすべて息のかかった者で固める。赫々たる実績、東京帝国大学工科大学学長、日本建築学会会長の金吾に逆らうものはいない。「これで議事堂は俺のもの」となるが、好事魔多し、1919年世界規模で大流行したスペイン風邪で3月25日急逝する。享年65歳。看取るものの中に曾禰達蔵が居た。
全体にシリアスな場面が多いのだが、何故か読後感は明るい。最大の理由は、頑張り屋、無邪気、強引・傲慢、単純・淡白などを連想させる金吾の性格・人柄が、真実かどうかは別にして、上手く描かれているからだろう。直木賞受賞作家が工学分野を題材に書くことは珍しい。その点からも楽しく読める作品であった。物足りないのは建築物への言及で、縷々書いてはいるが工事中心で、デザインへの深さを欠く。まあ一般向けの小説としてはそれも分かるが・・・。
蛇足;主人公周辺の実在人物。辰野隆(長男;東大教授(フランス文学))、辰野保(次男:弁護士、東大時代陸上選手として活躍、1936年東京オリンピック招致委員、40歳代に病死)、鈴木梅太郎(長女須磨子の夫;東大教授(ビタミンの発見者))。曾禰達蔵;妻は高橋是清の実妹、三男の曾禰益は外交官で戦後は民社党代議士、妻は五島慶太の一人娘。
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