<今月読んだ本>
1)地名の世界地図(21世紀研究会);文藝春秋社(新書)
2)Most Secret War(R.V.Johns);Penguin(WWⅡCollection)
3)工学部ヒラノ教授のウィーン一人暮らしの報酬(今野浩);青土社
4)ブロ―クン・ブリティンに聞け(ブレイディ・みかこ);講談社
<愚評昧説>
1)地名の世界地図
-言語、自然、歴史を駆使しての地名探訪。雑学知識の宝庫だ-
高校の社会科は、一年次は「一般社会」が必須。法律や行政など当時の社会体系理解を目的とする内容だが、全く興味が持てず何を学んだかほとんど記憶にない。二年生以降は「日本史」「世界史」「人文地理」三教科の中から二科目選ぶことになるので、二年で「世界史」、三年で「人文地理」を選択、受験もこの二つで臨んだ。先月の本欄“中国の行動原理”の導入部でも書いたように「世界史」は好きだったし社会に出てから随分役に立った。それに劣らないのが「人文地理」である。仕事で国内外に出張した時、何気ない会話の中で、昔学んだその土地に関する片々がフッと蘇り、それを話題にすると相手との距離が一気に縮まる。地名は苗字と並び商談開始の絶好の前菜である。カナダのある会議で、ウィニペグ出身者が居たので「訪れたことはありませんが、あそこは確か穀物、特に小麦の集散地ですね」とやったところ「何故そんなことを知っているんだ?」と問われたので「地理の授業で出てきたんですが、試験で間違え罰点を貰ったからですよ」と返し、硬い雰囲気が融けた思い出などその一例である。
題名にあるように全世界をなめる。無論すべての地名などカバーできるわけはない。アジア、ヨーロッパ、南北アメリカのように、概ね今日の世界地域区分に従うが、ゲルマン民族大移動や大航海時代あるいは中国史における版図変遷のような時代区分も加味しているから、それぞれの章が単調でなく、最後まで興味が持続できる。当然と言えば当然なのだが、地名は自然と表裏一体なものが圧倒的に多く、それを土地々々の言葉で自然あるいはその特色で表現するだけで出来上がっているものが多い。例えば、メソポタミアは;古代ギリシャ語でメソス(mesos)=“間”、ポタモス(potamos)=“川”からきている。二つの大河、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地帯だからそうなったのだ。ヒマラヤはサンスクリット語のヒマ(雪)とアラヤ(居場所)の合成。サハラはアラビア語で砂漠そのもの、サハラ砂漠は実はおかしいのだ。ポーランドの起源は古スラブ語のポーレ(平地の人々)に由来する。
世界を対象にするので日本は出てこない。しかし、序章“外国地名との出会い”では1862年(文久元年)遣欧使節の一員だった福澤諭吉が1869年(明治2年)著し、彼の著書で最も読まれたと言う「世界国盡(くにづくし)」の概要紹介があり、当時の日本人の外国への関心と知識を知ることができて面白い。また約100頁におよぶ大索引“国名・首都名(米国、加は州名・州都まで)でわかった地名の五千年史”ではJapanの起源を簡潔に述べている。それによれば、「日出る国」を福建語ではジペンクオ(jih-pen-kuo)と発音し、kuoは国なので省略され“ジーペン”と言っていたのをマルコポーロが“Zipang”と「東方見聞録」に記したことでJapanになったとある。
もう私にはあまり利用価値は無さそうだが、雑学知識満載、これから外国人との交流を望む若い人、ビジネスで外国人と接触する機会の多い人あるいは海外旅行を楽しみたい人には、大いに役立ちそうだ。最も評価するのは、多数ある地図と写真がすべてカラーであることだ。新書でこれは貴重だし、一段と理解の助けになる。
著者は複数の研究者から成る。古今東西の言語体系(ここの部分の博識に感服する)や歴史、自然、民族から探っていくのだから、大変な作業があったと予想される、日本人だけの独自研究なのだろうか?それとも海外にこの種の文献があり、それを参照あるいは引用してまとめ上げたものなのだろうか?それが一切記述されていないのは残念だ。
2)Most Secret War
-英独航空戦に勝利をもたらした、世界初の科学者諜報員による欧州科学戦回想録-
先月「Hitler’s Scientists」の紹介にも書いたように、現在某IT企業のホームページに「軍事技術史に学ぶICT活用法」なる記事を連載中で、その最終回は「戦時における国家指導者・軍トップと科学者の関係」、そのための参考書として英国から取り寄せた。初版発行は1978年、特殊な分野ゆえ、新品が有るかどうか気になったが、届いたのは2009年版で、その息の長いことに驚かされた。特殊な分野とは“軍事科学技術諜報”である。軍事と諜報は不可分で、歴史もあるしいずれの国家にもしっかりした担当組織がある。MI-6(英)、KGB(ソ)、CIA(米)はよく知られたところだ。しかし“科学技術諜報”専門となると、この時代には皆無だったし、現在でも科学者が専門諜報員として活動する話は聞いたことがない。著者はその道の第一人者と英米に認められており、注意深く欧州技術戦史を読むと、しばしば目にすることになる隠れた著名人。本書は戦後30余年(機密保持期間)を経て世に出たその回想録である。またBBC「The Secret War」シリーズとしてTV放映もされている。
著者レジナルドV ジョーンズは1911年生れ。オックスフォード大学で物理学を学び1934年に博士号取得、1936年航空省(空軍もこの省に属する)管轄の王立航空研究所(通称ファンボロー)で航空機赤外線検知の研究に当たっていたが、第二次世界大戦直後の9月航空省諜報部科学担当副部長に就く。副部長とはいても部長や他のメンバーは軍人や行政官が主体で科学者はゼロ、当初は部下無しでスタートする。課題に応じて適宜協力者を求めるが、それらは空軍参謀本部員、実戦部隊(特に偵察)の指揮官、通信部隊員、研究所員、MI-6(海外諜報部、形の上では外務省管轄だが独立性が高い)局員、さらには政府直轄の暗号解読機関(プリッチリーパーク;コンピュータ/AI生みの親アラン・チューリングも所属)職員、時には陸海軍の諜報機関や両省科学顧問(複数レベルに存在)も調査・分析に加わる。また、直属上長ではないが、チャーチル(海相→首相)の科学顧問フレデリック・リンデマン、航空省科学技術顧問で防空科学調査委員会(通称ティザード委員会)委員長ヘンリー・ティザード(インペリアルカレッジ学長兼務)が彼の仕事に深く関わる。リンデマンはオックスフォート大学クラレンドン物理学研究所長、著者とは師弟関係、ティザードは航空省科学顧問(中将待遇)なので、専門領域では密接な関係にある。本書の面白さは、新兵器に関する諜報活動や技術ばかりではなく、情報の評価や対抗策を巡る関係者の言動や人間関係に触れるところにある。特に、防空政策に関するチャーチルとリンデマン対ティザードの主導権戦い、その間に挟まる著者の微妙な立場は、時に小説もどきのシーンを醸し出す。リンデマン(ドイツ人だが幼少時一家は英国に移住。中学からドイツに戻って大学まで進む。この間国籍を英国に移している)とティザード(オックスフォード卒業後国費留学生として渡独)は同年齢、ベルリン大学で知り合い親友になる。第一次世界大戦後オックスフォードに戻ったティザードの斡旋でリンデマンはクラレンドン物理学研究所に職を得るほどの仲だったが、著者が航空省で活動を始める頃、両者は“Bitter Enemy(不倶戴天の敵)”となっているのだ。
さて科学諜報戦である。本書は2部構成、Part1が守り、Part2が攻め、かつ概ね時間の流れでもある。開戦から8カ月両陣営は宣戦布告したものの陸戦は無く、Uボート戦を除けば、“まやかしの戦争(Phony War)”と言われる状態にある。空軍も機雷敷設、示威偵察的な爆撃や宣伝ビラの散布程度。こんな状況下オスロ駐在英海軍武官の郵便受けに怪文書が投函される。そこにはドイツで開発中の新兵器(珍兵器;現実離れしている原爆や弾道弾情報を含む)がコメント付きで列記してあり、海軍を始め各軍諜報部、MI-6に回示されるが、いずれも「これはいたずらか欺瞞工作」とまともに取り合わない。しかし、著者はここに記された
“航空機電波誘導装置(略称ビーム)”に惹きつけられ、多くが反対する中(例えは、地球の円弧を考慮すればドイツ本土から英国まで電波を高精度で飛ばすのは不可能と考えられた)、調査を開始する。Part1のほとんどはこのビームに関するもので、英独航空戦(Battle of Britain;1940年秋開始)開始前は、存在の有無、電波に関する技術調査、誘導方法推定。作戦開始後は、誘導基地および爆撃機基地の特定、使用電波探査、作戦暗号解読、誘導電波妨害・欺瞞策の検討・実施、爆撃実績の解析(特に誘導精度)、などが行われ、活動内容や結果が写真や図でくわしく説明される。
科学諜報活動の詳細以上に興味深いのは、諜報分析に関する政軍意思決定者の言動だ。圧巻は1940年6月21日首相官邸で開かれたビームに関する会議の場面である。著者は、噂は聞いていたものの自分が呼び出されるとは考えてもいなかったが、前日それへの出席を求められる。チャーチル首相は就任したばかり(6月10日)、三軍の大臣・参謀長、それにリンデマン、ティザード、レーダー開発の中心人物ワトソン・ワット博士とトップクラスの科学者もそろっている。大物たちがチャーチルに促されて発言をするがビーム誘導の有無・有効性に懐疑的な意見ばかり、終盤近くチャーチルは「ジョーンズ博士どうかね?」と著者に発言を求める。28歳の若輩は一瞬逡巡するが、それまでの調査結果を踏まえ「ビームは存在します」と答えると、チャーチルは参加者全員に向かい「何をすべきか?何が出来るか?直ちに検討するように」と締めくくる。それまで孤軍奮闘してきたジョーンズの苦労を知る者(読者)にとって涙が出るほど感動的なシーンだ。
Part2の前半では英独航空戦におけるビームの具体的な適用方法とその阻止策、爆撃被害の分析が解説され、諜報の成果を明らかにする。Part2後半は、ドイツ防空システムであるカンフーバー(防空司令官の名前)ラインの調査、それへ対抗策(特に地上レーダー妨害、独夜間戦闘機の無線電話・機載レーダー妨害)、V-1、V-2ロケットの調査や対抗策・発射基地特定・攻撃、さらに独原爆開発状況調査(実際にはほとんど進んでいなかった。ノルウェーの重水工場は原爆開発ではなく原子炉開発のためのものだった。英軍による破壊工作は失敗、ノルウェーのレジスタンスによって機能停止となる)、に割かれる。いずれの調査・対抗策もPart1同様「科学者ゆえにここまでできた」と思わせる内容、「さすが諜報戦に長けた英国!」が読後感である。
著者は戦後アバディーン大学物理学教授に転ずるが、それには何段階かの審査があり、チャーチルは本人には知らせず、直接大学を訪ね彼を推挙する。また、1946年バス勲章(3級;サーの称号)を授け、戦時中の功を称えている。因みに、リンデマンは男爵位(チャーウェル卿)、ティザードは一代男爵に叙せられ、英国の勝利に科学者が果たした役割が極めて高く評価されたことがうかがえる。
蛇足;題名がMost(最上級)で始まるのにTheがつかない。著者による断り書きがあった。当時の極秘文書に押されるスタンプが“MOST SECRET”だったから、と。
3)工学部ヒラノ教授のウィーン一人暮らしの報酬
-傘寿にして毎日5時間の執筆活動、その筆力を萌芽させたウィーンの一人暮らし-
今年のプロ野球日本シリーズはソフトバンク(SB)が巨人戦を無敗で制し3連覇、大喜びした。古くからのベイスターズファンでSBに特に関心はないが、球団会長が同世代の王貞治(私は1939年生れ、王は1940年)だからである。高校時代「(学区内の)厩橋に凄い奴が居る」とのうわさを聞き、のちにそれが王だと知った。爾来王がホームランを打ち、巨人が負ける試合が一番と言う、かなりひねくれた王ファンになり今日にいたる。
この歳になると、かつて活躍していた同年輩著名人の消息・動向が大いに気になる。大方は「彼(彼女)も逝ったか!」が常態する中で(これを書いている時1938年生まれのなかにし礼が急逝した)、王が率いる球団の天下取りがどれだけ活力を与えてくれたか、「彼が頑張っているなら、俺ももう少し」とカンフル剤を打たれた気分である(国民に何ら希望を与えられない首相とステーキハウスで会食したのはマズかったが)。王が体力なら、知力はこの人、助教授時代からの知人ヒラノ教授(1940年生れ、東工大名誉教授、数理工学の国際A級学者で我が国金融工学の開祖)である。そして二人に共通するのは世界に冠たる実績と気力。体力・知力と実績では到底両氏におよばないものの、何とか気力だけは遅れまい、そんな気分で本書を読み始めた。
工学部ヒラノ教授シリーズも20巻に近く、最近は“終活大作戦”、“徘徊老人日記”と来たから、ぼつぼつこのシリーズも“終わりに近く”とか“さよなら ヒラノ教授”かと思っていたら、何と30歳代半ばの話である。「年寄りは昔話ばかりする」との陰口も聞かれそうだが、私にとっては格好の回春剤であった(実際そんな艶めかしい話も出てくる)。それもかつて花の巴里と艶を競ったウィーンが舞台である。
国際応用システム分析研究所(International Institute for
Applied System Analysis;IIASA)は1972年冷戦の緊張を緩和する目的で、米ソが中心になり設立された、エネルギー問題、人口問題、環境問題、国際河川問題など、世界規模の複雑な問題を、当時の最新手法である「システム分析」を用いて解明する研究機関である。発足メンバーは、米ソの他、西側は英・仏・西独・伊・加・オランダ・日本の7カ国、東側は、東独・ポーランド・ハンガリー・チェコスロバキア・ブルガリア・ルーマニア・ユーゴースラヴィアの7カ国。年間負担額は米ソがそれぞれ100万ドル、他のメンバーは10万ドルである。所在地はウィーン郊外、元王宮(マリア・テレジア女王の夏の居城であったが荒れ果てていたのを改修中)が使われている。教授(実際は筑波大学の末席助教授、従って研究所の処遇は准教授扱い)が派遣されたとき(1974年、75年半年間ずつ計1年)の所長はハーバード大学ハワード・ライファ教授、意思決定手法の泰斗である。
IIASAの日本での管轄は旧通産省、その下にIIASA日本委員会があり、委員はそれなりの経歴を持つ古参大学教授、そのおメガネに適った若手が派遣される。つまりここに委員間の覇権争いがあり、派遣された者の間にもそれが反映する。しかし、ヒラノ教授はそれとは別枠、スタンフォード大学時代の恩師がエネルギー関係のプロジェクトリーダーとして在籍しており、所長枠で招聘されるのだ。激戦を制した他の研究員との違いは、微妙な人間関係を生むことになる。また、夏休みを利用して開催されるセミナーやシンポジウム参加で来訪をする大先生達の対応もそれなりの気遣いが要る。海外における狭い世界だけに、反って国内のドロドロした面が濃厚になるのだ。シリーズの面白味の一つはそれが実名で語られる点、今回も面識ある某大学制御工学大物教授(故人)の知られざる一面を、たっぷり教えられた。
2回に分けられた初回は夫人と小学生二人を連れての家族参加、それによる苦労も多々あるが、ここで教授はホームランを打つ。将来の世界エネルギー供給検討用巨大モデルの計算速度を飛躍的に高める解法を案出、プロジェクトの危機を救って男を上げたのだ。2回目の今回は単身赴任、研究活動に特定テーマはなく、ライファ所長がまとめた大著の原稿チェックとそこからいくつかの研究材料を発掘するのが主務。比較的時間に余裕があるのは良いが、一人暮らしは家族持ちとは異なる悩みをあれこれ派生させる。食事、病気、情報不足そして性的欲望。教授はこれら難題にどう取り組んだか?これが開陳されるのだ。本書が回春剤ならスポットライトを当てるのは最後の悩みだろう。
ウィーンで久しぶりに再会する同僚研究者夫妻、教授が若い頃一度だけ会ったデボラ・カー(この名を知るのはかなりの高齢者)を彷彿とさせる美しい妻とオペラにはまったく無関心な夫と言う組合せ。夫人の要望でオペラ観劇を企図するが、亭主は子守もあり教授に妻のエスコートを任せる。出し物は“椿姫”、初めてのウィーンオペラに感激した夫人に「次回も」と教授が誘う。今度はオペレッタの“メリー・ウィドー(陽気な未亡人)”、中年男のラブロマンス、教授の頭に“不倫”の文字がよぎり、はねたあと自宅に誘うが・・・。60歳代後半、娘同伴の老いた元同僚とオペレッタ観劇の場でバッタリ遭遇する。演題はあの“メリー・ウィドー”、だがデボラは既に亡く、教授の愛妻は寝たきりの難病、誰もメリーな状態にはない。しかし、娘は芸大で学び今は藤原歌劇団に所属する声楽家、「母から先生のことはよく聞かされていました」と一言、何かホッとする一幕である。
一流の学者達との交流とそこから生じたその後の研究推進のチャンスやヒントあるいは知名度アップ、大物打者の指標がホームランなら、学者のそれは評価の高い論文の数、研究仲間からレフリー付き論文量産の要領を学び、やがて実践する。これらが学者としての報酬ならば、半年間家族と離れた生活にも収穫はあった。
単身赴任の最大の理由は子供の教育問題だが、年俸約2万ドル(当時の為替レートは290円/$)を出来るだけ節約し住宅ローンの返済に充てる目論見もある。これで150万円ほどが手元に残り、石油危機後の俸給アップもあって期間短縮に大いに寄与する。これが第一の報酬。
独り身の辛さを癒すため、出発前愛妻に「一行で良いから毎日手紙を書いてくれ」と哀願し、当然教授もそれに応えるため、子供を含め家族全員が読んでくれそうな記事をせっせと送り続ける。第二の報酬は、そこで培った筆力、それが70歳定年後シリーズを含め20冊を超える著作(教授言うところのセミフィクション)執筆に生きることになる。傘寿を迎えた独居老人が、今でも「一日5時間以上の原稿書き」を日課に出来ているのはこの時体得した根気と気力の賜物だ。文字通り“老いて益々盛ん”、この気力こそ私が本書から得た最大の報酬である。
現役バリバリの研究者が国際社会で如何に戦っているかを知るような出版物はあまり見かけない。この時代日本は既に豊かになっていたが、人々はまだハングリー精神旺盛だった、我が国の科学技術力が問われる今、Japan as No.1再現のためにも広く読まれていい本だ。
4)ブロ―クン・ブリティンに聞け
-滞英26年、庶民生活の中で研ぎ澄まされた感性で描く、英国ナウ!-
2007年45年続けたビジネスマン人生を終え、念願だった「OR(Operational Research;応用数学の一分野)歴史研究」のため渡英した。期間は半年、滞在先はランカスター大学。それまでにEU加盟国では、ギリシャ、オランダ、ハンガリー、一晩だけだがドイツにも入国していたが、英国は初めての訪問である。大学から客員研究員として正式の招聘状を貰っていたが、東京の英国領事館は公的研究機関の研究員あるいは大学教員の経験がないことを理由に研究員ビザを発給してくれず、仕方なく大学の許可を得た上観光ビザで入国した。その際入出国管理官(女性)から「出たり入ったりはダメよ!」とくぎを刺され、EUとの違いをはっきり自覚させられた。通貨単位はユーロではなくポンド(ペンス)。TVでしばしば報じられる東欧移民への反発。指導教授は欧州議会や当時まだ制定されていなかった欧州大統領に国政を委ねることに絶対反対。より強固に統一されたEU実現を望む雰囲気は感じられなかった。そして2016年の国民投票に依るブレグジット、「やっぱり」が率直なところだった。今月24日、英・EU間の新FTAは合意されたが、英国の先行きはまだはっきりとは見えてこない。現地の一般大衆はブレグジットをどう見ているのか?それを知りたく本書を購入した。
関連図書が溢れる中で本書を選んだのは、読んではいないのだが、既刊「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が本屋大賞を受賞し、書評を通じて著者がロアー・ミドルないしは労働者階級の事情に通じている人との印象を受け、最近は知識人や大新聞より信じられると思ったからである。
著者は1965年生れ、音楽愛好者(パンクミュージック)で高校卒業後アルバイトをしながら何度も渡英、1996年から英国ブライトン(ロンドン南方のリゾート都市)に居住、保育士、ライター、コラムニストを生業としている。本書の中でご亭主はダンプの運転手として登場、本屋大賞受賞作品は自身の子供(混血児)を題材にしたものである。
本書は講談社発行の文芸誌「群像」に連載された時事エッセイをまとめたもの、期間は2018年3月号から2020年9号まで、彼の地の最新情報32話から成る。“出羽の守(英国では)”調な日英比較などほとんどなく、足が地に着いた現地情報が、ややシニカルな視点からピッシッと伝わってくる筆致が小気味良い。英国人の得意とするユーモアとアイロニーの絶妙なバランス、これはそこに長く居た人でなければ難しいだろう。ただ現地の音楽・映画・TV情報を題材にしたものは登場人物や作品に馴染みのない私には、意味合いが充分理解できず、チョッとイラついた(分かっている人にはたいそう面白い言い回しと推察できるだけに)。「群像」の読者はどうだったのだろう?
連載エッセイと言っても一話一話は基本的に独立したテーマだ。共通しているのは“今そこに在る英国の身近な社会問題”である。そして日本人に伝えようとしているメッセージは、「典型的な伝統保守の国が大きく変貌しつつある」(ブロークン・ブリティン)と言うことである。俎上に上げられた材料は、ブレグジット、スコット独立問題から、政党・政治活動(保守党、労働党、右派、左派;立ち位置が錯綜)、王室問題(批判の多さ、政治利用)、国家財政(長期緊縮財政策を問題視)、報道姿勢(一貫性の無さ;英国の新聞は支持政党、読者が比較的に明確に分かれており、それに沿った主張・論調だったが、これが不明確になってきている)、学校教育、人種差別、保育園経営、コメディアンの変質(特に政治漫談)、生理貧困(貧しい家庭の高校生が生理用品を買えないことで休校する話から、これが社会運動化している話;「生理貧困、ミートゥー」運動)、そして最新のコロナ対策まで多種多様だ。
これらの説明にしばしば適用されるのが二項対立とそれに対する批判である。保守党と労働党、親EUと反EU、富裕層と貧困層、移民と反移民、ホワイトカラーとブルーカラーなどがそれらだが、ブルーカラーは貧困で反移民、反EU、労働党支持などと言うステロタイプの見方が如何に現状認識を欠いているかを、具体例で示していく。例えば、政治的偏見是正運動(Political Correctness;PC)の対象の一つLGBT問題;これに寛容なのはリベラルで教育程度が高いホワイトカラー、反対するのは保守的で教育程度の低いブルーカラー、と言うような括りがされがちだが、小学校でLGBTを教えることに強硬に反対しているのは、保守党支持者や厳格な英国国教徒ではなく、知識階級に属するイスラム教徒だったりする。これには著者も意表を突かれたようだ。
浅薄な大メディアより、著者の“地べた(頻繁に使われる)”情報の方がはるかに親近感・信頼感がある。続編シリーズ化でブレグジット後の英国を知りたい。それが読後感である。
<本年総括>
・巻数;78
・年間ベスト・スリー(歴月順)
1)宇宙の地政学(上、下)(-141;4月):軍事優位を左右するサイバーと宇宙
2)激甚気象はなぜ起こる(-144;7月):我が国激甚災害と地球温暖化
3)仮想通貨vs中央銀行(-148;11月):国家主権を脅かす仮想通貨
次点;アインシュタインの戦争(-147;10月):相対論認知への戦い
(写真はクリックすると拡大します)
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