<今月読んだ本>
1)自動車新常態(中西孝樹);日本経済新聞出版
2)淀川長治映画ベスト10+α(淀川長治);河出書房(文庫)
3)戦時リーダーシップ論(アンドルー・ロバーツ);白水社
4)デジタル化する新興国(伊藤亜聖);中央公論新社(新書)
5)砂戦争(石弘之);KADOKAWA(新書)
<愚評昧説>
1)自動車新常態
-自動車本体はそのまま、ソフトのヴァージョンアップで最新型に!どうなる今の自動車会社?-
昨年2月に運転免許証を返納してから1年を経た。誕生時父が自動車会社に勤めていたこともあり、記憶にない時代からの自動車ファン(両親の話)、卒論も「ガソリンエンジンの調速(回転数制御)」、この時(1961年)使ったエンジンは日産が英国オースチン社の乗用車を国産化(のちにセドリックに発展)するに当たり彼の地から導入、テストで酷使され、廃棄処分になったもの。動かすのに苦労させられたが、中古部品を漁って何とか実験に使えるようにした。研究テーマはエンジン回転数の自動制御(次の段階は速度制御)だが制御装置はとてもクルマに載せられるようなものではなく、今のエンジンが化学プラント並みの複雑な制御システムを組み込んで走っているのは夢の世界だ(研究テーマ構想はそこまであったが)。それがさらにハイブリッドエンジン(HV)、水素エンジン、燃料電池、電気(EV)と多様化、動力源が変わるばかりでなく、自動運転やインターネット接続、保有・利用形態の変化(シェアリング)と進み、60年前の夢の遥か先を行っている。クルマや免許証が無くなっても、「三つ子の魂百まで」、自動車への関心は失せない。これからの自動車・自動車業界を知りたく、本書を手に取った。
CASE;Connected、Autonomous、Shared & Service、Electric;がキーワード、Cはインターネット・スマホ・GPSなど外部との接続、Aは自動運転、Sは共同保有・利用、Eは電気。これにコロナによる生活や仕事の環境変化が加わり、“新常態(ニューノーマル)”が出現する。この変化に対して既存の社会から自動車業界までどんな影響が出てくるかを、著者の分析・予測を基に論じるのが本書の要旨である。
直近のコロナ禍と自動車産業・利用形態のマクロ分析では、「短期的には落ち込みも激しいが回復も早い」と見ており、米中(特に中国)の回復力でそれを示す。しかしミクロ(個別企業や車種)では格差が高まり、レンタカー会社ハーツの倒産を例に、移動量の減少と共同利用することへの不安が恒常化する可能性を示唆する。この余波はレンタカー会社への販売が大きいフォードやウーバーのようなシェアリング・サービスの経営を圧迫している。またリモートワークの定着もクルマ需要を減ずる可能性がある。一方で共同利用・公共交通への抵抗感は個人用車両の販売に伸びる余地を与える因子でもある。
技術的な視点で個人的に興味を惹かれたのは二点。第一はCである。Cを欠けばAもSも実現不可だから、ここは最重要だ。注目すべきは、ごく最近トヨタ・日産も打ちだしたハード、ソフトの価格分離策である。既にこの分野ではテスラが先行、PCのOS同様、最新ソフトに有料でヴァージョンアップが可能なのだ。PC本体の製造者より(いくらでもコピー可能な)OSで儲けるマイクロソフトと同じビジネスモデルに近づいている(現段階ではMaC同様ハード、ソフト一体ではあるが)。ハードメーカー(自動車製造者)が、大量に普及し優れた自動車用OSを他社から購入・装備し、あとはユーザーが状況に応じてヴァージョンアップする時代が来る予感さえする。第二はE、自動車会社の電池メーカーへの変身である。動力の心臓部モーター生産に比べ電池はまだまだ改良の余地がある。電池生産を他社(電池メーカー)に任せるよりは、自動車会社が自社開発・生産をと考えるのは自然な流れ、その兆しはテスラなどに表れている。
ニューノーマルの事態に日本の自動車メーカーは生き残れるのか?著者は明示していないものの、トヨタにその期待を託しているように読めた。“がんばれトヨタ!”
著者は米国の大学を卒業後現地の日系証券会社に勤務、自動車エコノミストに転じた人。独自のデータ収集・分析は説得力がある。
2)淀川長治映画ベスト10+α
-淀川節で語る1948年から1997年までの洋画ベスト10、一覧表に近いがそれでも映画評論のエキス-
社会人になるまで、自己紹介欄に“趣味”とあると“映画鑑賞”と必ず記入していた。その他は読書・水泳・模型製作、免許証を取ってからは自動車運転である。しかし、振り返ってみれば、映画は面白いから観るだけで“鑑賞”と言うほどの深みではない。それも1950年~60年代に集中。当時映画雑誌など読むことは無かったから、評論の世界など知る由もない。著者の名前は週刊誌などの映画評で知ってはいたものの、特に関心は無く、頻繁に見かけるようになったのは所帯を持ってTV番組の「日曜映画劇場」を観るようになってからである。しかし、TV映画解説ではメリハリのある「月曜洋画劇場」の荻昌弘の方が好きだった。淀川は何かなよなよした感じで、あまり良い印象はない。だから、映画エッセイは小林信彦、池波正太郎など結構読んでいたものの、この人の作品に目を通したことはなかった。
読書傾向が極端にノンフィクション偏っているため、時々「軽い本が読みたいな~」と思う。映画・エッセイをキーに検索で見つけたのが本書、「何のベスト10かな?」と思ったものの、中身のチェックもせずAmazonに発注した。
通常の映画エッセイは、あらすじ、脚本・監督の演出、役者の演技、カメラや考証、それにエピソードなどを加えて構成されるが、本書はそれらとは全く異なる。最初の1/3ほどは「キネマ旬報」「映画の友」に1948年から1997年にかけて毎年著者が選んできた年度ベスト10のリスト(一部邦画ベスト10が加わるが、全体として洋画)と、選考に関する簡単な留意点(「この作品も落とし難かったが・・・」と言うような)。この章は単純に計算すれば500本(50年×10本)になり、私が観たものはその内55本、それも50~60年代に著しく偏っている。全体として「そんな映画あったな~」を含めても半分程度しか知ったものはない。
続いて1976年~1985年「シネアルバム」に記載した“私のベスト5”(先のベスト10ダブるもの多し)。これは半頁から1頁の短評が入るので、やや読みでがある。ここまでで全体の約半分。あとは+αとして、“日本映画史上ベスト3”、“外国映画史上ベスト5”から“世界の女優ベスト10(私が見たことのあるのはマレーネ・ディトリッヒ(独)、キャサリン・ヘップバーン(米)、アンナ・マニャーナ(伊)、ジャンヌ・モロー(仏)、オードリー・ヘップバーン(蘭・米)、シモーニュ・シニョレ(仏)の5人、11位に京マチ子、田中絹代と続く)”、“ヴァンプ映画厳選55本-銀幕100年の悪女たち”(ここも一部に寸評があるだけでリスト形式)まで、様々なベストXとそれらに関する批評やコメント、いずれも映画雑誌や週刊誌に掲載された記事である。一覧表を眺めながら、遠い昔を思い起こす回春効果がこの部分の価値、と言ったところであった。
唯一異なる形式は最終章の“1980年代「洋画ベスト50」はこれだ!”で東大総長も務めた蓮見重彦との対談がある。両者の好みや評点が異なり、「映画の何を観ているか」が浮き彫りされて映画の楽しみ方の幅が広がった。二人ともオリヴァー・ストーンやスティーヴン・スピルバーグに対し後の作品ほど厳しい評価をしている(スピルバーグ大嫌い、「シンドラーのリスト」をあざとい作品徹底批判)。つまり、興業性(金儲け)や反体制・反戦を意識し過ぎていると見透かしている。例えば、「ディアー・ハンター」(1978年、マイケル・チミノ監督、アカデミー(AC)監督賞・作品賞)、「プラトーン」(1986年、オリヴァー・ストーン監督、AC監督賞/作品賞)、「7月4日に生まれて」(1989年、ストーン監督、AC監督賞)のいずれもヴェトナム戦争作品を並べ、両者ともストーンの作品に「強い反戦色以外伝わるものはなかった」と断じている。いずれの作品も観ているので、この評に共感を覚えた。これとも関連して、淀川は特にヴェトナム戦争以降のハリウッド映画凋落をたびたび話題にしているが(欧州や香港・台湾映画の相対的優位)、それもよく理解できる。とにかく今に至るも“こけおどし(金力、映像、音響など)作品が多い!
著者は1998年11月に亡くなっており(89歳)、1997年のベスト10まで本書に記載されていることから、死の直前まで執筆活動を行っていたと推察されえる。それ以前の著作に「淀川長治映画ベスト1000」があることから、膨大な数の映画を観てきたことは確かだ。構成がほとんど一覧表に近いものの、短評・コメントの中に、その知見が濃縮され「さすが!」の感は読む物に伝わって、気分転換の書としては、それなりに効果的だった。
3)戦時リーダーシップ論
-ナポレオンからサッチャーまで9人の戦時リーダーを棚卸し、コロナ禍は平時か?戦時か?コロナ戦のリーダーは誰か?-
専門職グループ・ヘッド、係長と始まり、関係会社を含め課長・部長も務め、最後は親会社を退職して、小規模(300人強)ながら独立色の強い子会社の代表取締役まで、一通り管理職・経営職を経験した。どの段階でも常に問われたのはリーダーとしての資質と言動である。体系化された管理職研修(1週間を期間を数カ月置いて2回)はあったものの、基本は先輩を見習いながらのOJT(On the Job Training)と各種ビジネス書や史書・伝記による自己研鑽でなんとか職務を全うした。この間、課長段階くらいから分かってきたことは、伝統的組織(製造、営業、経理、人事など)とプロジェクトチーム(大規模な工場建設からITによる業務改革まで)管理の違い、さらにはプロジェクトでも経営計画の中で準備が練られたものと突発的な経営環境変化(石油危機、事故など)に即応する業務推進管理の違いである。伝統的組織の管理は長い歴史の中に確り出来上がった方式があり、その分野で経験を積みバランスのとれた人材ならば務まる。一方経営計画の中で認められたプロジェクトはメンバーの目指す方向・課題が明確で士気も維持しやすく、カネとスケジュール管理に注力していれば責務を果たせる。一番厄介なのが突発的経営環境変化に対応する場合である。伝統的組織運用は通用せず、目標が周知のプロジェクト推進とも異なる臨機応変が求められる。前二者が“平時”ならばこれは“有事”と言えるだろう。この有事こそリーダーの資質が最も影響する事態なのだ。対処すべき問題の大きさに差があること承知の上で、コロナ禍に対する政府首脳の立居振舞と歴史に残るリーダーたちの比較を試みようと、本書を手に取った。
本欄-148(2020年11月)で紹介した“嫌われ者のリーダー論”同様、歴史上著名な人物を選び、その行動や資質に言及して共通因子を探る点は同じである。前書の著者が日本人のフランス文学者であったことから、そこで選ばれた5人の内3人はフランス人(ド・ゴール、オスマン、リシュリュー)であった(残りの二人は蒋経国と徳川慶喜)。今回の著者は英国の歴史学者、取り上げられたのは、ナポレオン、ネルソン、チャーチル、ヒトラー、スターリン、マーシャル、ド・ゴール、アイゼンハワー、サッチャーの9人、英国人が3人と最も多い。両書に共通するのはド・ゴールのみ、彼がリーダーを論ずる際の好題材であることが窺える。また、前書は“嫌われ者”と題しながら後世高い評価を得た人物ばかりであったのに対し、本書ではヒトラー、スターリンが悪しきリーダーとして語られる。つまり、「善し悪しは別にして」力のあるリーダーにはそれを超える共通性がある、と言う考え方に基づいてまとめられている。また、前書との違いは、論点を“戦争”に絞り込んでいる点にも見ることができる。アイゼンハワーでは第二次世界大戦のみならず第一次世界大戦にも言及する一方、ネルソンではナポレオン戦争、サッチャーはフォークランド戦争で指導者像をクローズアップ、戦時の言動は結果がはっきり出ることから、“有事を歴史に学ぶ”には分かり易い書き方になっている。
本書はいくつもの講演録を基に書かれているので、優れた戦時リーダー要件がきちんと整理され、まとめられているわけではないが、私なりに惹きつけられた言葉を、軽重順不同で書き出してみると;・強い自己信頼感(場合によってうぬぼれ)、・若い頃歴史と伝記を読みこんでいる(スターリンを除く)、・集中力と仕事の虫(ヒトラーは怠惰)、・計画は(ことが起こった後は)価値がない、・優れた文書管理システムを持つ(特にナポレオン、チャーチル)、・同胞が敵より優れていると言う絶対的な信念(ヒトラーは自国民を信じていなかった)、・(上流階級出身者であっても)一般兵士、市民の心理をよく理解できる、・雄弁は不可欠ではない(ナポレオンは演説下手だが直接兵士に話しかけた)、・非情な行為は戦時リーダーシップの本質的要素(時には恐怖を吹き込む)、・政治に対する第六感を有する、などがあげられる。
登場するのはすでに多くの書物や映画などを通じてよく知った人物、評価もおおよそ定まっている。240頁に9人を収めているので戦時リーダーの背景紹介(生い立ちなど)は限定的、全体に軽い印象は否めない。翻訳力では信頼していた白水社だが、今一つ日本語表現力に不満が残った。
唯一「もう少し調べてみたい」と思ったのは戦時の米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(戦後国務長官としマーシャルプランを推進)のことだ。短期間に最強の陸軍を編成(4年間で20万人→800万人;参戦時(1941年末)は世界で14番目、ルーマニアと同規模)した資質とプロセスは、一戦で勝敗が決まるわけではないコロナ対策に参考になりそうな気がしている。
著者は1963年生れ。歴史家(他の著作から本格的な歴史家と言うよりは歴史ジャーナリストと推察する)、キングズカレッジ・ロンドン客員教授。
4)デジタル化する新興国
-従来の産業革命(動力、電気、情報)とは異なるデジタル化第四次産業革命、追走ではなく並走する新興国の今を知る-
1960年代初期からIT(当時はC;Communicationは無かった)業務を主務にしてきて、いつも話題になっていたのは経営における“デジタル化の遅れ”である。比較対象は米国における先進例や未来論、米系コンサルタントやIT企業それに付和雷同する我が国ビジネスジャーナリズムがそれを喧しく言い立てていた。MIS(Management Information System;‘60年代)、SIS(Strategic Information System;’80年代)、BPR(Business Process Reengineering;‘90年代)から現在のDX(Digital Transformation)まで、この風潮は変わっていない。実態は、少なくとも製造業の現場において大きな差は無かったし、世界の最先端を走っていた企業も多々在った。ただ社会システムを見た時、そこに問題が無かったわけではない。代表的なのは、取引(企業間から個人まで)や行政(地方自治体を含む)におけるIT利用、‘90年代からその遅れを指摘する声が、ビジネス誌、学会誌などに掲載されていた。今回のコロナ禍、自治体から厚生労働省への感染者数報告の大部分がFAXだったことが、それを象徴している。業務処理方式変更を嫌う体質、既得権固守、予算不足、縄張り意識、人材難など理由は様々だが、“遅れ”は確かである。しかし、他面これは社会の安定度や既存インフラが充実していることの証とも言える。この辺りの事情を検証したく本書を読んでみた。
題名が如何にも日本の後進性を揶揄するようにもとれ、それも惹きつけられた理由だが、序章のインド(三輪タクシー)を始めとする新興国のICT活用新規ビジネスの紹介を終えると「ウン?」となった。本書の目的は「今日の新興国で広がるデジタル化の進展を、新興国・発展途上国論の系譜に位置付けながら、その可能性と脆弱性の両面から検討し、この潮流の中で日本に求められる取り組みを考える」と書かれ、つづいて後進国、発展途上国、中進国、新興国の定義やITを中心にした未来論の一つ、1995年ニコラス・ネグロポンテMIT教授著「Being Digital」をその基点に置いて、現状を見つめていく。つまり、ジャーナリスティックではなく、かなり学術的な手法で話が進められていく。結論から先に明かせば、本書は4件の科学研究費対象研究(2017~2023年度;途上のものを含む)を一般向けに紹介するため、中央公論2019年12月号掲載の「デジタル新興国論」を拡張したものである。著者は1984年生まれ、東大社会科学研究所准教授、中国経済専攻。数度にわたる中国滞在や本研究のために訪れた新興国での見聞が基になっている。
ここで言う新興国はBRICS+α(アフリカ諸国やエストニアのような小国)と言ったところ。これらの国々が世界経済やインターネット普及で占める割合をこの20年くらいで比較し、いずれもOECD加盟国を上回っていることを示し、“デジタル化”と関連付ける。その大きな要因の一つを“後発の利益”に依拠、工業化に比べデジタル化はこの恩恵をより受けやすいことを具体例で解説する。例えば、デジタル技術は始めから基本設計が固まっているのではなく、使いながら成長させ、完成度を上げていくものが多く、利用形態も含めて模倣しやすい。さらに、この完成度を上げるプロセスでは数がモノを言い、中国やインドのような国が有利になる。また、公共交通・金融・物流(通販)などのように信用度が社会システムとして問われるような環境にあると、デジタル化で一気に改善される可能性が高い。例えば、タクシーを流しから(ウーバーのような)指定型にして安全を担保する、通販における物と支払い交換を保証する、あるいは融資に対する信用保証を行うこと、などが本文中に取り上げている。伝統システムでこれらが実現できている先進国では急な変革は必要としない。
研究の深みを感じさせるのは、デジタル化を階層化し分析しているところである。そこには物理層(通信ネットワーク、サーバー、クラウド記憶装置、CPU)、ミドルウェア層(O/S、共通部品)、アプリケーション層(個別アプリ、ユーザー体験)の三層があるとし、物理層ではファーウェーのようにスマホ基地局設備に秀でたものが出てきているものの、アプリ層先行で基盤技術に懸念があるとしている。また、クラウドの寡占(アマゾン、マイクロソフト、グーグル、アリババの2018年シェアーは75%)、プログラマー不足、自動化と雇用の関係、デジタル権威主義(国家統制)、などにも多々問題のあることを、具体例を挙げて指摘する。
では新興国のデジタル化興隆に対して、日本の位置付けは如何様か?著者ははっきり「日本国内のデジタル化は遅れていると言わざるを得ない」と断じた上で、インドの生体認証システムではNECの技術が中枢機能を担っている例を挙げながら、謙虚に新興国に学び、技術力を生かせる共創の道を探すべきと提言する。
工業の世紀では一時期先頭ランナーであった我が国(電子立国)だが、今やデジタル化関連工業(半導体、液晶、光ファイバー、電池)で世界に突出した企業は無くなりつつある。ここで逆転するか?あるいはソフトウェアやビジネスモデルでデジタル世紀の一翼を担うのか?これからの日本について考えさせられる一冊だった。
5)砂戦争
-人口爆発・都市化で重要資源化する砂、知らぬところで環境破壊を起こしマフィアが
暗躍する-
1962年就職来69年まで7年間和歌山市から汽車で1時間弱南下した有田市で暮らした。小学校から大学まで東京都心だから環境変化のギャップは驚くほどだった。出身者・居住者には失礼ながら、第一印象は“文化果つる地”である。しかし、次第に自然と歴史的文化に惹かれるようになり、今では愛すべき“こころの故里”、多くの人に知ってほしい場所に転じている。内陸には高野山、熊野古道、那智の滝、鄙びた温泉場の数々(湯峰、川湯)、大台ケ原、瀞峡、海岸は白浜を代表に随所に美しい砂浜や磯・海崖の連続、奇岩の潮岬・串本、海中温泉の勝浦、あまり知られていないが道成寺が在る御坊市の煙樹(えんじゅ)ヶ浜は砂利の浜が延々と続き、寄せる波に独特の音を発する。こんな和歌山観光案内のような書き出しになったのは、本書により、現在の白浜・白良浜(しららはま)の白砂が1989年以降オーストラリア・パース近郊で採取された砂で維持されていることを知ったからである。珪石が川を下る間に粉砕されて生成される白砂を国内で調達できなくなった結果である。
国連環境計画(組織;UNEP)によれば世界で毎年消費される砂の量はおおよそ500億トン、過去20年で5倍に達している。その9割は建設骨材用である。根本にあるのは人口増と経済発展による都市化率の高まり、特に中国が突出、それにインド、インドネシアなどが続く。中国の砂消費は世界全体の60%におよぶが大半は国内調達(北鮮からの密輸、台湾海峡での不法採取もあるが)、それが長江沿岸の地域に環境破壊をもたらしている。インド、インドネシアも同様。ジャカルタ沖のでは2ダース以上の小島が消滅、インドでは川底に潜水して砂の回収が行われるほどだ。
骨材に次ぐのが国土拡大。シンガポールは独立時(1965年)人口190万人・国土面積575平方kmが2018年には564万人・国土面積は722平方kmに拡大している。砂の輸入国としては世界最大、主にインドネシア、カンボジャやマレーシアから持ち込んでいたが、最近インドネシア、マレーシアは禁輸に動いており、その確保に苦慮している(禁輸に備え備蓄)。国ではないがUAEのドバイは土漠地に高層ビルが高さを競い、ヤシの木を模したリゾート地が観光客の人気を集めている。建材用の砂はオーストラリアから、白い砂浜は米国ノースカロライナからの輸入品である。砂漠には大量の砂があるが、これは建築資材として使い物にならないからだ(後述)。
本書の中心を成すのはこの建材あるいは埋め立て用砂の需給関係と環境問題だが、“砂とは何か”の解説にも一章割いている。砂は、岩石が自然条件下で礫となり更に砂に変じ最後は泥となる。地質学会の定義では直径2mm~0.065mmとかなり幅がある。地形や地質から白砂・黒砂・赤砂など色も多様だ。また採掘場所によって山砂・川砂・海砂と別れる。砂漠の砂が建材として使えないのは、粒が小さく風化で角が取れ円形状のためセメントとの結合が緩くなるためである。また一般に砂漠の砂は塩分濃度が高いことも不適な理由となっている(海砂も同様だが我が国の場合、一旦真水に浸け塩分濃度を低下させる。それでも山陽新幹線や阪神高速道では鉄材の腐食問題を起こしている)。
砂の採掘・消費量はおおよそ年間500億トンだが、合法的な取引は150億トン程度、あとはヤミでその金額は1千億ドルと推定される(コストの大半は人件費と輸送費)。ここで動いているのが砂マフィア、違法採掘やそれを巡る凶悪犯罪が、インドやアフリカ(ザンビア、ナイジェリア、ケニア)で多発している。また、メコン川のような国際河川ではダム建設や砂の取り合いを巡る国際紛争も生じており“砂戦争”なる言葉もあながち大げさではないことがよく分かる。最近大量消費しているのがシェールガス/オイルの掘削用(米国だけで年間1億2千トン)。頁岩層の間に圧搾注入するので大きさや硬さに条件があり、主に北米産が使われているが、他国で本格的な掘削が始まれば争奪戦になる可能性もある。
さて、日本である。記紀・万葉の時代から白砂青松は原風景。塩田、新田開発、埋め立て、治水事業、防風林など砂にまつわる歴史を一覧、その海岸線の長さは3万5千km、米中より長く世界で6番目と説いた後、近年の変貌を語る。ダム建設、産業用の埋め立て地、護岸と防波堤、波消しブロックによって、ここ100年で自然海岸(主として砂浜)の6割が姿を変えたと総括。砂需要のピークは1989年の9億5千万トン(ただし半分は砕石)、2016年には3億7千万トンに減じている。この間河川敷や海岸からの砂採掘は砂利採掘法(1968年)で厳しく規制され、その改善効果で河川や河口での砂生成が回復、2014年には規制緩和が行われている。つまりある種の砂の再生産が実現、2019年の砂輸入量は125万トン、オーストラリアがその75%を占めている(白浜の砂もその一部)。だからと言って変貌した景観が元に戻ったわけではない。
著者(1940年生れ)の作品は<今月の本棚-129(2019年4月)>で“鉄条網の世界史”を取り上げている。今回もそうだが面白い題材を、自らの見聞に基づき説くところに特色がある。これは著者のユニークな経歴と深く関係している。朝日新聞記者→UNEP上級顧問→東大大学院教授→ザンビア大使→北大大学院教授・国際協力事業団参与など。本書の情報・データもUNEPのものが多用されており、砂そのものだけでなく環境破壊に関する視点が強い。やがて海面下に沈むと喧伝されているツバルの実態は、自然からンクリート固めの国土にしたことで排水などに問題を生じた結果で、海面が上昇しているわけではないこと、国は援助を引き出すためにそれを利用していること、などに言及しているのはその一例だ。
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