<今月読んだ本>
1)誤読のイタリア(ディエゴ・マルティーナ);光文社(新書)
2)Air Power(Stephen・Budiansky);Viking
3)「感想文」から「文学批評」へ(小林真大);小鳥遊(たかなし)書房
4)経理から見た日本陸軍(本間正人);文藝春秋社(新書)
5)国家にモラルはあるか?(ジョセフ・ナイ);早川書房
6)オリンピア1936ナチスの森で(沢木耕太郎);(文庫)
7)日本史サイエンス(播田安弘); 講談社(ブルーバックス)
<愚評昧説>
1)誤読のイタリア
-ふじやま・芸者がニッポンでないように、ナンパ男もイタリアではない!-
海外旅行をしてその国に知人・友人が居るか否かは対数で一ケタ違うくらい深みが変わる。イタリアには二人親しい友が居る。一人は1979年米国で、もう一人は1982年日本で知り合った。その後も日本で、米国で彼らと交流する機会が何度かあったものの、私が彼の国を訪ねることはなかった。初めての訪伊は2008年、完全な個人旅行で家人と同道、ミラノ→ヴェネツィア→フィレンツェ→ローマと回った。忘れもしないリーマンショックの秋である。この旅行中に株価が暴落、かなりの資産を減らすことになったが、旅の楽しみはそれを補って余りあるものだった。二人のイタリア人は私と言う共通項を除けば何も関係ないのだが、住まいはミラノとヴェネツィアを結ぶ鉄道沿線に在り、北イタリアの住民である。移動の途中彼らの家にも立ち寄り、宿泊もした。この地は政治結社北部同盟の地盤、二人ともその支持者である。「南イタリアは人種が違うんだ!(でもローマだけは違う!あそこだけは行く価値がある!)」と言って憚らない。でもイタリア民謡や料理では南の評価が高い。もう一度イタリアへ、それも南へ、と念じつつコロナ禍に突入、もうそこを旅することはないだろう。せめてその思いを書物でと本書を手に取った。
タイトルの“誤読”に引っかかった。「何故あまり日常的でないこんな言葉を?」と。著者はこの疑念を待ち構えていたように、まえがきで“誤読”を用いた背景説明から始める。戦後早い時期にイタリアに留学、その紹介で多くの著作を残した元上智大学教授で故人の須賀敦子の訳詞に、イタリア人から見ると微妙に違和感のある訳語が使われていることを指摘、異文化理解の難しさを例示する。この例は当に誤読(誤訳;通夜とすべきを徹夜と訳している)なのだが、全体としては言葉に限らず社会・文化・風俗に関する先入観や誤解、日伊の違いを題材としたエッセイ。決して「改めろ」と迫るものではなく、違いの由縁解説に主力が置かれているので、一つ一つは軽いテーマにも関わらず、異文化理解の視角を広げてくれる深みのあるものだった。
例えば“家族”、日本人の感覚では親兄弟、せいぜい祖父母や孫くらいまでの範疇だが、イタリアでは叔父叔母・いとこばかりでなく、これらに家族と認められた者は他人でも含まれる。一つの代表例はマフィア、血のつながりは無くても強い絆で終生結ばれる。この精神的な距離感が、日本人から見ると大げさな物理的愛情表現に映るのだ。
来日当初戸惑ったのは「ナンパ」。「イタリア人だからどうせナンパなんでしょ」と言われそれが解せない。誰かれなく若い女性に声をかけ、気を惹こうとする意と知るのはしばらく経ってからだ。確かに日本人に比べ行きずりの他人に話しかける頻度は高いが、これは下心があってのことではなく、日常的な行為なのだ。また、地方や個人によって大きく違い(著者は南イタリア出身)、一律にそう見られることは、日本と言えば「ふじやま、ゲイシャ」を連想するのと同じで、一種の“誤読”と難じる。しかしながら、このステレオタイプの“誤読”が未知のものへの好奇心を育て、やがて正しい理解につながると前向きにとらえる。身近な恋愛やパスタから専門とする言語(例;イタリア語の敬語表現には日本語の謙譲語に相当するものがない)までカバーする内容は、私のイタリア認識を改めてくれた。またこれからイタリア旅行を考えている人に役立ちそうである(私にそのチャンスはないが)。
筆者は1986年生まれの日本文学研究家、ローマ大学で東洋文学を研究、その後東京外大、東大にも留学、滞日通算9年、漱石の句集をイタリア語翻訳出版するほどの日本通だ。まえがきにもあとがきにも本書の執筆に触れていないが、訳者名がないことから、日本語で書かれたものを編集者が手を加えた程度と推察する。日本人著者と何ら差異を感じないほどの出来栄えだ。
2)Air Power
-ライト兄弟から湾岸戦争までの軍事航空を戦略爆撃論中心に総覧する力作-
軍事航空、特にその発展史は私にとって最も興味ある分野だ。子供の乗り物好きが原点、占領が終わり航空界(生産から運用まで)が自由を回復したのは中学生の時だった。航空エンジニアへの道は断念したものの、社会人になってもそれへの関心は持続した。そんな中で気がついたのが軍事行動における航空機の役割と企業経営におけるIT(当初はコンピュータ)利用の相似性である。爾来その関係を探り整理しつつ今日に至っている。管理部門(経営企画や経理・財務)と現場(営業・製造現場)あるいは企業活動にける二つの最前線(生産と販売)、これら伝統業務の中で、陸海軍から空軍が独立したように、IT部門は第三勢力(私の勤務した会社では化学系と機械系が技術の柱だった)になるのか、なれるのか、なるべきなのか。これへの試行錯誤が我がビジネスマン人生だったと言えるほどだ。時に潜水艦や戦車を参照しつつも、中心に在る戦略兵器はいつも航空機、私の書架の二割方は飛行機の本で占められている。その中に在って本書はそれらを問題意識に沿って集大成した一冊と言っていいほど内容の充実したものである。最大の評価点は軍事航空の思想(在り方)をライト・フライヤーから最新誘導兵器やドローン攻撃機まで問い続けるその姿勢である。
軍事航空哲学の嚆矢はイタリアのジュリオ・ドゥーエ将軍が第一次世界大戦後著した「制空論」にあるとするのがこの世界の常識である。しかし、その出版に先立ち1918年英空軍が独立しているから、戦略空軍論や空軍独立論はドゥーエの専売特許と言うわけではない。英空軍を創設したヒュー・トレンチャード将軍(のち元帥)、米陸軍航空隊の独立を提唱したビリ-・ミッチェル将軍(死後少将)、さらに「空を飛ぶものはすべて私のもの」と豪語したナチス空軍元帥ヘルマン・ゲーリングもそれぞれの軍事航空哲学を持ち、それに沿った活動をしている。ここで留意すべきはいずれもが陸軍の軍人であることであり、海軍航空に彼らに匹敵する空軍論者が居ないことである。海軍の戦いに一般市民が巻き込まれることは稀なのに対して陸戦ではそれが避けられないことから考え方が根本的に違うのだ。本書の底流に在る問題意識は、この一般市民と軍事航空の関係を時代に応じ戦略/戦術、組織、代表的な作戦、技術開発(機体・エンジンのみならず爆撃照準器、レーダー、航法計器、ハイオクタン航空ガソリンまで)など多面的に解説、連続して問いかけていくところに他書には無い特色がある。軍事における航空機の役割は、(第一次世界大戦のような)大量殺戮を避け、敵国の政治・軍事・経済の中枢を直接爆撃し、早期に戦争を終わらせる。これが「制空論」の骨子である。トレンチャードもミッチェルもそして彼らの後継者も唱える「戦略爆撃」と称するものがこれである。では「戦略爆撃」の思想は先駆者の唱導のごとく進んだのか?
理想と現実のギャップは大きい。“中枢”の定義を拡大しながら戦略爆撃論者・空軍独立論者は自らの主張を貫こうとする。トレンチャードの薫陶を受けたアーサー・ハリス元帥(最終;通称ボマー・ハリス)、ミッチェルの衣鉢を継いだヘンリー・アーノルド元帥(最終;陸軍航空軍(USAAF)参謀長)、欧州派遣米陸軍航空軍司令官カール・スパーツ大将(最終;初代米空軍参謀長)、その配下爆撃軍団長で後に太平洋戦域に転じたカーチス・ルメイ大将(最終)らは、精密爆撃の困難さから徐々に無差別爆撃に転じ、ケルン、ハンブルグ、ドレスデン、東京などの大規模空爆を実施、ついに原爆投下まで行うことになる。ここで問題となるのが戦意・士気(Morale;モラール)と道義・倫理(Moral;モラル)。英米には当初モラルの観点から空爆には制約があったが、ナチス空軍のロンドン夜間爆撃から“やられたらやり返す”となり、空爆以外反攻手段がないためこれがエスカレートしていく。昼間精密爆撃にこだわっていたUSAAFも夜間こそ避けたものの昼間絨毯爆撃を採用、夜間の英・昼間の米と24時間爆撃態勢でドイツを襲う。原爆投下で日本がとどめを刺されたことから、戦略爆撃信奉者たちは第二次世界大戦の決定力は戦略爆撃と喧伝、USAAFは1947年米空軍として独立、その参謀長はスパーツ、ルメイを含めヴェトナム戦争終結まで爆撃機乗りが占めることになる(その後は戦闘機乗りが主流)。
しかし、本書以前から戦略爆撃の効果については多くの疑義が投げかけられている。確かに都市破壊や市民の死傷者を見れば戦果は極めて大きいが、戦意喪失・生産量の低下と失った人員・機材を勘案すれば果たして決定力だったか否かは疑わしいのだ(航空兵の損耗率は桁違いに高い)。本書の中でもこれを詳しく分析している。もう一つ狭義の軍事作戦から評価した場合、戦略爆撃にこだわるあまり戦術運用(特に陸軍との協力)がおろそかになり、朝鮮戦争やヴェトナム戦争ではそのツケが回ってきている。戦略爆撃論者から言えば「原爆を使わせてくれたら」となるのだが、さすがに米大統領は核兵器の使用を軍(陸海軍を含め)に委ねる考えはない。
戦場における制空権の重要性は変わらぬものの、桁違いの決定力は核ミサイル、精密爆撃はスマート爆弾(この命中精度も決して高くない)、対地協力はヘリコプター(米空軍設立で陸軍は連絡・観測を除き固定翼機の保持は禁止。陸軍の攻撃ヘリに空軍は大反対)、ドローン戦闘機・攻撃機の出現、非対称戦争、空軍中心の軍事航空の環境は激変している。ただ、モラルの問題は依然として大きな課題だ。
米国中心ではあるが第一次世界大戦、第二次世界大戦では欧州各国、また海軍航空では日本にもかなりの紙数が割かれており、世界の軍事航空史を俯瞰できる内容。
著者は軍事技術を専門とするジャーナリスト、有力紙に定期的に寄稿しているほか議会への助言者を担うこともあるようだ。
3)「感想文」から「文学批評」へ
-初学者向け文学評論入門、理論体系は分かったが、適用はまた別世界-
中学生まで、身近にあった“文学”は日本近代文学全集(改造社)、世界少年・少女文学全集(講談社)程度。高校時代、文学部とは作家・国語教師志願者の進む道、「あんなところへ行って何が面白いんだろう?(教師はともかく)食っていけるのか?」が率直なところだった。一方で子供の頃から自他ともに認める“活字中毒者”、書き手がいなくては中毒解消は叶わないのだから、かなり身勝手な考え方だ。言い訳をすれば、それでも読書の対象は圧倒的にノンフィクションと多少のエンタテイメント小説、純文学など全く関心がないから、やはり文学とは無縁と言っていい。そんな私が本書を読むことになる動機は、本欄の副題を、よく考えずに<愚評昧説>としたことから、“書評”ととっている閲覧者が存在することによる。私の評は、面白かったか否か、新知識を得られたか否か、人に薦められるか否か程度でとても書評と言えるものではない。意識しているのは“この本と私”、感想文の域をでておらず、その感想文を少しでも評に正すべく本書を手に取ってみたわけである。文学・文学部と無縁だった者にとり、文学評の基礎を学ぶと言う点において、分かり易く、読んで役に立った。だからと言って“愚評”が改善される自信はないが。
おそらく文学部で講じられる初歩的常識なのであろう。本書では文学批評の因子を、①発信者(著者)、②受信者(読者)、③メッセージ(記述内容)、④接触(作者-読者をつなぐ情報交換手段)⑤コード(メッセージを作成するルール)、⑥コンテクスト(メッセージの背景;時代や社会あるいは状況)、の六つとする。従って作品の批評もこの六つの視点・タイプがあることになる。①は作家論(作家重視)、②は読者論(読者重視)、③はニュークリティシズム(内容重視)、④はメディア・スタディーズ(接触手段重視)、⑤は構造主義(コード重視;文や著作の構造に着目)、⑥イデオロギー批評(コンテクスト重視)と分類される。この6分類法は米国の批評家ロバート・スコールズに依るものだが、これを著者の見解で整理し、批評論解説を行うのが本書の内容である。そこには著者独自の考え方はほとんどなく、代表的な文学批評(多彩な引用例))の特質と変遷を初学者に伝えることに主眼が置かれている。お蔭で、こんなことには全く興味の無かった私にとっては抵抗なく読み進められ、何となく“分かった”気にさせてくれたところに本書の価値を認めた。
入口は作家論、誰でも文学評と聞けば漠然と浮かぶのは作者評だろう。本来これと対になる読者論は比較的新しい視点なのだ。感嘆詞(例えは“アー”)の位置一つで文意が変わると新たな視点を提示するのがニュークリティシズムだが韻文(詩歌)に著しく偏る。社会主義・共産主義が勢いを増すとイデオロギー批評が注目される。文学部の発足(19世紀)は人々に特定のイデオロギーを植え付けることにあった(英国の上流階級が勃興してきた中産階級・労働者階級を国家に従順させる)から、その起源はロシア革命遥か以前なのだ。新聞・出版・ラジオ・TV・電子メディと媒体が変わればその都度新たなメディア論が起こる。この手段が作家の命運を左右することさえ起こるのだ。こんな話を分かり易く展開されると文学の奥の深さを認めない訳にはいかなくなっていく。
本書は明確に記されているわけではないが創作文学(小説)を対象にしている。その点で私が好んで読むノンフィクションとは評の視点が大きく異なる。ノンフィクションでは“創作でないこと”ことが最も重要、次いでその切り口が独創的であるかどうかが問われる。さらに、どこまでそのテーマに著者自身が直接関わったか(文献引用や孫引きでなく)も評に影響する。そしてそれが社会に及ぼす大きさ(社会性)が価値を決める。最後の社会に対する影響度はフィクションもノンフィクションも変わりないが、果たして我が“愚評”にどこまで読後感が反映できるだろうか。そんな思いで読み終えた。
著者は、早大国際教養学部で学び、現在はインターナショナル・スクールで国際バカロレア(バカロレア各種資格を取得)文学教師を務める。
4)経理から見た日本陸軍
-戦略・戦術・戦闘を全く語らず日本陸軍を紹介、兵士の主食1日6合に驚いた!-
軍事に関わる書物を読むことが多い。ただ対象範囲は限られている。軍事科学技術とそれに関わる人・組織それに運用(戦略・戦術・作戦)である。この点で日本陸軍の場合あまり魅力的なテーマは無く、それとは別に昭和史(特に満洲史)上の出来事に専ら関心が向いている。だから、マクロな視点(総力戦)を除けば経済に関することは、旧陸海軍に主計科やその士官養成機関があることは知っていたが、役割や歴史について調べることはなかった。書店で“経理から見た”のタイトルに“ミクロ”を感じ、さらに著者が防衛省調達官経験者であることに興味をおぼえ読むことになった。実にミクロな話である。軍経理活動の様々な場面を垣間見ると同時に、兵器の原価計算は、科学技術で遥か先を行っていた海軍に先行、戦後の経済復興に少なからぬ貢献をしていることを教えられた。
とにかく多種多様な経理情報を現在の貨幣価値に換算(昭和11年ベース;5千倍)して提示されると、あの戦争がいかに無謀なものだったかが身近に理解できる。帯にもある通り、1941年(昭和16年)6月の独ソ開戦を受けて7月に行われた関東軍特種演習(関特演)に要した費用は8兆5千億円!現在の国家予算の約8%を短期演習(臨戦態勢への動員)のためだけに使ったのである。内訳は本書に詳しいが、あとに何も残らない輸送費や兵員受入れのための仮設施設建設費(とても満洲の厳冬には耐えられない)が大きな割合を占める。この後始末のために陸軍省・参謀本部の高官20数名が現地に出向き、関東軍との調整を行うほど経理的な大混乱だったのだ。
本書の書き出しはこの軍事予算の推移から始まる。平時の一般会計が立ち行かなくなるのは1937年の支那事変(日中戦争;盧溝橋事件)以降、ここで成立公布されるのが「臨時軍事費特別会計」、終戦までに14回この名目で国債が発行され、その総額は時々の時価加算で2220億円に達している(本書の換算方式でこれを5千倍すると1千兆円超)。まるで打ち出の小槌だ。予算の話は細部に降りていく。例えば、在支部隊の維持費明細;人件費(俸給、旅費)、物件費(糧秣、被服、兵器から馬匹費、はては軍鳩・軍犬まで)が単価と数量まで明細表で示される。更に詳しい例は、南方作戦用糧秣費明細表。食料品の品目ごとに単位(主にトン、kl)・数量・単価・金額と並ぶ。乾パン;単位t・数量5700t・単価800円・金額456万円、と言うように。ここで最も金額が高いのは尋常缶詰肉(他に戦闘用がある)の582万円、因みに酒類はklあたり3千円、金額は105万円となっている。食の話で驚かされたのは平時の食事内容(予算ベース)、主食の米麦なんと一人一日6合(精米4.2、精麦1.8;麦を混ぜるのは脚気防止のため)!当時の国内経済・食料事情でこれだけの主食を摂れるのは下級兵士に大きな魅力だったようだ。
個人ベースで一番気になるのは俸給。昭和13年から18年までの各階級の俸給一覧表が示される。18年で見ると、中将5800円(年、師団長)、二等兵は6円(月、衣食住付)、諸条件に違いがあるが、二等兵の年俸はわずか72円、単純比較すると師団長はその80倍、現在価に換算すると年2千9百万円となる(実際には役職手当などがありさらに増加する)。因みに陸上自衛隊の陸将(師団長、中将相当)の俸給(月)は76.1万円、二等陸士(二等兵相当)は16.5万円、倍率は4.6で、旧軍が桁違いであったことが分かる。
軍需品(兵器、資材、消耗品)の価格決定に陸軍が原価計算法を正式に定めるのは昭和14年3月以降。それまでの慣行(入札方式、応召者への賃金補填など)、官営工廠と民間の違い、戦争経済下におけるインフレで目まぐるしく変わる価格を一律管理(適正価格決定方式)にするためである。この提唱者は山下奉文大将(最終)がドイツの方式を子細に調べた結果と伝えられている。詳細例として96式牽引自動貨車(高射砲牽引車)の調弁(調達)基礎価格算出を取り上げ解説。その算定表は製造、販売に関わる諸費用、原価付加利益(資本利益率、資本回転率)などを考慮した合理的で分かり易い統一フォーマットで構成され、これが普及していったことがよく理解できる。
このような独特の軍経理を進めるための法律整備、人材育成、戦地における調達業務(特に食糧)、兵科との関係、組織の変遷、経理上の不祥事など当に日本陸軍経理総覧と言える内容だ。
著者は1969年生れ。大学卒業後28歳で防衛庁(現防衛省)入庁、管理局原価計算部(現防衛装備庁)に15年在籍した後在庁のまま埼玉大学大学院で学び経済学の博士号を取得(軍需品と原価計算)、海上自衛隊下総基地勤務をへて2021年4月より秀明大学総合経営学部准教授。本書が一部新書としては詳しすぎる(特に原価計算)のはここから来ており、個々のテーマは興味深いところもあるが、全体の統一感・連続性を欠く点、読み物としての面白味がやや損なわれる。
5)国家にモラルはあるか?
-国際政治学の泰斗が、ルーズヴェルトからトランプまで14人の大統領を外交政策から格付けする-
終戦直後に小学生だった我々世代にとってアメリカは特別の存在だった。私とアメリカの最初の接触は1946年9月末、満洲からの引揚で博多に上陸した時である。所持品検査に米軍兵士が立ち会っていたのだ。満洲で撮った写真は現地で持ち出し禁止になっていたが、父が英語で“家族の写真”と記して大型封筒に収めたものがそこで見つかり、日本人担当者が米兵を呼び寄せそれを彼に渡したが一瞥して封も解かず返してくれた。ソ連軍・国民党軍・八路軍支配を体験した者にとって、それは信じられぬことだった。この後博多から東京に向かう列車が山陽線内で米兵を乗せた専用列車と徐行しながら並走することがあった。9月の下旬まだ暑さが厳しく窓は開けっ放しである。米兵がこちらの窓に向かってキャンディをさかんに投げ込んでくれた。「なんて優しく親切な人達なんだろう!」。こうして私の米国感が醸成されるようになる。新憲法制定を含む占領政策の裏面史や国際紛争史を知れば、手放しで米国礼賛とはならないものの、米国が世界における特別な存在であることが、日本のみならず世界にとって望ましいことと今でも思っている。本書は戦後の米国外交史をフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト(FDR)からドナルド・トランプまで14人の大統領を対象に、モラル(Moral;道義・倫理)の視点から棚卸しするものである。
著者は1937年生まれの著名な米国の国際政治学者。ハーバード大学ケネディ行政大学院院長や歴代政権で国防次官補・同代理や国家情報会議議長を務めるなど、実務面での経験も豊か。オバマ政権時駐日大使候補と報じられたこともある国際関係・外交の第一人者。実務は民主党政権下で多かったことから、最終章で「多少その影響はあるかもしれない」とことわっているが、リベラルな傾向は感じられるもののリアリストの面もあり、民主党大統領にもビシッと厳しい評を下している。
問われるのは“モラル”。そうは言っても、個人ならともかく大統領ともなるとそれを一点に絞ることは難しい。当然個人生活面での評価は行われるが、政権内ではどうか?議会に対してはどうだったか?自国民に対してはどうだったか?他国家・他国民(同盟あるいは敵対)にはどうだったか?これらを、生まれ育ち、教育・宗教の影響、大統領以前の政治活動、大統領としての課題への取り組み姿勢、決断結果と多角的に組合せ分析、最後に著者として総合評価を下すのである。ただ、総合評価と言っても焦点は外交に置いているので、個人や国内政策とモラルの関係は背景説明ほどの重みしかない。例えば、JFKやクリントンの女性問題、あるいは時に公務よりも教会活動を優先することがあったカーター、苦学力行のトルーマン、ジョンソン、ニクソン、ほとんど大学の授業に出席していないトランプ、などの話はあくまでも人物紹介の一部に過ぎない(とは言っても読者にある種の先入観は与え、読んでいて面白)。
外交政策の評価ポイントは「意図と動機」「手段」「結果」の3点、大統領の下した重要な断をここから判じ、採点を行い、最後に上位・中位・下位の3グループに総括する。
例えは、FDR;参戦前英国への武器貸与法通すため「意図と動機」として議会に「Uボートが米駆逐艦を攻撃した」と偽りの報告をする(実際は中立国米国の駆逐艦がUボートを攻撃した)。これはモラルに反するが、「結果」として英国ひいては連合国を利することになる。トルーマン;FDRの急逝で事情が分からぬまま早期終戦を期し広島・長崎原爆投下と言う「手段」に断を下す。これはモラルに反するが、その後朝鮮戦争に際してマッカーサーや空軍の原爆使用権要求を退け、のちに海軍も含め核兵器使用の決定は軍に委ねぬことを決する。ブッシュ(父);冷戦終結はレーガンの功績と言われるが、実質的にはゴルバチョフとブッシュによって達せされた。この際ブッシュはその手柄を喧伝しないばかりかゴルバチョフの決断を称える。ソ連とゴルバチョフのプライドを慮ってことだ。「結果」として米ソ融和が進み第一次湾岸戦争に際しソ連は安保理で棄権票を投ずる。
総括された14人のグループ分けは、上位;FDR、トルーマン、アイゼンハワー、ブッシュ(父)、中位;JFK、フォード、カーター、レーガン、クリントン、オバマ、下位;ジョンソン、ニクソン、ブッシュ(子)、トランプ、となる。ただし、本書出版時トランプ退任は決まっておらず、最終評価に至っていないとことわっている。
本書の最終章は14人の外交政策分析結果を踏まえ、これからの米外交について持論を展開する。最大の課題は米中関係。米国が簡単に中国に凌駕されることはないと断じ、米国外交の留意点は、国内問題(今に残る孤立主義との折り合い)と同盟国との関係強化とし、同盟対象国に確り日本を組み込んでいる。この部分もなかなか説得力があり、是非そうあって欲しいと切に願う。
6)オリンピア1936ナチスの森で
-映画史に残る名作「オリンピア(「民族の祭典・「美の祭典」監督と振り返るベルリンオリンピックの日本選手-
我々の子供時代動画は映画しかなかった。だから小中学校で時々視聴覚教室と称して映画を観る機会があった。中学時代記憶に残るのはシューヴェルトの悲恋を描いた「未完成交響楽」(オーストリア、1933年)、小学校の時は本書の内容と深く関わる1936年ベルリンで開催された第11回オリンピックの記録映画「オリンピア」(ドイツ、1938年)を観ている。その後この映画が「民族の祭典」「美の祭典」の2部構成であることを知るのだが、どうやら日本選手の活躍が映像になっていたから「民族の祭典」だったようだ。まだ占領下の時代、生まれる遥か以前の出来事だが、日の丸を付けた選手の活躍に私も含め生徒は歓喜し、大声で声援した。その興奮度はニュース映画の比ではなかったが、これは戦後間もなくでは珍しいカラー映画であったことと、撮影・編集の巧みさが臨場感を高めたからに違いない。
本書の導入はその映画の監督でありこれにより世界にその名を知られることになる女性、レニ・リーフェンシュタールと著者の対談から始まる。文中から時期は1996年春、場所はミュンヘン南郊に在るレニの自宅。レニは1902年生まれ(2003年没)だから既に94歳に達しているが矍鑠たる姿が目の前に浮かんでくるような、いつもの人と時代を確り観察する沢木スタイルの筆致である。紙数の大半はベルリンにおける日本選手の戦いだが、常にレニの姿がそこに在る。
「民族の祭典」を観て強く印象づけられたのはマラソンの勝者孫基禎(ソン・ギジョン)、のちに銀・銅メダルを半分に切り分け合わせ“友情のメダル”と称えられる棒高跳びの西田修平・大江季雄と優勝者となるメドウスの戦い。棒高跳び決勝シーンは陽もとっぷり暮れた夜間に行われたことから、照明効果が素晴らしく、「オリンピア」を映画史上の名作とする一因となっている。しかし、著者がかつて西田に取材した際、これが試合の翌日取り直したものであることを告げられ、レニにそのことを確認する。「その通りなの。本番の照明は暗くて使い物にならなかったので、3人にお願いしたのよ」。レニはこれを単なる記録映画とは考えず、映像芸術作品として創作していたのだ。こんな話が随所に出てくる。
レニに関するもう一つの重要なテーマは彼女とナチスとの関わり、特にヒトラーとの関係である(男女と言う意味ではない)。彼女がヒトラーと会うのは政権獲得前の作品「青の光」(第1回ヴェネツィア映画祭で銀獅子賞)が契機となる。それが縁で、1934年ニュルンベルクで開催されたナチス党全国大会の記録映画「意志の勝利」を製作、その評価が高かったことから(現在でもナチス興隆のシーンでしばしば一部が流用される)、「オリンピア」監督として起用され、宣伝相ゲッベルスの嫉妬を買うほど近しくなっていく。しかし、これが戦後の運命を暗転させる。戦犯容疑は拭えたものの、再起のチャンスは長く与えられない。著者はこの件を映画撮影に重ねてレニに質していく。最後には「ヒトラーのことはこれで終わりにしましょう」と言われるほど執拗にである。ここは一流のノンフィクション作家としての資質・力量が窺える一コマだ。
全体は無論日本選手の戦いぶりである。先の孫基禎、棒高跳びの二人、世界記録(16m)で優勝した三段跳びの田島直人、“前畑ガンバレ”の女子200m平泳ぎなど当日のレース運びばかりではなく、そこに至る背景もなかなか読ませる内容だ。例えば前畑、彼女は前回のロサンゼルスで2位、この時小学校高等科2年(現在の中学1年生に相当)、あと1年で学業は終わることになっていたが、幸い後援者が現れ女学校への進学が叶う。彼らと国内の期待は優勝のみ、重圧の中で猛練習した結果が金メダルに結実する。その猛練習ぶりはチョッと信じ難いほどだ。朝・夕・夜と泳ぎ、夜だけで7000m!
著者が目を向けるのは勝者ばかりではない。ロス100m競走で決勝進出した吉岡隆徳は帰国後10秒3の世界タイ記録をマーク、入賞を期待されながら予選敗退、お家芸と言われた走り幅跳びや走高跳び、水泳でも実力を出せずに終わった選手は多い。また、日本ではマイナーだったホッケー、サッカー、バスケットボール、レスリング、ボクシング、ボート、ヨット、飛び込みなどの競技種目にも触れ、当時の世界と日本を比較して見せる。ここらあたりはいかにも沢木らしい、敗者・弱者に対する心配りが感じられる。
これ以外にも、日の丸をつけて走り国旗掲揚を見る孫基禎の無念な思い、難しい遠距離移動のコンディション作り、長距離実況放送(この時が初めて)の苦労などオリンピック裏面史が様々な角度から取り上げられ、現状との違いを浮き立たせて時代の変化を伝える。
本書の初刊は1998年。昨年開催予定の東京オリンピックに向け文庫化出版されたが、1年延期となったため、更に本年あらためて発刊。従って、あとがきがその都度あり。本版(あとがきⅢ、2021年4月)ではコロナ禍の中で開催することに「進も地獄、退くも地獄」「これほど惨めなオリンピックの大会は、かつてなかったかもしれない」と結んでいる。(著者は昨年2年延長説を説いていた)。
7)日本史サイエンス
-日本史上の転換点;元寇・中国大返し・戦艦大和の戦い、造船技術者が奇跡・伝説・定説に数理で挑戦-
2007年45年続けたビジネスマン人生を終え、英ランカスター大学で念願だったOR(Operations Research)歴史研究に取り組むことになった。ORはもともと軍事作戦に数理を応用することから始まったのでその名が付けられたが、戦後は軍事に留まらず、公共政策や企業経営の場に適用範囲が広がり、勃興してきた情報技術と相俟って、意思決定に欠かせぬ道具として普及・発展していく。
歴史学の素養など皆無、渡英後多くの史料を与えられ、次第に当時のOR適用状況が把握できていった。そこで最も役に立ったのが、それまで体験してきた社内外における企業経営上の適用例(特に意思決定)である。歴史研究は過去を辿ることになるが、定説を検証・批判するのには新しい切り口が必要になる。私の場合、それが実務経験だった訳である。本書の著者は造船技術者、日本史上の転換点とも言える、“蒙古来襲”、“秀吉の中国大返し”それに“戦艦大和の謎”、三件を取り上げ“数字と船”の視点から神話・伝説・定説を検証、自説を提示するのが本書の内容だ。
1)蒙古来襲;来襲は1274年「文久の役」、1281年「弘安の役」の二回あった。弘安の役は前回の文久の役から学び、防衛体制が確立されており、橋頭堡も築けず退却しているが、第一回目の文久の役では太宰府近くまで攻め込まれている。当時の大宰府は中国・九州統治の要、もしここが陥落していれば日本の姿も変わっていた可能性がある。しかし、そうなる前に元軍は船に戻り、“神風”が吹いて船団は壊滅したと言う「神国思想」が出来上がって、太平洋戦争まで続くことになる。では何故攻撃途上にありながら引き上げたのか?この撤退には「台風説(敵地である陸より船の方が安全との考え)」「威力偵察説(日本の軍事力を知る)」「元・高麗対立説」など諸説あり、定まってはいない。神風を含め“八幡神のご加護”説の原点は鎌倉中期・後期に成立した「八幡愚童訓」にある。つまりこれは寺社のPR誌なので神道普及が目的、客観的に扱えるものではない。著者はこれを全否定、高麗史や中国の文献類、絵巻物にも当たり、動機を元と敵対する南宋が日本と通じていることを遮断するためと読み、船団の規模、船の構造・諸元、要する木材量と建造人員数、造船方式と工期、航海技術、博多湾付近の地形、気象・海流、兵器・武具などを調べ、元軍の勢力を推定する。例えば、元の高麗に対する要求は大型船(上甲板長28m、全幅9m、船体重量154t、積載重量90t、兵士・兵站兵120名、船員60名)300隻を含め900隻と記録に残るが、資材・人員の制約から大型船最大150隻、中型と併せて300隻が限度と推定、ここから戦闘兵士数は約2万6千名、馬匹1千頭が推算される。上陸地点も水深や暗礁の存在から博多中心部近くではなく遥か西寄りと推定、上陸は小型艇に依るため大兵力を集中運用は出来ない。加えて海を知らない元軍は船酔いも酷く、直ぐに進軍できる態勢ではなかった。不意を襲われ橋頭堡は築かれてしまったものの、「騎馬軍に蹴散らされた」わけではなく、準備が整った鎌倉武士団反撃が本格化すると退散したのが実態ではなかったかと総括する。また、台風説に関しては時期的にマッチしないものの、玄界灘の時化は台風時と大差ないことを解説、大型船でも半島へ帰還できなかった可能性が高いとする。これを実感するためにユーチューブで「冬」「玄界灘」「航海」と入力し動画を見ることを薦めていたので試してみたところ、米駆逐艦から内航船まで凄い画面がいくつもあり、元艦隊全滅を納得した。
因みにここで援用されるOR手法はランチェスターの法則第1則(弱者の戦略)である。
2)中国大返し;1582年(天正10年)天下統一の大敵毛利を討つため信長は羽柴秀吉に備中高松城(岡山)を攻撃させている。6月2日本能寺における明智光秀の謀反で信長は自害することになる。それを知った秀吉は直ちに毛利と講和、6月5日その軍勢2万を東に向け、6月13日山崎の戦いで明智勢を破り、自身の天下統一の道を開く。当に日本史上決定的な瞬間である。その距離約220km、8日間でそれが可能なのか?可能としても戦闘能力は維持できていたのか?地理的条件、天候、部隊編成、所持する武具や装備の重量、体力、食糧(飼葉を含む)や宿泊の算段など数理・論理・タイムテーブルを駆使して検証する。詳細検討過程は省くが、二つの新説を著者はここで開示する。一つは備中と播磨の間に在る難所船坂峠越えを、秀吉を含む首脳陣の一部が海路で迂回先行する案(秀吉の居城は姫路城であった)、もう一つは秀吉の用心深い性格から信長の挙動を観察・伝達する手段を中国遠征に先立ち確立していたとするものである。この情報伝達ルートが主力移動に先立ち逆向き活用され、中途に介在する諸侯の事前協力を可能としたとの仮説を立てて、8日可能説を説得力のあるものにする。
ここでもOR技法がその一翼を担う。それはAHP手法(Analytic
Hierarchy Process;階層分析法)、何段にもわたる選択肢の中から最適解を決める比較的新しい技法である。
3)戦艦大和の謎;何故あんな巨艦を建造したのか?何故攻撃主力とならず後方に留まったのか?にも拘らず最後に沖縄特攻と言う無謀な作戦に投入されたのか?不沈艦と称されながら何故航空攻撃で沈められたのか?様々な謎に答えていくのだが、これらは既に知ることばかり、前二者に比べて歴史的転換点でもない。造船技術者として何か書いてみたかったのではなかろうか?そんな思いが残る程度の内容である。ただ私にとって収穫だったのは二点。それは我が国戦艦・巡洋艦、駆逐艦の構造に関する弱点である。大型艦のそれは縦隔壁、駆逐艦は動力部の配置である。縦隔壁は艦首から艦尾まで中央を貫く隔壁、強度計算上はあまり効果無く米艦には無い構造。それ故米艦は片側に打撃を受けても水は左右バランスし一気に転覆することはない。レイテ沖海戦で戦艦武蔵が沈没に時間を要したのは米軍機が左右から攻撃したことによる。米軍はそこから学び大和攻撃では左舷に集中し遥かに少ない着弾数で大和を屠っている。駆逐艦の動力配置は、日本艦では前部からB(ボイラー)/(/は隔壁)B/E(タービン)/Eの配置をしている。これだと建造や運用は容易だが、一ヶ所隔壁が破壊されると航行不能になる。米艦はB/E/B/E配置で隔壁破壊の影響は半分に留まり航行可能だ(中央隔壁が破壊した時のみ同じ)。費用と手間を惜しんで失ったものは大きい。
事例は3例、“日本史サイエンス”と称するにはサンプルが少ない。続編・続続編が出ることを期待したい。
著者は三井造船に勤務、大型船、半潜水展望船、流氷砕氷船等の設計開発に従事、定年後は船の3Dイラストを生業としており(本書の中にも多数作品が描かれている)。2019年公開の映画「アルキメデスの大戦」では製図監修を担当している。
(写真はクリックすると拡大します)
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