<今月読んだ本>
1)ソコレの最終便(野上大樹);集英社
2)ロシアから見た日露戦争(岡田和裕)光人社(文庫)
3)民間軍事会社(菅原出);平凡社(新書)
4)発想の航空史(佐貫亦男);朝日新聞社
5)決断の太平洋戦史(大木毅);新潮社(選書)
6)日ソ戦争(麻田雅文)中央公論新社(新書)
<愚評昧説>
1)ソコレの最終便
-実在した巨大列車砲・装甲列車をモデルとする、ソ連満洲侵攻下の鉄道戦。巨砲は辺境要塞から大連に無事送り届けられるか?異色兵器の異色の戦いを描く異色小説-
私の戦争体験は1945年8月9日ソ連満洲侵攻の日から始まる。日本が米英支と戦っていることは知っていたが、首都新京(現長春)にその気配は全く感じられなかった。突然のソ連軍侵攻で、父を含む成人男子は即日召集、社宅の女子供は保安要員として残った男性社員に引率され、トラックを連ね南に疎開した。場所は公主嶺、ここに大きな工場があったからだ。終戦の報も疎開先で知ることになる。新京は戦場になっておらず平穏との情報がもたらされ列車で帰京、召集解除となった父とも再会できた。成長するにつれ公主嶺から新京へ向かう列車内の光景が不可解に思えるようになる。車内に大勢の民間人が既に乗車しており、彼等は満鉄関係者で内地へ引揚げる途上にあるとのことを、下車後大人たちの話で知る。しかし、列車は南下するソ連軍に向かって北上しているのである。何故南の大連に向かわなかったのだろう?後年満洲からの引揚を調べていて分かってきたことは、大連は満洲と日本を結ぶ要衝(満鉄本社の所在地でもある)、ソ連軍はここを目指して進撃中、避難民の思いも同じで街も集中する路線も大混乱、たどり着いても帰国の船がつかまる保証はない。鉄道と大連事情を熟知する彼等は、陸路朝鮮半島経由で帰国する道を選んだのだ。本書は、ソ連軍侵攻の日に始まる、ソ満国境東北端虎頭要塞に配備されている九十式24センチ列車加農砲を大連まで移送する物語である。大連を守るのではなく、本土決戦のためだ。
“ソコレ”とは装甲列車の略称。軍事技術に関心のある者にとって、装甲列車や列車砲もその対象ではあったがピークは第一次世界大戦、ドイツのパリ砲は射程が120kmもある怪物だった。しかし、鉄路と言う制約で、爆撃機や自走兵器(戦車、自走砲)が出現すると用済みとなり、第二次世界大戦まで実戦運用し続けたのは独・ソの二ヵ国のみ、それも限定的な戦場に補助兵器として投入されたにとどまっていた、と思い込んでいた。夕刊の短評で本書を知ったとき「日本にそんな兵器があったのか!」「作り話ではないのか?」の驚きの念が生じ、即入手となった。
本書は軍事サスペンス小説である。つまり作り話だ。しかし、登場する九四式装甲列車、九十式24センチ列車加農砲、鉄路・道路両用の九一式広軌牽引車は実在し、満洲を中心に中国戦線に投入されていたことは事実である。小説の中でこれらを運用する部隊は鉄道第四連隊(牡丹江駐屯;主力は中国戦線で作戦中)所属の一〇一装甲列車隊(マルヒト・ソコレ)となっているが、この列車隊存否は確認できなかった。隊長は故あって昇進の遅れた陸士出身の大尉(29歳)、隊員数は90人、虎頭要塞で列車砲を受け取ると砲輸送隊員(輸送班長は少尉)がこれに加わるので、中隊規模になる。指揮系統は命令を受けた時点で関東軍直轄(作戦課→列車隊長)。
事実関係を補足すると;虎頭要塞は東部ソ満国境最強の要塞、この列車砲以外にも日本陸軍最大口径の試製41センチ榴弾砲を備え、松花江の鉄橋を射ち落している。九十式24センチ列車加農砲は、1920年代後半東京湾防衛のためフランス(シュナイダー社)から砲本体を輸入、付帯システムは独自開発して富津岬に設置されていたものだ。1930年代半ば列車砲に改造、虎頭に送られている。射程は大和主砲より長く50km。列車砲は1両ではなく弾薬車・動力車(砲操作電源用2両)・観測車・通信車・予備品車などから成り、これを装甲機関車で動かすことになる。実際には要塞配備後この砲は移動しておらず、陥落後ソ連に持ち去られたようだ。
九十四式装甲列車は1933年に満鉄で開発開始、1934年完成。編成は先頭から、警戒車・火砲車3両(甲・乙・丙;搭載砲が異なる)・指揮車・機関車・炭水車・電源車となる。炭水補給なしでの行動距離は150km、時速は平地で60km/時。数編成あったが正確な数は不明。本書の中に、マルヒト・ソレコ運用の“老ソコレ”なる年式不明装甲列車が登場するが、試作を含めこれに該当するものは見つからなかった。著者の創作と思われる。
一〇一列車隊基地はハルビンとウラジオストクを結ぶ旧東清鉄道(シベリヤ鉄道の短絡線、満鉄買収)の中間点、牡丹江に在る。虎頭はその北東、松花江を挟んでソ連領イマンと対峙する位置だ。当初の回収・移送計画は牡丹江→虎頭(列車砲接続)→牡丹江→ハルビン→新京→大連のルートを想定、8月16日に大連を出港する船に24センチ列車砲を積み込むことになっている。しかし、侵攻は急激に状況を変え、路線も列車も計画通りに運行することなど出来ない。迂回路を探したり、老ソコレで牽いてきた列車砲をハルビン東北の綏化(すいか)で九十四式装甲列車に繋ぎ変えたり、寝返った満洲国軍に襲われたり、虎頭で便乗してきた軍医を731部隊(細菌戦部隊)の根拠地平房(ビンファン)に送り届けたり、と予期せぬ出来事が次々に起こる。クライマックスは大連を前にそこに直行せず手前の大石橋で中国本土に向かう営口線に乗り入れてソ連の装甲列車と一戦を交えるところだ。
兵器と鉄道、二つの趣味を同時に味わえる作品だった。著者が意図したか否かは不明だが、最強兵器を本土決戦のために満洲から持ち去ることは、他の兵器・兵員も同じ。満洲は本土の捨て石だったことを象徴しているととるのは下衆の勘繰りであろうか?
著者名は初めて目にするものだったが、著者紹介から霧島兵庫名で既刊があることを知った。本欄でも以前「二人のクラウゼヴィッツ」(新潮文庫)を取り上げている。前作も含め、小説としての面白味は今一つだが、軍事に関する新知識を得られるし、戦闘場面はそれなりに臨場感がある。それもそのはず、1975年生れ、防衛大学校卒、軍事専門家である。本書は名義変更後初の刊行作。
2)ロシアから見た日露戦争
-ロマノフ王朝批判のはけ口、軍事同盟国フランスの後押、けしかけるドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、日露の疲弊を密かに期待し中立建て前の英米。日露戦争の背後にある複雑な国内事情・国際関係を暴く-
日露戦争を描いた著作といえば、何と言っても司馬遼太郎の「坂の上の雲」だろう。私の書架にも全6巻が収まっている。評論、対談・鼎談、歴史エッセイ、紀行文などノンフィクション作品は多数読んできたものの、小説は「坂の上の雲」が最初にして最後である。作者の思い入れがひとしおで面白さは抜群だが、それ故に史実を誤る恐れありと感じたからである。この本に出合う遥か以前、古参課長が戦記物ファンである若造に「この本、君向きだぞ」と貸してくれたのが日本海海戦にバルチック艦隊の一水兵として乗組んでいたノビコフ・プリボイの「ツシマ(原題)」(1941年スターリン賞受賞)である。風説によれば司馬も日本海海戦を著す際にこの本を参照したということだが、その違いは大きい。大海戦どころかウラジオストクへ逃げこむことすら難しい状況下にあったのだ。先月「新・幕末史」を読み、幕末・維新に対する諸外国の国家戦略・外交政策を知り、内側から見る歴史との違いを痛感した。本書を読む動機もそれと同趣旨である。「向こう側から見るとどういう戦争だったのか」
著者は1937年満洲生れ。スポーツ紙、出版社勤務を経て文筆業に転じた人。満洲物が多く、市井の歴史研究家といったところか。
日清戦争に勝利した日本は遼東半島を得るが、三国(露・独・仏)干渉で返還を余儀なくされる。にもかかわらずロシアはそこを租借、満洲の鉄道敷設権を獲得するばかりか、要塞・軍港を築き軍隊まで常駐、さらに朝鮮半島への進出をうかがう。これに対する日本の抗議にも真剣に取り組まず、外交交渉は行き詰まる。日本側の開戦理由はおよそこんなところである。
ロシアではニコライ二世を含め、当初は戦争まで考えていない。のちにポーツマス講和会議の首席となる当時の蔵相ウィッテも満州経営を優先すべきとの考えである。しかし、ロマノフ王朝に対する批判は日ごとに高まっており、国民の不満を外に向け、朝鮮開発や満洲利権を農民・大衆に与えことで、それをかわそうという意見が強くなっていく。さらに、狡猾な独皇帝ヴィルヘルム二世がこれを煽る。統一成ったドイツ帝国の次なる野心は東欧・バルカン。その懸念材料は仏露同盟、露の軍事力が極東に向かえば独の東方進出の負担が軽くなるとの考えだ。加えて、革命勢力も戦争による国内混乱をチャンスと見ている。慎重だったニコライ二世も日本の宣戦布告を待って、戦うことを決する。列強に侵略者の烙印を押されぬための配慮だ。そしてその列強では、シベリア・満洲開発に資本投入している仏が露を押し、米英は満洲利権を独占する露を快く思わず、日露が戦うことで両者が疲弊することを期待している。セオドア・ルーズベルトに依る講和仲介は、決して善意からではなく、国益(「機会均等」「門戸開放」の真意)のためだったのである。
本書では会戦・戦闘場面の記述は抑えられ、背景となる露国内外の政治・社会情勢を深耕するので、皇帝を始め側近侍従・高級官僚・軍司令官などこの戦争に関わった人物の人となりや言動が、手記や回想録をもとにクローズアップされ、そこに面白さがある。
ニコライ二世の世評は「人の意見はよく聞くが、自分の意見もよく変えた」つまり人の意見に左右されやすい人物。この人の妃は英ヴィクトリア女王の孫、独皇帝ヴィルヘルム二世はヴィクトリア女王の初孫だから、血はつながらないものの、両皇帝は従弟と言うことになる。独皇帝が年長(9歳)だからその影響は強かっただろう。ポーツマス講和の後帰国途上にあったウィッテは独皇帝に拝謁しているが、その日のことを「皇帝の助言が我がロシアの敗北となり、ドイツは大成功を収めている」と姦計をしっかり見抜いている。
そのウィッテは下級官吏の子だが、才覚を早くから認められ鉄道局長、大蔵大臣と出世し、1892年から開戦前年の1903年まで10年もその地位にある。しかし、吝嗇で個人の蓄財に励み反ウィッテ派によってその地位を奪われる。それでも、能吏ゆえに講和代表に選ばれ、賠償を認めず講和に達したことが評価され、帰国後閣議議長の地位に就くが南樺太を日本に割譲したことが不興を買い、やがて失脚する。
満洲軍総司令官クロパトキンの前職は陸軍大臣、この時は開戦派であったが、1903年国賓として訪日、そこで日本軍の認識を改め慎重派に転じている。にもかかわらず総司令官を命じられるが、奉天会戦に敗北、反撃の人員・物資の補給を待つためハルビンまで撤退、これを敗走と受け取られ総司令官を解任される。彼の回想録は言い訳・泣き言に満ち満ちている。旅順要塞敗軍の将ステッセルは我が国では名将だが、ロシアでは要塞を統率する能力などない愚将の評価、乃木希典を名将にするための日本神話に過ぎないようだ。
日露戦争に関する歴史教育では早い段階から「あれはロマノフ家の敗北であり、ロシアが負けたわけではない」となっており、共産党独裁下でさらにそれは徹底され、今日に至っている。
著者はロシアの特質についてウィッテ回想録から引いている。「武力以外は何もないロシアの後進性」と。これはロシア観に欠かせぬ箴言だ。回想録は当時のロシア統治体制批判が生々しく記されており、生前他者の眼に触れることを恐れ仏銀行に預けられ、死後最初は仏で出版、革命後の1920年代露語版が母国で発刊された。
本書が書かれたのは2011年、ウクライナ戦争遥か以前だが、ウィッテの指摘はその後も変わらず、プーチンまで脈々と続いている。
3)民間軍事会社
-輸送・医療等後方サービスから始まった軍の民営化、テロ対応警備・警護を経て今や最前線の戦闘請負まで発展。その歴史的変遷と専業企業の実態を明かす-
ロシアの石油市場開拓を進めていた2004年、二度大規模なテロ事件に遭遇した。2月のモスクワ地下鉄爆破事件、9月の北オセチア共和国における中学校人質事件がそれらで、いずれもチェチェン共和国独立派の犯行であった。このとき日本大使館はロシア滞在者にテロ警告情報を発し、危険個所として真っ先に挙げられたのが石油関連施設。それまでにかなりの数の製油所を訪れていた者にとって、いささか違和感を覚えるものだった。製油所のガードは極めて堅く、迷彩色の軍服をまとい、自動小銃を持った男たちが入口を固め、厳しいチェックを受けるのがつね。近接した別棟に彼らの本部があり、非常時即応体制もしっかりしており、街中よりはるかに安全な感がしたからである。ソ連時代製油所は軍の管理下にあり、軍民一体の製油所管理が行われ、ソ連崩壊後セキュリティ部門は分割民営化されたものの、組織・人材はソ連時代と変わらぬと聞かされた。そしてこの民営化された組織は、外部のものから見れば、日本の警備会社とは大違い、当に軍隊である。ウクライナ戦争で一躍名を挙げたワグネルもロシア企業、それも取り上げられていることを知り読んでみることにした。時節に便乗したジャーナリスティックなものではないかと危惧したが、予想に反ししっかりした内容だった。
著者は1969年生れ。国際政治アナリスト・危機管理コンサルタント。中央大学法学部を卒業後アムステルダム大学大学院で国際関係学修士号を取得している。この大学院時代、研究の一環として海外民間軍事会社と関わるようになり、卒業後英国のこの種の会社に在籍、日本法人の役員も務めており、本書の中でその体験も具体的に紹介される。
戦場は、戦闘が行われている「最前線」、一応平定されているが敗残兵やゲリラの活動が残る「前線」、最前線・前線を支える「後方」から成るとする。この内「後方」は武器を含む軍需品・兵員輸送から始まり、基地建設、給食・清掃・洗濯、医療などがあり、早くから民営化が進んでいた。これが今では、基地警備、要人や輸送警護、兵員訓練など「前線」の領域からさらに「最前線」で戦闘を請け負うところまで業容が拡大している。変化の萌芽はヴェトナム戦争、徴兵制が志願制に変わったところにあったとする。この流れが一気に加速したのが冷戦崩壊後、各国とも安全保障に対する関心が低下、予算削減に走ったからである。しかし、超大国の戦略が核を離れると通常兵器による民族紛争や国境紛争、テロが多発、脅威の質が変わったこともあり、軍隊の役割自体が多様化し「最前線」まで民営化が進んだのだ。
軍の民営化以前に需要があったのが政情不安な地域でビジネスを行う企業へのセキュリティサービス提供。このような地域に早くから進出していた英系メジャー(石油、鉱物資源)が英特殊部隊(Special Air Service;SAS。第二次世界大戦中落下傘降下に依る後方かく乱を担当)の退役者から成る民間軍事会社(Private Military Companies;PMC)と結びつく。やがてこのような企業に、反政府活動鎮圧に苦慮するアフリカ諸国が訓練から戦闘まで依存するようになり、「最前線」から「後方」まで丸ごと請け負う会社が出現してくる。英国のDSL(Defense Systems
Limited)社、米国のブラックウォーター社、トリプル・カノピー社、ヴィネル社、南アのEO(Executive
Outcome)社、そしてロシアのワグネルなどが、アフリカ内戦のみならず、アフガン戦争、イラク戦争、シリア内戦などで存在感を示すことになる。そして紛争当事国や企業所属国で存在感が増すに連れ、政府の“汚れ仕事”を請け負うことで利権を手にしていく。プーチン大統領に弓をひき暗殺(?)されたブリゴジンの莫大なアフリカ利権は大統領の手に帰したと著者は見ている。
本書は中国のそれにも紙数を割くが、他の国とは大違い。一帯一路を進める過程で中国人外交官、ビジネスマン、労務者が誘拐・襲撃されるケースが増えている(特にアフリカ)。中国にも民間警備会社は存在するが専ら自国民保護が目的、武器携行は小火器に限られ、本格的な武装民間軍事会社など反乱を恐れ存立し得ないのが実状らしい。ワグネル事件でそれはさらに強まった、と著者は見る。
ここまで、武器を直接取って戦う戦場を対象にするPMCを紹介してきたが、新たな戦場が浮上してきている。宇宙やサイバー空間だ。ここは高度技術を要するため、民間技術者の協力が欠かせず、この面に特化したPMCの出現についても本書の中に触れられている。
さて日本である。無論ここで取り上げられるような民間軍事会社など存在しない。しかし、出先機関や自国民保護のため、セキュリティに関しこのような世界とつながりを持つっておくことは重要だ。問題は友好国の政府関係者もPMCのメンバーも特殊部隊出身者(英SAS、米陸軍デルタフォース、米海軍シールズなど)中心で仲間意識が強く、当該組織(海外での特殊軍事活動)を欠く我が国は、この種のセキュリティ・コミュニティとは疎遠(警察は外事警察でつながっているが)、関係強化に務める必要ありと提言する。
PMCの歴史的変遷、個々のPMC創設背景と具体的活動、特定国家の政情・軍事事情、ワグネルのような最新話題、参考文献も確りしており、PMCの何たるかを理解する入門書としてお薦めできる。
4)発想の航空史
-第二次世界大戦中ドイツに滞在した航空技術者による、航空史を飾った名機たな卸し。ライトフライヤーから零戦・B-29、ジャンボ・コンコルドまで-
父が自動車会社勤務ということもあり、幼児の時から自動車は身近な存在、免許は返納したもののクルマへの関心は今につづく。所有したクルマは9台に過ぎないがこの内3台はドイツ車、米国出張で借りたレンタカーはすべて米車だった。英国に滞在した時は既に英国製大衆車は無く、専らプジョー(仏)やフィアット(伊)を利用した。国産車はトヨタ、日産、ホンダ、日野など多様、軽自動車から2座のスポーツカーまで多種の車を乗り継いだ。このささやかな自動車体験からも、それなりに国民性を感じたものである。アメ車のパワーといかつさ、個性の強いフランス車(例えば、シトロエン社2CVやルノー・カングー)、イタリア車の華麗あるいは可愛いデザイン、堅実性がときに傲慢と映るドイツ車、個性を抑えた高信頼性の日本車、などが私の各国自動車観だ。対象を航空機に転じその発展史にお国柄を浮かびあがらせるのが本書の内容である。
著者は既に故人(1908年~1998年)となった航空技術者・学者(1931年東大航空学科卒、東大名誉教授)。飛行機以外に山歩きやカメラなどの著作も多く、1969年には「引力とのたたかい-とぶ-」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。本書の出版は1995年、航空関係の著作としては最末期のものである。
つぎつぎと興味深いエッセイをものにしてきた背景に、ユニークな経歴があり、それが本書にも反映されている。戦前の我が国航空機開発は事実上東大航空学科卒業者が担ってきた。学科は大別すると機体とエンジンに分かれていたが著者はプロペラを専攻、航空機メーカーや陸海軍でなく日本楽器(ヤマハ)に就職する。ここで、プロペラの可変ピッチ(飛行中プロペラ角度を変える)機構の開発を担当、1941年ユンカース社の技術を導入するためドイツに派遣される。6月独ソ戦開戦、12月太平洋戦争開戦となり帰国が叶わず、1943年末までドイツに滞在、トルコ・ソ連(日本とは中立関係)経由で帰国する。滞独中刻々変わる戦況の下、ドイツは無論、英・米、ソ連、イタリア等の航空技術に触れ、戦後その体験を数々の単行本や航空誌に著している。本書もその一冊、第二次世界大戦機にとどまらず、ライトフライヤーから1990年代の旅客機まで300機近い航空機を、独断と偏見(ドイツ贔屓であることを明言)で分析・寸評する。
“発想”の着眼点は、技術、用途・用法、機体デザインなど機によって異なり、背景は国情ばかりではなく、創業者や経営者、設計者にも言及、飛行機を論ずることもあれば個人を主役とする話もあり、ワンパターンではない。むしろその違いが読みどころとも言える。特に日本機の設計者は著者の知人・友人が多く、人柄と機の関係記述は興味深い。
ライト兄弟により人類初の飛行を成功させたにもかかわらず、米国は第一次世界大戦後1920年代まで航空後進国、その最大の理由はライト兄弟(特に兄ウィルバー)にある。米国特許を取得し、ライバルたちの航空界進出をことごとく封じたからだ。特許のポイントは旋回に際し両翼後端をひねるところにある。現在でも重要な役割を担う補助翼につながる発想である。著者によれば、これは鳥の飛翔と同じで自然界の原理、本来特許の対象にならないものだと言う。第一次世界大戦中飛行士訓練用に英国製練習機を国産化したものが戦後民間に放出され、リンドバーグのような冒険飛行家が利用、やがて自国機開発につながり、ニューヨーク・パリ間無着陸飛行を成功させ航空機開発の最前線に出てくる。
第一次世界大戦時のトップランナーはフランス、それをドイツが追う形だ。大戦前両国はライトの翼端ひねり特許を無効とし、フランス機は英仏海峡横断を成功させ、優れた開発者がつぎつぎと現れる。英国も大戦初期には仏機のライセンス生産から始めているほど仏は先進的だった。大戦末期には高性能の英戦闘機も戦線投入されるが、仏機とくらべデザインに面白味皆無と著者は酷評する。
戦間期仏は左傾化した人民戦線内閣の下でマジノ線構築を除けば軍事費は抑えられ、一部民間機(レース、冒険)を除き仏航空界は低調をきたす。一方ヴェルサイユ条約で厳しい制約の下に在ったドイツ航空界は、民間航空やスポーツ航空を隠れ蓑にして着々と軍事航空復興の方策を講じていく。開戦時独仏空軍力の差は決定的で1940年西方作戦ではなすところなく仏空軍は壊滅する。一方、英国は第一次世界大戦中のロンドン爆撃から、島国であることの安全性が航空機によって脅かされることを学び、ナチス政権誕生後、防空と長距離爆撃を基本戦略とする空軍構築に邁進する。スピットファイアー戦闘機とランカスター4発爆撃機はその象徴と言える。対するドイツ空軍は陸軍国の発想が大勢を制する。ナチスNo.2のゲーリング航空相、技術部長のウーデット、いずれも第一次世界大戦の戦闘機乗り、空戦と対地支援を重視した空軍作りに励み、戦闘機の主力はメッサーシュミットMe-109、爆撃機は双発のハインケルHe-111やユンカースJu-88など、いずれも渡洋空戦には航続距離が充分でなく英独航空戦に敗れる。もう一つの島国である米国の陸軍航空軍は英トレンチャード元帥が提唱する戦略空軍を目指し4発重爆撃機開発に力を注ぐ。その成果物がドイツの息の根を止めたボーイングB-17であり、東京以下の大中都市を破壊し尽くし、原爆を投下したB-29である。
太平洋戦争を代表する我が国軍用機は零戦、戦争前半では華々しい活躍をしたものの、後半は息切れしてくる。Me-109やスピットファイアーが強化発展して終戦まで一線にあったことと対比して問題点を探る。空戦性能と海洋国ゆえの長大な航続距離要求が余裕のある機体開発を阻害し強化発展の余地が無かったとする。後続機として期待された艦上戦闘機烈風の設計主任も零戦と同じ堀越二郎、何と同時に局地戦闘機雷電の開発も担当させられていたのだ。著者は、雷電は中止し烈風に専念させるべきだったとする。
日本機でやりきれない思いをさせられるのは陸軍の三式戦闘機飛燕の話。エンジンはダイムラーベンツ社が開発しMe-109を始め多くの名機に採用されていたDB601液冷V12気筒をライセンス生産し搭載する。このクランクシャフト生産が国内で軌道に乗らず、独駐在の著者に生産工程を調査することが命じられる。材料(ニッケルを多用)、工作機械(鍛造プレス機、研磨機)が国内で使われているものと段違いの高性能、図面だけ買っても同じものを作ることができないと痛感させられる。エンジンを欠いた機体に空冷エンジンを換装、五式戦闘機として活用せざるを得ないことになる。当時の日本の技術とはこの程度のものだったのだ。
独ソ戦開戦当初の独空軍は向かうところ敵なしの状態。しかし、戦局が進むにつれ戦車戦同様ソ連が巻き返していく。その中心となるのがイリューシンIℓ-2シュトルモビク地上攻撃機、37m機関砲を備え装甲が総重量の15%を占める、空飛ぶ戦車とも言える攻撃機、クルスク大戦車戦では独パンター戦車、タイガー戦車も抵抗できなかったと言う。こんな機をソ連は3万5千機(全軍用機生産の約1/3!)も戦場に送り出しているのだ。ソ連の発想侮るべからず、が著者の警句だ。
第二次世界大戦機を中心に内容紹介をしたが、朝鮮戦争のMIG-15(ソ)、F-86(米)、ヴェトナム戦争のF-4ファントム、湾岸戦争のステルス戦闘機F-117など戦後の軍用機ばかりか、ジェット旅客機の嚆矢コメット、B-747ジャンボ、超音速旅客機コンコルドまで多機済々、独特の筆致で俎上にのせる。久し振りに佐貫節を楽しんだ。
5)決断の太平洋戦史
-知将・勇将・猛将・愚将、評価が定まっていた日・米・英12人の指揮官・司令官を最新情報で見直す-
多くの日本人にとり8月はあの戦争を振り返る特別な月。小中学校の同級生には3月10日の東京大空襲で身内を失った者もいた。また、後年南方方面で父親が戦死した友人にも出会っている。父を含め父母の兄弟は徴兵年齢になると応召し、外地に遠征した者もいるが、皆無事に帰還・除隊し、天寿をまっとうした。そんな周辺環境から、私のあの戦争に対する思いは、自ら体験したソ連侵攻に極端に偏っている。それもあり今月はソ連・ロシア関係が3冊にもなってしまった。少し、太平洋戦線全域に眼を向けてみよう。そんな思いで本書を手にした。
著者は1961年生まれの戦史研究家・作家、既に何冊も本欄で紹介、直近では6月に掲載した「勝敗の構造」(真珠湾攻撃を含む11の作戦)がある。多くの著者作品を読んできた理由は、年々第二次世界大戦に関する戦史出版が少なくなる中で、新しい情報に基づく著作を出していることにある。その情報源は、ドイツ留学の経歴もあり、英米だけでなく独ソを含み、必ずしも抜本的とは言えないものの、先の大戦に関する固定観念を改める機会を与えてくれるのだ。例えば、初めて読んだ「独ソ戦」(岩波新書;2019年8月紹介)では、開戦や作戦展開をヒトラーの独断とする史観が大勢を占めるのに対し、「ヒトラーの“東方生存圏”から発したものではなく、国防軍も積極加担した絶滅戦争だった」と国防軍善玉説に異をとなえる。
本書の対象は太平洋戦争(中国を含む)、日米英計12人の指揮官・司令官を取り上げ、愚将・勇将・知将と既に定まっている彼らの再評価を試みる。評価の着眼点は二つ、一つは戦争の階層;戦略・作戦・戦術レベル、もう一つはそれぞれの国・軍の指揮統帥文化(コマンド・カルチャー)である。
取り上げられる人物は;アーサー・パーシバル陸軍名誉中将(英)、三川軍一海軍中将、神重徳海軍少将、アリグザンダー・ヴァンデグリフト海兵隊大将(米)、北條圓了軍医大佐、クレア・シェンノート空軍名誉中将(米)、小沢治三郎海軍中将、ウィリアム・ハルゼー海軍元帥(米)、酒井鎬次陸軍中将、山下奉文陸軍大将、オード・ウィンゲート陸軍少将(英)、カーティス・ルメイ空軍大将(米)。
この内軍事作戦に直接関わっていないのは、北條圓了軍医大佐と酒井鎬次陸軍中将。前者は細菌研究者で731部隊所属、細菌戦確信犯、渡独した際絶滅収容所での適用を示唆した可能性がある。後者は近衛文麿のブレーン、陸士で恩賜の銀時計、陸大で恩賜の軍刀拝受のエリート、総力戦の信奉者(非戦論者)、戦車部隊集中運用をとなえ東條(分散歩兵支援)と対立、のちに東條内閣倒閣を画策し予備役に追い込まれた人物。
残り10人をすべて紹介するわけにはいかないので、対峙した敗軍の将と勝者二人に絞り、著者がどこに着目し従来の世評を改めようとしたかを記してみる。
敗軍の将はシンガポール陥落の責を負わされ、愚将と蔑まれてきたパーシバル。オックスフォード大出とは言え一兵卒から方面軍司令官まで登りつめた人物、降伏するまでの道は見事なものだ。英国官界(軍人、外交官、高級官僚)の限られたエリートが学ぶ帝国国防学院も卒業。陸大卒後は参謀畑が長く、1936年にはのちに司令官となるマレー方面軍参謀長も務めている。この時対日戦研究を命じられ、「タイとマレー半島北岸に上陸、空軍基地を抑え南下し、シンガポールを裏から攻略する」と報告している。当に5年後の日本軍作戦通りである。英大陸遠征軍でドイツと戦ったのち1941年マレー方面軍司令官に就任。彼の対日戦略は従前の研究通りで半島方面の強化を望むが、本国は欧州優先でアジアは二の次、シンガポールの防衛は海を固めれば良しとの考え。陸軍主力のインド軍は錬成中で半島配置のインド軍では反英活動も活発化、ついにシンガポールは陥落する。著者のパーシバル弁護論はこの本国の戦略に向けられ、チャーチル始め英国トップを難じることになる。これは最近の英国における戦史研究も同様らしい。
勝者は山下奉文。パーシバルを前に「イエスかノーか」と迫るシーンから猛将のイメージが強い。しかし、著者は「治世(平時)の能吏」が本質と見る。陸大を6番で卒業、恩賜の軍刀を拝受、陸軍省勤務(軍政)が主体で情報畑(ドイツ班)が長い、この間欧州に長期滞在、オーストリア兼ハンガリー駐在武官も務めている。ただ、陸軍省情報部長時代二・二六事件が起こり、首謀者たちの裏に居た皇道派の一人と見做され天皇の不興を買う。軍中央が統制派だったこともあり、日中戦争の渦中に投じられ、ここで初めて戦場体験(旅団長)するが、見事な作戦指揮が評価され、再び陸軍省に航空総監兼航空本部長として返り咲く。1941年には第二次世界大戦中の欧州(独伊)派遣視察団団長、陸軍近代化の要を痛感「対ソ・対米戦は隠忍自重して、軍の近代化を図るべし」との報告書をまとめている。1941年11月第25軍司令官としてシンガポール攻略を任され、作戦次元でも優れた力量を示す。「本来は戦略の人だったが、その次元の能力は活用されずに終わった人」が著者の結びである。つまり、“猛将”だけで語りつくせない軍人だったのだ。
個々の人物紹介にたびたび触れられる“指揮統帥文化”について、事例を二つ紹介しておきたい。指揮命令;指揮や戦闘に関する教義(ドクトリン)はどの国も備えているが、上から下まで教義墨守の軍から、それぞれのレベルで相当自由度がある国まで様々だ。第二次世界大戦で兵士が戦闘で最も強かったのは独軍と言われている。その因は状況に応じた指揮命令・戦闘の自由度にあったようで、戦後米軍はこれを徹底研究、臨機応変を旨とするよう教義に改定してきている。人材登用;米には一般大学に予備将校訓練団(ROTC;Reserve
Officers’ Training Corps)があり、軍学校卒業者だけが将官・司令官を務めたわけではない。戦後空軍参謀長まで昇進したカーティス・ルメイ大将はROTC出身。英軍では敗者復活や異端児・一匹オオカミを生かす道が出来ている。典型例はビルマ援蒋ルート開削・維持で活躍したウィンゲート少将。中東在任中イスラエル建国を目指すシオニスト・グループを支援して左遷されるが、ゲリラ戦の知見が評価され、インド・ビルマ・中国国境域で戦う挺身隊指揮官として活躍する(戦死)。米英とも、士官学校・兵学校の成績が終生ついて回った日本軍とは大違いだ。
初出は新潮社読書誌「波」に連載されていたもの。中心テーマは“人”にあり、一人一話で構成されているので、短編小説を読むような面白味が味わえた。
6)日ソ戦争
-開戦から終戦までわずか数週間の戦争、太平洋戦争とは異なる戦争と位置付け、その裏面を外交面・戦線両面から探り、ソ連(ロシア)の戦争文化をつきつめる-
満洲で刷り込まれた悪印象か因で、根っからのロスフォビア(Russophobia;ロシア嫌い)である。一時期ロシアビジネスに従事していた時には随分改善され、当時付き合ったロシア人に悪意は全く持っていないが、その後のプーチン治世で全体としてのロシア・ロシア人観は原点に戻った。だからこそソ連物・ロシア物には惹かれるものがある。本書もそんな動機で購読した。
広告で題名を見た際「ウン?」となった。“日ソ戦争”が見慣れぬ言葉だったからである。一瞬幕末から始まる日露(ソ)紛争・戦争通史かと疑ったが、やはり8月9日に始まる一方的侵攻がテーマだった。題名理由が書き出しに記されている。日本ではこの戦争に特別な名前を付けていないがソ連(ロシア)は“ソ日戦争”と正式に名付けていること、戦争の形態が太平洋や中国の戦いとは全く異なることからそうしたと。
著者は1980年生れ、岩手大学人文社会科学部准教授。専攻は近現代日中露関係史、既刊の著書はすべてロシア(ソ連)、満洲、中国に関わるものである。
ソ連の対日参戦は1945年2月のヤルタ首脳会談で決まったことは明らかだし、ソ連もそれを正式参戦理由としている(火事場泥棒でないことの言い訳)。また、同年7月のポツダム会談はそのダメ押しの場になったこともよく知られている。本書にもこの二つの会談が取り上げられているが、結論よりは会談前後の米英ソ外交戦に多々教訓が秘められており、本書がそこに着目し詳述・解説するところに、読み甲斐を感じた。
ヤルタでローズヴェルトがスターリンに対日参戦決断を迫ったことはよく知られるが、彼が駐米ソ連大使に日本爆撃の可能性を問うたのは、何と真珠湾攻撃の遥か以前1941年7月のことである。ソ連を利用して日本を叩くことを、早くから構想していたのだ。この構想具体化検討は米国内でその後継続され、1943年8月には統合参謀本部が以下のようにまとめている。「ソ連はいずれ対日戦に介入する可能性は高いが、ドイツの脅威が取り除かれるまではそうしない。その後は、己の利益を考えて決断し、わずかな犠牲で日本が負けると思ったときだけ介入する」と言うもので、見事に2年後を予見している。
1943年11月のテヘラン会談でローズヴェルトは参戦を打診するが、スターリンは「ドイツが崩壊した時だろう」と確答しない。前向きの発言は1944年10月チャーチルがモスクワを訪問した時初めて発せられ、見返りを要求する。戦いのための兵站支援と日露戦争で失った満洲の利権(旅順・大連、鉄道)、南樺太返還、千島列島の獲得、がそれらである。チャーチルからこれを伝えられたローズヴェルトは「どんなことでもしなければならない」と答える。結局これがヤルタ会談で正式合意となる。
ヤルタ会談の2か月後ローズヴェルト死去、大統領はトルーマンに変わる。対日戦勝利が見えていること、原爆開発が進んでいること、東欧・バルカンでの勢力圏線引きで冷戦がはじまっていること、を理由にトルーマンはソ連参戦不要をとなえる。これに強く抵抗するのが陸軍参謀総長のマーシャル大将、本土決戦の被害を恐れてのことである。やむなくトルーマンも陸軍の意を受け入れる。
1945年7月17日~8月2日対日戦を論ずるために首脳がポツダムに集まる。ドイツ降伏は5月8日、ヤルタの約束ではそれから3か月後ソ連参戦が決まっていた。8月9日がその日だ。しかし、スターリンは準備不足を理由に8月15日に延期することをトルーマンに告げる。では、なぜこれが原案の8月9日に戻ったのか?ポツダム宣言にソ連は署名していない。トルーマンはソ連が日本と中立条約下にあることを逆手にとり、ソ連を考慮せず宣言してしまったのだ(モロトフが抗議するが後の祭り)。日本はソ連が宣言に加わっていないことを都合よく解釈、ソ連に終戦仲介を懇請する。ソ連にすれば敗戦を認めているも同然、「ぼやぼやしていると参戦前に日本は降伏してしまう。それでは見返りが反故になる。一日も早く戦い連合国の一員となって獲物にありつこう」こうして8月9日満洲・南樺太・千島列島への侵攻がはじまる。
軍事作戦については全体で4章の内2章を割く。一つは満洲(朝鮮半島を含む;この部分も一読の価値あり)、もう一つは南樺太・千島列島。ソ連侵攻を対象とする著作の多くが満洲を中心に書かれているのに対し、南樺太・千島列島の戦いを詳述しているところが他書との違いだ。特に、千島列島は他の戦場と異なり、米ソの間で明確な線引きが出来ておらず、今日まで北方領土問題を引きずる結果になる。満洲全土と朝鮮半島38度線以北はソ連の支配域、南樺太はソ連に返還(return)と明記されているが、千島列島は引き渡す(hand over)となっており、どこまでとは記されていないのだ。千島列島に関する米国の認識が曖昧だったことが背景にある。もう一つの問題は“戦争の終わり方”の難しさだ。政治的な決着と最前線の戦闘停止は簡単に同期しない。中央から離れた僻地で注目もされない戦場では情報遅れや内容解釈に差が生じ、歯舞・色丹まで攻め込まれてしまったのだ。ソ連は北海道も狙っていたが、米軍が一歩早く乗り込み、分割占領の口実を与えなかった。
この千島の章で、私としては初めて知った、驚くべき数字がある。米国からのソ連支援物資輸送ルートは、北極海経由の北方ルート、ペルシャ湾からの南方ルート、それに北太平洋を横断する東方ルートの3ルートがあるが、何と東方ルートが47%を占め、千島列島横断・宗谷海峡通過で178隻の輸送船が日本海軍によって拘留(中立国船籍か?)され、9隻(連合国籍だろう)が撃沈されたとある。
スターリンは日本の復讐を恐れ、北海道占領による米ソ分割統治、東京をベルリン同様共同管理、占領軍最高司令官は二人としマッカーサーと同格のポストを極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキーにも与えることを求めるが、トルーマンは一蹴する(これ以前米側(統合戦争計画委員会)にも米英中ソ4カ国による分割統治案があり、北海道・東北地方をソ連占領下に置く計画があったが、これもトルーマンがボツにしている)。原爆投下決断者として評判の悪いトルーマンだが、対ソ戦略視点において、ローズヴェルトより遥かにましな大統領だったのである。
総括として、自軍将兵の命すら尊重せず、軍紀が緩いことから発した避難民への蛮行・虐殺、不法(国際法・条約・憲章無視)な領土奪取やシベリア抑留、はロシア“戦争文化”の象徴と断じ、現代への教訓とすべしとする。これは2)ロシアから見た日露戦争の中で紹介したウィッテ回想録の「武力以外は何もないロシアの後進性」と重なる。旧ソ連復活を目論むプーチンの言動もまさにこの通り。時が経ち政治体制が変わっても脈々と続くロシアの本性なのだ。8月のトリに相応しい論旨、読めば私の“ロスフォビア”観が理解いただける気がする。
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