<今月読んだ本>
1)SIZE(バーツラフ・シュミル);NHK出版
2)グッドフライト・グッドナイト(マーク・ヴァンホーナッカー)早川書房(文庫)
3)知っていそうで知らないノーベル賞の話(北尾利夫);平凡社(新書)
4)パナマの仕立屋(上、下)(ジョン・ル・カレ);早川書房(文庫)
5)アファーマティブ・アクション(南川文里);中央公論新社(新書)
6)ナットとボルト(ロマ・アグラワル);草思社
7)Blue Impulse
& the Counterparts(瀬尾央編);エアーワークス(写真集)
<愚評昧説>
1)SIZE
-大が総じて有利な社会、本当にそうなのか?プロポーションは?効率は?人類から超高層ビルまでSIZEの意義を考える-
1953年(昭和28年)、伊東絹子と言うファッションモデルが米国で開かれたミス・ユニヴァース・コンテストで3位に入賞した。科学の湯川秀樹、スポーツの古橋廣之進と並び、敗戦に打ちひしがれた日本人に自信を与えくれた一人と言える。そして新しい美の評価基準を知らしめた人物でもある。八頭身、頭部が全体の1/8となるプロポーション、顔を中心とした我が国古来の美形と異なる視点を知ることになる。
本書のタイトルは“ SIZE”、人間の諸元にとどまらず、旅客機の座席間隔、スーパー・タンカーの限界、宇宙の広がり、半導体の密度まで、思わぬ切り口でSIZEを語っていく。
著者は1943年チェコスロバキア生れ、1969年のソ連軍進駐で米国に亡命、ペンシルベニア州立大学で地理学博士号取得、現在カナダマニトバ大学特別栄誉教授、カナダ王立協会フェロー。専門は、エネルギー、環境変化、人口変動、食糧生産、技術革新、公共政策と広範。実は既刊の「Numbers Don’t Lie(数字は嘘をつかない;原著)」を本書以前に購入し、読み進めているがいまだ読了していない。本書講読動機はこの本の帯に書かれたBill Gatesによる著者賛美の言葉にある。
邦訳の題名に原題の“SIZE”がそのまま使われている(小さく“サイズ”とカタカナ表示があるので、以降それを使用する)。英語タイトル使用は「サイズの認識に言語による違い」があり、大小・高低・長短・軽重など大きさを両極端で代替することが多く(“大きさ”もまさにその一例)、中立な用語が少ないことから来ているようだ。導入部で日本語には“寸法”があり、これは中立的用語と紹介いるが、日本人には“長さ”に近い感覚だろう。
何故このテーマを主題に研究・著作を思い至ったか。種々のサイズが有史来人間社会と深く関わってきたにもかかわらず、その重要性が認識されていないと感じてきたからとある。衣食住に関わる尺度はすべて人間から発する、長さは足裏の長手方向や歩幅、広さは就寝のためのスペース、階段の高さはひざ下の長さ。衣服は言うにおよばない。そして人間は大きい方が生存競争に勝ち残り、「大きいことは良いことだ」が大勢となっていく。一つの身近な例は“ギネス”記録、“大(重、長を含む)”が圧倒的に多く、“小”は速度や半導体に限られる。身長の高いものは昇進到達レベルが高く収入も多い傾向が確かにあるようだ。しかし、これも環境で変化する。栄養状況の改善で、最近はアジア人(特に日本人を含む東アジア人)の身長伸び率が著しい。身体の大小は大きければ良いわけではない。突出した長身者や肥満体は短命に繋がる(NBA選手の身長と寿命)。
サイズがすべて絶対的な測定値で決まるわけではない。錯覚や相対比較によってその評価・価値が変わるケースが多々ある。よく知られたものは同じ長さの直線-を<>で結ぶか><と組み合わせるかで変わって見える。料理を直径が大きい皿と小さい皿に盛り付けることによってボリューム感が変わり、レストラン経営で配慮すべき点なのだ(必ずしもボリューム感大が良いわけではない)。
伊東絹子の例に見るようにプロポーションも重要だ。同じ八頭身でも股下と身長の割合で評価は変わる。黄金比・シンメトリー(左右対称)は美醜に関係するだろうか?こんなこともギリシャ彫刻や名画を基に分析して見せる。
スケーリングの話が面白い。スイフトの「ガリバー旅行記」を取り上げ、小人国でも巨人国においても科学的に著しい矛盾があることを指摘する(例えは食事の量。だからと言って当時の科学知識から見てやむを得ぬとスイフトを援護する)。
巨大タンカーや風力タービンの限界、旅客機の(エコノミークラス)前後座席間隔、半導体開発におけるムーアの法則、パンデミック予想など直近の話題も豊富。思わぬ切り口でサイズの多様性と重要性を気付かせてくれる、ユニークな雑学百科であった。
2)グッドフライト・グッドナイト
-エアラインパイロットが描く詩情あふれる空と飛行機のエッセイ。2015年NYタイムズ・ベストセラーに納得-
対象は自動車→鉄道→航空→自動車と移ったが、幼児から始まった乗り物好きはこの歳まで変わらない。エンジニアになった大きな理由もここにある。最初の自動車への関心は父が自動車会社勤務だったことによる。敗戦で身近な乗物は専ら鉄道、小学生から中学生にかけては鉄道技師を夢見ていた。航空への関心は、占領が終わり空が日本に戻ったことによる。それまで出版物も禁じられていたところへ、航空情報があふれ出し、空が本来そなえる開放感と相俟って、新しい世界が出現した。高校時代は航空技術者志願だったが、大学では自動車に戻ることになる。しかし、航空への興味は模型作りや航空関連書籍購読でその後も持続、そこから得た知識をプラント運転安全追究や新しい経営ツールIT活用に生かしてきた。そんな中で印象に残った本に、リチャード・バック著「かもめのジョナサン」がある。1970年代初期世界的ベストセラーとなったもので、邦訳は五木寛之。それまで読んできた航空関係書籍は基本的に技術物だが、これは詩情あふれる空を飛ぶことを賛美する内容、今までの航空観を一変させるものだった。そして本書はその再現の書と言える一冊である。共通するのは著者二人がパイロットであることだ(バックは米空軍戦闘機乗り、その後作家に転じた。本書著者は現役エアラインパイロット)。
著者は1974年生れ。国籍は米国だが、かなり変わった経歴を持つ。父親はベルギー人、宣教師としてアフリカ・南米を巡り、南米滞在時リトアニア系米国人の女性と結婚。著者は米国で誕生、大学までそこで過ごし、高校時代は日本に短期留学している。子供のころからの航空ファンでその話は随所にあらわれる。大学卒業後さらに勉学を続けるためケンブリッジ大学大学院(アフリカ史専攻)に進むが、空への思い断ち難く、飛行学校進学準備のため中退し、学費を稼ぐため米国の経営コンサルタント会社に就職、この間にも仕事で日本を訪れている。学費が貯まったところで英国のエアラインパイロット養成学校に入学、2003年卒業後英国航空(British
Airways;BA)に入社。本書出版時(2015年)はボーイング747(ジャンボ)の副操縦士になっている。ジャンボ以前に操縦していたのはエアバスの双発機(機種不明)、主に欧州内を担当域にしているが、ジャンボでは日本を含む東アジア、豪州、アフリカ、南北米など地球規模のフライトを担っている。本書は夢を実現したパイロットの空と飛行機を賛美する内容、NYタイムズ・ベストセラーにもなったエッセイである。
全体は九つの章からなり、各章は話題を転じながらも滑らかにつながっていく十前後の節で構成される。第一章はLift(持ち上げる、高くする)で始まる。航空エッセイゆえ先ず離陸といったところだが、そんなシーンと重ねながら、空に魅せられた少年時代の思いやエアラインパイロットへの道を語っていく。言わばパイロット人生の離陸である。最終章はReturn(帰る、戻る)。第一義は着陸だが、ここでも操縦に関するもろもろの作業を語るよりも、着陸地の文化や言語あるいはロンドン帰着後の自宅への足取りに思いをはせる。最終章の前章はNight(夜、闇)。地上で生活する人にとって夜は帰宅の時間である。最終章とのつながりを考えての設定だ。この見事な章構成、飛行・空への思いを日常生活あるいは著者の体験談に重ねながらの、叙事詩のような筆致が本書を一流のエッセイに仕上げている。
こう書いてくると「かもめのジョナサン」やサン・テグジュペリの「夜間飛行」のような文学性に勝る作品を思い浮かべるかもしれないが、パイロットという職業がもたらす、知られざる世界を啓く点でも収穫の多い一冊だった。例えば、国に対する捉え方。国名や国境より通過時間や管制空域名でそれを認識するとある。日本は“日本”ではなく“福岡”が全体を表す管制地域名なのである。逆に米国は九つの管制地域に分裂し、一国ではないのだ。邦訳名(原題はSkyfaring;大空暮らし)「グッド・フライト、グッドナイト」は夜間赤道通過を管制官に報告したところ、そこで次の管制域へ移る時に送られた言葉からきている。飛行計画の決定に空域制限・気象条件・航路の混み具合などが考慮されることは知っていたが、通過する国の管制料金もあることは本書で初めて知った。
高々度飛行でしか味わえぬ絶景、夜間飛行で見る都市の光や星々、極地飛行で遭遇するオーロラ、雲や霧に覆われた中での計器飛行、どんな飛行も著者の手にかかると、楽しく美しいものに変じてしまう。空を行くことの素晴らしさを十二分に堪能した。
それに貢献していることの一つに翻訳がある。翻訳者はこの時点では専業者になっているが、元航空自衛隊女性管制官、管制官として米国研修も体験しているようで、英語のみならず、戦闘機後席搭乗を含め、空の世界を熟知しているのだ。
続編「グッド・フライト、グッドシティ」も購入済み。
3)知っていそうで知らないノーベル賞の話
-受賞者中心のあまたノーベル賞物とは一味違う、ノーベル自身とノーベル財団を語るユニークな内容-
ノーベル賞候補が話題になるシーズン到来、今年も受賞できればと切に願う。私はこれまでにノーベル賞受賞者三人と少人数で話を聞く機会があった。最初に会った人は1973年物理学賞受賞者の江崎玲於奈博士;1982年当時IBMワトソン研究所フェロー、IBMユーザー研修団の一員として同研究所を訪れ、近くのレストランで博士を交えた昼食会がもたれた。二人目は1951年化学賞受賞者グレン・シーボーグ教授;米国原子力委員会委員長を務めたこともある米国科学界の大物、1983年カリフォルニア州立大学バークレー校のビジネススクールに参加した際、20名ほどのクラスメートとレクチャーを受けた(題目は「化石燃料から核エネルギーへ」)。そして三人目が2019年物理学賞受賞者の吉野彰博士;会ったのは受賞遥か以前1990年代後期、当時の役職は旭化成研究所主席研究員。私も所属する化学工学会経営システム研究部会でリチュウムイオン電池開発に関する発表をしていただいた。
こんな体験もありノーベル賞物には一方ならず惹かれ、既に数冊本欄で取り上げているが、本書を読むに至った経緯は少々変わっている。7月に紹介した「天才の光と影」(23人の受賞者が対象)を読んだジム仲間が「こんな本がありますよ」と貸してくれたのが本書、何と著者も同じジムのメンバーとのこと。実は数年前この本のことを別の水泳仲間から聞いたのだが、すっかり忘れていた。現時点で著者にご挨拶はしていないのだが、以下に著者略歴と本書執筆に至った動機を記す。
著者は1935年生れ、大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)を卒業後住友商事に入社、ロンドンなど勤務ののち、1986年より1991年までスウェーデン駐在、ストックホルム事務所長、在スウェーデン日本商工会会長を務めている。ここでアルフレッド・ノーベルおよびノーベル賞研究をライフワークとするようになる。この経歴を見て思い出したのが、現役時代ある異業種交流会で聞いた話だ。その人も著者同様大手商社員、苦労してロンドン金属取引所(LME)会員資格を得たが、資格だけでは重要情報は入手できず、シャーロック・ホームズ研究を深めることで、ようやく仲間にしてもらえたとのこと、それは英国人シャーロキアンも一目置くほどのものであったようだ。本書の内容も日本人は無論、スウェーデン人も「知っているようで知らない」話があるに違いない。ノーベル賞研究を深めたことで親しい友人をあまた獲得、ビジネスも順調に進んだのではなかろうか。
知らなかったことの第一は、アルフレッド・ノーベル自身のことである。1833年ストックホルムに誕生するものの4歳でロシアのサンクト・ペテルブルクに移住、以後家庭教師が付き、ドイツ、フランス、イタリア、米国などに遊学して専門技術(化学、火薬、機械工学)を習得する。つまり正規の高等教育機関では学んでいないのだ。1865年ダイナマイト発明(ここに至る苦難の道も知らないことだらけ)。ハンブルクを拠点に工場を各地に建設、販路を拡大、1873年住居をパリに移しここに長く留まり、晩年はイタリアのサン・レモで過ごし1896年そこで没する。まさにコスモポリタン、当時では珍しい国際ビジネスマンでもあったのだ。
第二の知らなかったは、死から賞発足までの過程。彼が死去した際残された資産は93ヵ所の会社・事業所、資産価値は現在評価で230~250億円と算出されるが、著者は当時の世界経済規模との比較から、実質ははるかにこれを上回ると推察している。ともかく当時としては巨額遺産。遺言状では親族・世話になった人々へは5%しか遺贈されず、残りは賞金に当てるとなっており、これを納得しない親族・企業管轄国が争うことになる。国・世論が問題にするのは単なるカネだけではなく、愛国心まで問うのだ。「国籍を問わず最も優れた研究」を対象にする“国際賞”という性格が当時の社会通念に馴染まなかったのだ。結局これらの解決に4年を要し、1900年ノーベルの遺志が実現する。この決め手となるのがノーベル財団の設立。遺言状最大の欠陥は、遺産を管理し賞を授ける機関に何も触れていないことにあった(選考機関は明記されていた)。1世紀以上におよぶ賞が現代まで続くのはこの財団無しには考えられない。財団運営形態、資金運用、国や受賞者選考機関との関係、本書はここにかなりの紙数を割く。因みに、この財団は外部からの寄付を一切受け付けない。
第三の知らなかったは、各賞の受賞対象に関するノーベルの遺志である。分かり易いのは自然科学三賞(物理学、化学、生理学・医学;選考機関は、前二者はスウェーデン科学アカデミー、後者はカロリンスカ研究所(医科大学))。しかし、文学賞に関しては遺言状に「理想主義的傾向の最も優れた作品を創作した人に・・・」とあり、選考機関となったスウェーデン・アカデミーはこれを狭義に解釈、自然主義のトルストイなどを排除してしまう(その後この制約は次第に緩められ、チャーチルの「第二次世界大戦史」にまで拡大するが、さすがに批判が多く、純然たる文学作品対象に戻っている)。また、平和賞は文言以上に問題になるのが選考機関を「ノルウェー議会が選ぶ5人の議員にゆだねる」としたこと。なぜこれだけ他国に?の疑問が当然起こるのだ。著者もそれを追究するが推察の域を出ない。本書では経済学賞にも触れるが、強調されるのは「これは厳密な意味でノーベル賞ではない」という点だ。遺言状に記載はなく、スウェーデン銀行創設300周年記念事業として1968年設けられたもので、ノーベル賞に加えて欲しいとの要請を、財団もスウェーデン・アカデミーも拒否している。ただ、授賞式を同時に行うためノーベル賞の一つと思われてしまっているのだ(同時授与だけは認めた)。
授賞式は国王臨席で手ずから授与するので、一連の国家事業と受け取られがちだが、国王臨席は現国王になってからのこと、あくまでも主催者はノーベル財団である。そして、ここに国家権力は一切およんでいない。一方で、この賞がスウェーデン国の品格を特別なものにしていることは間違いない。ノーベル自身と財団紹介に紙数の大半を割いているのも、著者がそこを知ってほしいとの思いがあるからだろう。
ビジネスマンが仕事と一線を画して取り組んだライフワーク、学ぶことが多々あった。今年の授賞を従来とは異なる視点で楽しめそうだ。それにしても、先ず「きちんとご挨拶しなければ」の今日この頃である。
4)パナマの仕立屋
-冷戦が終わってもスパイの種は尽きない。米国永久租借が解かれた後の運河経営権はどこが握るのか?日本?-
スパイ小説家としての地位を不動のものとした「寒い国から帰ってきたスパイ」(1964年)から始まり、ソ連変化の兆しが見えはじめた時に出た「ロシア ハウス」(1990年)まではほぼ全作品を読んできたが、冷戦崩壊で大国対大国のスパイ戦がテーマでなくなったこと、翻訳者が変わったことなどがあり、それ以降の作品購読を長く中断、2013年「誰よりも狙われた男」の邦訳で久々に著者作品に触れ、複雑ながら精緻な構成と人物描写の細やかさに、かつての読後感がよみがえった。そうなると中抜け作品が気になるのだが、新刊を入手するのは困難だった。それが本年7月より復刻出版されるようになったのである。本書はその第一作品(後続二作まで予告されている)、出版を待って即購入した。
パナマと聞けば日本人の多くは“運河”を連想するだろう。私も全く同じで、運河以外パナマについて何も知らないし国としても関心はない。本書のタイトルを見て「こんなところで英国のスパイが活躍するような場があるのだろうか?」といぶかった。本書の原著出版は1996年、邦訳は1999年。おそらくこのタイトル(パナマ)で当時パスしたに違いない。しかし、読み進めながら史実を調べてみて、うまいところに題材を見つけたものだ、と改めてスパイ小説巨匠を再認識させられた。
パナマ運河計画はスエズ運河を開削したフランス人レセップスによって1880年開始されるが風土病・難工事・資金難で1889年中止され、しばらく放置される。しかし、この開通を切望していた米国によって1905年再開され、1914年完成する。この過程で米国はコロンビア(運河建設反対)国の一部だったこの地域をパナマ共和国として1903年分離独立させるほど強行、開通後日をおかず“パナマ運河条約”を結ぶ。そこには運河地帯を永久に米国が租借するという条文が記されていたのだ。しかし1960年代入り民族運動が活発化、返還運動の動きが高まり、1977年カーター政権時代1999年返還が決まる。上院の2/3以上の賛成票が必要であったが、わずか1票上回るだけのきわどい決定であった。そのような背景もあり、米国内にはことあればこの決定を覆そうとする勢力が暗躍し続けている。1989年独裁者で麻薬組織と深く関わっていたノリエガ将軍を逮捕した米軍のパナマ侵攻も、直接的に運河返還運動に結びついていないものの、民族主義的外交を牽制する結果になる。
本書の時代設定は数字で明示されてはいないものの、返還の2000年直前であることは確かだ。大統領は軍出身者、ノリエガのような独裁者ではないがしたたかな男、返還後の運河運営をすんなり米国にゆだねる考えはない。英国は前面に出る気はないが米国主導での運営継続を期待している。天秤の反対側には日本そして中国がいる。大統領の本心はどこにあるのか。これを探り、あわよくば反体制派を動かし、ひと騒動起こしたい。ここまでが英スパイに課せられた任務。そうなれば米軍が出動し親米政権が取って代わる可能性が高いと見ているのだ。
史実に戻れば、運河管轄権は2000年1月1日パナマに返還され、2006年運河拡張計画が国民投票で決定、単独財務アドバイザーをみずほコーポレート銀行が担い2016年完成する(計画予算6000億円)。既にバブル経済は崩壊していたものの、著者が作品を完成させるのに通常3年程度要していることを考慮すると、着想は1990年代初期。うわべの日本経済はまだ活力に満ちているように見えただろう。また中国も改革開放経済の歩みが着実に進みつつあり、それを加えることで米英対抗勢力としての重みが増してくると想定したことも小説を面白くしている(日中が世界戦略で協調する可能性があると本気で思っていたのであろうか?)。
さて、仕立屋である。ロンドンの老舗で修業しこの地に早く進出していた英国人の仕立屋。腕は確かでパナマの要人を多数顧客として抱えている。そこには大統領、運河委員会委員長、米軍司令官、銀行家、麻薬組織のボスなどが含まれる。生地の選択・採寸・仮縫い・納品と有力者本人と二人だけになる機会も多い。加えて妻はこの地で育った米人運河技術者の娘、現在は運河委員会委員長の秘書でもある。英諜報部員の最初の仕事はこの仕立屋をエージェントとして取り込み、そこから妻や友人を利用したネットワークを作り上げることにある。若い諜報部員(初の海外勤務)が仕立屋経由で入手した情報は諜報機関のトップにも評価される内容、企みは着々と結実していくのだが・・・。
本作の主役は諜報員ではなく仕立屋。誰にも知られていない暗い過去、銀行家に握られている弱み、プラトニック関係の愛人(黒人;パナマ侵攻の際、爆撃で顔に傷をうけて以降反米派となっている)、旧知の反体制派リーダーとの友情、妻の運河委員長に対する絶対的信頼、子供二人を含む家族関係。それらが彼のスパイ活動に影響を与える。人間描写に傾注するのは他著作と同様、明らかにただのサスペンス物ではない。
ところで影の悪役とも言える日本、個人名も組織名も出てこない。代わりに“ジャップ”が会話の中に何度か出現する。我々の知らないところで英米人は日常的にこれを使っているのではなかろうか。その申し訳でもあろうか、本書の見開きに“日本のみなさんへ”の一文が記されており、そこには戦時中のパナマ運河遮断攻撃計画に触れたあと「私は、国家の流儀と人間のはかなさに関するこのささやかで悲しい喜劇を、日本のみなさんが英知をもって愉快に読まれんことを確信するものである。ジョン・ル・カレ」とある。愉快には読んだが、小説とはいえ“ジャップ”呼ばわりの不快感は拭えなかった。
5)アファーマティブ・アクション
-人種差別から発した積極的差別是正法、大学入試を中心に逆差別問題の法廷闘争とその変遷をたどる-
1988年以降、情報サービス会社の経営に参画するようになると米国出張の機会が増えた。特に(San Francisco)Bay Areaに有力な提携先が在ったため、往復のいずれかでサンフランシスコに滞在、時間が許すと短期間学んだカリフォルニア州立大学バークレー校(UCB)に立ち寄り、当時の教職員と歓談する機会をもった。そんな折、教授の一人が昼食に招いてくれ、UCBの近況に話がおよんだ際「最近はAffirmative Action(積極的(差別是正)処置;人種・民族・ジェンダー・階級・障害などで不利な扱いを受けている人々を支援する法律;以下 AAと略す)でアジア系の優秀な学生が入学しにくくなった」と聞かされ、初めてこの法律の大学への適用実態を知った。サンフランシスコと言えば米国人でも先ずチャイナタウンを思い浮かべるくらい中国系が多いところだが、日系も多く、私の在校時(1983年)には韓国系もかなり増え、米国の他大学と比べ東アジア人の存在が目立つところだった。一世・二世が頑張り、子・孫に高等教育を受けさせ中産階級(特に専門職)入りする。米国における東アジア人とユダヤ人に共通する生き方である。Bay Areaには西の雄スタンフォード大学(私立)もあるがUCBは歴史のある名門州立校、学費も安いことから移民子弟の秀才が集まってくるのだ。一方で州立ゆえに州政府の干渉を受けやすいことから教授の話のような状況も生ずる。
有史以来奴隷はどこにも居たし、人種差別は現在も世界各地に見られる。しかし、米国の黒人差別問題はハリエット・ストウの「アンクルトムの小屋」に代表されるように、世界中老若男女の知るところだ。それもあり20世紀に入り米国ではAAに相当する法律がいくつも制定されている。例えば、大恐慌対策として打ち出されたニューディール政策の中にもそれがあり、公共事業で黒人の働く場が増加している。しかし、実態は黒人以上に白人失業者救済の色が濃かったようだ。また、大学入学者問題では1920年代前半ハーバード大学のユダヤ人新入生が25%を超え、1926年以降15%以下に抑えることが決している。本書はこのようなAA前史から始まり、その難しさに関する諸事を導入部で学ぶことになる。
本書で対象となるAAは、1960年代から活発化した公民権運動、そこから発した公民権法(1964年)とそれを具体化したAA法(1965年)である。これは人種・民族・ジェンダー・階級・障害者に対する差別を禁じ、改善を図ることを目的としている。従って、入試以外にも雇用・昇進、女性問題などに触れるが、全体としては大学進学問題が主題となっている。
公民権法で制度としての差別はなくなっても現実の差別は残る。高等教育こそ人種・階級差別解消のカギ、実績が見えるよう数値でそれを改善しようとするクォータ(割当)制導入の動きが徐々に高まっていく。しかし、高校段階で既に差がある者を無理に救い上げる策は“逆差別”につながる、と白人の側からいくつもの訴訟が提起され、違法との判決も出てくる。これに対し、一旦AA法を受け入れた大学は、クォータ実現が本意ではなく、これからの教育には“多様性”が重要、一定数のマイノリティ入学者は必須と論を張る。混乱に輪を加えるのはマイノリティ内の異なる主張だ。カリフォルニア大学システム(UCB、UCLAなど多数の州立大学から成る統合体の呼称)の有力黒人理事がAAに反対したり、東部アイビーリーグに属する大学(ハーバード、プリンストンなど)への入学者割合が不公平(対白人ではなく黒人・ヒスパニック系)だとアジア系(主に中国系)が訴えたりする。ついに2023年6月連邦最高裁(トランプ政権下で保守系が多数派になっている)は「大学入試におけるAAは違憲」との判断を下し、長きにわたる戦いに終止符が打たれる。
読み応えのある本だったが、疑問が残らなかったわけではない。優遇処置で入学したマイノリティ学生のその後が、入学に比べ詳しく語られていないのだ。例えば、在学中の成績は如何様だったか?学校当局や教官との関係は?卒業後就職状況はどうなのか?AA法は大学入学だけに適用されるわけではなく、就職、昇進なども対象であることから、バランスを欠くと感じた。
本書を読んでいて頭に浮かんだのは、最近の我が国大学入試に関する二つの話題。東京医科大学が女子合格者数に制約を設けていたことが違法とされ、賠償を命じられたこと。東京工業大学(本年10月東京医科歯科大学と合併し東京科学大学となる)が女子合格者枠を設けると発表したことである。あまり知られていないがアイビーリーグ所属大学は1950年代初期まで女性の入学許していなかった。 AA導入で最も恩恵(入学のみならず、雇用・昇進を含め)を受けたのは白人女性との説もある。果たして我が国ではどうなるか?興味津々である。
著者は1973年生れ、一橋大学大学院博士課程単位取得(社会学博士)、現同志社大学大学院教授。「未完の多文化主義-アメリカにおける人種、国家、多様性」で第3回アメリカ学会中原伸之賞を受賞している。中原氏は私が長く勤務した東燃社長(故人)。
6)ナットとボルト
-機械や建造物の構成要素7種;釘・車輪・バネ・磁石・レンズ・ひも・ポンプ、の来歴・効用を語り、リサイクルによる環境問題解決の道を探る-
現役最終時期から、同期入社有志が最寄り駅近くの居酒屋に集まる飲み会がある。会の名は「ネジの会」。妙な名前の由縁は、機械屋の一人がネジの研究に傾注していており、その蘊蓄を聞き「たかがネジ、されどネジ」の感を強くした結果である。本書の広告を見たとき、先ず思い浮かんだのがそのこと、ナットとボルトはネジそのもの、会の話題にでもと読んでみることにした。しかし、ナット・ボルトは出てくるものの章立てには現れず、“NAIL(釘)”の章の一部でしかなかった。原題が「NUTS AND BOLTS」であるにもかかわらず、である。貧弱な英語力ゆえの誤解だった。これはCats & Dogsが「土砂降り」を意味するように、「基本的な仕組み」を意味する熟語だったのだ。つまり原題を日本語訳すれば「機械の基本的仕組み」が本来の意味となる。と言うようなわけで、本書の内容は広義の機械や建造物の構成要素・部品をテーマにしたものである。
構造物の構成要素として取り上げられたのは、釘・車輪・バネ・磁石・レンズ・ひも・ポンプの七つ。最後のポンプは要素ではなく構造物そのもの、違和感を覚えた。しかし、その章を読んでみれば、著者のポンプに関する思い入れがひとしおで、なるほどと納得した。
各章は、タイトル通りの要素・部品から入り、類似のものを並べ、それを使った製品とその効用を述べていく。それを歴史や人物(特に発明者)、画期的な出来事を交えて書き進める構成になっている。ここに読み物としての面白さがある。
1.NAIL(釘)では接合と言う機能をロープや革までさかのぼり、釘の段では木釘が金属釘に置き換わるプロセスを鍛造技術や防錆技術にまで言及して解説する。そこには日本刀の特質・製法も引用される。また効用の点では、英国における木造家屋普及段階で、釘製造者であることは貴族に近い尊称であったとある。類似製品としてあげられるものは、ネジ釘が当然出てくる他、リベット、そして原題の“ナットとボルト”もカーバーされる。2.WHEEL(車輪)の発明はいきなり狭義の車輪に取りかからず、発想は陶器を製作するロクロにあったとし、車輪・スポーク・車軸・リムを備えた現代の車輪に至る歴史をたどる。同種のものとして機械部品の基礎とも言える歯車から航空機やロケット・宇宙船の制御に欠かせないジャイロスコープ(3次元コマ)まで、多様な車輪と利用分野を紹介する。3.SPRING(バネ)も応用範囲は弓から洗濯バサミ、音楽ホールの防振構造まで幅広い。4.MAGNET(磁石)は方位磁石に軽く触れ、あとは動力から通信に至る電気機械を網羅する。5.LENS(レンズ)の書き出しは他の章と異なり、いきなり具体的な要素解説から入らず、「親愛なるザリア」で始まる長い導入部が存在する。後述するが著者は女性、苦労・苦痛の人口受精で授かった娘の名がザリアなのだ。顕微鏡や内視鏡あっての愛児誕生。この章には望遠鏡やカメラ、レーザー技術も取り上げらえるが、専ら医療中心となる。6.STRING(ひも)は糸から布、弦楽器(動物の腱)、医療手術用の糸、橋梁用鋼製ケーブル、ケプラー製防弾チョッキまで幅広い。そして違和感のある7.PUMP(ポンプ)。水をくみ上げる必要性は有史以来のこと。その歴史を語ったあとに紙数を割くのは人体との関係だ。代表は心臓、人工心臓開発(手術用から組込型まで)の現在に至る進展を、具体例を上げて丁寧に説明していく。機械構造物ではないが人間必須の構成要素に違いない。この章ではレンズに加えもう一つ著者の体験談が語られる。苦労して得た我が子だが著者が専業主婦でないために、授乳タイミングがむつかしい。母乳をため置きするためには母乳搾乳器が欲しいが、牛乳搾乳器の原理応用では上手くいなないのだ。ポンプを取り上げたのはこんな背景からきていたのだ。
著者は1983年生まれのインド系英国系アメリカ人女性技術者(ムンバイ生れ)。オックスフォード大学物理学学士、インペリアル・カレッジ・オブ・ロンドン構造工学修士。現在ロンドンを拠点に建造物の構造設計を主務としている。邦訳に「世界を変えた建築構造の物語」がある。
あとがきに本書執筆の動機が記されている。環境問題解決のために、設計段階から分解する方法を検討し、修理やアップグレードによって製品を長もちさせ、最終的にリサイクルできるようにすることが肝要との考えがあった、とある。環境原理主義者と一線を画する、真っ当で現実的な考え方に共感を覚えた。
7)Blue Impulse & the Counterparts
-航空自衛隊曲技飛行チームの全演技と海外22チームを見事な写真で解説する-
学生時代から断続的ではあるが、「航空情報」「航空ファン」「航空ジャーナル」などの航空月刊誌を購読してきた。この内「航空ジャーナル」は創刊の1974年1月号から休刊の1988年7月号まで全冊いまだに保有している。この雑誌は元航空自衛官で前「航空情報」編集長だった人が創刊したもので、それまで模型から最新鋭機までてんこ盛りだった航空誌の内容を一新、専門性の高い最新情報を主体とした本格的な航空月刊誌だった。ここで惹かれたのが本書編集人瀬尾央氏撮影の米空海軍機写真である。中でも戦闘機搭乗の空撮など「一体どうやったらこんな写真が撮れるんだ?!」と、写真ばかりでなくその機会作りにまで興味がおよんだ。そんなある時同じ工場に勤務する後輩から「彼は高校の同級生ですよ」と告げられ、急に近しい存在になった。数年前その後輩を介して瀬尾氏のフェースブック友達に加えてもらい、毎年9月に開催される日本航空写真家協会の写真展に出かけるようになった。本書はそこで入手したものである。
ブルーインパルスは航空自衛隊の曲技飛行チーム、コロナ対応医療関係者感謝飛行、東京オリンピックでの五輪マーク描写など首都圏上空飛行でニュースにもなるが、多彩な演技が披露されるのは航空基地祭。本書ではチーム発足時(1960年)からの機体(F-86、T-2)や演目も簡単に紹介されているものの、大部分は現用機T-4(練習機)による最新展示飛行。この展示飛行には何種かのメニューがあるようだが、ここで披歴されるのは第一区分と称されるフルコース。パイロットが機に乗り込む前の整列・行進(ウォーク・ダウン)から始まり、30を超える演目、着陸後の解散(タクシー・バック)までを約60頁わたる写真と解説で紹介する。この解説は一演目ごとに二段構えで、最初に演目に関する説明があり、続いて撮影技術(機材は無論、撮影場所や光の具合など)の留意点が語られる。つまり、美しい写真を眺めながら、演目の見所・勘所が理解できる仕組みになっているのだ。
本書を楽しくユニークなものにしているはブルーインパルスのCounterparts。この部は、米空軍サンダーバード、同海軍ブルーエンジェルス、英空軍レッドアロー、仏空軍パトルイユ・ド・フランス、イタリア空軍フィレッチェ・トリコロールから、ロシア、カナダ、ポーランド、クロアチア、フィンランド、スペイン、スイス、中国、インド、パキスタン、韓国、インドネシア、ブラジル、チリ、カタール、UAE、サウジまで21ヵ国22チームの曲技飛行隊写真と解説からなる。これはおそらく我が国初の曲技飛行隊全集ともいえるのではなかろうか。
編者が記す「「あとがき」にかえて」に米海軍チームブルーエンジェルス同乗に至る苦心談が書かれており、積年の疑問が解明した。特別な伝手があったわけではなく、熱意と長い時間をかけての努力の結果であり、決め手は当然のことながら写真にあったのだ。
-写真はクリックすると拡大します-
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