化学工学会の経営システム研究委員会の創設メンバーとして、おおよそ20年間活動してきた。工学系学会の研究会としてはかなりユニークなもので、社会科学系や人文科学系の研究者も含めて、化学関連企業の経営活動を掘り下げ、将来の化学工学の在るべき姿を探ることや課題解決を目的に発足した研究会である。その時々に経営手法や経営戦略、研究開発マネジメント、人材育成・教育、市場開発、経営情報システム、環境問題、グローバリゼーションなどの視点から化学企業を見つめてきた。
この間わが国化学企業の事業変化には著しいものがある。研究会スタート時はバブルの絶頂期ではあったものの、その将来を危惧する声が意外に高かった。例えば、当時当該分野を分析した代表的な本に伊丹敬之一ツ橋大学教授の「なぜ世界に立ち遅れたのか-日本の化学産業」(1991年 NTT出版)がある。これについて伊丹先生を研究会にお呼びし議論を闘わせたこともある。ここで業界側からこの分析に真っ向から反論したのは、合成繊維メーカーとしてスタートした化学会社のメンバーであった。批判のポイントは、この分析が石油化学を代表とする少種大量生産の汎用素材メーカーを対象とするもので、何度も不況を乗り越えながら、研究開発による新製品を世に問い、新規市場を独自に開発し、事業と収益構造を変えてきた化学企業の実態を正しく捉えていないというものであった。それから18年、日本の化学産業は生き残ったばかりでなく、売り上げ規模で製造業のトップクラスにまでなってきている。汎用素材は海外シフト、特殊化学製品は電子産業や自動車産業向けに次々と素材や部材を提供し、それぞれの分野で世界における存在感を増している。つまり新規事業戦略や新製品開発戦略に成功しているということである。
ところで私の関心事は、経営における意思決定と数理の関わりである。果たしてこのような新規事業戦略や新製品開発戦略策定・推進において数理はどのような使われ方をしているのであろうか?研究会あるいは学会のシンポジュウムなどでこれを探ってきた。特にここ数年学会の年会に併設して“先端化学技術プログラム”なるセミナーが、実業界メンバーを積極的に集めるため開催されており、毎回当研究会が主催するセッションは“新規事業戦略や新製品開発戦略”を主題とするので興味深い話題を身近に聞くことが出来る。また、研究会メンバーには合成ゴムメーカーとしてスタートしながら今では電子部材メーカーに変じた会社の研究開発・技術の総帥だったTさんや総合化学メーカーでありながらITに不可欠な記憶装置HDD事業を揺籃期から推進し、後輩たちがそれを世界規模にまで拡大した元役員のKさんなども居り身近な情報に事欠かない。
このような事例から分かってきたことは、ノーベル賞化学賞につながる研究によくあるように、理詰めで進める研究開発が行き詰ったり、わき道に迷い込んだ時偶然新しい世界が開けるような話が多いことである。今年の上記年会併設プログラムで紹介された、旭化成が基本特許を抑えているリチュウムイオン二次(充放電可)電池の話などこの典型である(因みにここでは白川博士発明の電導プラスティック、ポリアセチレンも重要な役割を担う)。こういう話は別の製造業では先ず無く((トランジスター効果の発見のように全く無いわけではないが)、“化け”学の特徴と言えるのかもしれない。ここから言えることは、実験データの分析などはともかく、ブレークスルー型あるいは突然変異型事業誕生に数理はほとんど関係ないということである。
しかし4月の研究会で聞いたS社のHDD(ハードディスク)事業展開の話はこの結論を再度見直すことにつながるものであった。それは“ムーアの法則”、“クリステンセンのモデル”に関することである。
ムーアはインテルの創設者で、半導体事業の成長を観察して、半導体素子の集積度(性能向上)と時間の関係が対数指数的に発展することを経験的に導き出した。この法則は半導体素子だけでなくIT関連の構成素子・部材に適用できるといわれている。そこからこの業界では次世代製品開発の目標値や達成時期を定めて、研究開発や製品開発を進めることが広く行われている。
もう一つのクリステンセン・モデルは、ハーバード・ビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授が主唱する、イノベーション(特に破壊的イノベーション)論に基づく、技術的な性能向上進行と適用分野の広がりを時間軸で捉えたモデルである。例えば、汎用大型コンピュータがミニコンに、そしてそのミニコンもパソコンに取って代わられたことがしばしばこのモデルの説明に登場する。
今回の研究会では総合化学会社S社のHDD事業開発の責任者であったNさんの話を聞いたのだが、Nさんはムーアおよびクリステンセンのオリジナル理論の問題点を指摘しつつもそれを独自に修正して、事業推進の将来像を見据える手がかりとしていた。これは明らかに数理に基づく戦略策定であり、先のメンバーの論(試行錯誤の中から偶然生まれる)とは明らかに異なる新規事業・新製品開発アプローチであった。HDDが本来の化学製品とは全く異なり、これらの法則やモデル誕生の母体ともいえるIT産業のそのものであることから“例外的なもの”という見方もあろうが、そこに使われる素材・部材として化学製品が使われるならば、このような法則・モデルの活用の余地が十分あるのではなかろうか。
2009年4月26日日曜日
2009年4月19日日曜日
決断科学ノート-5(マクナマラの戦争)
ロバート・マクナマラ、1961年~1968年の米国国防長官、ケネディ政権下ヴェトナム戦争推進の主役である。彼の最大の武器は数理分析。危機に瀕したフォード再建時の仲間たちと推進した数理に基づく緻密で大胆な革新施策は、彼らを“神童(Whiz Kids)”と呼ぶことになるほど目覚しいものであった。この時の活躍がケネディ政権チームの目に留まり、フォード社長就任5週間目に国防長官への登用となった。
マクナマラはバークレーで経済学を学んだ後ハーバードでMBAを取得、統計解析の専門家としてビジネススクールにそのまま残ることになる。1941年、当時の陸軍航空軍(戦後空軍になる)は既にORを実戦に応用することを英国から学んでおり、その普及のためにハーバードとの間に教育訓練プログラムをスタートさせる。この辺のアプローチは明らかに英国と違うところで、英国のOR普及が人のネットワーク中心であったの対し米国は組織的に取り組む点はさすがに大量生産のお国柄である。この活動の中でマクナマラの力量が認められ航空軍にスカウトされ、作戦立案のスタッフとして次第に重要な役割を担うことになっていく。彼の判断基準は常に“費用対効果”にあるのだが、必ずしも初期の段階では伝統的な軍人達の考えに合致するものではなかった。例えば対日反攻航空作戦用の機材として、航空軍トップは欧州戦で大量運用してきた実績を持つB-17 の転用を第一案として考えていたが、マクナマラは実用テスト段階にあるB-29 の実用化を急ぐよう主張して認めさせている。これは航続距離と爆弾搭載量(B-17 ;2.8トンで3200Km、B-29 ;4.5トンで5200Km)に着目した選択であった。またこれと併せて、日本の都市特にそれを構成する建造物に対する効果を数理的に分析し焼夷弾の大量投下を薦めている。
このような戦争中の経験を生かすべく、退役後(陸軍中佐)は経営コンサルタント会社に就職、数理による経営分析で注目され、フォード建直しに辣腕を振るうことになる。このフォードへの就職は戦後間もない1946年のことであるから、先端軍事技術の一部であったORの民間転用が如何に早かったか驚かされる。当に数理的な経営科学の嚆矢と言える。彼を初めとする数理分析専門家は戦後同じように民間に散っていくことになるが、戦時中この分野の研究活動成果を十分認識させられた空軍は、人材をプールし研究活動を継続できるよう、ランド研究所を設立することになる。
国防長官に転じたマクナマラは、軍人出身の大統領、アイゼンハワーにさえ批判された産軍複合体の改革に手をつける。先ず、予算編成を“費用対効果”で評価・選択する手法を大々的に適用する。これがPPBS(Planning Programming Budgeting System)と呼ばれ、その後政府機関や企業で利用されることになる数理的な予算編成方式である。しかしフォードの再建には役立ったこの方法も、政府の諸政策に適用するには種々問題を生じ(例えば、効果として企業では“利益”だけに着目することも可能だが、政策課題は案件によって一つの評価基準に絞りきれない。評価基準は絞り込めても、データの準備と解析に時間がかかり過ぎ意思決定のタイミングに間に合わない)、彼の退任後1970年には廃止されてしまう。また、兵器調達合理化のため陸海空軍で共同利用できる兵器の開発・調達を進めるが、目的用途の違うものを一つにするため、返って中途半端で高価なものが出来上がり、実戦での利用が著しく阻害される例が生じてくる。代表的なのはF-111戦闘爆撃機で、これは当初空軍のプロジェクトであったものを、海軍の艦隊防空戦闘機計画を一本化したものだが、機体が空母運用できぬほど大型化してしまう。ただこれらの失敗例は主として反改革派(産業界や政界)からのもので、国防予算の膨張を押さえ込んだと言う評価もあり(例えば、B-52の後継機B-70の開発中止や軍事基地の削減)、一概にマクナマラと分析手法の問題だとすることに異論はある。
問題はヴェトナム戦争の作戦計画推進と数理に関することである。巷間ヴェトナム戦争はマクナマラの戦争と言われるほど彼の存在は切り離せないし、そのための軍事費は確実に増加している。この費用増加の裏づけは、戦場から収集した膨大なデータを基にしており、このデータ収集のためだけにベトコンの侵入路と思われる場所に無線発信機を散布することまで行ったと言われている。増派する兵種、その規模、使用兵器、個々の作戦計画など全ての軍事活動を出来る限り数量化して決めていくやり方は、次第に現場とペンタゴンの距離を隔てることになっていく。それを補うかのようにマクナマラは頻繁にヴェトナムを訪れるが、事態は一向に改善しない。厭戦気分が溢れる中で1967年11月末国防長官を辞任することになる。
1995年出版された彼の自叙伝“In Respect (振り返ってみて)– The Tragedy and Lessons of Vietnam -”の中で「1960年代の米国指導者達は、過大に共産主義を恐れあまりこの戦争がヴェトナム人のナショナリズムに基づく戦いであることを見抜けなかった」ことが失敗の根源だったと総括している。
海空の戦いは機械力の戦いと言えるが、陸戦は民族・歴史・宗教・社会が複雑に絡む戦いであり、そこに数理適用の限界がある。この反省はそれを表す言葉ともとれる。
彼の辞任は“北爆の停止と南ヴェトナムでの戦闘停止”をジョンソン大統領に拒否されたことにあるし、それ以前から戦力増強に消極的だったことも併せると、個人的にはこの戦争の実態をきちんと理解していたふしがある。ただ、あまりに怜悧な考え方が周辺を巻き込む“空気”の醸成に向かなかったと言える。
「知に働けば角が立つ」意思決定者として心すべき警句である(個人的には「情に棹差せば流される」や「意地を通せば窮屈だ」よりはましだと思うが)。
マクナマラはバークレーで経済学を学んだ後ハーバードでMBAを取得、統計解析の専門家としてビジネススクールにそのまま残ることになる。1941年、当時の陸軍航空軍(戦後空軍になる)は既にORを実戦に応用することを英国から学んでおり、その普及のためにハーバードとの間に教育訓練プログラムをスタートさせる。この辺のアプローチは明らかに英国と違うところで、英国のOR普及が人のネットワーク中心であったの対し米国は組織的に取り組む点はさすがに大量生産のお国柄である。この活動の中でマクナマラの力量が認められ航空軍にスカウトされ、作戦立案のスタッフとして次第に重要な役割を担うことになっていく。彼の判断基準は常に“費用対効果”にあるのだが、必ずしも初期の段階では伝統的な軍人達の考えに合致するものではなかった。例えば対日反攻航空作戦用の機材として、航空軍トップは欧州戦で大量運用してきた実績を持つB-17 の転用を第一案として考えていたが、マクナマラは実用テスト段階にあるB-29 の実用化を急ぐよう主張して認めさせている。これは航続距離と爆弾搭載量(B-17 ;2.8トンで3200Km、B-29 ;4.5トンで5200Km)に着目した選択であった。またこれと併せて、日本の都市特にそれを構成する建造物に対する効果を数理的に分析し焼夷弾の大量投下を薦めている。
このような戦争中の経験を生かすべく、退役後(陸軍中佐)は経営コンサルタント会社に就職、数理による経営分析で注目され、フォード建直しに辣腕を振るうことになる。このフォードへの就職は戦後間もない1946年のことであるから、先端軍事技術の一部であったORの民間転用が如何に早かったか驚かされる。当に数理的な経営科学の嚆矢と言える。彼を初めとする数理分析専門家は戦後同じように民間に散っていくことになるが、戦時中この分野の研究活動成果を十分認識させられた空軍は、人材をプールし研究活動を継続できるよう、ランド研究所を設立することになる。
国防長官に転じたマクナマラは、軍人出身の大統領、アイゼンハワーにさえ批判された産軍複合体の改革に手をつける。先ず、予算編成を“費用対効果”で評価・選択する手法を大々的に適用する。これがPPBS(Planning Programming Budgeting System)と呼ばれ、その後政府機関や企業で利用されることになる数理的な予算編成方式である。しかしフォードの再建には役立ったこの方法も、政府の諸政策に適用するには種々問題を生じ(例えば、効果として企業では“利益”だけに着目することも可能だが、政策課題は案件によって一つの評価基準に絞りきれない。評価基準は絞り込めても、データの準備と解析に時間がかかり過ぎ意思決定のタイミングに間に合わない)、彼の退任後1970年には廃止されてしまう。また、兵器調達合理化のため陸海空軍で共同利用できる兵器の開発・調達を進めるが、目的用途の違うものを一つにするため、返って中途半端で高価なものが出来上がり、実戦での利用が著しく阻害される例が生じてくる。代表的なのはF-111戦闘爆撃機で、これは当初空軍のプロジェクトであったものを、海軍の艦隊防空戦闘機計画を一本化したものだが、機体が空母運用できぬほど大型化してしまう。ただこれらの失敗例は主として反改革派(産業界や政界)からのもので、国防予算の膨張を押さえ込んだと言う評価もあり(例えば、B-52の後継機B-70の開発中止や軍事基地の削減)、一概にマクナマラと分析手法の問題だとすることに異論はある。
問題はヴェトナム戦争の作戦計画推進と数理に関することである。巷間ヴェトナム戦争はマクナマラの戦争と言われるほど彼の存在は切り離せないし、そのための軍事費は確実に増加している。この費用増加の裏づけは、戦場から収集した膨大なデータを基にしており、このデータ収集のためだけにベトコンの侵入路と思われる場所に無線発信機を散布することまで行ったと言われている。増派する兵種、その規模、使用兵器、個々の作戦計画など全ての軍事活動を出来る限り数量化して決めていくやり方は、次第に現場とペンタゴンの距離を隔てることになっていく。それを補うかのようにマクナマラは頻繁にヴェトナムを訪れるが、事態は一向に改善しない。厭戦気分が溢れる中で1967年11月末国防長官を辞任することになる。
1995年出版された彼の自叙伝“In Respect (振り返ってみて)– The Tragedy and Lessons of Vietnam -”の中で「1960年代の米国指導者達は、過大に共産主義を恐れあまりこの戦争がヴェトナム人のナショナリズムに基づく戦いであることを見抜けなかった」ことが失敗の根源だったと総括している。
海空の戦いは機械力の戦いと言えるが、陸戦は民族・歴史・宗教・社会が複雑に絡む戦いであり、そこに数理適用の限界がある。この反省はそれを表す言葉ともとれる。
彼の辞任は“北爆の停止と南ヴェトナムでの戦闘停止”をジョンソン大統領に拒否されたことにあるし、それ以前から戦力増強に消極的だったことも併せると、個人的にはこの戦争の実態をきちんと理解していたふしがある。ただ、あまりに怜悧な考え方が周辺を巻き込む“空気”の醸成に向かなかったと言える。
「知に働けば角が立つ」意思決定者として心すべき警句である(個人的には「情に棹差せば流される」や「意地を通せば窮屈だ」よりはましだと思うが)。
2009年4月12日日曜日
決断科学ノート-4(北朝鮮ミサイル騒動)
北朝鮮ミサイル騒動
何故あんなに大騒ぎになるんだろう!?北朝鮮のミサイル発射に関する私見である。特にメディアと政治家が酷かった。国際条約違反に対する警告声明で十分である。実害なんかあるはずないのだから。あれでは北朝鮮の思うツボ、もうひとつ彼らに切り札を与えてしまった。この中で“ミサイル航跡探知”誤報事件が起きた。犯人探しが今でも防衛省内で行われているのだろうか?
実は“ORの起源”はこれと同じような状況下で始まった。古代・中世はともかく、近世英国は島国ゆえ長いこと本格的な他国の侵略を受けてこなかった。ナポレオンもスペイン無敵艦隊も海が封じた。陸軍は植民地治安軍に過ぎない実力だが、大英帝国を維持する海軍は第一次大戦後も世界の海を制圧するほどの規模を誇った。しかし、この大戦に出現した航空兵力は当初は補助的なものであったが、着々と技術発展をとげ渡洋爆撃の可能性を示すことになる。制空権こそ戦争を制するものだとの考えが浸透し、大戦中のロンドン爆撃は僅かな被害しか無かったものの、その体験はトラウマと成り空襲の恐怖に国防政策は翻弄されていく。大戦後の英国は「このような大戦争は二度と起こらない(起こって欲しくない)」ことを前提に10年間の国防費縮小政策(1932年まで続く)を採る(第一次大戦は落ち目の大英帝国経済に致命傷を与えた)。この間英国空軍の創設者ともいえるトレンチャードは戦略爆撃論を展開し、その思想は各国の空軍独立論者の手本として崇められるほどであった。しかし、これはあくまでも考え方の段階で留まり、実際の空軍力整備が進められたわけでは無く、軍用機や防空システムの開発に見るべきものはない。一方で軍事用航空機全廃論なども現れる。
このような状況に抜本的な国防政策の見直しを迫ることになるのが1933年1月のナチスドイツの誕生とその後の復権・拡大政策である。あの酷いヴェルサイユ条約のくびきの中から国力を回復したナチスは、空襲恐怖につけ込むように、空軍力を実力以上に喧伝する。リンドバーグのような専門家さえもすっかり魅了してしまうほどナチスの宣伝は巧妙だった。
英国の防空政策を如何にすべきか?がこれ以降朝野で喧しく論じられることになる。その中で1938年設置されたのが空軍省防空科学研究委員会である。これこそOR発祥の組織である。委員長はインペリアルカレッジの物理学教授ヘンリー・ティザード、その下にはレーダーの発明者ワトソン・ワット、“ORの父”と称せられることになるケンブリッジ大学教授で物理学者、戦後ノーベル物理学賞をとるブラッケトなど錚々たるメンバーが名を連ねる。
まず敵機を如何に早期に発見するか?光、音、熱(赤外線)、電波の利用が検討される。ここから生み出されたのがレーダーである。こんな一流の科学者が揃っても初期の段階では殺人光線の可能性などを大真面目で研究したりしている。それくらい空からの恐怖が大きかったとも言える。
レーダーの原理は分かっても実用化への道のりは果てしない。雑音と正規の信号が識別できない。これは今回の航空自衛隊の高性能レーダーにおける“航跡探知”誤報も同じである。信号と分かっても敵か味方か分からない。大型機か小型機かが分からない。方角が分かっても高度が分からない。この識別精度を上げるためにOR手法が必要の中から生まれてくる。課題はレーダーの改善ばかりではない。敵は何処を攻撃する可能性が大か。どこの基地から何機の戦闘機を発進させるか。誘導経路をどうするか。情報ネットワークをどうするか。ソフト面でのORが活躍する。空軍ばかりではなく陸からの対空砲火の精度改善にも大きな貢献をする。
研究段階から実用段階まで予算を確保するには政治家の力が必要になるが、防諜のためにはあまり手の内を見せられない。味方をも欺く対策は不信を呼ぶ。空軍省内にはトレンチャードの薫陶を得た攻撃優先論者たちが防御システムへの予算増額を妨害する。こんな混沌を何とか切り抜けて作り上げた防空システムが、1940年初夏から始まったバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)に間に合い国運をかけた戦いに勝利することになる。
戦後首相を務めることになるハロルド・マクミランは往時を振り返り「1938年当時の空襲に対する恐怖は、現代における核への恐怖と同じものであった」と回顧している。その視点から見れば今回の北朝鮮ミサイル恐慌現象に頷けるところもある。それならば騒ぎ立てるばかりではなく、英国の為政者が科学技術の叡知を動員して見事な防空システムを築きあげた点をもっと学ぶべきであろう。
何故あんなに大騒ぎになるんだろう!?北朝鮮のミサイル発射に関する私見である。特にメディアと政治家が酷かった。国際条約違反に対する警告声明で十分である。実害なんかあるはずないのだから。あれでは北朝鮮の思うツボ、もうひとつ彼らに切り札を与えてしまった。この中で“ミサイル航跡探知”誤報事件が起きた。犯人探しが今でも防衛省内で行われているのだろうか?
実は“ORの起源”はこれと同じような状況下で始まった。古代・中世はともかく、近世英国は島国ゆえ長いこと本格的な他国の侵略を受けてこなかった。ナポレオンもスペイン無敵艦隊も海が封じた。陸軍は植民地治安軍に過ぎない実力だが、大英帝国を維持する海軍は第一次大戦後も世界の海を制圧するほどの規模を誇った。しかし、この大戦に出現した航空兵力は当初は補助的なものであったが、着々と技術発展をとげ渡洋爆撃の可能性を示すことになる。制空権こそ戦争を制するものだとの考えが浸透し、大戦中のロンドン爆撃は僅かな被害しか無かったものの、その体験はトラウマと成り空襲の恐怖に国防政策は翻弄されていく。大戦後の英国は「このような大戦争は二度と起こらない(起こって欲しくない)」ことを前提に10年間の国防費縮小政策(1932年まで続く)を採る(第一次大戦は落ち目の大英帝国経済に致命傷を与えた)。この間英国空軍の創設者ともいえるトレンチャードは戦略爆撃論を展開し、その思想は各国の空軍独立論者の手本として崇められるほどであった。しかし、これはあくまでも考え方の段階で留まり、実際の空軍力整備が進められたわけでは無く、軍用機や防空システムの開発に見るべきものはない。一方で軍事用航空機全廃論なども現れる。
このような状況に抜本的な国防政策の見直しを迫ることになるのが1933年1月のナチスドイツの誕生とその後の復権・拡大政策である。あの酷いヴェルサイユ条約のくびきの中から国力を回復したナチスは、空襲恐怖につけ込むように、空軍力を実力以上に喧伝する。リンドバーグのような専門家さえもすっかり魅了してしまうほどナチスの宣伝は巧妙だった。
英国の防空政策を如何にすべきか?がこれ以降朝野で喧しく論じられることになる。その中で1938年設置されたのが空軍省防空科学研究委員会である。これこそOR発祥の組織である。委員長はインペリアルカレッジの物理学教授ヘンリー・ティザード、その下にはレーダーの発明者ワトソン・ワット、“ORの父”と称せられることになるケンブリッジ大学教授で物理学者、戦後ノーベル物理学賞をとるブラッケトなど錚々たるメンバーが名を連ねる。
まず敵機を如何に早期に発見するか?光、音、熱(赤外線)、電波の利用が検討される。ここから生み出されたのがレーダーである。こんな一流の科学者が揃っても初期の段階では殺人光線の可能性などを大真面目で研究したりしている。それくらい空からの恐怖が大きかったとも言える。
レーダーの原理は分かっても実用化への道のりは果てしない。雑音と正規の信号が識別できない。これは今回の航空自衛隊の高性能レーダーにおける“航跡探知”誤報も同じである。信号と分かっても敵か味方か分からない。大型機か小型機かが分からない。方角が分かっても高度が分からない。この識別精度を上げるためにOR手法が必要の中から生まれてくる。課題はレーダーの改善ばかりではない。敵は何処を攻撃する可能性が大か。どこの基地から何機の戦闘機を発進させるか。誘導経路をどうするか。情報ネットワークをどうするか。ソフト面でのORが活躍する。空軍ばかりではなく陸からの対空砲火の精度改善にも大きな貢献をする。
研究段階から実用段階まで予算を確保するには政治家の力が必要になるが、防諜のためにはあまり手の内を見せられない。味方をも欺く対策は不信を呼ぶ。空軍省内にはトレンチャードの薫陶を得た攻撃優先論者たちが防御システムへの予算増額を妨害する。こんな混沌を何とか切り抜けて作り上げた防空システムが、1940年初夏から始まったバトル・オブ・ブリテン(英独航空戦)に間に合い国運をかけた戦いに勝利することになる。
戦後首相を務めることになるハロルド・マクミランは往時を振り返り「1938年当時の空襲に対する恐怖は、現代における核への恐怖と同じものであった」と回顧している。その視点から見れば今回の北朝鮮ミサイル恐慌現象に頷けるところもある。それならば騒ぎ立てるばかりではなく、英国の為政者が科学技術の叡知を動員して見事な防空システムを築きあげた点をもっと学ぶべきであろう。
2009年4月5日日曜日
決断科学ノート-3
決断科学ノート-3
ビジネススクールにて
1983年会社の研修制度のひとつであったビジネススクールの短期コースに参加した。派遣先はカリフォルニア大学バークレー校(本校)である。このコースはアメリカ企業の中間管理職向けのもので、約2ヶ月間経営者に必要な知識を一通り教え込むことを目的としていた。この年のテーマは「アメリカ企業を如何に再生(Revitalize)するか?」であり、特に日本の勢いが強かった時だけに、唯一の日本人生徒であった私は何かにつけ注目され、その後の人生に転機をもたらすことになる2ヶ月であった(滞英記-10(1)に関連情報)。
ビジネススクールのカルキュラムといえば事例研究(ケースメソッド)が有名だが、この短期コースではそれは数例で、それよりも国際政治からエネルギー問題、産業政策(特に日本の)など幅広いテーマの講義とそれに関するディスカッションを中心に構成されていた。“再生”に真に必要なことは小手先の戦術論だけではないと言うことであろう。
1951年度ノーベル化学賞受賞者のグレン・シーボーグ教授(106番目の元素は彼を讃えて“シーボギウム”と名付けられた)、のちにクリントン政権下で“日本異質論”を展開することになるチャーマーズ・ジョンソン教授(日本の通商産業政策研究に関する世界的権威)、当時の中曽根首相とも親しく東アジアの政治に詳しいロバート・スカラピーノ教授(この人は1941年ドナルド・キーン等と戦争遂行のため日本語を本格的に学んでいる)などアメリカの知性を代表する錚々たる教授陣と少人数(全部で20人)の学生が、文字通り膝を交えて行われた授業は、緊張の連続であるとともに、アメリカのビジネススクール教育の底力を痛感させられる毎日であった。
そんな中で、ある時教室に8ミリ(ヴィデオだったかもしれない)映写機が用意され、英国の製鉄会社(公社だったかもしれない)の経営会議を延々と映し出し、これについてディスカッションする授業が行われた。学部卒業者向けの長期コースにも使われる、どちらかと言うと“方法論”の授業である。
ここで取り上げられた経営会議は決して模擬ではなく、実際の会議を初めから終わりまで撮影し、授業に関係ない部分をカットして編集したもので、会議の議題は電気炉の投資案件を決するものだった。映写時間は40分くらいであっただろうか。カメラは冒頭の議長役の開会挨拶(?)から担当者の説明、これに対する議論を、最終決定に至るプロセスを休憩時間の参加者の行動を含めて追っていき、それを観たあと意思決定が如何に行われるかを、分析・学習するものであった。見せるために作られた作品ではないので、あまりストリーに抑揚も無く、率直に言って当時の英語力(特に聴き取り)では、案件が電気炉の採否であること、そしてそれが採用されることになった結論以外にはほとんど理解できなかった。つまり会議参加者の発言内容を理解できぬまま終わったと言うことである。
しかし、本当の授業はここから始まるのである。教官(比較的若い)はこれを観たあと、「内容に何か質問はあるか?」と切り出し、圧倒的に多い事務系の学生から電気炉や製鉄業についての質問がいくつか続く。それらを片付けると「このフィルムを観て気のついたことを話せ」と学生に発言を促す。「経済評価で議論の対立があったが、確かに説明が理解しにくかった」「Aは他の人の意見をきちんと聞かず自分の主張を繰り返していた」などと同級生が話し始める。教官がそれに対して「経済評価説明のどこが理解しにくかったか?」などと切り込んでくる。クラスの過半のメンバーが発言し終わると、私の顔を見つめる視線が気になってくる。「(お前も何か言えよ)」と言う合図だ。「(議事内容がほとんど解らないのに何を喋ったらいいんだろう?)」。
実務を通しての経験と勘を基に、意を決して喋ることにした。「正直言って、議事の内容はよく理解できなかったが、BとCの関係について気になることがあった。私の理解ではBは明らかにCよりも地位が上である。しかるにBは自分の発言に対するCの反応をしきりに気にしていたし、他者の発言時にもCを見ていることが多かった。また休憩時間にもBが熱心にCに語りかけていた」「ほかの人間もCに注目している傾向があった」「公式の組織上のリーダーはBかもしれないが、実質的な力関係はCが上ではないか?会議全体のキーパーソンはCではないかと思う」と専ら映像から理解したところを述べてみた。「いいところに気がついた!組織の意思決定ではパワーストラクチャーの把握が大切だ」 それからはこのパワーストラクチャーに関する講義が中心の授業になっていった。
“トップダウン”があたかも定石のように言われる欧米の意思決定でも、“場(必ずしも会議の場だけではない)”の空気を汲み取りすっきりと決断できることが理想的である。パワーストラクチャーの分析把握を正確に行い、リーダーがこれに基づいて自らの考えを実現するシナリオを用意して、意思決定の場に臨むことの重要性をここで改めて体系的に学んだ。シナリオの中身が単なる“根回し”でないことは言うまでもない。冷徹な論理を、要路に在るキーパーソン向けにどう料理できるかが問われるのである。
ビジネススクールにて
1983年会社の研修制度のひとつであったビジネススクールの短期コースに参加した。派遣先はカリフォルニア大学バークレー校(本校)である。このコースはアメリカ企業の中間管理職向けのもので、約2ヶ月間経営者に必要な知識を一通り教え込むことを目的としていた。この年のテーマは「アメリカ企業を如何に再生(Revitalize)するか?」であり、特に日本の勢いが強かった時だけに、唯一の日本人生徒であった私は何かにつけ注目され、その後の人生に転機をもたらすことになる2ヶ月であった(滞英記-10(1)に関連情報)。
ビジネススクールのカルキュラムといえば事例研究(ケースメソッド)が有名だが、この短期コースではそれは数例で、それよりも国際政治からエネルギー問題、産業政策(特に日本の)など幅広いテーマの講義とそれに関するディスカッションを中心に構成されていた。“再生”に真に必要なことは小手先の戦術論だけではないと言うことであろう。
1951年度ノーベル化学賞受賞者のグレン・シーボーグ教授(106番目の元素は彼を讃えて“シーボギウム”と名付けられた)、のちにクリントン政権下で“日本異質論”を展開することになるチャーマーズ・ジョンソン教授(日本の通商産業政策研究に関する世界的権威)、当時の中曽根首相とも親しく東アジアの政治に詳しいロバート・スカラピーノ教授(この人は1941年ドナルド・キーン等と戦争遂行のため日本語を本格的に学んでいる)などアメリカの知性を代表する錚々たる教授陣と少人数(全部で20人)の学生が、文字通り膝を交えて行われた授業は、緊張の連続であるとともに、アメリカのビジネススクール教育の底力を痛感させられる毎日であった。
そんな中で、ある時教室に8ミリ(ヴィデオだったかもしれない)映写機が用意され、英国の製鉄会社(公社だったかもしれない)の経営会議を延々と映し出し、これについてディスカッションする授業が行われた。学部卒業者向けの長期コースにも使われる、どちらかと言うと“方法論”の授業である。
ここで取り上げられた経営会議は決して模擬ではなく、実際の会議を初めから終わりまで撮影し、授業に関係ない部分をカットして編集したもので、会議の議題は電気炉の投資案件を決するものだった。映写時間は40分くらいであっただろうか。カメラは冒頭の議長役の開会挨拶(?)から担当者の説明、これに対する議論を、最終決定に至るプロセスを休憩時間の参加者の行動を含めて追っていき、それを観たあと意思決定が如何に行われるかを、分析・学習するものであった。見せるために作られた作品ではないので、あまりストリーに抑揚も無く、率直に言って当時の英語力(特に聴き取り)では、案件が電気炉の採否であること、そしてそれが採用されることになった結論以外にはほとんど理解できなかった。つまり会議参加者の発言内容を理解できぬまま終わったと言うことである。
しかし、本当の授業はここから始まるのである。教官(比較的若い)はこれを観たあと、「内容に何か質問はあるか?」と切り出し、圧倒的に多い事務系の学生から電気炉や製鉄業についての質問がいくつか続く。それらを片付けると「このフィルムを観て気のついたことを話せ」と学生に発言を促す。「経済評価で議論の対立があったが、確かに説明が理解しにくかった」「Aは他の人の意見をきちんと聞かず自分の主張を繰り返していた」などと同級生が話し始める。教官がそれに対して「経済評価説明のどこが理解しにくかったか?」などと切り込んでくる。クラスの過半のメンバーが発言し終わると、私の顔を見つめる視線が気になってくる。「(お前も何か言えよ)」と言う合図だ。「(議事内容がほとんど解らないのに何を喋ったらいいんだろう?)」。
実務を通しての経験と勘を基に、意を決して喋ることにした。「正直言って、議事の内容はよく理解できなかったが、BとCの関係について気になることがあった。私の理解ではBは明らかにCよりも地位が上である。しかるにBは自分の発言に対するCの反応をしきりに気にしていたし、他者の発言時にもCを見ていることが多かった。また休憩時間にもBが熱心にCに語りかけていた」「ほかの人間もCに注目している傾向があった」「公式の組織上のリーダーはBかもしれないが、実質的な力関係はCが上ではないか?会議全体のキーパーソンはCではないかと思う」と専ら映像から理解したところを述べてみた。「いいところに気がついた!組織の意思決定ではパワーストラクチャーの把握が大切だ」 それからはこのパワーストラクチャーに関する講義が中心の授業になっていった。
“トップダウン”があたかも定石のように言われる欧米の意思決定でも、“場(必ずしも会議の場だけではない)”の空気を汲み取りすっきりと決断できることが理想的である。パワーストラクチャーの分析把握を正確に行い、リーダーがこれに基づいて自らの考えを実現するシナリオを用意して、意思決定の場に臨むことの重要性をここで改めて体系的に学んだ。シナリオの中身が単なる“根回し”でないことは言うまでもない。冷徹な論理を、要路に在るキーパーソン向けにどう料理できるかが問われるのである。
2009年3月28日土曜日
決断科学ノート-2
決断科学ノート-2
組織における決断
文系にするか理系にするか?就職はどこにするか?彼女(あるいは彼)と結婚するか?今日のランチは何にするか?個人にとって“決断”は不断にあるし、人生そのものと言える。ただ結婚は合意が必要だが、あとはほとんど自分で決めて責任も自ら負うことになるので、自らの判断基準で決められる(親の意見や世間体など外部因子が無いわけではないが)。
これに対して組織内での決断は、その組織の存在意義、組織構成員の考え方や関連組織との折り合いなど影響因子が複雑に絡み合い、問題の解決案がすんなりまとまることは珍しい。これを少しでも合理的に行うために、法律や条例、服務規程、職務分掌などが定められるが、これらはいわばルールであってその枠を超えてはいけないと言うだけのもので、これで最適な解答が出るわけではない。ここで“最適”という言葉を使ったが、問題によってこの“最適”の定義が簡単に定められないことも組織が抱える問題解決を難しくする。国政や地方自治のように異なる利害関係者間で問題解決を図る場合、多くのメンバーが“納得できること(納得感)”が最適となるが、経営や軍事では“利益”や“勝利”の可能性が大きな判断基準になる。納得感の場合は時間をかけて三方一両損のような妥協案で解決をみるプロセスを採ることが多いが、経営や軍事ではこのような方式では、本来の目的を達成できない。そこで役職を設けて地位に応じた職権をもってことを決することになる。ある意味民主的でない意思決定構造だが、刻々変化する環境下でタイムリーな決断を必要とする組織目的から合理的な方式と言える。
わが国企業経営の特色に会議の多いことがある。自分自身の体験でも、しょっちゅう会議をしていた。欧米企業に比べて会議室の数も多い(逆に個室は著しく少ない)。会議の内容は説明会や報告会のような比較的議論の少ないものもあるが、案件について主管部門が解決案を提示しこれを議論する場が多かった。ただ案件について侃々諤々と意見をたたかわすと言うよりは、組織構成員や関連組織の“合意形成”の場としての役割が極めて高かった。しかも担当者ベースであらかじめ解決案に関する摺り合わせがおおよそ出来ているのである。私は二つの一部上場会社で働いたが、業種も企業文化もかなり異なる会社なのに、会議の性格はそれほど変わっていなかった。このことから言えるのは、わが国企業の経営では“合意形成(構成員・組織間)”がきわめて重要だということである。そして強いリーダーシップを発揮する者に比べ“不満ミニマム”型管理職が意外と人気があるのである。ここではしばしば論理的な論拠以上に全体の空気を読む感性が重要な役割を果たす。落とし所を探りあいながらゴールを模索する、国家レベルから企業経営までわが国の方針決定・意思決定が遅いことに定評(?)があるのが頷ける。タイミングを失して全てを失うリスクがある反面、一旦ことを決すれば全員参加で大きな力を発揮する利点もある。成長期にはタイミングを失する機会が比較的少なく、この利点が大いに生かされたと言っていい。
一方で欧米(あるいはこの影響力の強い東南アジアや中東など)はレポートラインがはっきりしており、権限と責任の枠内で与えられた仕事をきちんと処理できるかどうかが問われる。ここでは上司はある意味生殺与奪の力を持っていて、その人の納得感を得られるアウトプットを作り出すことが最も重要である。決断をする者にとって“合意形成”より自らの考え(仮説)を論理的に裏付ける“シナリオとデータ”が求められるのである。早く“結果(評価)”を出すためには優れた方式と言えるが、リーダー(決断者)のミスが組織全体に致命傷を負わせる危険もある。
和洋の経営組織における意思決定の違いを、少しそれぞれの特色を強調して描くと以上のようになるが、現実は日本でも案件の承認ルートは決まっているし、下から順に判子を押していくのは欧米のサインをしていくやり方と形式的には違わない。一方欧米においても関係者による会議やちょっとした打ち合わせでことを決めていくことは稀ではない。違いは、決断者が何を基準に決断を下すか?そして下した決断を説明しきれるか?にある。「皆で決めたじゃないか」では失敗した際その体験を次に生かせない無責任な“一億総懺悔”だけになる。
決断者に最も必要なことは、下した決断を自ら確信(妄信ではない)できることである(たとえ結果としてそれが誤りであったとしても)。これによって組織はその方向に向かって強く動き出す。自ら確信するためには、“一人で(専門家かから意見を聞くことはあるが)”問題を徹底的に考え、仮説(これはこうなるのではないかという因果関係)を作ることが欠かせない。そしてこの仮説作り・検証に、数理・情報技術の活用が極めて重要な役割を果たす。経験・慣例、それに基づく感性(と言うより直感)、場の雰囲気やパワーストラクチャーを慮った決断(?)からの革新がリーダーに強く求められる時代が来ていると“確信する”。
とは言っても経験や感性は重要である。実務経験の無いビジネススクールの卒業生が経営の中枢にいきなり登用され失敗するケースは枚挙にいとまが無い。決断に際して、経験・感性と数理・情報のバランスを如何にとるかが“決断科学”の取り組むべき命題である。
組織における決断
文系にするか理系にするか?就職はどこにするか?彼女(あるいは彼)と結婚するか?今日のランチは何にするか?個人にとって“決断”は不断にあるし、人生そのものと言える。ただ結婚は合意が必要だが、あとはほとんど自分で決めて責任も自ら負うことになるので、自らの判断基準で決められる(親の意見や世間体など外部因子が無いわけではないが)。
これに対して組織内での決断は、その組織の存在意義、組織構成員の考え方や関連組織との折り合いなど影響因子が複雑に絡み合い、問題の解決案がすんなりまとまることは珍しい。これを少しでも合理的に行うために、法律や条例、服務規程、職務分掌などが定められるが、これらはいわばルールであってその枠を超えてはいけないと言うだけのもので、これで最適な解答が出るわけではない。ここで“最適”という言葉を使ったが、問題によってこの“最適”の定義が簡単に定められないことも組織が抱える問題解決を難しくする。国政や地方自治のように異なる利害関係者間で問題解決を図る場合、多くのメンバーが“納得できること(納得感)”が最適となるが、経営や軍事では“利益”や“勝利”の可能性が大きな判断基準になる。納得感の場合は時間をかけて三方一両損のような妥協案で解決をみるプロセスを採ることが多いが、経営や軍事ではこのような方式では、本来の目的を達成できない。そこで役職を設けて地位に応じた職権をもってことを決することになる。ある意味民主的でない意思決定構造だが、刻々変化する環境下でタイムリーな決断を必要とする組織目的から合理的な方式と言える。
わが国企業経営の特色に会議の多いことがある。自分自身の体験でも、しょっちゅう会議をしていた。欧米企業に比べて会議室の数も多い(逆に個室は著しく少ない)。会議の内容は説明会や報告会のような比較的議論の少ないものもあるが、案件について主管部門が解決案を提示しこれを議論する場が多かった。ただ案件について侃々諤々と意見をたたかわすと言うよりは、組織構成員や関連組織の“合意形成”の場としての役割が極めて高かった。しかも担当者ベースであらかじめ解決案に関する摺り合わせがおおよそ出来ているのである。私は二つの一部上場会社で働いたが、業種も企業文化もかなり異なる会社なのに、会議の性格はそれほど変わっていなかった。このことから言えるのは、わが国企業の経営では“合意形成(構成員・組織間)”がきわめて重要だということである。そして強いリーダーシップを発揮する者に比べ“不満ミニマム”型管理職が意外と人気があるのである。ここではしばしば論理的な論拠以上に全体の空気を読む感性が重要な役割を果たす。落とし所を探りあいながらゴールを模索する、国家レベルから企業経営までわが国の方針決定・意思決定が遅いことに定評(?)があるのが頷ける。タイミングを失して全てを失うリスクがある反面、一旦ことを決すれば全員参加で大きな力を発揮する利点もある。成長期にはタイミングを失する機会が比較的少なく、この利点が大いに生かされたと言っていい。
一方で欧米(あるいはこの影響力の強い東南アジアや中東など)はレポートラインがはっきりしており、権限と責任の枠内で与えられた仕事をきちんと処理できるかどうかが問われる。ここでは上司はある意味生殺与奪の力を持っていて、その人の納得感を得られるアウトプットを作り出すことが最も重要である。決断をする者にとって“合意形成”より自らの考え(仮説)を論理的に裏付ける“シナリオとデータ”が求められるのである。早く“結果(評価)”を出すためには優れた方式と言えるが、リーダー(決断者)のミスが組織全体に致命傷を負わせる危険もある。
和洋の経営組織における意思決定の違いを、少しそれぞれの特色を強調して描くと以上のようになるが、現実は日本でも案件の承認ルートは決まっているし、下から順に判子を押していくのは欧米のサインをしていくやり方と形式的には違わない。一方欧米においても関係者による会議やちょっとした打ち合わせでことを決めていくことは稀ではない。違いは、決断者が何を基準に決断を下すか?そして下した決断を説明しきれるか?にある。「皆で決めたじゃないか」では失敗した際その体験を次に生かせない無責任な“一億総懺悔”だけになる。
決断者に最も必要なことは、下した決断を自ら確信(妄信ではない)できることである(たとえ結果としてそれが誤りであったとしても)。これによって組織はその方向に向かって強く動き出す。自ら確信するためには、“一人で(専門家かから意見を聞くことはあるが)”問題を徹底的に考え、仮説(これはこうなるのではないかという因果関係)を作ることが欠かせない。そしてこの仮説作り・検証に、数理・情報技術の活用が極めて重要な役割を果たす。経験・慣例、それに基づく感性(と言うより直感)、場の雰囲気やパワーストラクチャーを慮った決断(?)からの革新がリーダーに強く求められる時代が来ていると“確信する”。
とは言っても経験や感性は重要である。実務経験の無いビジネススクールの卒業生が経営の中枢にいきなり登用され失敗するケースは枚挙にいとまが無い。決断に際して、経験・感性と数理・情報のバランスを如何にとるかが“決断科学”の取り組むべき命題である。
2009年3月20日金曜日
決断科学ノート-1
決断科学ノート-1
“決断科学工房”の由来
ビジネスを離れてからのライフワークとして考えていたことは、趣味(道楽?)の軍事システム研究から得た知見を、経営における情報技術(IT)利用の普及(特に、意思決定における数理技術利用)に役立てる情報発信を行うことだった。一人で気ままにやることなので、会社設立のような考えは無かったがそれでもなにか名前が欲しかった。組織に長く属していると、こんな気持ちになるものである。
“工房”に惹かれたのは、化学工学分野のシステム研究で若いころ知り合った、東大のN先生のご自宅に後年お邪魔したとき、表札に“研究工房:シンセシス”とあるのを見たときである。同先生の下で学びJGCに勤務、退職後JABEE(Japan Accreditation Board for Engineering Education; 日本技術者教育認定機構;工学部の格付け機関)関連のコンサルタントをしているTさんの名刺にも“工房”がつけられていた。一人でコツコツやる非営利作業に相応しい字(特に“房”)と響きが良い。商人よりは職人に近いところが好きだ。
このブログを見ている友人から「最近よく決断と言う文字を目にします。これも今の混沌とした社会のせいでしょうか?先見の明がありましたね」と言うメールをいただいた。確かによく目にする。しかし私は現在を見越してこれをつけたわけではない。
1988年渡米した際、Exxonにおける数理技術(特にLP;線形計画法)の泰斗だったトム・ ベーカーに6年ぶりに再会した。83年にExxonを早期退社した彼は、ECCS(Exxon Computer ,Communication & Systems)の仲間を中心に生産管理ソフトウェアの会社を立ち上げていた。創設者であり彼の名声がビジネスを支えているにもかかわらず、自室の机の上には社長(CEO、President)ではなく“Research(研究)”という名札が置かれていた。はにかみながら「経営は苦手でね」と言ってそれを指差す。そんな彼の会社の名前はChesapeake Decision Sciences。“Decision Sciences”始めて目にする英語である。数理技術の世界で“Decision Making(意思決定)”はよく使われる言葉である。何事にも一ひねりする彼らしい会社名に強く印象付けられた。“決断科学”か!それもSciencesと複数になっていると。しかしそのとき私が発した質問は「ニュージャージに在って、何故“チェサピーク”(チェサピークは大西洋がヴァージニア州南部でワシントンDCに切り込むように北上する湾の名前;シーフードで有名)なんだ?」 答えは「海が好きな俺は(彼は何度もヨットの艇長として大西洋を横断している)Exxonを離れたらチェサピーク湾を臨む地に事務所と住居を構えるつもりだった。そこでこんな名前を登記したんだ。しかしリンダ(夫人)がここを離れるのに猛反対でね。所在地とは関係ない名前で会社を運営することになったんだよ」 Exxonグループの会議やセミナーではいつも厳しい彼の、普段は見せない気弱な一面を垣間見た。決断しても実行できないことが身近にあることがおかしかった。数理科学(論理)では一流でも心理学(情緒)や社会学(慣習)と言う決断要素を軽視した結果の失態で、これは組織の決断でも往々見られることである(もちろん論理軽視と言うその逆も)。最後に会ったのは1998年春、この時二人はそれぞれ重大な決断をしていた。このことについてはいずれこのノートで紹介する予定である。
決断科学工房は、こうして尊敬する二人の知人・友人からヒントを得て名付けたものである。“研究”を入れるかどうかしばし迷ったが、暇つぶしに近い所為ゆえ止めることにした。
渡英する少し前、OR学会の新年会で当時会長だったK先生(LPシンプレックス解法の考案者、ジョージ・ダンチックの愛弟子)に名刺をお渡ししたところ「決断科学か!これは使えそうだな!」と言ってお墨付きをいただいた。
この“決断科学ノート”は、本来このブログの中核として開陳したいと思っている「ORの起源に学ぶ経営とIT」そのものではなく、そのための調査研究、私が見聞したり関わった会社経営・管理における決断、あるいは日常目にする政治や経済における決断に関する話題を、エッセイあるいは評論風に書いていくことを目的に立ち上げた。いままでの旅行記や書評とは違いかなり硬い内容になるが、時間のあるときにお読みいただき、コメントをいただければ幸いである。
“決断科学工房”の由来
ビジネスを離れてからのライフワークとして考えていたことは、趣味(道楽?)の軍事システム研究から得た知見を、経営における情報技術(IT)利用の普及(特に、意思決定における数理技術利用)に役立てる情報発信を行うことだった。一人で気ままにやることなので、会社設立のような考えは無かったがそれでもなにか名前が欲しかった。組織に長く属していると、こんな気持ちになるものである。
“工房”に惹かれたのは、化学工学分野のシステム研究で若いころ知り合った、東大のN先生のご自宅に後年お邪魔したとき、表札に“研究工房:シンセシス”とあるのを見たときである。同先生の下で学びJGCに勤務、退職後JABEE(Japan Accreditation Board for Engineering Education; 日本技術者教育認定機構;工学部の格付け機関)関連のコンサルタントをしているTさんの名刺にも“工房”がつけられていた。一人でコツコツやる非営利作業に相応しい字(特に“房”)と響きが良い。商人よりは職人に近いところが好きだ。
このブログを見ている友人から「最近よく決断と言う文字を目にします。これも今の混沌とした社会のせいでしょうか?先見の明がありましたね」と言うメールをいただいた。確かによく目にする。しかし私は現在を見越してこれをつけたわけではない。
1988年渡米した際、Exxonにおける数理技術(特にLP;線形計画法)の泰斗だったトム・ ベーカーに6年ぶりに再会した。83年にExxonを早期退社した彼は、ECCS(Exxon Computer ,Communication & Systems)の仲間を中心に生産管理ソフトウェアの会社を立ち上げていた。創設者であり彼の名声がビジネスを支えているにもかかわらず、自室の机の上には社長(CEO、President)ではなく“Research(研究)”という名札が置かれていた。はにかみながら「経営は苦手でね」と言ってそれを指差す。そんな彼の会社の名前はChesapeake Decision Sciences。“Decision Sciences”始めて目にする英語である。数理技術の世界で“Decision Making(意思決定)”はよく使われる言葉である。何事にも一ひねりする彼らしい会社名に強く印象付けられた。“決断科学”か!それもSciencesと複数になっていると。しかしそのとき私が発した質問は「ニュージャージに在って、何故“チェサピーク”(チェサピークは大西洋がヴァージニア州南部でワシントンDCに切り込むように北上する湾の名前;シーフードで有名)なんだ?」 答えは「海が好きな俺は(彼は何度もヨットの艇長として大西洋を横断している)Exxonを離れたらチェサピーク湾を臨む地に事務所と住居を構えるつもりだった。そこでこんな名前を登記したんだ。しかしリンダ(夫人)がここを離れるのに猛反対でね。所在地とは関係ない名前で会社を運営することになったんだよ」 Exxonグループの会議やセミナーではいつも厳しい彼の、普段は見せない気弱な一面を垣間見た。決断しても実行できないことが身近にあることがおかしかった。数理科学(論理)では一流でも心理学(情緒)や社会学(慣習)と言う決断要素を軽視した結果の失態で、これは組織の決断でも往々見られることである(もちろん論理軽視と言うその逆も)。最後に会ったのは1998年春、この時二人はそれぞれ重大な決断をしていた。このことについてはいずれこのノートで紹介する予定である。
決断科学工房は、こうして尊敬する二人の知人・友人からヒントを得て名付けたものである。“研究”を入れるかどうかしばし迷ったが、暇つぶしに近い所為ゆえ止めることにした。
渡英する少し前、OR学会の新年会で当時会長だったK先生(LPシンプレックス解法の考案者、ジョージ・ダンチックの愛弟子)に名刺をお渡ししたところ「決断科学か!これは使えそうだな!」と言ってお墨付きをいただいた。
この“決断科学ノート”は、本来このブログの中核として開陳したいと思っている「ORの起源に学ぶ経営とIT」そのものではなく、そのための調査研究、私が見聞したり関わった会社経営・管理における決断、あるいは日常目にする政治や経済における決断に関する話題を、エッセイあるいは評論風に書いていくことを目的に立ち上げた。いままでの旅行記や書評とは違いかなり硬い内容になるが、時間のあるときにお読みいただき、コメントをいただければ幸いである。
2009年3月17日火曜日
滞英記-18(最終編)
Letter from Lancaster-18(最終編)
2007年11月21日
10月11日、5ヶ月と3日にわたる滞英生活を滞りなく終え帰国しました。本来の渡英目的である“OR歴史研究”に期待以上の成果を上げることができた上、一度も体調不良・事故(国際免許証一時紛失や大水による計画変更などを除き)なども無く過ごせました。これもこのレポート読者諸氏の温かい励ましがあっての賜物と感謝する次第です。
1970年の初めての海外出張(アメリカ、フランス)以来、業務・観光で訪れた国の数は23カ国になります。そして英国は24番目の国になりました。回数、滞在期間ともアメリカが圧倒的に多く、通算2年近くになるでしょう。友人も一番多く、彼らの自宅にも何回も宿泊していますし、家族ぐるみの付き合いを続けています。次いで回数が多いのが韓国です。距離的に国内とさほど違いが無いこともあり、滞在日数はトータル2,3ヶ月ですが先方からの訪問も多く、友人としての親密度は一番高いかもしれません。次女が韓国の大学に留学する際はよろこんで身元保証人になってくれた家族もあります。この両国は単なる好奇心や憧憬対象の外国ではではなく、日常生活が繋がった外国と言えます。そして今回それに英国が加わりました。
帰国出立の朝は快晴。珍しくホテルのロビーで日本人の団体に会いました。若い女性が多く、聞けば千葉県松戸市(私の少年時代過ごした町)にある聖徳女子大の研修旅行とか。これから湖水地帯を経由してエジンバラへ向かうとのことでした。初めての英国旅行に皆興奮気味でした。ランカスターでも紅葉が始まっていましたから、北へ向かう旅はさぞ素晴らしいものになったでしょう。
9時15分発の短い4両編成マンチェスター空港行き列車は定刻通り発車。やがてランカスター大学の学寮が見え、はじめて来た時と同じように、なだらかな起伏の中に美しい緑が広がっています。「(また来るよー)」と心の中で叫んでいました。歳のせいで感傷的になりやすく涙が出そうでした。しかし緑の美しさは同じでも、来た時と去る時のそれは明らかに違います。緑の足元をこの5ヶ月確り見てしまったからです。そこには家畜の糞が至る所にあり、ハイキングのフットパス(歩道)はぬかるみ、軽装では歩けないほどです。観光で訪れる英国は遠目に見た美しい緑の田園風景、生活してみた英国は緑の足元とも言えます。日常の買い物、休みの過ごし方、犯罪、教育、医療、年金、環境問題、地方や国の政治などを見るにつけ、「彼らも毎日必死で生きているんだなー」との思いを深くした次第です。
私の滞英生活の結論;研究生活は素晴らしかった。自然環境はや日常生活は穏やかで静かだ。しかし決してうらやむような国ではない。むしろ限りなく我々に近い生活観の国だ、と言うところです。このレポートの結ぶため、二つの主題:一つは日常生活と密着する「政治と政党」、もう一つは研究活動と関わる「Mauriceのこと」を取り上げることとしました。
1.政治課題と二大政党
1)英国の政党 皆さんもご承知のように英国を代表する政党は労働党と保守党の二大政党です。古はホイッグ党(議会派)とトーリー党(王党派)が存在し、議会民主政治のさきがけを成してきた国ですが、王権を巡る争いの中で次第にホイッグ党の存在があいまいになり、それと前後する社会主義の台頭でトーリーの中に埋没し現在のような労働党と保守党の対立構造が出来上がっていったのです。従って保守党は”Conservative Party”と表現されるだけでなく、メディアでは”Tory”もよく使われます。実は労働党側もイデオロギー重視で左傾化が激しかった時代にこれを嫌った分派活動があり、ここから第三の政党“民主党”が生まれています。この民主党は国政では保革接近時以外ほとんど力がありませんが、地方選挙では強く、最近環境問題を中心に存在感が出てきている“緑の党”とともに中央とは異なる政界模様を作り上げています。
本レポートの現地最終版(17)をお送りした後、民主党、労働党そして保守党の党大会が隔週で開かれました。さらに10月9日(離英前日)労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。これらをTVで視、新聞を読み(この時だけ買った)、Mauriceと話すことによって、英国がどんな問題を抱えそれらにどう取り組もうとしているかが見えてきます。
政党大会の報道は日本に比べはるかに大衆化しています。BBCでは大会前日(いずれも日曜日)から大きく取り上げ、党首や実力者へのインタビューが行われますし、新聞は支持政党(ほとんどの新聞はどちらを支持するか旗幟鮮明)を盛り上げる記事がいっぱいです。特にBBCの日曜時事特番“Andrew Marr Show”(午前9時~10時)は党首を出演させ、有名ジャーナリストのMarr氏が舌鋒鋭く迫る興味深い番組で、建前ばかりで一向に議論がかみ合わないNHKの日曜討論とは大違いです。
これらの党大会や報道を見ていて感じることは、力点の置き方は違うものの、両党の政治課題に対する取り組み姿勢に大きな違いを感じないことです。労働党と言っても、わが国の嘗ての社会党や共産党のように教条的でただ与党の政策に反対することだけが存在意義のような政党ではなく、「これなら国政を任せても良いかな」と思わせる柔軟性・現実性を持っています。欧州社会主義政党共通の成熟した姿勢を感じ、羨ましくさえ思いえました。
それでは身近な政治課題に対する両党の取り組みを、私が理解した範囲で解説してみたいと思います。
2)身近な政治課題
①国際関係・外交
以前お伝えしたように国際関係・外交はあまり頻繁にニュースになりませんが、アフガン・イラク、パレスチナ、EU統合は比較的頻繁に取り上げられます。
先ずアフガン・イラク問題ですが、アフガンは国連での同意、EUとしての積極参加もあり参戦の意義まで遡って議論することは少なく、個々の作戦やアメリカとの協調の是非が問題になるくらいで、両党の主張に大きな差異を感じません。むしろ、歴史的な背景(ロシアの南下政策を止めるため、インド支配の一環として取り組んだアフガン制圧が上手くいかなかったこと)、さらに陸軍大国ソ連の介入さえ頓挫したことを踏まえ、厭戦気分が広がり、戦死者への同情が高まっていることが政府にとって一番気がかりなことでしょう。そのため、ブラウン首相はこの国への軍事介入の目的である、テロ撲滅に対する強気の姿勢を崩してはいません。
しかしイラクはアフガンと異なり、ブッシュ・ブレア交友が基になって踏み切ったとの見方が強く、現役の陸軍幹部からさえ誤判断批判続出です。ここでの泥沼からの脱出はある意味で労働党に対して踏み絵になっています。アメリカとの共同歩調か国内世論かの選択です。そんな状況下、保守党大会の最終日、この日は党首キャメロンが総括演説をする日ですが、ブラウンはバスラに飛び兵士を慰問するとともに“来年3月には現在の派兵規模(5000人)を半減する”と発表しました。党大会の仕上げをぶち壊す(メディアの話題をさらわれる)、見え見えの人気取り政策に保守党が怒り狂ったのは当然です。湾岸戦争当時の首相メジャー(保守党)がTV出演し、軍事政策に対する労働党の定見の無さを痛烈に批判していました。この問題はイラク問題の解決策が依然見えないだけに、今後の大きな政争の材料として残りそうです。
EU統合は、経済的な面(通貨を除く)や域内行動の面では概ね英国でも評価されています。問題は政治統合です。欧州憲法、欧州内閣と元首、統一外交政策などがその具体的懸案事項です。
この問題に対する労働党と保守党の違いは、どちらかと言えば労働党は積極的、保守党は消極的と言えます。しかし労働党支持者の中にも英国が独自路線(特に、外交とセキュリティ政策)をとることを支持する向きも多く、国民投票(Referendum)をやれば反対票が賛成票を上回るのではないかと推察します。特にEU憲法制定には反対意見が強いようです。フランスがこれにノンを出してから、ドイツは何とか英国の賛同を引き出そうとブラウン首相に積極的に働きかけています。私の滞在中ブラウンは“覚書つき”で通すか、また国民投票をやるか、明確にはしていませんでしたが何とかまとめたい意向のようでした。
滞英中外交や国際関係で日本が登場するシーンはほとんど無く、日本関係の映像がBBCに現れたのは、中越地震(特に原子力発電所)とビルマ(英国では依然ミャンマーでなくビルマ、ヤンゴンではなくラングーンを使用)における日本人ジャーナリスト射殺くらいでした。一部のインテリは、新聞を通じてアフガン支援の海上補給が参議院選挙の結果国際問題になってきたことを知ってはいますが、これもTVでは全く紹介されていません。無論総理大臣の名前など誰も知らないと言ってもいいでしょう。
帰国してから、英国の政治情勢が一般のTVや新聞でどの程度報道されるかチェックしていますが、ほとんど眼にしません。日英双方とも互いにほとんど相手に無関心なことに変わりはありません。
②医 療 医療と教育に関しては、もっと早い機会に本報告で行いたいと考えていましたが、部外者にはその姿がなかなか分からないため今回まで延び延びになっていました(現時点でもよく分からないことだらけです)。しかし、政治的に極めて大きな課題ですので理解する範囲で解説を試みます。
優れた英国の福祉政策を代表する言葉に“ゆりかごから墓場まで”があります。その中核を成すのが医療と年金で、医療費は原則タダ行われることになっています。しかし、垣間見た実態は問題だらけであることが分かってきました。肥大化したNHS(National Health Service)と称する医療サービス機構(医師、医療技術者(看護師を含む)、救急隊員、医療事務担当など40万人を超す)とそれに要する費用、サービス内容などがしばしば政治ニュースで取り上げられる他、特定の病気(例えば乳がん)に対する国としての取り組みなども党大会で論じられたりします。システムは立派だが実際のサービスが伴わないと言うのが現状なのです。
政治問題としての医療を論ずる前に、ここの医療システムについて簡単に述べてみたいと思います。
外国人を含め英国で医療サービスを受けるためには、先ずその地区の担当医(General Practitioner;GP)に登録する必要があります。担当医のいる所は病院ではなく診療所と言っていいでしょう。簡単な診断・治療・処方(比較的手に入れやすい薬をくれる程度)を行い、これで治癒すれば良いのですが“GP”の言葉が示すとおり専門医ではないので、少しややこしい病気だと対応できません。次のステップはこのGPが適当な病院を紹介してくれます。病院を訪れると直ぐに診断・処方に入れることは稀で、診断・処方の“日取り”を決めてくれるだけです。一週間ほど先になることなど当たり前です。「この間に大変なことになるかもしれない(死ぬかもしれない)!」こんな恐怖に慄きながら幸運を祈るしかないのです。無論急患は救急車で病院に直行ですが、日本同様受け入れ拒否も生じています。このような事態が生ずる原因は専門医や施設の不足にあるようですが、“差別(人種)”もあるようです。
医療荒廃の主因を、保守党(特にサッチャー政権)の医療関連予算圧縮・民営化促進に求める声をよく耳にします。例えばそれ以前(20年以上前)、GPの年収は10万ポンド(現在の為替レートで約2300万円)だったそうです。これは今の英国でもかなりの高額所得者です。サッチャー首相はこのNHS関連予算の大幅削減の中でGPの年収カットを実施しています。結果高い技術を持つ医師達が多数、医師免許が相互に通用するアメリカへ出稼ぎに行ってしまいました(これが現在まで続いている)。また、医療現場という3K職場から英国人(ここでは英国籍の白人)が去り、旧植民地からの安い労働力でここをカバーしなければならない状態になっています。保守党はこのNHS機構の再構築を始めとした医療態勢の改革(当然予算圧縮を伴う)を標榜していますし、労働党も党大会まではかなり厳しい見方しているように感じていました。しかし、保守党大会後ブラウンとキャメロンの支持率が急接近した影響か、10月9日のPre-Budget(3年間予算)では医療関連予算が大幅に増加し、メディアは「今回の予算の最大の勝者は医療」とまで伝えています。果たして、安心して医療サービスが受けられる良き時代が再び来るのかどうか?福祉先進国家の真価が問われるところにきています。
③教 育 この問題も、週報の中でご報告したいと思っていたテーマです。しかし、教育システム、特に中・高(これが一貫制になっている)がよく分からず逡巡してきました(今でもよく理解できていません)。先ず、パブリックスクール(呼称とは違い、私立の有名校;イートンなど)とグラマースクール(公立校)の教育体系や大学進学時の扱いの違い、またこのグラマースクールに“Comprehensive(包括的)”と“Hybrid(混合的)”があること、グラマースクールでは生徒により卒業必要年限に違いのあることなどの実情がよくわかっていないのです(ご存知の方は是非ご一報ください)。そこでこのレポートでは話題になっていることと政治課題について記述することにします。
・小学生の学力(国語・算数)低下:改善傾向にあるのだがEU諸国で最も低い。これを学校の選択と評価により差別化し、良い学校には支援を厚くしようというのが保守党(このような政策はもともとサッチャー政権で生まれた)。これに真っ向から反対するのではなく、全体の底上げ(教職員の増加や処遇改善)をしようというのが労働党です。
・大学入学者の増加:労働党は既に40%を超える同年代大学進学率(’60年代には6%台)をさらに上げるための経済支援策を直近の党大会で打ち出しています。これ対して保守党は質的向上こそ優先すべきで、優秀な大学に予算配分を厚くする政策を掲げています。また労働党はオックス・ブリッジへのグラマースクールからの入学率アップにも熱心で、保守党これに批判的です。
・英語(国語)教育の充実:移民、旧植民地からの移住者対策。これは両党とも重要課題と考えており際立った違いはありません。
・いじめ問題:特に東欧からの英語を話せない移民の子弟がいじめに遭う傾向にある。犯罪対策の一部としてもクローズアップされています。学校でのいじめ問題は決して日本だけの現象ではありません。
④犯罪・テロ対策
・少年犯罪(被害者、加害者双方)の多発について既に何度かご報告していますが、大きな社会問題の一つです。これに銃器・飲酒・麻薬とエスニック問題が絡んで複雑な様相を呈してきています。
・家庭内暴力(父親の子供や妻に対するケースが多い)もしばしばTVで報道されます。傷だらけの女性がそのまま画面に現れるので視るに耐えないほどです。
・強盗事件も増加傾向にあります。嘗ての英国の強盗事件は、犯罪小説の格好の題材になるような見事なものもありましたが、最近多発する事件は、窃盗の居直りや一人暮らしの老人襲うもの、日本でよくあるコンビニ強盗の類が多く、弱いものを粗暴な手段で痛めつけ僅かな金を奪うようなものが増えています。
・テロに関しては、滞英中ほぼ同じ時期にグラスゴー空港とロンドン中心部で発生(ロンドンは未遂)しました。国際問題でアメリカと同一歩調をとることに対する反抗、旧植民地からの移民の欲求不満、北アイルランド問題など、この国独特のテロ発生要因を抱えていることがテロ対策を複雑なものにしています。
実はEUの統合推進に関して、このテロ対策を含む安全保障政策を一本化することに反対する勢力があり(どちらかと言うと保守党系)、統一推進派(主として労働党、中でもブラウン首相の周辺)との対立がEU問題の度にクローズアップされます。いずれのテロ潜在要因も国防・外交と深く関わるだけに単なる犯罪対策とは異なる、国策絡みの政治課題としての対応が必要になってくるのです。
以上述べた犯罪・テロに対する対処療法は、警察力の強化と言うことになります。労働党大会ではブラウン党首がこれを具体的に提言していました。保守党も目先は変わりません。しかし、犯罪の病根はもっと深いところにあることは自明です。例えば、少年犯罪の増加は“彼らが将来に希望を持てなくなっている”ことにあります。“何故希望が持てないか?”“それをどう改善すれば良いか?”。経済が大きな役割を担うことは間違いありません。しかし20年近く経済成長を続けてきた国、欧州主要国で失業率が一番低い国で問題が起こっているのです。“格差(保守党の自由化・民営化政策)と既得権(労働党が支えてきた労働慣行、福祉政策)に問題あり”が私の見立てです。根本的な少年犯罪防止策は簡単には見つかりません。
⑤環境問題 既報で、英国の環境問題への取り組みが今ひとつ盛り上がりを欠くようなことを述べました。しかし、政治の季節になって少なくとも両党ともこれを大きな政治課題として取り組もうとしていることを知りました。今年英国を襲った記録的な大雨がそれを加速させたのではないかと推察します。二酸化炭素増加による地球温暖化が異常気象を生じさせ、結果としてあの大雨による洪水が各地で大きな被害をもたらした、と言う論法がかなり説得力を持つようになったのです。“CO2増加の元凶は飛行機だ!”と言う訳で税金をここにかけることは労働党、保守党とも同じです。誰が払うかだけが違うのです。労働党は航空会社。保守党は利用者。しかし航空会社は多分そのツケを利用者に廻すはずだから結局同じになるはずです。この辺は労働党がずるい立ち振る舞いをシャーシャーとするのです。
環境対策には、別に既に環境税(詳細不明)が適用されていますが、保守党は企業の活力を殺ぐのでこの削減を謳っています。
日常的な環境問題はリサイクルがもっとも関心が高く、両党(特に地方の)ともこれには同じように力を入れています。
⑥財源と税・選挙民に心地よいスローガンを掲げるのは、どこの国の政党も同じです。労働党大会は冒頭ブラウン党首(首相)の施政方針(マニフェスト)から始まりました。先にご紹介した乳がん対策も含め、あれもこれも直面している社会問題への解決決意表明でした。部外者である私でさえ、「オイオイ素晴らしい決意表明だが、どうやって解決するんだい?お金はどうするんだい?」と質したいほどでした。案の定、翌日のメディア(中立系・保守系の)も保守党もこれを糾す論調で溢れていました。実は、労働党大会に対する最大の関心事は、新任のブラウン首相がいつ総選挙をやるのか(早くやるべし)でしたが、これは完全に無視されてしまいました。この反動もありメディアはブラウン批判を強め、マニフェストの実現策を示すよう声高にこれを求めるようになりました。
・続いて翌週開かれた保守党大会は、当にこの批判に答える形で展開します。党首の施政方針は最終日に行われ、党首キャメロンは財源・税制を核に据えて労働党のマニフェストを批判すると伴に、保守党独自の施策実現を訴えました。法人税を他国(ここでは日本も出てくる)が低減方向にある中当然下げるべきであること、相続税を下げること(これはバブルで不動産価格が上がっていることから目玉)、超富裕税の新設、環境対策に空港税を設けること、足りない財源は肥大化した政府現業や一部福祉政策の見直し(特に医療、教育;言葉では明言しないが首切り、差別化を伴う)でバランスさせることなどを打ち出しました。キャメロンの良さは、若いリーダーによくある、細部を論理的に説明するところにあります(これは時として欠点でもある;放送メディアのように時間が限られると尻切れトンボになる)。施策の中には問題になるところも多々あるが、具体的だったことが評価され、直後の世論調査ではブラウン労働党と五分五分のところまで人気を回復しました。この週の金曜日、ブラウンは総選挙実施を早期には行わないことを明言します。
・次の週(私が帰国する週)、10月9日冒頭ご紹介した、労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。なんと!保守党の財政案;富裕税新設(特に外国籍の超富裕層)、相続税低減(課税対象閾値を30万ポンドから60万ポンに上げる;不動産バブルで効果大)、空港税新設をちゃっかり取り込んでいたのです!議場は野次で大騒ぎになりました。深夜番組で紹介される翌日の新聞第一ページは、どこも大きな字体の“Magpie”と言う言葉が目に付きます(翌日搭乗したBAでもらったTimesにもこれが使われており、お土産に持ち帰りました)。保守党系の新聞にはこれ以外に、“Stolen(盗まれた)”、“Thief(盗賊)”等の単語が至る所に見られます。
Magpieとは、矢を射る的の真ん中の黒い円の次にある二番目の円形部分のことです。つまり、真ん中が保守党の政策、次が労働党の政策で、この政策は保守党の考えを丸ごと取り込んだで二番煎じと言うことです。抜けぬけと人気挽回の保守党の政策を盗み取る労働党に、わが国の教条的な社会主義政党のイメージは全く重なりません。実は、好景気を持続する英国の経済政策は、基本的にはサッチャー政権時に行って来たことを労働党が若干修正した程度のものなのです。この位のことを平気でできるようにならなければ、政権政党にはなれないでしょう。欧州の社会主義政党がしばしば政権を取れるのも、同じような行動パターンを持つからに違いありません。
財源に関するトピックスをさらにご紹介すると、大盤振る舞いの労働党予算案では当然先の税制手直し程度では賄えません。どうするか?借金をするのです。ChancellorはBorrow(借りる)と言う表現をしたので、これが国債(Bond)かどうかは分かりません。しかし、労働党よお前もか?!の念を禁じ得ません。金融業に歴史のある英国だからこんな発想になるのでしょうか?!そう言えば、ブラウン首相誕生の折、スーパーカジノでお金を集める案が本人の口から出て、労働党の一部も保守党も唖然とさせられました。保守党が行っていたものを、ブレア労働党が止めたいきさつがあるのに、同じ労働党の新党首が復活するというのです。わが国民主党に、この位のしたたかさ、厚かましさを持った政党になってもらいたいと願うのは私だけでしょうか?
⑦政治家と総選挙政党の特色は党大会を中心にかなり勉強する機会が有りました。しかし、二つの政党の政策に、重なるグレーゾーンがかなり広い中での選挙戦はどうなるのか?残念なが滞英中に体験することは出来ませんでした。断片的に聞いた選挙絡みの話題を列記することで、その実態を垣間見たいと思います。
・党内の派閥:ある種の派閥(グループ)はあるようです。ただこれはわが国の派閥のように人間のしがらみで出来上がっているものとは違うようです。政治信条の違いからルーズな結合状態にあるので、個々の政策によっては別行動が当然あります。民主党はそのような状態からスタートし労働党から分離したとのことです(一部は保守党からも参加)。
・議員への道:下院に関する限り、わが国の地盤世襲議員のような形は無いようです。若手はほとんど党の下部組織で活動し、それを認められて候補者に選ばれ総選挙で勝って議員になっています。キャメロンはその典型です。
ブラウンのケース;牧師の子、大学院の研究者(歴史)、スコットランド労働党員、スコットランド議会の議員(閣僚も経験)、次いで下院議員と上ってきています。
・選挙区での選挙戦:いわゆる小選挙区制で、政策に大きな違いが無いこともあり、かなりえげつない“個人攻撃”が展開されるとのことです。女性関係、飲酒癖、経歴詐称、資産内容(借金を含む)などの暴露合戦でとても紳士の国の選挙イメージでは無さそうです。
・メディアの言動:メディア、特に新聞(一般紙、タプロイドともに)は政党色が強く、選挙時の反対党への攻撃は、とても良識の府とは言えない凄まじい報道になるとのことです。こんな新聞メディアの中で比較的良心的(中庸)なのは、タイムズ、ガーディアン、デイリーテレグラフなどと言われています。タプロイドは総じてセンセーショナルな記事が売り物で、知識人からは胡散臭いものと思われています(しかし、よく売れている!)。
・組織:労働党の場合、当然労働組合の支持が影響してきますが、産業構造の変化や民営化推進で組織力は低下しており、ブレアはこれを頼りにしない(つまりサッチャー政策の換骨奪胎)ことで新しい支持層を開拓しました。その意味で労働組合(特に政府系)は両党から距離を置かれるような状況になってきています。滞英中、刑務官(実は民営化されていた)と郵便現業員(集配・仕分け)の待遇改善ストがありましたが、労働党政権は実に冷たくゼロ回答でした。一般の人もほとんど支持していません。
ただ先に“医療”のところでご紹介したNHS(労働組合ではありませんが)に対して労働党は大変気を遣っているし、予算も増やす方向にあります。それはNHSそのものの組織力に対する気配りではなく、医療サービスを受ける人たちの不安解消とそれによる票獲得が狙いと言えます。
2.Mauriceのこと
いままで何度もわが師、Maurice W. Kirby教授をレポートに登場させましたが、主として研究中心でした。最終レポートとして、英国で最も親しく付き合った友人そして典型的な中産階級知識人として、彼をあらためてご紹介したいと思います。
生まれはイングランド中東部ダーリントン(Darlington;1821年初めての商用鉄道がこの町とストックトンを結んで開通した)、英国国教徒、今年11月で64歳。家族はバーバラ夫人(多分57歳)との間に一女一男。父親はクリーブランド橋梁(オーストラリア、シドニーのハーバーブリッジなどを作った当時は大手の橋梁会社)の資材調達担当で教区教会の役員。それもあり日曜日は、朝のミサ、昼の日曜学校、夕方のミサと教会漬けで“Death Day”だったとか。夕方のミサが終わるのを待ちかねて家に飛んで帰り、TVの子供番組を視ることだけが日曜日の楽しみだった少年時代。
地元のグラマースクール(公立中高一貫校)を出て、イングランド北東部(スコットランドとの国境)の町にあるニューキャッスル大学でBA(経済学)、郷里に近いシェフィールド大学でPhD(英国経済史)を取得しています。どうやらその際博士論文作成をバーバラに伝ってもらったようで、博士号取得直後Maurice27歳、バーバラ20歳の時に結婚したそうです。
最初の任地はスコットランドのスターリング(Stirling)大学。ここで講師(Lecturer)、准教授(Reader)を務め、その時代書き上げた(1979年出版)「The Decline of British Economic Power Since 1870」で注目され、より知名度の高い大学への転職を可能にしました。この著書の言わんとするところは、“英国病は、巷間言われている1960年代に始まったのではなく、大英帝国絶頂期;ヴィクトリア時代に既に始まっている”と言うもので、この分野の専門家にかなりのインパクトを与えたようです。
スターリング大学は、彼個人にとっては飛躍の機会を掴んだ記念すべき大学でしたが、在職中サッチャー政権が誕生し、大学予算が大幅に圧縮される事態になり、結果として図らずも同僚との激しい生き残りゲームが展開されることになるのです。ここで彼は先の著書もありゲームの勝者となりますが、それが心の痛みにもなりそれが未だに拭いきれないと言っています。心根の優しい男なのです。その後(確か)ノッティング大学を経てランカスター大学に教授として迎えられたのです。
若い頃は学部や大学院でかなりのコマ数をこなしていたようですが、さすがに定年を来年(65歳が定年)にひかえ、授業は大学院中心の限られたものになってきているとのことです。彼がいま指導している博士課程の院生は2名でそれほど手がかかっているように見えません。一方で古株の教授として管理業務は多くなっており、カレッジ(学寮)のプリンシパル(学寮長)の他にマネージメントスクールと大学の委員を十数務めています。また経済史ではその知名度もあり、8大学の博士課程の審査員をしています。若い時はともかく、今は授業の準備などあまり必要が無いので家では仕事をせず、研究活動は大学に限っており、そのために夏休みでもほとんど大学に来ていました。
彼の講座、(英国)経済史、は定年後なくなり、計量経済史に変わることが決まっています。この方が時流にあっているようですが経済をマクロな視点で見るためには本当に良いんだろうか?とその効用を疑問視しています。定年後の予定も既に大学との間で話し合われており、無給で残り(研究場所を提供され)共同で“プロジェクト”をやると言っていました。多分大学史(あるいはマネージメント・スクール史)をまとめるのではないかと思います。
所得税が高いこと(40%)、年金が厚いことで、定年後は税金がかからないこともあり、実質収入にほとんど変化なさそうです。他の優遇処置を考慮すると経済的なゆとりはやや増えるようなことを言っていました。この辺はさすがに福祉国家ですね。こんなうらやましい環境ですから「定年後も是非大学に訪ねて来てくれ」と言えるのでしょう。
政治的な話題が好きで、よく英国の政治を語ってくれましたが、特定の党の党員ではありません。話の内容から、労働党贔屓ですが、何でも国に要求し、既得権を離そうとしない、組織依存の旧来の労働党にはかなり批判的で、経済効率の視点から、経済政策に関しては保守党の政策(例えば民営化推進)にも理解を示しています。しかし、これによって格差が拡大したのは確かで、行き過ぎ是正が必要との考えです。アーノルド・トインビーの孫娘に有名な社会学者がいます。彼女は貧民街に潜り込みその生活実態を体験・調査し、如何にサッチャー政策が貧しい人たちに犠牲を強いるようになったか、それがどれほど悲惨な状態かをレポートしています。Mauriceは彼女のことを「自分の考えに近い人だ」と言っていました。
アフガン政策なども歴史的視点で捉え、「大英帝国もあそこでは苦労したし(ヴィクトリア朝時代ロシアの南下政策の緩衝地帯としてアフガニスタンを抑えようとした)、あの最強の陸軍国ソ連も制圧に失敗した。時間がかかること必定。それでも日本の海軍(海上自衛隊のこと)はアフガン大義名分でアメリカに付き合うのかね?」などと、民主党が喜びそうな質問をぶつけてきます。イラクへの軍事介入に関する労働党の施策(ブラウン首相は、バスラからの撤退は治安が回復したからで、軍事的勝利とも言えると宣言をしていますが、保守党はとても勝利などと言える状態ではないと反論しています)にも批判的で、ここでは保守党に近い見解を示しています。
経済・景気についてはお得意の分野だけに、一言質問すると滔々と解説してくれます。20年近く持続している英国の好景気(経済成長)はサッチャー政権時代既にその兆候が現れており、労働党はその手入れをして実りを刈り取っているだけ、と言う見方を肯定しています。ただ民営化の行き過ぎは明らかに在り、社会インフラを支える人たち(教育、医療、警察など現業公務員・公社員)が経済成長の恩恵を受けられず、昔に比べて相対的にも絶対的にも貧しくなってきていることには保守党の政策に批判的な立場をとっています。
製造業でエンジニアとして働いてきた私の経験、日本人のもの作りへのこだわりなどから、英国の製造業を見ると“惨憺たる状態”に思えます(既報の“自動車産業”で私の見方をご紹介しました)。しかし、彼に言わせれば“製造業が振るわないことと、経済が振るわないこととは別”と言うことになります。長期的視点で経済を見る学者の目は、“第四の波”の著者、アルビン・トフラー同様、ポスト(脱)工業化社会到来は歴史的必然とクールに現状を見ているようです。“EUの中でこれだけ持続的成長をしている国は無い”“失業率も一番低い”“金融業は今降ってわいたものではない。17世紀から英国の得意な産業だ”“製造業がダメと言っても、時代の先端を行く航空宇宙産業、医薬・バイオではトップランナーだ”、工業後進国;ドイツ、アメリカ、日本そしてBRICSに18世紀来新技術・新市場を開拓してはそれを奪われ、克服し今日に至った英国の経験と矜持を痛感させられた経済問答の一場面です。
しかし、製造業の重要性は彼も解かっているのです。それは、製造業に比べサービス業(金融業もこの範疇)では所得分配の偏りが大きいことです。一部の成功者の所得と大多数(並以下、パートなど)の所得が極端に開きます。平均してしまうとこれが見えなくなります。彼は、成長の中で格差の拡大が続いているとの見方をしています。富の再配分を如何にすべきか?この答えは彼も持ち合わせていないようです(労働党の“超富裕者税”はこれを意識したものでしょうが、実効があるとは思えません)。
以上は主として表の顔と言って良いでしょう。子供の時代はさて置き、最近の彼の私生活を覗いてみましょう。
先ず家族です。バーバラ夫人は二十歳と言う若さでMauriceと結婚しています。10年間子供が出来ませんでしたが、10年目に娘が生まれその後息子を産んでいます。家事、特に料理が苦手でそれで人を自宅に招待するのが嫌なのだ、と初対面のディナーの時率直に話してくれました。サバサバした気持ちの良いおばさんです。子育てが終わって(息子が7月大学を卒業)彼女が今力を入れているのは保護司(?)の仕事です。少年犯罪者の裁判の際の親代わり(シングルマザーが多く、なかなか警察や裁判所に出頭出来ないので)などを務めるケースが多いようです。
娘は結婚し現在はドミニカにいます。どんな仕事なのかは不明です。ドミニカの砂浜で撮った水着姿の写真が研究室にありますがなかなかの美人です。息子は今年7月ランカスター大学を卒業しました。専攻はバイオメディカルですが、ご他聞にもれず卒業即失業者です。パートで教会の副牧師をしながら将来計画模索中です。Mauriceに「大学院に進ませるんじゃないのか?」と質したところ、「彼には十分すぎるくらい教育投資したさ」と返事が返ってきました。私のバークレーの友人、ジェフの息子も学部卒業後は失業保険とアルバイトで学費を稼ぎマネージメントスク-ルに入学、今年7月に卒業し本格的な職探しに入るところでした。どうやら大学院は自分で費用を賄うのが英国流のようです。この息子の趣味はマウンテンバイクですが、湖水地帯を控えこの辺では大変人気のある遊びです。このマウンテンバイクを買い与えたのが最後の出費だったようです。「とっても高いって、バーバラがこぼしていたよ」
若い頃のMauriceの趣味はスカッシュ(六面が閉じた部屋で、二人が壁に向かって球を打ち返すテニスのような球技)だったようですが、いまは歳でとても出来ないそうです。ゴルフは私同様やりません!スポーツカー(BMW Z3)でのドライブが息抜き・気分転換のようです。湖水地帯がホームグランドと言う素晴らしい環境下でこの趣味は羨ましい限りです。この車で南フランス辺りまで出かけることもあったようで「南仏の田舎は素晴らしい(英国の田舎よりも遥かに)」と言っていました。
海外旅行は、トーマスクック旅行社生みの国だけに、英国でも人気の高いレジャーですが、Kirby夫妻はそれほど海外には出ていないようです。主に学会参加が数少ない機会のようで、この時は必ず夫婦で出かけるそうです。今年は7月初めプラハで開かれた欧州OR学会、11月にシアトルで開かれたアメリカOR学会に参加しています(両方とも発表あり)。今年の学会参加をみると、ほとんど寄り道の観光はなく開催地近くで一泊位余計に泊まる程度です。アジアへは香港に来たことがあるだけで、残念ながら日本は未体験です。何か良い機会があり来日したら、国内の面倒くらいはみてあげたいと思っています。
服装はいつも紺、黒などダークカラーが基調。偶にスーツでネクタイもありますが、通常はジャケット、替えズボン(ジーンズが多い)に黒シャツや濃紺のTシャツです。決してブランド品など身につけませんが、銀色の目立つ指輪を左手の薬指と中指にしています。
公私両面からMauriceをご紹介しましたが、彼が真面目な先生で、慎ましく暮らしている姿がご理解いただけたと思います。多分これが英国中産階級知識人の最大公約像ではないでしょうか?日本での生活、日本人の生き方に比べ落ち着きを感じさせます。私には、日本人の同クラスの方がややギンギラ(Glitter)しているように感じます。もっともアスコット競馬に集まってくるような成金は、見るからにGlitteringで上流階級気取りが喜劇的でもあります。しかし、どうも彼等自身それは分かっていて敢えてやっているようなところがあるのがご愛嬌ともいえます。昔は、割合の少なかった中産階級が、本気で上流階級気取りでその世界に姿かたちだけ真似て入り込んだつもりでいました。それに対する上流階級・労働者階級双方からの軽蔑の言葉が“That’s Middle Class!”です。ブランド品を身に付け、海外の観光地で高級ホテルに宿泊する日本人を冷ややかに見ている英国人が居ることを、彼のプラハのお土産話(夏の東欧は日本人だらけ)から学び、身の丈に合った生き方を心がけたいと思った次第です。
3.新たな読者
この第18号をもって私の“滞英記”を終えます。改めて、冗長な雑文に最後までお付き合いいただいたことに深く感謝いたします。この滞英記をここまで続けてこられたのは、毎度皆様から励ましを戴いたことが最大のドライビングフォースです。しかし、もう一つ皆さんに伏せてあった動機があります。初孫の誕生です。2月、長女の懐妊を知りました。5月、“無事に元気な子を産んで欲しい!”そう言って英国へ旅立ちました。6月、It(それ)がHe(彼)であるとの便りを受け取りました。私と彼の関係は、母方の祖父と初孫ということになります。それは私と母方の祖父と同じ関係になります。第17報をお読みの方はご承知のように、その祖父は明治初期にアメリカに渡っています。しかし、物心ついた私が祖父の彼の地での足跡に興味を持ち、それを手繰ろうとしましたが全く手がかりはありませんでした。残念至極です。
孫は私の帰国を待つように、帰国翌週生まれました。彼が私の人生に関心を持つかどうかは全く不明です。自分の親子関係から推察しても、多分持たない方が可能性としては高いでしょう。しかし、“もし持ってくれたら”の思いがここまで書き続けるエネルギーを燃やしてくれたのです。
彼の健やかな成長を願いつつ筆を置くことにします。
皆さん!有難うございました!
私報 滞英記 終わり
2007年11月21日
1970年の初めての海外出張(アメリカ、フランス)以来、業務・観光で訪れた国の数は23カ国になります。そして英国は24番目の国になりました。回数、滞在期間ともアメリカが圧倒的に多く、通算2年近くになるでしょう。友人も一番多く、彼らの自宅にも何回も宿泊していますし、家族ぐるみの付き合いを続けています。次いで回数が多いのが韓国です。距離的に国内とさほど違いが無いこともあり、滞在日数はトータル2,3ヶ月ですが先方からの訪問も多く、友人としての親密度は一番高いかもしれません。次女が韓国の大学に留学する際はよろこんで身元保証人になってくれた家族もあります。この両国は単なる好奇心や憧憬対象の外国ではではなく、日常生活が繋がった外国と言えます。そして今回それに英国が加わりました。
帰国出立の朝は快晴。珍しくホテルのロビーで日本人の団体に会いました。若い女性が多く、聞けば千葉県松戸市(私の少年時代過ごした町)にある聖徳女子大の研修旅行とか。これから湖水地帯を経由してエジンバラへ向かうとのことでした。初めての英国旅行に皆興奮気味でした。ランカスターでも紅葉が始まっていましたから、北へ向かう旅はさぞ素晴らしいものになったでしょう。
9時15分発の短い4両編成マンチェスター空港行き列車は定刻通り発車。やがてランカスター大学の学寮が見え、はじめて来た時と同じように、なだらかな起伏の中に美しい緑が広がっています。「(また来るよー)」と心の中で叫んでいました。歳のせいで感傷的になりやすく涙が出そうでした。しかし緑の美しさは同じでも、来た時と去る時のそれは明らかに違います。緑の足元をこの5ヶ月確り見てしまったからです。そこには家畜の糞が至る所にあり、ハイキングのフットパス(歩道)はぬかるみ、軽装では歩けないほどです。観光で訪れる英国は遠目に見た美しい緑の田園風景、生活してみた英国は緑の足元とも言えます。日常の買い物、休みの過ごし方、犯罪、教育、医療、年金、環境問題、地方や国の政治などを見るにつけ、「彼らも毎日必死で生きているんだなー」との思いを深くした次第です。
私の滞英生活の結論;研究生活は素晴らしかった。自然環境はや日常生活は穏やかで静かだ。しかし決してうらやむような国ではない。むしろ限りなく我々に近い生活観の国だ、と言うところです。このレポートの結ぶため、二つの主題:一つは日常生活と密着する「政治と政党」、もう一つは研究活動と関わる「Mauriceのこと」を取り上げることとしました。
1.政治課題と二大政党
1)英国の政党 皆さんもご承知のように英国を代表する政党は労働党と保守党の二大政党です。古はホイッグ党(議会派)とトーリー党(王党派)が存在し、議会民主政治のさきがけを成してきた国ですが、王権を巡る争いの中で次第にホイッグ党の存在があいまいになり、それと前後する社会主義の台頭でトーリーの中に埋没し現在のような労働党と保守党の対立構造が出来上がっていったのです。従って保守党は”Conservative Party”と表現されるだけでなく、メディアでは”Tory”もよく使われます。実は労働党側もイデオロギー重視で左傾化が激しかった時代にこれを嫌った分派活動があり、ここから第三の政党“民主党”が生まれています。この民主党は国政では保革接近時以外ほとんど力がありませんが、地方選挙では強く、最近環境問題を中心に存在感が出てきている“緑の党”とともに中央とは異なる政界模様を作り上げています。
本レポートの現地最終版(17)をお送りした後、民主党、労働党そして保守党の党大会が隔週で開かれました。さらに10月9日(離英前日)労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。これらをTVで視、新聞を読み(この時だけ買った)、Mauriceと話すことによって、英国がどんな問題を抱えそれらにどう取り組もうとしているかが見えてきます。
政党大会の報道は日本に比べはるかに大衆化しています。BBCでは大会前日(いずれも日曜日)から大きく取り上げ、党首や実力者へのインタビューが行われますし、新聞は支持政党(ほとんどの新聞はどちらを支持するか旗幟鮮明)を盛り上げる記事がいっぱいです。特にBBCの日曜時事特番“Andrew Marr Show”(午前9時~10時)は党首を出演させ、有名ジャーナリストのMarr氏が舌鋒鋭く迫る興味深い番組で、建前ばかりで一向に議論がかみ合わないNHKの日曜討論とは大違いです。
これらの党大会や報道を見ていて感じることは、力点の置き方は違うものの、両党の政治課題に対する取り組み姿勢に大きな違いを感じないことです。労働党と言っても、わが国の嘗ての社会党や共産党のように教条的でただ与党の政策に反対することだけが存在意義のような政党ではなく、「これなら国政を任せても良いかな」と思わせる柔軟性・現実性を持っています。欧州社会主義政党共通の成熟した姿勢を感じ、羨ましくさえ思いえました。
それでは身近な政治課題に対する両党の取り組みを、私が理解した範囲で解説してみたいと思います。
2)身近な政治課題
①国際関係・外交
以前お伝えしたように国際関係・外交はあまり頻繁にニュースになりませんが、アフガン・イラク、パレスチナ、EU統合は比較的頻繁に取り上げられます。
先ずアフガン・イラク問題ですが、アフガンは国連での同意、EUとしての積極参加もあり参戦の意義まで遡って議論することは少なく、個々の作戦やアメリカとの協調の是非が問題になるくらいで、両党の主張に大きな差異を感じません。むしろ、歴史的な背景(ロシアの南下政策を止めるため、インド支配の一環として取り組んだアフガン制圧が上手くいかなかったこと)、さらに陸軍大国ソ連の介入さえ頓挫したことを踏まえ、厭戦気分が広がり、戦死者への同情が高まっていることが政府にとって一番気がかりなことでしょう。そのため、ブラウン首相はこの国への軍事介入の目的である、テロ撲滅に対する強気の姿勢を崩してはいません。
しかしイラクはアフガンと異なり、ブッシュ・ブレア交友が基になって踏み切ったとの見方が強く、現役の陸軍幹部からさえ誤判断批判続出です。ここでの泥沼からの脱出はある意味で労働党に対して踏み絵になっています。アメリカとの共同歩調か国内世論かの選択です。そんな状況下、保守党大会の最終日、この日は党首キャメロンが総括演説をする日ですが、ブラウンはバスラに飛び兵士を慰問するとともに“来年3月には現在の派兵規模(5000人)を半減する”と発表しました。党大会の仕上げをぶち壊す(メディアの話題をさらわれる)、見え見えの人気取り政策に保守党が怒り狂ったのは当然です。湾岸戦争当時の首相メジャー(保守党)がTV出演し、軍事政策に対する労働党の定見の無さを痛烈に批判していました。この問題はイラク問題の解決策が依然見えないだけに、今後の大きな政争の材料として残りそうです。
EU統合は、経済的な面(通貨を除く)や域内行動の面では概ね英国でも評価されています。問題は政治統合です。欧州憲法、欧州内閣と元首、統一外交政策などがその具体的懸案事項です。
この問題に対する労働党と保守党の違いは、どちらかと言えば労働党は積極的、保守党は消極的と言えます。しかし労働党支持者の中にも英国が独自路線(特に、外交とセキュリティ政策)をとることを支持する向きも多く、国民投票(Referendum)をやれば反対票が賛成票を上回るのではないかと推察します。特にEU憲法制定には反対意見が強いようです。フランスがこれにノンを出してから、ドイツは何とか英国の賛同を引き出そうとブラウン首相に積極的に働きかけています。私の滞在中ブラウンは“覚書つき”で通すか、また国民投票をやるか、明確にはしていませんでしたが何とかまとめたい意向のようでした。
滞英中外交や国際関係で日本が登場するシーンはほとんど無く、日本関係の映像がBBCに現れたのは、中越地震(特に原子力発電所)とビルマ(英国では依然ミャンマーでなくビルマ、ヤンゴンではなくラングーンを使用)における日本人ジャーナリスト射殺くらいでした。一部のインテリは、新聞を通じてアフガン支援の海上補給が参議院選挙の結果国際問題になってきたことを知ってはいますが、これもTVでは全く紹介されていません。無論総理大臣の名前など誰も知らないと言ってもいいでしょう。
帰国してから、英国の政治情勢が一般のTVや新聞でどの程度報道されるかチェックしていますが、ほとんど眼にしません。日英双方とも互いにほとんど相手に無関心なことに変わりはありません。
②医 療 医療と教育に関しては、もっと早い機会に本報告で行いたいと考えていましたが、部外者にはその姿がなかなか分からないため今回まで延び延びになっていました(現時点でもよく分からないことだらけです)。しかし、政治的に極めて大きな課題ですので理解する範囲で解説を試みます。
優れた英国の福祉政策を代表する言葉に“ゆりかごから墓場まで”があります。その中核を成すのが医療と年金で、医療費は原則タダ行われることになっています。しかし、垣間見た実態は問題だらけであることが分かってきました。肥大化したNHS(National Health Service)と称する医療サービス機構(医師、医療技術者(看護師を含む)、救急隊員、医療事務担当など40万人を超す)とそれに要する費用、サービス内容などがしばしば政治ニュースで取り上げられる他、特定の病気(例えば乳がん)に対する国としての取り組みなども党大会で論じられたりします。システムは立派だが実際のサービスが伴わないと言うのが現状なのです。
政治問題としての医療を論ずる前に、ここの医療システムについて簡単に述べてみたいと思います。
外国人を含め英国で医療サービスを受けるためには、先ずその地区の担当医(General Practitioner;GP)に登録する必要があります。担当医のいる所は病院ではなく診療所と言っていいでしょう。簡単な診断・治療・処方(比較的手に入れやすい薬をくれる程度)を行い、これで治癒すれば良いのですが“GP”の言葉が示すとおり専門医ではないので、少しややこしい病気だと対応できません。次のステップはこのGPが適当な病院を紹介してくれます。病院を訪れると直ぐに診断・処方に入れることは稀で、診断・処方の“日取り”を決めてくれるだけです。一週間ほど先になることなど当たり前です。「この間に大変なことになるかもしれない(死ぬかもしれない)!」こんな恐怖に慄きながら幸運を祈るしかないのです。無論急患は救急車で病院に直行ですが、日本同様受け入れ拒否も生じています。このような事態が生ずる原因は専門医や施設の不足にあるようですが、“差別(人種)”もあるようです。
医療荒廃の主因を、保守党(特にサッチャー政権)の医療関連予算圧縮・民営化促進に求める声をよく耳にします。例えばそれ以前(20年以上前)、GPの年収は10万ポンド(現在の為替レートで約2300万円)だったそうです。これは今の英国でもかなりの高額所得者です。サッチャー首相はこのNHS関連予算の大幅削減の中でGPの年収カットを実施しています。結果高い技術を持つ医師達が多数、医師免許が相互に通用するアメリカへ出稼ぎに行ってしまいました(これが現在まで続いている)。また、医療現場という3K職場から英国人(ここでは英国籍の白人)が去り、旧植民地からの安い労働力でここをカバーしなければならない状態になっています。保守党はこのNHS機構の再構築を始めとした医療態勢の改革(当然予算圧縮を伴う)を標榜していますし、労働党も党大会まではかなり厳しい見方しているように感じていました。しかし、保守党大会後ブラウンとキャメロンの支持率が急接近した影響か、10月9日のPre-Budget(3年間予算)では医療関連予算が大幅に増加し、メディアは「今回の予算の最大の勝者は医療」とまで伝えています。果たして、安心して医療サービスが受けられる良き時代が再び来るのかどうか?福祉先進国家の真価が問われるところにきています。
③教 育 この問題も、週報の中でご報告したいと思っていたテーマです。しかし、教育システム、特に中・高(これが一貫制になっている)がよく分からず逡巡してきました(今でもよく理解できていません)。先ず、パブリックスクール(呼称とは違い、私立の有名校;イートンなど)とグラマースクール(公立校)の教育体系や大学進学時の扱いの違い、またこのグラマースクールに“Comprehensive(包括的)”と“Hybrid(混合的)”があること、グラマースクールでは生徒により卒業必要年限に違いのあることなどの実情がよくわかっていないのです(ご存知の方は是非ご一報ください)。そこでこのレポートでは話題になっていることと政治課題について記述することにします。
・小学生の学力(国語・算数)低下:改善傾向にあるのだがEU諸国で最も低い。これを学校の選択と評価により差別化し、良い学校には支援を厚くしようというのが保守党(このような政策はもともとサッチャー政権で生まれた)。これに真っ向から反対するのではなく、全体の底上げ(教職員の増加や処遇改善)をしようというのが労働党です。
・大学入学者の増加:労働党は既に40%を超える同年代大学進学率(’60年代には6%台)をさらに上げるための経済支援策を直近の党大会で打ち出しています。これ対して保守党は質的向上こそ優先すべきで、優秀な大学に予算配分を厚くする政策を掲げています。また労働党はオックス・ブリッジへのグラマースクールからの入学率アップにも熱心で、保守党これに批判的です。
・英語(国語)教育の充実:移民、旧植民地からの移住者対策。これは両党とも重要課題と考えており際立った違いはありません。
・いじめ問題:特に東欧からの英語を話せない移民の子弟がいじめに遭う傾向にある。犯罪対策の一部としてもクローズアップされています。学校でのいじめ問題は決して日本だけの現象ではありません。
④犯罪・テロ対策
・少年犯罪(被害者、加害者双方)の多発について既に何度かご報告していますが、大きな社会問題の一つです。これに銃器・飲酒・麻薬とエスニック問題が絡んで複雑な様相を呈してきています。
・家庭内暴力(父親の子供や妻に対するケースが多い)もしばしばTVで報道されます。傷だらけの女性がそのまま画面に現れるので視るに耐えないほどです。
・強盗事件も増加傾向にあります。嘗ての英国の強盗事件は、犯罪小説の格好の題材になるような見事なものもありましたが、最近多発する事件は、窃盗の居直りや一人暮らしの老人襲うもの、日本でよくあるコンビニ強盗の類が多く、弱いものを粗暴な手段で痛めつけ僅かな金を奪うようなものが増えています。
・テロに関しては、滞英中ほぼ同じ時期にグラスゴー空港とロンドン中心部で発生(ロンドンは未遂)しました。国際問題でアメリカと同一歩調をとることに対する反抗、旧植民地からの移民の欲求不満、北アイルランド問題など、この国独特のテロ発生要因を抱えていることがテロ対策を複雑なものにしています。
実はEUの統合推進に関して、このテロ対策を含む安全保障政策を一本化することに反対する勢力があり(どちらかと言うと保守党系)、統一推進派(主として労働党、中でもブラウン首相の周辺)との対立がEU問題の度にクローズアップされます。いずれのテロ潜在要因も国防・外交と深く関わるだけに単なる犯罪対策とは異なる、国策絡みの政治課題としての対応が必要になってくるのです。
以上述べた犯罪・テロに対する対処療法は、警察力の強化と言うことになります。労働党大会ではブラウン党首がこれを具体的に提言していました。保守党も目先は変わりません。しかし、犯罪の病根はもっと深いところにあることは自明です。例えば、少年犯罪の増加は“彼らが将来に希望を持てなくなっている”ことにあります。“何故希望が持てないか?”“それをどう改善すれば良いか?”。経済が大きな役割を担うことは間違いありません。しかし20年近く経済成長を続けてきた国、欧州主要国で失業率が一番低い国で問題が起こっているのです。“格差(保守党の自由化・民営化政策)と既得権(労働党が支えてきた労働慣行、福祉政策)に問題あり”が私の見立てです。根本的な少年犯罪防止策は簡単には見つかりません。
⑤環境問題 既報で、英国の環境問題への取り組みが今ひとつ盛り上がりを欠くようなことを述べました。しかし、政治の季節になって少なくとも両党ともこれを大きな政治課題として取り組もうとしていることを知りました。今年英国を襲った記録的な大雨がそれを加速させたのではないかと推察します。二酸化炭素増加による地球温暖化が異常気象を生じさせ、結果としてあの大雨による洪水が各地で大きな被害をもたらした、と言う論法がかなり説得力を持つようになったのです。“CO2増加の元凶は飛行機だ!”と言う訳で税金をここにかけることは労働党、保守党とも同じです。誰が払うかだけが違うのです。労働党は航空会社。保守党は利用者。しかし航空会社は多分そのツケを利用者に廻すはずだから結局同じになるはずです。この辺は労働党がずるい立ち振る舞いをシャーシャーとするのです。
環境対策には、別に既に環境税(詳細不明)が適用されていますが、保守党は企業の活力を殺ぐのでこの削減を謳っています。
日常的な環境問題はリサイクルがもっとも関心が高く、両党(特に地方の)ともこれには同じように力を入れています。
⑥財源と税・選挙民に心地よいスローガンを掲げるのは、どこの国の政党も同じです。労働党大会は冒頭ブラウン党首(首相)の施政方針(マニフェスト)から始まりました。先にご紹介した乳がん対策も含め、あれもこれも直面している社会問題への解決決意表明でした。部外者である私でさえ、「オイオイ素晴らしい決意表明だが、どうやって解決するんだい?お金はどうするんだい?」と質したいほどでした。案の定、翌日のメディア(中立系・保守系の)も保守党もこれを糾す論調で溢れていました。実は、労働党大会に対する最大の関心事は、新任のブラウン首相がいつ総選挙をやるのか(早くやるべし)でしたが、これは完全に無視されてしまいました。この反動もありメディアはブラウン批判を強め、マニフェストの実現策を示すよう声高にこれを求めるようになりました。
・続いて翌週開かれた保守党大会は、当にこの批判に答える形で展開します。党首の施政方針は最終日に行われ、党首キャメロンは財源・税制を核に据えて労働党のマニフェストを批判すると伴に、保守党独自の施策実現を訴えました。法人税を他国(ここでは日本も出てくる)が低減方向にある中当然下げるべきであること、相続税を下げること(これはバブルで不動産価格が上がっていることから目玉)、超富裕税の新設、環境対策に空港税を設けること、足りない財源は肥大化した政府現業や一部福祉政策の見直し(特に医療、教育;言葉では明言しないが首切り、差別化を伴う)でバランスさせることなどを打ち出しました。キャメロンの良さは、若いリーダーによくある、細部を論理的に説明するところにあります(これは時として欠点でもある;放送メディアのように時間が限られると尻切れトンボになる)。施策の中には問題になるところも多々あるが、具体的だったことが評価され、直後の世論調査ではブラウン労働党と五分五分のところまで人気を回復しました。この週の金曜日、ブラウンは総選挙実施を早期には行わないことを明言します。
・次の週(私が帰国する週)、10月9日冒頭ご紹介した、労働党内閣のChancellor(副首相格で予算方針策定者)によるPre-Budget Plan(予算3年計画)の下院への説明がありました。なんと!保守党の財政案;富裕税新設(特に外国籍の超富裕層)、相続税低減(課税対象閾値を30万ポンドから60万ポンに上げる;不動産バブルで効果大)、空港税新設をちゃっかり取り込んでいたのです!議場は野次で大騒ぎになりました。深夜番組で紹介される翌日の新聞第一ページは、どこも大きな字体の“Magpie”と言う言葉が目に付きます(翌日搭乗したBAでもらったTimesにもこれが使われており、お土産に持ち帰りました)。保守党系の新聞にはこれ以外に、“Stolen(盗まれた)”、“Thief(盗賊)”等の単語が至る所に見られます。
Magpieとは、矢を射る的の真ん中の黒い円の次にある二番目の円形部分のことです。つまり、真ん中が保守党の政策、次が労働党の政策で、この政策は保守党の考えを丸ごと取り込んだで二番煎じと言うことです。抜けぬけと人気挽回の保守党の政策を盗み取る労働党に、わが国の教条的な社会主義政党のイメージは全く重なりません。実は、好景気を持続する英国の経済政策は、基本的にはサッチャー政権時に行って来たことを労働党が若干修正した程度のものなのです。この位のことを平気でできるようにならなければ、政権政党にはなれないでしょう。欧州の社会主義政党がしばしば政権を取れるのも、同じような行動パターンを持つからに違いありません。
財源に関するトピックスをさらにご紹介すると、大盤振る舞いの労働党予算案では当然先の税制手直し程度では賄えません。どうするか?借金をするのです。ChancellorはBorrow(借りる)と言う表現をしたので、これが国債(Bond)かどうかは分かりません。しかし、労働党よお前もか?!の念を禁じ得ません。金融業に歴史のある英国だからこんな発想になるのでしょうか?!そう言えば、ブラウン首相誕生の折、スーパーカジノでお金を集める案が本人の口から出て、労働党の一部も保守党も唖然とさせられました。保守党が行っていたものを、ブレア労働党が止めたいきさつがあるのに、同じ労働党の新党首が復活するというのです。わが国民主党に、この位のしたたかさ、厚かましさを持った政党になってもらいたいと願うのは私だけでしょうか?
⑦政治家と総選挙政党の特色は党大会を中心にかなり勉強する機会が有りました。しかし、二つの政党の政策に、重なるグレーゾーンがかなり広い中での選挙戦はどうなるのか?残念なが滞英中に体験することは出来ませんでした。断片的に聞いた選挙絡みの話題を列記することで、その実態を垣間見たいと思います。
・党内の派閥:ある種の派閥(グループ)はあるようです。ただこれはわが国の派閥のように人間のしがらみで出来上がっているものとは違うようです。政治信条の違いからルーズな結合状態にあるので、個々の政策によっては別行動が当然あります。民主党はそのような状態からスタートし労働党から分離したとのことです(一部は保守党からも参加)。
・議員への道:下院に関する限り、わが国の地盤世襲議員のような形は無いようです。若手はほとんど党の下部組織で活動し、それを認められて候補者に選ばれ総選挙で勝って議員になっています。キャメロンはその典型です。
ブラウンのケース;牧師の子、大学院の研究者(歴史)、スコットランド労働党員、スコットランド議会の議員(閣僚も経験)、次いで下院議員と上ってきています。
・選挙区での選挙戦:いわゆる小選挙区制で、政策に大きな違いが無いこともあり、かなりえげつない“個人攻撃”が展開されるとのことです。女性関係、飲酒癖、経歴詐称、資産内容(借金を含む)などの暴露合戦でとても紳士の国の選挙イメージでは無さそうです。
・メディアの言動:メディア、特に新聞(一般紙、タプロイドともに)は政党色が強く、選挙時の反対党への攻撃は、とても良識の府とは言えない凄まじい報道になるとのことです。こんな新聞メディアの中で比較的良心的(中庸)なのは、タイムズ、ガーディアン、デイリーテレグラフなどと言われています。タプロイドは総じてセンセーショナルな記事が売り物で、知識人からは胡散臭いものと思われています(しかし、よく売れている!)。
・組織:労働党の場合、当然労働組合の支持が影響してきますが、産業構造の変化や民営化推進で組織力は低下しており、ブレアはこれを頼りにしない(つまりサッチャー政策の換骨奪胎)ことで新しい支持層を開拓しました。その意味で労働組合(特に政府系)は両党から距離を置かれるような状況になってきています。滞英中、刑務官(実は民営化されていた)と郵便現業員(集配・仕分け)の待遇改善ストがありましたが、労働党政権は実に冷たくゼロ回答でした。一般の人もほとんど支持していません。
ただ先に“医療”のところでご紹介したNHS(労働組合ではありませんが)に対して労働党は大変気を遣っているし、予算も増やす方向にあります。それはNHSそのものの組織力に対する気配りではなく、医療サービスを受ける人たちの不安解消とそれによる票獲得が狙いと言えます。
2.Mauriceのこと
いままで何度もわが師、Maurice W. Kirby教授をレポートに登場させましたが、主として研究中心でした。最終レポートとして、英国で最も親しく付き合った友人そして典型的な中産階級知識人として、彼をあらためてご紹介したいと思います。
生まれはイングランド中東部ダーリントン(Darlington;1821年初めての商用鉄道がこの町とストックトンを結んで開通した)、英国国教徒、今年11月で64歳。家族はバーバラ夫人(多分57歳)との間に一女一男。父親はクリーブランド橋梁(オーストラリア、シドニーのハーバーブリッジなどを作った当時は大手の橋梁会社)の資材調達担当で教区教会の役員。それもあり日曜日は、朝のミサ、昼の日曜学校、夕方のミサと教会漬けで“Death Day”だったとか。夕方のミサが終わるのを待ちかねて家に飛んで帰り、TVの子供番組を視ることだけが日曜日の楽しみだった少年時代。
地元のグラマースクール(公立中高一貫校)を出て、イングランド北東部(スコットランドとの国境)の町にあるニューキャッスル大学でBA(経済学)、郷里に近いシェフィールド大学でPhD(英国経済史)を取得しています。どうやらその際博士論文作成をバーバラに伝ってもらったようで、博士号取得直後Maurice27歳、バーバラ20歳の時に結婚したそうです。
最初の任地はスコットランドのスターリング(Stirling)大学。ここで講師(Lecturer)、准教授(Reader)を務め、その時代書き上げた(1979年出版)「The Decline of British Economic Power Since 1870」で注目され、より知名度の高い大学への転職を可能にしました。この著書の言わんとするところは、“英国病は、巷間言われている1960年代に始まったのではなく、大英帝国絶頂期;ヴィクトリア時代に既に始まっている”と言うもので、この分野の専門家にかなりのインパクトを与えたようです。
スターリング大学は、彼個人にとっては飛躍の機会を掴んだ記念すべき大学でしたが、在職中サッチャー政権が誕生し、大学予算が大幅に圧縮される事態になり、結果として図らずも同僚との激しい生き残りゲームが展開されることになるのです。ここで彼は先の著書もありゲームの勝者となりますが、それが心の痛みにもなりそれが未だに拭いきれないと言っています。心根の優しい男なのです。その後(確か)ノッティング大学を経てランカスター大学に教授として迎えられたのです。
若い頃は学部や大学院でかなりのコマ数をこなしていたようですが、さすがに定年を来年(65歳が定年)にひかえ、授業は大学院中心の限られたものになってきているとのことです。彼がいま指導している博士課程の院生は2名でそれほど手がかかっているように見えません。一方で古株の教授として管理業務は多くなっており、カレッジ(学寮)のプリンシパル(学寮長)の他にマネージメントスクールと大学の委員を十数務めています。また経済史ではその知名度もあり、8大学の博士課程の審査員をしています。若い時はともかく、今は授業の準備などあまり必要が無いので家では仕事をせず、研究活動は大学に限っており、そのために夏休みでもほとんど大学に来ていました。
彼の講座、(英国)経済史、は定年後なくなり、計量経済史に変わることが決まっています。この方が時流にあっているようですが経済をマクロな視点で見るためには本当に良いんだろうか?とその効用を疑問視しています。定年後の予定も既に大学との間で話し合われており、無給で残り(研究場所を提供され)共同で“プロジェクト”をやると言っていました。多分大学史(あるいはマネージメント・スクール史)をまとめるのではないかと思います。
所得税が高いこと(40%)、年金が厚いことで、定年後は税金がかからないこともあり、実質収入にほとんど変化なさそうです。他の優遇処置を考慮すると経済的なゆとりはやや増えるようなことを言っていました。この辺はさすがに福祉国家ですね。こんなうらやましい環境ですから「定年後も是非大学に訪ねて来てくれ」と言えるのでしょう。
政治的な話題が好きで、よく英国の政治を語ってくれましたが、特定の党の党員ではありません。話の内容から、労働党贔屓ですが、何でも国に要求し、既得権を離そうとしない、組織依存の旧来の労働党にはかなり批判的で、経済効率の視点から、経済政策に関しては保守党の政策(例えば民営化推進)にも理解を示しています。しかし、これによって格差が拡大したのは確かで、行き過ぎ是正が必要との考えです。アーノルド・トインビーの孫娘に有名な社会学者がいます。彼女は貧民街に潜り込みその生活実態を体験・調査し、如何にサッチャー政策が貧しい人たちに犠牲を強いるようになったか、それがどれほど悲惨な状態かをレポートしています。Mauriceは彼女のことを「自分の考えに近い人だ」と言っていました。
アフガン政策なども歴史的視点で捉え、「大英帝国もあそこでは苦労したし(ヴィクトリア朝時代ロシアの南下政策の緩衝地帯としてアフガニスタンを抑えようとした)、あの最強の陸軍国ソ連も制圧に失敗した。時間がかかること必定。それでも日本の海軍(海上自衛隊のこと)はアフガン大義名分でアメリカに付き合うのかね?」などと、民主党が喜びそうな質問をぶつけてきます。イラクへの軍事介入に関する労働党の施策(ブラウン首相は、バスラからの撤退は治安が回復したからで、軍事的勝利とも言えると宣言をしていますが、保守党はとても勝利などと言える状態ではないと反論しています)にも批判的で、ここでは保守党に近い見解を示しています。
経済・景気についてはお得意の分野だけに、一言質問すると滔々と解説してくれます。20年近く持続している英国の好景気(経済成長)はサッチャー政権時代既にその兆候が現れており、労働党はその手入れをして実りを刈り取っているだけ、と言う見方を肯定しています。ただ民営化の行き過ぎは明らかに在り、社会インフラを支える人たち(教育、医療、警察など現業公務員・公社員)が経済成長の恩恵を受けられず、昔に比べて相対的にも絶対的にも貧しくなってきていることには保守党の政策に批判的な立場をとっています。
製造業でエンジニアとして働いてきた私の経験、日本人のもの作りへのこだわりなどから、英国の製造業を見ると“惨憺たる状態”に思えます(既報の“自動車産業”で私の見方をご紹介しました)。しかし、彼に言わせれば“製造業が振るわないことと、経済が振るわないこととは別”と言うことになります。長期的視点で経済を見る学者の目は、“第四の波”の著者、アルビン・トフラー同様、ポスト(脱)工業化社会到来は歴史的必然とクールに現状を見ているようです。“EUの中でこれだけ持続的成長をしている国は無い”“失業率も一番低い”“金融業は今降ってわいたものではない。17世紀から英国の得意な産業だ”“製造業がダメと言っても、時代の先端を行く航空宇宙産業、医薬・バイオではトップランナーだ”、工業後進国;ドイツ、アメリカ、日本そしてBRICSに18世紀来新技術・新市場を開拓してはそれを奪われ、克服し今日に至った英国の経験と矜持を痛感させられた経済問答の一場面です。
しかし、製造業の重要性は彼も解かっているのです。それは、製造業に比べサービス業(金融業もこの範疇)では所得分配の偏りが大きいことです。一部の成功者の所得と大多数(並以下、パートなど)の所得が極端に開きます。平均してしまうとこれが見えなくなります。彼は、成長の中で格差の拡大が続いているとの見方をしています。富の再配分を如何にすべきか?この答えは彼も持ち合わせていないようです(労働党の“超富裕者税”はこれを意識したものでしょうが、実効があるとは思えません)。
以上は主として表の顔と言って良いでしょう。子供の時代はさて置き、最近の彼の私生活を覗いてみましょう。
先ず家族です。バーバラ夫人は二十歳と言う若さでMauriceと結婚しています。10年間子供が出来ませんでしたが、10年目に娘が生まれその後息子を産んでいます。家事、特に料理が苦手でそれで人を自宅に招待するのが嫌なのだ、と初対面のディナーの時率直に話してくれました。サバサバした気持ちの良いおばさんです。子育てが終わって(息子が7月大学を卒業)彼女が今力を入れているのは保護司(?)の仕事です。少年犯罪者の裁判の際の親代わり(シングルマザーが多く、なかなか警察や裁判所に出頭出来ないので)などを務めるケースが多いようです。
娘は結婚し現在はドミニカにいます。どんな仕事なのかは不明です。ドミニカの砂浜で撮った水着姿の写真が研究室にありますがなかなかの美人です。息子は今年7月ランカスター大学を卒業しました。専攻はバイオメディカルですが、ご他聞にもれず卒業即失業者です。パートで教会の副牧師をしながら将来計画模索中です。Mauriceに「大学院に進ませるんじゃないのか?」と質したところ、「彼には十分すぎるくらい教育投資したさ」と返事が返ってきました。私のバークレーの友人、ジェフの息子も学部卒業後は失業保険とアルバイトで学費を稼ぎマネージメントスク-ルに入学、今年7月に卒業し本格的な職探しに入るところでした。どうやら大学院は自分で費用を賄うのが英国流のようです。この息子の趣味はマウンテンバイクですが、湖水地帯を控えこの辺では大変人気のある遊びです。このマウンテンバイクを買い与えたのが最後の出費だったようです。「とっても高いって、バーバラがこぼしていたよ」
若い頃のMauriceの趣味はスカッシュ(六面が閉じた部屋で、二人が壁に向かって球を打ち返すテニスのような球技)だったようですが、いまは歳でとても出来ないそうです。ゴルフは私同様やりません!スポーツカー(BMW Z3)でのドライブが息抜き・気分転換のようです。湖水地帯がホームグランドと言う素晴らしい環境下でこの趣味は羨ましい限りです。この車で南フランス辺りまで出かけることもあったようで「南仏の田舎は素晴らしい(英国の田舎よりも遥かに)」と言っていました。
海外旅行は、トーマスクック旅行社生みの国だけに、英国でも人気の高いレジャーですが、Kirby夫妻はそれほど海外には出ていないようです。主に学会参加が数少ない機会のようで、この時は必ず夫婦で出かけるそうです。今年は7月初めプラハで開かれた欧州OR学会、11月にシアトルで開かれたアメリカOR学会に参加しています(両方とも発表あり)。今年の学会参加をみると、ほとんど寄り道の観光はなく開催地近くで一泊位余計に泊まる程度です。アジアへは香港に来たことがあるだけで、残念ながら日本は未体験です。何か良い機会があり来日したら、国内の面倒くらいはみてあげたいと思っています。
服装はいつも紺、黒などダークカラーが基調。偶にスーツでネクタイもありますが、通常はジャケット、替えズボン(ジーンズが多い)に黒シャツや濃紺のTシャツです。決してブランド品など身につけませんが、銀色の目立つ指輪を左手の薬指と中指にしています。
公私両面からMauriceをご紹介しましたが、彼が真面目な先生で、慎ましく暮らしている姿がご理解いただけたと思います。多分これが英国中産階級知識人の最大公約像ではないでしょうか?日本での生活、日本人の生き方に比べ落ち着きを感じさせます。私には、日本人の同クラスの方がややギンギラ(Glitter)しているように感じます。もっともアスコット競馬に集まってくるような成金は、見るからにGlitteringで上流階級気取りが喜劇的でもあります。しかし、どうも彼等自身それは分かっていて敢えてやっているようなところがあるのがご愛嬌ともいえます。昔は、割合の少なかった中産階級が、本気で上流階級気取りでその世界に姿かたちだけ真似て入り込んだつもりでいました。それに対する上流階級・労働者階級双方からの軽蔑の言葉が“That’s Middle Class!”です。ブランド品を身に付け、海外の観光地で高級ホテルに宿泊する日本人を冷ややかに見ている英国人が居ることを、彼のプラハのお土産話(夏の東欧は日本人だらけ)から学び、身の丈に合った生き方を心がけたいと思った次第です。
3.新たな読者
孫は私の帰国を待つように、帰国翌週生まれました。彼が私の人生に関心を持つかどうかは全く不明です。自分の親子関係から推察しても、多分持たない方が可能性としては高いでしょう。しかし、“もし持ってくれたら”の思いがここまで書き続けるエネルギーを燃やしてくれたのです。
彼の健やかな成長を願いつつ筆を置くことにします。
皆さん!有難うございました!
私報 滞英記 終わり
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