Letter from Lancaster-10(1)
2007年7月28日
“号外”でお知らせした、60年ぶりの水害は依然現在進行形です。それでも主要道路、鉄道は概ね回復したようです。問題は市街地における電気・水道の供給で、ミネラル・ウォーターの販売は、石油ショック時のトイレットペーパーのように一人当たりの販売量を制限しています。前報でご紹介したジェフは、自身被害は無かったものの、親族・知人には被害があったようです。 順番が前後する結果になりましたが、このジェフを訪ねた<四半世紀ぶりの再会>をお届けします。
<四半世紀ぶりの再会> 17日(火)朝自宅を出る時、このところ続いている曇天・驟雨が気になりましたが、幸い駅まで降られずに済みました。グラスゴーを発し本島南西の港湾都市、プリマスへ向かう列車は定刻通り10時9分ランカスター駅を発車しました。列車はこの路線馴染みのヴァージントレイン。座席は予約してあったので座れましたが、予想したより混んでいます。夏休みが始まったからでしょう。曇り空の中に時々現れる僅かな晴れ間、何処までも続く緑の牧草地。6月初旬のロンドン行きと何も変わりません。変わっているのは、今回は観光が主目的ではなく、友との四半世紀ぶりの再会です。久しぶりの長距離列車の旅はこうして始まりました。
英国へ来た目的は無論“OR歴史研究”ですが、ジェフとの再会はそれに次ぐ重要な意味を持っています。24年前彼が口にした言葉が、私の英国感を一変させたからです。ぼんやり車窓を眺めながら、「(彼はあの言葉を覚えているだろうか?)」、「(それを問うのをどんな状況下で行おうか?)」、「(出来れば彼の息子が一緒の時に話題にしたいな)」、「(あれには特別な意味が有ったんだろうか?)」。それに例の“クラシックカー”はどんな車なんだろう?晴れ間の広がってきた緑野を疾走する列車の中で、思いは24年前に遡ります。
1)バークレー
1983年春もまだ浅いある日、直属上司の部長から「人事から、今年の短期MBA留学の対象者に君を選びたいと言ってきた。OKしておいたから仕事はそのことを考えながら進めてくれ」と突然申し渡された。
この教育制度は私が川崎工場在任時代スタートし、毎年数名の中堅課長職を米国マネージメントスクールに派遣するもので、比較的若い人を対象としたフルターム(1年以上)のコースとは別に、主として中堅経営幹部を対象としたものである。東燃が当時派遣していた大学は、スタンフォード、コーネル、ピッツバーグなどで、前年からこれにバークレー(カリフォルニア州立大学バークレー校)が加わっていた。川崎工場からも既にこのプログラムに何人かの先輩が派遣されており、いずれ自分にもこんなチャンスが与えられると良いなー、と漠然とは思っていました。それが正夢になったわけです。
人事が具体的に動き出したのは4月に入ってから、「スタンフォードに願書を出すことにしました」とアプリケーション・フォームを持ってきた時には内心「(ヤッタ!)」と思いました。なんと言っても評価の高い大学だし、出張の帰路一度立寄る機会がありキャンパスの素晴らしさが印象的でした。加えて同期入社のF君が、このプログラムスタート前、会社派遣初のフルタームMBAコースを修了しており、何かと相談に乗ってもらえるからです。
ところが5月になって、人事から「スタンフォードはダメになりました。理由は、日本人枠は既に満杯とのことです」と言ってきたのです(これが来た時、F君に願書内容を見せたところ、「本当の理由は多分“報酬欄”だろう。この額では幹部社員として安すぎる」と言われました。人事も私もここは正直ベースで良いだろうと思っていました)。これは東燃がスタンフォードに派遣来初めてのことでした。人事も予期していなかったようで、次善の策に苦慮していましたが、代わりにもって来たのがバークレーでした。
9月中旬指定された大学近くのホテルにチェックイン。ここが全学生のこれから2ヶ月弱の生活場所になります。クラスが始まる前日は夕方から学内で歓迎の宴が開かれます。それに先立ち、事務的な連絡や学生とクラス担当教職員との紹介の場が設けられていました。 初めて全員が集まる場に参加して意外だったのは、参加者がたった20人しかいなかったことです(実は後で知るのですが、このことでプログラムは存亡の危機にあった)。他大学では複数クラスもあるし、バークレーも昨年の参加者は50人近く在ったと聞いていたからです。内訳は、アメリカ;13、サウジ;2、イスラエル、デンマーク、オーストラリア、英国、日本各一です。この少人数で日本人一人の環境が、私のそれからの国際感覚を一変させ、どれほどプラスになったか計り知れないものがあります。
さて、予定された導入プログラムが終わり、大学幹部が参加するパーティーまでの間、部屋にビールなどが用意され歓談する時間が設けられました。最初に声をかけてくれたのはシェブロン・エルセグンド製油所の技術部長、次いでIBMから参加のセールス、マーケティング部門の二人の幹部など、デンマーク人はBPの販売部長でこれも石油。仕事に近いところは直ぐに打ち解けて行きます。 やがて、英国人に話す場がやってきました。こちらから「You are from England, aren’t you?」と問いかけると、睨みつけるような目でこちらを見てしばし無言。一呼吸置いて冷たく「I’m from UK!」「(エッ??)…」、周りに居たアメリカ人も一瞬怪訝な表情です。「I am from the United Kingdom, not England!」アメリカ人がニヤッとしました。こちらも取り敢えず調子を合わせて作り笑い。しかし、内心;“連合王国”と表するのは知っているが普通は使わないよな!「つきあい難そうだな」これがジェフとの初対面でした。 しかし、イギリス=イングランドではなく、連合王国。それまでラグビーの5カ国対抗(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランス)やフットボールの予選などで“イギリス”が無いことに違和感をもち、何故イギリスだけ三つも出てくるんだ?何故皇太子が“プリンス・オブ・ウェールズ”と呼ばれるんだ?と疑問に思っていたことに一歩踏み込むきっかけを与えてくれたことも確かです。
バークレーでのジェフとの付き合いが変わってくるのは、期の半ばで一週間の休みが入った時です。アメリカ人は郷里に帰ったり、家族を呼び寄せたり、自分たちの時間を過ごすようになります。取り残された外人の中で、もともと授業も含めてほとんどわれわれと馴染まないサウジの二人は何処とも知れず消えてしまい、オーストラリア人もディズニーランド方面に出かけ、残るはデンマーク、イスラエル、英国、日本の4人になりました。そこで4人で(実際はイスラエルを除く3人が飲んでいる席で決まり、後からイスラエルが加わった)ヨセミテへレンタカーでドライブすることになりました。リーダー格はデンマーク、なんでも積極的でイニシアチブをとりたがる、仲間から“ヴァイキング”と仇名をつけられた男です。最初は彼がハンドルを握り私がナビゲータ、左ハンドルの国から来ているから慣れていると思ったが結構性格が出て荒っぽい。思わず大声を上げてしまう。ナビゲータへの要求もきつい。次いで運転をジェフが代わる。今度もナビゲータ。慎重な運転で恐怖感が無い。次は私が運転し、ヴァイキングがナビゲータ。やたら命令調で疲れること夥しい。ナビゲータがジェフに代わる、右ハンドル同士交差点では“左を見て!”と的確な助言をしてくれる。ホテルに帰り着き、夕食も終わりヴァイキングが消えた時、「Hiro(クラスの仲間からこう呼ばれていた)が大声あげた時、俺も怖かったよ。あいつの運転は酷いな!」とぼやいた。それ以降、彼はぶっきらぼうなもの言いだが、心優しい子煩悩な男であることが次第に分ってきたのです。
それにしてもあの“UK!”に特別な意味があったんだろうか?それを確かめずに別れたことが長く心残りでした。
2)再会への序走
毎年版画の年賀状を送ると、手紙とブリストルの絵葉書の入ったお礼状が来るようになりました。子供が似たような年齢だったこともあり、内容は家族のことが中心で彼の優しさがいつも伝わってきました。
彼がバークレーに来た時、仕事はBPの子会社、Bristol Composite Materials(BCM)社の技術担当常務で、主にカーボンファイバーで構造材を作るビジネスを進めていました。専門は化学、BP本体で製品開発担当のエンジニアをした後、その職に転じたのです。プログラムに参加する時、会社紹介のパンフレットを持参し皆に配るよう大学から求められていました。彼の資料には管、角材、板に加工されたカーボンファイバーを使った構造物・骨材のような物がのっていました。 当時東燃は新事業の一環としてカーボンファイバー実用化の道を模索していました。バークレーを去って5,6年した頃、このカーボンファイバー事業推進の責任者と雑談している時たまたまBCM社の話になり、海外調査の一環に加えさせて欲しいと求められました。当時は今のようにメールが無かったので、ファックスでやり取りしましたが、快く訪問を受けてくれ、直接ビジネスには繋がらなかったものの、調査の成果は上がったと出張者から感謝されました。
さらに、90年代初旬姪の一人が大学卒業後語学研修留学で1年間ロンドン近郊に滞在することになりました。それを彼に知らせたところ、“是非訪ねてくれ!Welcomeだ”と知らせてきました。年恰好の似た彼の娘と姪の交流が作り出す新たな関係を勝手に期待し、訪ねる本人より私の方が興奮してしまいました。直接の知り合いでもない外国人に、研修中に会うのは姪にとって迷惑な話だったかもしれませんが、私の強い要望を聞き入れてくれ、渡英後しばらくしてブリストルを訪ねてくれました。大歓迎されたことは言うまでもありません。 帰国した姪は二つのお土産を持って来てくれました。一つは彼の家族が私のために用意してくれた、昔のブリストル港の風景を描いた2点の石版画です。明るいトーンの港や船が細い線で絶妙に描かれた素敵な作品です。素人版画をたしなむ私のことを考えて選んでくれたに違いありません。この石版画は書斎の机の前、顔を上げれば目の前に見える位置に今も置かれています。もう一つは、彼の家に“クラシックカー”があったという情報です。手紙のやり取りでは一度も話題に出てきていません。どんな車だろう?英国人のクラシックカー好きはその世界でも有名です。何とかこれを見に(出来れば乗せてもらいに)彼を訪ねたい。
4年前の年賀状の返礼に、ビジネスの世界からの引退に備え、住居を移ったことが書かれていました。ブリストル市内から近郊の村(Village)に移り、夫婦で自然を楽しむ環境を整えつつあること、是非ここを訪れて欲しいともありました。
昨年年初の手紙には、ついに引退したこと、ブリストル裁判所の裁判員をボランティアで始めたこと、男性コーラスの合唱団に加わったこと。この合唱団が近く富士通の合唱団と交流することが書かれていました。早速富士通の知人に問い合わせてみましたが「そのような計画は無い」との返事。どうやら富士通が買収したICL(英国最大のコンピュータメーカー;現在は富士通のヨーロッパにおける情報サービス事業の拠点)の合唱団ではないかと推察しています。また夫人(Avril)とウェールズの山歩きをしているところや、新居の庭の写真などが同封されており、いよいよ新生活が始まったことをうかがわせる情報で溢れていました。
昨年9月東工大大学院研究生になり、Lancaster大から客員研究員受け入れ許可が出た時直ぐにメールで知らせました。OR歴史研究のために英国に出かけたい、と言う話は具体的な計画が出来る前から毎年年賀状に添えた手紙に書いてきました。でも「今度は本当に実現するんだ」。“毎年来たい来たいと言ってくるが、本当に来るのかな?”と言う疑念が彼にはあったでしょう。「やっと実現することになったか!長かったな!Avrilと待っているぞ!」儀礼的な響きはありませんでした。
今年の正月受け取った手紙は衝撃的な内容でした。昨11月中旬Avrilが急逝したと言う悲しい知らせです。心臓だったそうです。「でも嬉しいことに、Avrilの死の数日後、神は新しい命を授けてくださった。次女のところに女の子が誕生した。名前はAvrilとしたよ」と。直ぐにお悔やみのメールを送ったのは言うまでもありません。しかし、彼を訪ねる喜びは失せてしまいました。会ったらなんと言えばいいんだ?男やもめの所へ行っても迷惑に違いない。
そんな私の心を見透かしたように、4月初め彼からメールが来ました(年賀状で4月から渡英すると書いていたので)。「いつこちらに来るんだ?スケジュールを教えてくれ。着いたら連絡をくれ。訪ねてきてくれ」。携帯電話の番号も書いてあります。
5月、ランカスターのホテルから電話をしました。「Avrilのこと、残念だ。一緒の時に訪ねたかった。そちらに行くまでに生活基盤を作ること、研究の進め方を整理することで些か時間がかかるだろう。6月下旬から7月上旬には出かけるようにしたいが、そちらの都合はどうだい?」「No Problemだ!正確な計画を決める前にもう一度連絡してくれ。手助けが必要なことは遠慮なく言ってくれ」 7月16日の週にブリストルに行きたいがどうか?と問い合わせたのは6月下旬。16日は裁判所の仕事が一日あるので17日から来ないか?うちに泊まってもいいし、ホテルでもいい。希望を言ってくれたらこちらで準備する。せっかくコッツウォルズを廻るなら一泊したほうがいい。17日は家で息子の料理で夕食をしよう。18日日中はブリストル・バース観光、ディナーは外にしよう。料理は何がいいかな?ホテルからレンタカーの手配まで出発前日の16日まで(この日は娘さんに頼んで)細かい調整をしてくれました。
列車は英国の典型的な天候;曇りが定番、驟雨と晴れがそれに混じる、のなかをダイヤ通り走っています。再会はどんな風になるだろう?Avrilの死を悼む言葉はどう言えばいいだろう?バーミンガムを過ぎてからはこんなことばかりが頭の中を駆け巡っています。
3)Village(村)へ 駅での再会は、まるで昨日別れた同級生に会う感じでした。ブリストルの中央駅、テンプル・ミード駅は番線が20位ある割には駅舎が小ぶりで、改札を出ると切符売り場とさして広くないホールがあるだけでした。定刻に着いたが彼は来ていない。外かな?とホールを出かけたところに、髪が白くなり体もひと回り小さくなった感じですが、24年前の一見取っ付き難い彼がいました。「今丁度着いたところだった」「こちらもそうさ」握手をすると直ぐ私の荷物を取り上げ、「列車の旅はどうだった?」「途中雨が酷い所もあったが、ここへ近づくにつれ回復してきたので気分もファインだ」「この車だ。そちらへ廻ってくれ」見るとマツダ・アテンザである。助手席に座るとミッションはオート。ちょっと拍子抜けしてしまいました。多分クラシックカーで楽しんで、街乗りはイージーな車にしているに違いない、と勝手に納得。
駅近辺の教会やモニュメントを紹介してくれながら中心街へと進んでいきます。「ここは息子が学んだブリストル大学だ」巨大なタワー形式のホールが街なかに聳え立つ。ちょうど卒業式が終わったところでガウンを纏った若者が歩道に溢れています。「最初にホテルにブッキングインしてから家に行こう」「(“チェックイン”じゃないんだ)了解」
ホテルは商業地区が住宅地区に変わるクリフトンと言う地域にあります。四階建てで横幅が広い(実は中央部半分くらいがホテルだった)、クラシカルな造りです。半円形の車寄せがあり、車寄せの外側から歩道側の塀までの間は植え込みがあり、入り口は歩道からは見えません。入り口はドアー一つ分、中の受付は二人(その内のベテラン格は北京出身の若い女性だった)。ロビーも5,6人分しかありません。部屋は4階ですがエレベータはありません。おまけに四階は後から継ぎ足したらしく、急な階段を上がらなければなりません。しかし、適当な古さと家庭的な雰囲気の感じの良いホテルです。部屋も清潔で申し分ありません。窓の下には個人住居(タウンハウス)のバックヤードも見えます。
荷物を置き、日本から持参した土産だけ持って彼の車に戻りました。「どうだいこのホテルは?」「こじんまりして、清潔で、静かな環境。気に入ったよ。予約ありがとう」「ここへはAvrilと一度ディナーを食べに来たんだ。その時良いホテルだと思ったのでここにしたんだ」「(Avrilが出てきた!何と言えばいいんだ?)」
車はやがて左側に広大な芝生が広がる地域に出てきました。「ここはダウンズ(Downs)と呼ばれる所でブリストル市の土地なんだ。一切建物は建てない。市民の憩いの場所なんだ」「ダウンズの外れに家が見えるだろう。以前はあそこに住んでいたんだ。Hiroの姪が訪ねてくれたのはあそこだよ」。右側も適度に木々が茂り、大きく古そうな家々がある。「こちら側はヴィクトリア時代の個人住宅だ。いまはフラットやオフィスとして使われている」。車は更に北へ向かって街を離れていく。しばらく木立の中の道を進んでいくと、やがてちょっとした集落に入り、中心部には忠魂碑のようなものが建ったランナバウトが現れ、商店などがその周辺にあるところへでました。「ここがWestbury on the Trym(トリム川沿いのウェエストバリー)、わが村さ!」「右側に見えるのがパブだ」〔White Horse〕とあります。少し進んで「ここが俺のパブ」今度は〔White Lion〕です。このパブの前の路地のような道に車が左折して入ると、そこは小さな広場になっておりその一角に彼は車を停めました。「Vine Cottageへようこそ!ここが我が家だ」
4)Vine Cottage
正直拍子抜けしました。田園の中の一戸建て、前庭も広く隣家との間も木立で遮られ、石造りの重々しい家、何台か車が入るガレージ、そこには例の“クラシックカー”が、勝手に想像していた彼の家とは全くイメージが合いません。
先ず場所です。村を抜ける道両側は商店や例の長屋風個人住宅などがあります。重々しい石造りではなくモルタルのようなもので仕上げてあります(昔は石が露出していたが、近年はこの上からモルタルを塗るようになってきたとのこと)。路地の両側は2階建ての家で、道路沿いの家と逆Γの形で彼の家(上の横棒部分;下の空間が小広場)が一体になっています。広場の片隅に車庫が一棟その横に三台の駐車スペースがあり、ここに彼は車を停めました。広場に面した家の半分くらいはピンクに塗られ、車庫も同じ色です。彼の家は白、ピンクと白の間はグレーですが玄関とは別にグリーンに塗られた車庫か倉庫の両開きのドアーがアーチ状を成して壁面ぴったりはめ込まれています。どうやらピンク・グレー・白と三世帯がこの広場を共有しているようです。田園風景とは全く関係ない、古い宿場の商工業区画、そんなイメージを想像してください(実はその通りなのですが)。
“Vine Cottage”と書いた楕円形の銘板が玄関入口左側に貼り付けてあります。他の家も“XX Cottage”とあります。これが正式な住所なのです。玄関の左右には縦長の窓、窓の下は小さな花壇になっていて花々がきれいに咲いています。玄関入口の左右、花壇との間には飾り物や鉢を置く石の台があり、右側の台には半球状の石の表面に“赤い竜”が彫られた置物。「これが我が家のシンボルさ」「???」。玄関の扉は薄茶色の木製で、かなり年季が入っています。取り出した鍵も大きなものでした。さあ、初めての英国人住宅訪問です。
玄関の先にもう一つドアーあるタウンハウス風では無く、いきなり玄関ホールです。左側は二階へ上がる階段、右は通路でその先は二手に分かれます。右手がSitting Room(居間+客間)、このSitting Roomは広場に面する部分と裏庭(本庭)に面する二つに分かれますが一部屋としても使えます。両方ともソファー、テーブル、暖炉などがあり、最初は広場側の部屋に案内されました。大きな液晶テレビが一角を占めています。「ここで寛いでいてくれ。紅茶?コーヒー?」「もちろん紅茶を」。彼は玄関から入って左側のキッチンに消えました。部屋全体にクリーム色ですが薄暗い感じです。意外と天井が低く、照明は四隅にキャンドル風の小さなものだけ。今は点灯されていません。ソファーに座り広場の側を見ると、低い位置まで開口部のある窓の外の花壇の草花が、室内の暗さと微妙なコントラストをなし映えます。部屋の壁には家族の写真と趣味の良い絵が何枚か掛けられています。立ち上がってそれらを眺めていると、スケッチに水彩を施したすっきりした感じの風景画が何枚かあります。嘗て贈られた石版画と雰囲気が似ています。あとで分かったことですが、水彩画は全てAvrilの作品だったのです。多分あの石版画も彼女が選んでくれた物でしょう。
ジェフがキッチンから戻り「ちょっと庭を見るか?」と。庭側の居間にはフランス窓がありそこから庭に出ます。庭の位置は居間より高く、石段を2段ほど上がります。さすがに広い!中央は芝生ですが周辺部には花々、芝生の中に未だ植えて間もないリンゴの木とスモモのような木があります。両方ともホンの1m位の高さですがいくつか青い実をつけています。庭の奥には池があり、コイと金魚が泳いでいます。庭の奥両隅には小さな小屋があり、庭いじりの道具が納められているのでしょう。隣家との境界は石積みの塀になっています。いわゆるイングリッシュガーデンで、けばけばしさや堅苦しさが無く好ましく感じられました。
部屋に戻り、ジェフの淹れてくれた紅茶とケーキを味わいながら、あらためてフランス窓を通して見た庭は、先に行くほど緩やかに高さを増していくので、濃い芝生の緑と花々の色、周辺の草葉の緑がクリーム色の壁をキャンバスにバランスよく配された一遍の風景画になっています。ふと天井を見ると中央に四つの受け皿を十字の先に持ったランプがありました。どうなっているのか見ようと立ち上がる私に、「それはオイルを入れて灯すんだよ」「この家は200年以上経っているのでその雰囲気を残したかったんだ」「200年!(私の家に関する価値基準を一喝された瞬間です)」
「さあ、家の中を案内しよう」 玄関から入って突き当たりを左に行くとダイニングキッチンがあります。ここは全く古さを感じさせない近代的なつくりです。いすは6人分、庭に面する側も反対側も調理台でその下は収納部、玄関側の壁には大型のレンジなどが据え付けられています。ここを抜けるとまた部屋があります。「ウーン、何て言ったらいいかな?我われは“ユーティリティ”と言っているんだけどね」広場から庭に至る細長い部屋でその間を貫通する通路と並行して外側に作業台・流し・大型冷蔵庫・ボイラーそしてトイレまであります。庭側の先はΓ形になり、ここから庭に出入りするようになっています。汚れ仕事は、生活空間を通らずこの部屋経由で出来るようになっているのです。流しがあるので「ここで台所仕事も出来るのか?」と問うと、「いやいや、これは作業用の流し。クッキング用は別にあるさ」とキッチンに戻ります。それは庭に面した調理台にありました。その調理台の中央に来た時、庭に面した窓から見た光景は居間から見た景色を更に上回る見事なものでした。最大の理由は窓が、立った目の位置を中心に、横長に切られているからです。居間のソファーからではフランス窓の下部から庭への階段部分が目に入り庭だけを切り出せないからです。窓からの美しい眺めに、「ジェフ、Avrilはここからの庭を気に入っていたろうね?」と問いたくなりましたが、「そうだったんだ」と言う答えが恐く、黙って次の部屋に移りました。そこは玄関ホールの階段下から入る部屋で窓は広場側にあります。全体に部屋の雰囲気は重々しく、絵画や壁掛けも居間に比べ凝った物が壁面を飾っています。「この部屋は特別な部屋で、少しフォーマルな来客があったときのダイニングなんだよ」暖炉があり、四人用テーブル・椅子も重厚なつくりです。二階は三つの寝室と共用のバスルームです。このバスルームは階段を上がった所にあり、窓は庭に面しています。ドアーの配置から少なくとも二つの寝室からは庭を見下ろせるはずです。手作りのイングリッシュガーデン、200年を経た建物こそ、二人だけの生活に戻ったジェフ夫妻の理想郷だったのです。(つづく)
2008年11月13日木曜日
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